身分違いの婚約、別れを認めない元カノ 〜「君だけだ」と言うけれど、私の知らないあなたの過去が苦しいのです〜

恋せよ恋

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忘れられた婚約者

  その日は、キャサリンにとって特別な一日になるはずだった。
 街でギルバート公爵を助けた運命の日。キャサリンとピエールの二人はこの記念日に合わせ、王都で最も格式高い宝石店を訪れていた。半年後の結婚式に向け、特注していた結婚指輪のサイズを最終確認するためだ。

「……完璧だ。キャサリン、君の指にこれほど似合うサファイアは他にないよ」

 宝石店を出たピエールは、キャサリンの手を愛おしそうに握り、柔らかく微笑んだ。今夜はフロントナック子爵家で、家族を交えた晩餐会が予定されている。キャサリンの両親も、愛する娘の婚約者を迎えるために朝から準備に余念がない。


  だが、幸せな余韻は、駅の方角から響いた甲高い声によって切り裂かれた。

「ピエール! 探したわよ!」

 人混みを掻き分けて現れたのは、ナタリーだった。彼女は手にした設計図の筒を振りかざし、ピエールの前に立ち塞がる。

「新しい蒸気機関車の改良案がまとまったの。ピエール、今すぐ聞いてちょうだい。あなたなら、このバルブの設計の凄さがわかるでしょう?」

「ナタリー……! ああ、昨日の話の続きか。……ああ、なるほど。排圧の逃がし方を変えたのか」

 ピエールの瞳に、一瞬で技術者としての熱が灯る。彼はナタリーが広げた図面を覗き込み、隣にキャサリンがいることも、これから彼女の実家へ向かう予定があることも、意識の端へと追いやられてしまった。

「ピエール様……。あの、そろそろ迎えの馬車の時間が……」

 キャサリンが控えめに声をかけるが、ピエールの耳には届かない。二人は専門用語を飛び交わせ、周囲の視線も構わず議論に没頭していく。

 キャサリンは、自分が透明な壁の向こう側に置かれたような錯覚に陥った。学園で首席を取り、どれだけ努力しても、この「共通の情熱」という絆には一歩も入り込めない。

「……ピエール様。私、先に邸へ戻っておりますね。両親も待っておりますから」

「あっ、ああ。悪いね、キャサリン。僕も、晩餐までには必ず行くから」

 ピエールは図面から目を離さぬまま、空いた手で軽く手を振った。キャサリンは寂しげに微笑み、一礼して馬車へと向かった。

 一方、ピエールはナタリーの勢いに押されていた。

「立ち話もなんだし、そこのカフェでお茶でも飲みながら話を聞かせてよ」

 二人は近くのカフェの窓際へ席を移した。ナタリーは熱っぽく語る。ピエールが帰国してからの彼女がいかに奮闘し、彼との別れの寂しさを研究にぶつけてきたか。そのひたむきな努力に、ピエールの心も熱くなった。

「頑張ったんだな、すごいよ、ナタリー。君の執念が、この出力を可能にしたんだね」

「ええ。私、本当に頑張ったのよ。……あなたが帰国して、私一人になった寂しさを、すべて仕事にぶつけたんだから」

 興味深い話は尽きることなく続いていった。ふとピエールが時計を見ると、すでに二時間が経過している。

「すまない、ナタリー。今日はこれから婚約者の家での晩餐に招かれているんだ。行かなきゃいけない」

「え! やっと会えたのに! 婚約者なら、いつでも会えるでしょう。格下の子爵家なんだし、急用だって言えば大丈夫でしょう」

 ナタリーの不遜な言葉に、ピエールはわずかに眉をひそめた。

「……そういうわけにはいかないよ。とてもいい家族なんだ。……でも、あと少し、この動力の伝達部分の話を聞くだけなら大丈夫かな」

「そうよ! まだ本題に入っていないわ。それでね、このピストンが……」

 熱を帯びたナタリーの声が、ふっと遠のく。
 ピエールが不意に我に返って窓の外を見れば、そこにあったはずの夕映えはどこにもなかった。日はとうに落ち、冷たい街灯の明かりが、夜の闇に沈んだ石畳を白々と照らし出している。

「お客様、恐れ入りますが、閉店の時間でして……」

 店員の申し訳なさそうな声が、静まり返った店内に響く。
 ピエールは弾かれたように立ち上がった。震える手で懐中時計を取り出し、その文字盤を凝視する。

 ――針は、約束の時間を二時間も過ぎていた。
 昼間の賑わいは消え、夜の帳(とばり)がすべてを覆い尽くしている。

 キャサリンが、彼女の両親が、丹精込めた料理を前にどれほど待ち呆けたことか。その絶望的な時間の重みが、今さらながらピエールの胸にのしかかった。

「しまっ……! ナタリー、もう行かなくては!」

 慌てて店を出るピエール。その後ろ姿を見送りながら、ナタリーは満足げに、そして勝利を確信したように唇を歪めた。
 公爵令息が自分との時間を優先し、婚約者との約束を破った。その事実は、彼女にとって何よりの武器だった。


  その頃、フロントナック子爵邸。
 豪華に用意された料理は冷めきり、静まり返った食堂で、フランソワとタチアナは顔を見合わせていた。

「……キャサリン、ピエール殿は何か急な公務でも入ったのだろうか」

「……ええ。きっとそうですわ、お父様。気にしないでください。私、お腹が空いていないので、お先に失礼しますね」

 キャサリンは無理に微笑み、自室へと戻った。
 扉を閉めた瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、彼女はベッドに身を沈めた。

 ナタリーに向けられていた、あの熱い眼差し。自分と一緒にいるときには見せない、対等な「同志」としての信頼。

(私は、所詮、公爵閣下が押し付けた婚約者。彼が本当に求めているのは、私ではないのかもしれないわね……)

 窓の外、遠くで聞こえる蒸気機関車の汽笛が、まるでキャサリンの孤独をなぞるように、冷たく夜の闇に響いていた。
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