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一夜にして崩れた日常
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暗闇の中、シーツの擦れる音と荒い息遣いだけが満ち、秘めやかな空気が漂う。身体がぶつかる気配と、息を詰める女の声、そして男の低い吐息だけが室内を満たしていた。
「んぁっ……ぁんっ……」
二人の間に会話はなく、甘い口づけもない。ただ、短い情交だけが淡々と過ぎていく。
男は果てると、髪を乱し力なく目を閉じる女をしばらく見下ろした。じっと見つめるその視線に、感情らしきものはなく、ただ確認するような冷めた静けさだけがあった。
やがて寝台を降り、普段と変わらぬ動作で服を整える。部屋を出る直前、一度だけ振り返ったが、その意味を女は知らない。静かに扉が閉まり、足音は遠ざかっていった。
静寂が落ちる。
オレーリアはゆっくりと目を開けた。
胸の奥に残っていたのは、熱でも余韻でもなく――理由の分からない、沈んだような軽いざわつき。
満たされることのない、名付けようのない感情が、胸の中でどこにも行き場を見つけられず停滞している。
――また、逢瀬を重ねてしまった。
気怠げに小さく息を吐く。
エドワードが去り、静寂が部屋を満たす。
扉の閉まった音が最後の余韻のように響き、やがて消えた。
求めたはずのものは、確かに手の中にある。けれど、握りしめた瞬間に指の隙間から零れ落ちていくようで、何ひとつ掴めた気がしない。
それでも情交は、理由もなく重ねられていく。オレーリアが望んだわけではないのに、拒むという行為は最初から彼女の選択肢にはなかった。否と言うことさえ許されない――そんな場所に、彼女は置かれている。
“流されている”――そう自覚すればするほど、胸の奥がひどく冷え込んでいく。
満たされることも、傷ついたと叫ぶこともできない。ただ、どうしようもないやるせなさだけが、身体のどこかにずっと沈んでいた。
◇◇◇
オレーリアは、ノーフォーク伯爵家の長女である。麦作が盛んな農業を主産業とするノーフォーク領は、父セバスの堅実な統治のもと、領民も豊かな暮らしを営んでいた。
ところが、そんな父セバスが突然、病に倒れ体調を崩す。弟リオネルはまだ十二歳と幼く、政務は父の姉であるジャニス・ブルターヌ侯爵夫人の援助を受けながら、家令ローガンが補佐するかたちでどうにか回されている。
今年、学園卒業を控えていた十七歳のオレーリアには、婚約者との結婚の予定があった。しかし父が病に倒れたと知るや、事業提携を理由に結ばれていた婚約は、あっさりと解消された――要するに、婚約者には他に心を寄せる令嬢がいたのだ。
もともと政略結婚にすぎず、互いに深い情を育てていた仲でもなかったため、オレーリアは王宮女官として働く道を選ぶことになる。成績優秀だった彼女は王宮の女官登用試験を受け、見事合格を果たした。
家を離れる際、母バーバラは、伯爵家の家政の足しにと仕送りを約束する娘を不憫に思い、涙ながらに送り出した。弟リオネルも、仲の良い姉との別れを淋しがっていた。
そして、十八歳のオレーリアの王宮での配属先は、アントワネット王女殿下付きの女官となった。上司にも同僚にも恵まれ、素直で優秀な彼女の女官生活は順風満帆に始まった――はずだった。
それが、一夜にして変わってしまった。
その日、オレーリアは非番だった。十四歳のデビュタント以来、夜会に出席したことのない彼女にとって、王宮の夜会は――自分が関わる場所だという認識すらなかった。
しかし、仲の良い同期であるコゼット・パーシー伯爵令嬢に誘われ、女官でありながら臨時の侍女として手伝いに入ることになる。
実家への仕送りが、少しでも増えるのなら――そんな軽い判断だった。
煌びやかな紳士淑女が織りなす社交場は、まるで夢の世界のように華やかで、現実感を失わせるほどだった。
その眩しさの裏に、取り返しのつかない運命が潜んでいるとも知らずに。
――そこで、事件は起きた。
飲み物の給仕から戻る途中、オレーリアは不意に現れた令息に腕をつかまれ、休憩室へとひとり押し込まれてしまったのだ。
その休憩室の寝台の上にいたのは――エドワード・チャーチル公爵令息。
眉目秀麗にして頭脳明晰、令嬢たちの憧れを一身に集める存在である。
学園の同窓ではあったが、言葉を交わしたことは一度もなく、挨拶をした記憶さえない。
オレーリアにとって彼は、手の届かない場所にいる“遠い人”だった。同じ教室に名を連ねたことがある、ただそれだけの関係。淡い憧れを抱くことさえ、どこか分不相応に思える相手であり、彼が自分の存在を認識している可能性は、限りなく低いと分かっていた。
王太子エイドリアン殿下の側近にして、チャーチル公爵家次期当主。すでに政策の場でも名を知られる若き俊英――オレーリアの生きる世界とは、明確に隔てられた場所に立つ人物である。
しかし、そのエドワードが、顔を赤らめ、息を乱し、明らかに常ならぬ状態にあった。突然部屋に押し込まれたオレーリアは状況が飲み込めず、戸惑いと恐れで身を固くした。やがて、彼女に気づいたエドワードがふらつきながら息を荒げて近づいてくる。
怖い。そう思った瞬間、身体が勝手に扉へと向かった。逃げなければ、と頭ではわかっているのに、震える指が鍵にうまくかからない。どうして、どうして開かないの――。
助けを呼ばなければ。声を出さなければ。そう思うのに、喉がぎゅっと締めつけられて、音にならない。必死に息を吸っても、漏れたのは、かすれた小さな声だけだった。
――その先のことは、思い出そうとすると頭が痛む。いいえ、思い出す以前に、心が拒んでいるのかもしれない。
どれほどの時間が過ぎたのだろう。怖くて、苦しくて、息ができなくて……途中で、ぷつりと意識が途切れた。
次に目を開けたとき、世界は不自然なほど静かだった。ぼんやりとした視界の中で、隣に横たわる人影に気づく。
――眠っている。エドワード様が、何事もなかったかのように。
我に返った彼女の胸にあったのは、ただひとつ――「知られてはいけない。逃げなければ」という切迫した思いだった。
オレーリアは急いで身支度を整え、涙の跡を懸命に隠した。
――考えてはいけない。
――感じても、いけない。
まるで誰かに追われているかのように、幾重にも抜け道を使い、人目を避けて自室へと戻る。その一歩一歩に、同じ言葉を何度も重ねながら。
――何もなかった。
――私は、何も失っていない。
震える手で、『もしもの時のために』と母から持たされていた避妊薬を飲み下す。これは備えだ。特別な意味はない。朝が来るまで部屋でじっと耐え、やがて入浴を済ませる。外から見える痕跡を、一つひとつ、丁寧に消していく。
――大丈夫。
――誰にも知られていない。
――何も、なかったことにする。
そう言い聞かせることでしか、前に進めなかった。
翌日も変わらず業務をこなす彼女を、誰も不審に思う者はいなかった。それだけを、オレーリアは祈るように願っていた。
_____________
あなたのエール📣いいね❤️お気に入り⭐が、作者のMP(生命力)をゴリゴリ回復させます🧙♀️✨
本作は、登場人物の心情や葛藤を重く描く場面が含まれます。
読み進める中で、不安や痛みを感じられる方もいらっしゃるかもしれません。
それでも、この物語を最後まで丁寧に紡いでいきたいと思っています。
ご理解いただける方に、そっと見守っていただけたら幸いです。
「んぁっ……ぁんっ……」
二人の間に会話はなく、甘い口づけもない。ただ、短い情交だけが淡々と過ぎていく。
男は果てると、髪を乱し力なく目を閉じる女をしばらく見下ろした。じっと見つめるその視線に、感情らしきものはなく、ただ確認するような冷めた静けさだけがあった。
やがて寝台を降り、普段と変わらぬ動作で服を整える。部屋を出る直前、一度だけ振り返ったが、その意味を女は知らない。静かに扉が閉まり、足音は遠ざかっていった。
静寂が落ちる。
オレーリアはゆっくりと目を開けた。
胸の奥に残っていたのは、熱でも余韻でもなく――理由の分からない、沈んだような軽いざわつき。
満たされることのない、名付けようのない感情が、胸の中でどこにも行き場を見つけられず停滞している。
――また、逢瀬を重ねてしまった。
気怠げに小さく息を吐く。
エドワードが去り、静寂が部屋を満たす。
扉の閉まった音が最後の余韻のように響き、やがて消えた。
求めたはずのものは、確かに手の中にある。けれど、握りしめた瞬間に指の隙間から零れ落ちていくようで、何ひとつ掴めた気がしない。
それでも情交は、理由もなく重ねられていく。オレーリアが望んだわけではないのに、拒むという行為は最初から彼女の選択肢にはなかった。否と言うことさえ許されない――そんな場所に、彼女は置かれている。
“流されている”――そう自覚すればするほど、胸の奥がひどく冷え込んでいく。
満たされることも、傷ついたと叫ぶこともできない。ただ、どうしようもないやるせなさだけが、身体のどこかにずっと沈んでいた。
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オレーリアは、ノーフォーク伯爵家の長女である。麦作が盛んな農業を主産業とするノーフォーク領は、父セバスの堅実な統治のもと、領民も豊かな暮らしを営んでいた。
ところが、そんな父セバスが突然、病に倒れ体調を崩す。弟リオネルはまだ十二歳と幼く、政務は父の姉であるジャニス・ブルターヌ侯爵夫人の援助を受けながら、家令ローガンが補佐するかたちでどうにか回されている。
今年、学園卒業を控えていた十七歳のオレーリアには、婚約者との結婚の予定があった。しかし父が病に倒れたと知るや、事業提携を理由に結ばれていた婚約は、あっさりと解消された――要するに、婚約者には他に心を寄せる令嬢がいたのだ。
もともと政略結婚にすぎず、互いに深い情を育てていた仲でもなかったため、オレーリアは王宮女官として働く道を選ぶことになる。成績優秀だった彼女は王宮の女官登用試験を受け、見事合格を果たした。
家を離れる際、母バーバラは、伯爵家の家政の足しにと仕送りを約束する娘を不憫に思い、涙ながらに送り出した。弟リオネルも、仲の良い姉との別れを淋しがっていた。
そして、十八歳のオレーリアの王宮での配属先は、アントワネット王女殿下付きの女官となった。上司にも同僚にも恵まれ、素直で優秀な彼女の女官生活は順風満帆に始まった――はずだった。
それが、一夜にして変わってしまった。
その日、オレーリアは非番だった。十四歳のデビュタント以来、夜会に出席したことのない彼女にとって、王宮の夜会は――自分が関わる場所だという認識すらなかった。
しかし、仲の良い同期であるコゼット・パーシー伯爵令嬢に誘われ、女官でありながら臨時の侍女として手伝いに入ることになる。
実家への仕送りが、少しでも増えるのなら――そんな軽い判断だった。
煌びやかな紳士淑女が織りなす社交場は、まるで夢の世界のように華やかで、現実感を失わせるほどだった。
その眩しさの裏に、取り返しのつかない運命が潜んでいるとも知らずに。
――そこで、事件は起きた。
飲み物の給仕から戻る途中、オレーリアは不意に現れた令息に腕をつかまれ、休憩室へとひとり押し込まれてしまったのだ。
その休憩室の寝台の上にいたのは――エドワード・チャーチル公爵令息。
眉目秀麗にして頭脳明晰、令嬢たちの憧れを一身に集める存在である。
学園の同窓ではあったが、言葉を交わしたことは一度もなく、挨拶をした記憶さえない。
オレーリアにとって彼は、手の届かない場所にいる“遠い人”だった。同じ教室に名を連ねたことがある、ただそれだけの関係。淡い憧れを抱くことさえ、どこか分不相応に思える相手であり、彼が自分の存在を認識している可能性は、限りなく低いと分かっていた。
王太子エイドリアン殿下の側近にして、チャーチル公爵家次期当主。すでに政策の場でも名を知られる若き俊英――オレーリアの生きる世界とは、明確に隔てられた場所に立つ人物である。
しかし、そのエドワードが、顔を赤らめ、息を乱し、明らかに常ならぬ状態にあった。突然部屋に押し込まれたオレーリアは状況が飲み込めず、戸惑いと恐れで身を固くした。やがて、彼女に気づいたエドワードがふらつきながら息を荒げて近づいてくる。
怖い。そう思った瞬間、身体が勝手に扉へと向かった。逃げなければ、と頭ではわかっているのに、震える指が鍵にうまくかからない。どうして、どうして開かないの――。
助けを呼ばなければ。声を出さなければ。そう思うのに、喉がぎゅっと締めつけられて、音にならない。必死に息を吸っても、漏れたのは、かすれた小さな声だけだった。
――その先のことは、思い出そうとすると頭が痛む。いいえ、思い出す以前に、心が拒んでいるのかもしれない。
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次に目を開けたとき、世界は不自然なほど静かだった。ぼんやりとした視界の中で、隣に横たわる人影に気づく。
――眠っている。エドワード様が、何事もなかったかのように。
我に返った彼女の胸にあったのは、ただひとつ――「知られてはいけない。逃げなければ」という切迫した思いだった。
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――考えてはいけない。
――感じても、いけない。
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――何もなかった。
――私は、何も失っていない。
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――大丈夫。
――誰にも知られていない。
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