愛という名の毒を喰らえ〜五人の令嬢たちの華麗なる婚約破棄〜

恋せよ恋

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ジャスリン・ミラー子爵令嬢

投資価値ゼロの婚約者

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「……ジャスリン、無理をして笑わなくていい。君の扇子がミシミシと悲鳴を上げているよ」

 声をかけてきたのは、ミラー家の隣領を治める子爵家の嫡男、ノーマンだった。彼は幼い頃からジャスリンを知っており、彼女の「おっとりした微笑み」が、実は猛烈な怒りを押し殺すための防壁であることを熟知している。

「あら、ノーマン様。ご機嫌麗しゅう。無理なんてしていませんわぁ……。ただ、少しだけ指先に力が入ってしまっただけですのぉ」
 ジャスリンはゆっくりと扇子を広げ、口元を隠した。だが、その瞳の奥には冷徹な計算の光が宿っている。

(――無理してないわけないでしょ! 見てよあのバカの背中! 孤児院のパンを買い占める? 市場独占と供給過多のバランスも考えないで、一時的に買い占めたら価格が高騰して、明日から一般の市民がパンを買えなくなるって分からないのかしら! 慈善活動じゃなくてただの経済テロよ!)

「……また、君の脳内では、物凄い勢いの説教が始まっているんだろうね」
 ノーマンは苦笑しながら、ジャスリンの隣に並んで歩き出した。

「トーマスがシャルロット嬢に心酔しているのは学園中の噂だ。ミラー商会の資金繰りが怪しくなっているという話も、僕の耳に届いているよ。ジャスリン、君の家は大丈夫なのかい?」

「ご心配、痛み入りますわぁ。……ええ、我が家もミラー商会には多額の投資をしておりますもの。共倒れになるわけには参りませんわ」
 ジャスリンの声はどこまでも穏やかだ。しかし、彼女の手帳――そこにはミラー商会の在庫状況、負債額、そしてトーマスがシャルロットに貢いだ「使途不明金」の推定値が、緻密な数式と共にびっしりと書き込まれている。

(投資の基本は、損切りのタイミングを見極めること。情に流されて沈みゆく泥舟にしがみつくのは、商売人の娘として三流以下。ノーマン様の言う通り、ミラー商会のキャッシュフローはもう限界よ。あいつ、シャルロットに『君の瞳と同じ色の宝石を』なんて言って、最高級のアクアマリンをツケで買いやがったわね……。あれ、うちの父様が仲介したルートの品よ。支払い遅延が起きたら、即座に契約解除の条項を発動させるから)

 一方、そんなジャスリンの冷徹な動きなど露知らず、トーマスはシャルロットと共に学園の中庭で「愛の語らい」に耽っていた。

「シャルロット、君といると心が洗われるようだ。ジャスリンは……いや、僕の両親もそうだが、誰も彼もが数字と利益の話ばかりだ。君のように、空の青さや花の美しさを純粋に愛でる人間が、この国には少なすぎる」

「まあ、トーマス様……。私、悲しいです。ジャスリン様はあんなに素敵なお方なのに、どうしてそんなに冷たくなってしまわれたのかしら。きっと、お忙しくて心が枯れてしまったのね。私、ジャスリン様にもこの花冠を届けてあげたいわぁ」
 シャルロットは、トーマスのために編んでいた花冠を手に、無垢な瞳を輝かせた。

「君はなんて優しいんだ、シャルロット。だが、彼女に渡しても『これでいくら儲かるの?』なんて聞かれるのがオチさ。……そうだ。君の誕生日のために、特別なプレゼントを用意したんだ。僕の実家が管理している、王都の一等地の店舗物件を一つ、君の好きに使っていい」

「ええっ!? お店をいただけるんですかぁ? 嬉しい! 私、そこを『みんなが無料で休める休憩所』にしたいですわぁ!」

(――はあぁぁぁ!?)
 柱の影で偶然その会話を聞いてしまったジャスリンは、今度こそ扇子をへし折った。

(王都一等地の物件を、無料休憩所!? あそこの固定資産税と維持費が年間いくらかかると思ってんの!? あそこはミラー商会が次期事業の拠点にするはずだった最重要拠点よ! それを、利回りゼロ、どころか赤字垂れ流しの施設にするっていうの!? バカなの!? バカを通り越して国家予算の無駄遣いレベルの犯罪よ!)
 ジャスリンの脳内倍速毒舌が止まらない。

 トーマスは「君のやりたいことは、すべて僕が叶えてあげる」とシャルロットの手を取り、陶酔した表情を浮かべている。

「……ノーマン様」
「なんだい、ジャスリン。顔色が少し……いや、かなり怖くなっているけれど」

「お父様に手紙を書きますわぁ。……『ミラー商会の格付けをC評価に引き下げ、融資の全額回収フェーズに移行せよ』と。それから、トーマス様が勝手に持ち出した物件の登記簿を洗います。……ああ、忙しくなりますわねぇ。ふふ、ふふふふふ」
 ジャスリンは、花が咲くような微笑みを浮かべた。

 その微笑みは、彼女が完全に「婚約者」という肩書きを捨て、「冷酷な債権者」へと変貌した合図であった。

「……ところで、ノーマン様。もし、路頭に迷うことになった哀れな商家の次男坊がいたら、どうなさいますぅ?」
「僕なら、自業自得だと言って、一番安いパンの耳でも投げてあげるかな」

「まあぁ! ノーマン様って、とってもお優しいのねぇ。私なら、パンの耳にさえ代金を請求いたしますわぁ」
 おっとりと微笑み合いながら、二人は学園の校舎へと戻っていく。

 その数日後、ミラー商会に一通の「督促状」が届くことを、恋の魔法にかかっているトーマスはまだ知らない。
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