【完結】王太子の賭けに負けた氷の貴公子。くじで選ばれた私への態度は、義務ですか?それとも本気ですか?

恋せよ恋

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雨の温室と至近距離の囁き

  その日は、朝から重い雲が空を覆い、昼過ぎには激しい雨が学園の校舎を叩きつけていた。
 私は独り、放課後の静かな温室へと逃げ込んでいた。湿った土の匂いと、大粒の雨がガラス屋根を打つ騒がしい音だけが、今の私の荒んだ心には心地よかった。

「やはり、ここにいたのだな」

 不意に背後から響いた低い声に、肩がびくりと跳ねた。
 振り返ると、そこには雨に濡れたのか、金の髪を少し乱したウィリアム様が立っていた。いつも完璧な彼からは想像もできない、余裕のない佇まい。その翡翠の瞳は、激しい雨雲を映したように暗く沈んでいる。

「ウィリアム様……。どうしてこちらに? 次の講義の準備があるのでは……」

「そんなものはどうでもいい。君が、また私を避けて逃げ出すからだ」

 私が距離を置こうと一歩下がった瞬間、彼は驚くほどの速さで間を詰めた。
 逃げ場を奪うように、私の背中が温室の古いレンガの壁に当たる。逃げようとする私の両脇に、彼の長い腕が叩きつけられた。

「……っ」

 いわゆる「壁ドン」の形に閉じ込められ、私は息を呑んだ。
 至近距離。
 彼の乱れた呼気が私の額にかかり、雨に濡れたシダーウッドの香水の香りが、鼻腔を支配する。逃げようとしても、彼の逞しい体躯が檻のように私を塞いでいた。

「答えろ、ナターシャ。なぜ私を避ける? なぜ私の目を見ない? 君をエスコートしても、贈り物をしても、君はただ、壊れた人形のように笑うだけだ」

 至近距離で囁かれる低い声は、怒りに震えているようでもあり、あるいは、泣いているようにも聞こえた。
 これほどまでに感情を剥き出しにしたウィリアム様を、私は知らない。

「避けてなどおりませんわ。私はただ、貴方の邪魔にならないよう、分をわきまえているだけで……」

「分をわきまえるだと? 君が私の婚約者だ。邪魔なはずがあるものか!」

「仮初の婚約者でしょう!?」

 叫んでいた。
 閉じ込めていた感情が、熱い涙となって瞳から溢れ出す。
 私は彼の胸元を弱々しく突き飛ばそうとしたが、その体は岩のように微動だにしない。

「知っているのです……。あの日、テラスで聞いてしまいました。王太子殿下との賭けに負けて、不本意ながら私を引き当てたことも。……誰でも良かったのでしょう? 貴方にとって私は、支払わなければならない『負債』でしかないのでしょう?」

 ウィリアム様が、息を止めるのが分かった。
 翡翠の瞳が大きく見開かれ、絶望的な色が走る。

「だったら……義務なら、そんなに優しくしないでください。クジで選んだだけの私に、本気であるかのような熱い視線を向けないで。至近距離で愛を囁くような真似も、もうやめて……! 貴方が優しければ優しいほど、私は自分が惨めで、消えてしまいたくなるのですわ」

 雨音にかき消されそうな、小さな悲鳴。
 私は顔を覆い、その場に崩れ落ちそうになった。

 しかし、私の体は崩れ落ちる前に、力強い腕によって抱きしめられた。
 逃がさないという執念を感じるほどの、強引な抱擁。

「違う……。ナターシャ、君は根本的な間違いをしている」

「離してください、ウィリアム様……っ」

「離さない。……例えこれが義務の始まりだったとしても、今の私の心まで『クジの結果』だと思わないでくれ。君のその瞳も、控えめな微笑みも、レイン卿の話をする時の楽しそうな横顔も……。私の心に火をつけたのは、君自身なんだ」

 耳元で、切実な囁きが響く。
 それは、夜会で見せていた完璧な「氷の貴公子」の演技とは正反対の、剥き出しの本音だった。

 けれど、私の心に深く刻まれた「賭けの景品」という傷跡は、そう簡単に消えるものではなかった。
 私は彼の胸の中で首を振り、震える声で拒絶を貫いた。

「……信じられません。だって、貴方はあの日、確かに『誰でも良かった』と仰ったのですもの」

 ウィリアム様の腕が、一瞬だけぴくりと震えた。
 雨はさらに激しさを増し、二人の間の断絶を象徴するように、温室のガラスを打ち鳴らし続けていた。
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