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元カノの接触
ハミルトン公爵邸のサロンは、沈黙が支配していた。
公爵夫人が不在の午後、家政修行の一環として、キャサリンは領地から届いた報告書を整理していた。そこへ、事前の約束もなく現れたのが、技術チームの副責任者であるナタリー・ジャッカスだった。
作業服ではなく、身体のラインを強調した真紅のドレスに身を包んだナタリーは、まるで主のような足取りでソファーに腰を下ろした。
「公爵家の空気は、私には少し窮屈すぎるわ。ピエールも、留学中はもっと自由に、私と一緒に笑っていたのに」
ナタリーは、運ばれてきた茶には目もくれず、真っ直ぐにキャサリンを見据えた。その瞳には、隠しきれない敵意と、勝利を確信した者の優越感が渦巻いている。
「……ナタリー様。本日は、ピエール様へのお仕事の用件でしょうか。彼なら今、王宮へ向かっておりますが」
「いいえ。今日は『婚約者様』、貴女に話があって来たのよ。……ピエールから聞いたわ。貴女との結婚は、お父様の独断なんですってね?」
キャサリンの指先が、わずかに止まった。ナタリーはそれを逃さず、残酷な笑みを深める。
「可哀想に。ピエールは優しい人だから、貴女を傷つけないように振る舞っているけれど……。彼が本当に心から求めているものが何なのか、貴女は何も知らないのでしょう?」
「……私とピエール様の間には、確かな信頼がございます。過去のことを今更、お話しいただく必要はありませんわ」
「信頼? 形式だけの言葉ね。……いい、キャサリン様。私たちは、そんな薄っぺらな関係じゃなかったのよ」
ナタリーは身を乗り出し、まるで秘め事を楽しむかのような声で囁き始めた。
「私たちはね、ローゼンタールのあの狭い研究室で、何度も『熱い夜』を過ごしたの。機械の油と図面に囲まれて、誰にも邪魔されない二人だけの夜を。……お互いの『初めて』を捧げあったのも、あの場所だったわ」
キャサリンの脳内で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
自分が大切に守ってきた、ピエールとの清廉な時間。彼が自分に触れるときの、あの躊躇いがちな優しさ。それがすべて、ナタリーという恋人がいたからこその余裕だったというのか。
「お互いの肌の温もりを知っている二人にとって、言葉なんて不要だった。……最後の別れの際はね、お互いに涙で離れがたかったわ。彼は私を抱きしめて、『本当は離したくない』って泣いてくれた。……それでも彼は、ハミルトン家の嫡男という重責を選ばなければならなかった。ただ、それだけのことなの」
ナタリーの言葉は、キャサリンの想像力を最悪の方向へと加速させた。
自分は、家のために選ばれた「都合の良い婚約者」に過ぎない。ピエールの心の奥底にある熱い情熱も、狂おしいほどの愛も、すべてはナタリーという女性が独占している。
「貴女は、彼の『義務』を満たすことはできても、彼の『乾き』を癒やすことはできない。……だって貴女、彼の愛する技術のことも、彼が私と過ごした、あの震えるような夜のことも、何一つ分かっていないでしょう?」
キャサリンは、溢れそうになる涙を必死で堪え、膝の上のドレスを強く握りしめた。
ナタリーの語る「思い出」が、どこまでが真実で、どこからが虚飾なのか、今の彼女には判断がつかなかった。ただ一つ確かなのは、自分には決して手に入らない「過去の時間」を、この女性が握っているということ。
「……お引き取りください。ナタリー様」
「ふふ、そうね。少し刺激が強すぎたかしら? でも、本当のことは知っておいた方が、これからの『義務の結婚生活』が楽になると思って」
ナタリーは立ち上がり、勝ち誇ったようにキャサリンの横を通り過ぎた。
扉が閉まる音。
その瞬間、キャサリンは崩れるように椅子に座り込み、両手で顔を覆った。
(ピエール様……。あなたが私を抱きしめる時、あなたは誰を見ていたのですか?)
ナタリーの一方的な「暴露」は、キャサリンの心に修復不可能な毒を流し込んだ。
自分が積み上げてきた「幸せな時間」など、彼がかつて愛した女性の「初めて」という言葉の前では、あまりに無力で、虚しいものに感じられた。
ピエールがその日の夕刻、いつものように明るい笑顔で帰宅したとき、キャサリンがどれほどの絶望の淵に立っていたか。一途に彼女を想うピエールだけが、最悪の形で裏切られようとしていることに、まだ気づかずにいた。
___________
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📢新連載🌹【私の真似ばかりする従姉妹 ~「彼女の嘘で婚約者を奪われたけど、すべて私のお金だけど、大丈夫?」~】
公爵夫人が不在の午後、家政修行の一環として、キャサリンは領地から届いた報告書を整理していた。そこへ、事前の約束もなく現れたのが、技術チームの副責任者であるナタリー・ジャッカスだった。
作業服ではなく、身体のラインを強調した真紅のドレスに身を包んだナタリーは、まるで主のような足取りでソファーに腰を下ろした。
「公爵家の空気は、私には少し窮屈すぎるわ。ピエールも、留学中はもっと自由に、私と一緒に笑っていたのに」
ナタリーは、運ばれてきた茶には目もくれず、真っ直ぐにキャサリンを見据えた。その瞳には、隠しきれない敵意と、勝利を確信した者の優越感が渦巻いている。
「……ナタリー様。本日は、ピエール様へのお仕事の用件でしょうか。彼なら今、王宮へ向かっておりますが」
「いいえ。今日は『婚約者様』、貴女に話があって来たのよ。……ピエールから聞いたわ。貴女との結婚は、お父様の独断なんですってね?」
キャサリンの指先が、わずかに止まった。ナタリーはそれを逃さず、残酷な笑みを深める。
「可哀想に。ピエールは優しい人だから、貴女を傷つけないように振る舞っているけれど……。彼が本当に心から求めているものが何なのか、貴女は何も知らないのでしょう?」
「……私とピエール様の間には、確かな信頼がございます。過去のことを今更、お話しいただく必要はありませんわ」
「信頼? 形式だけの言葉ね。……いい、キャサリン様。私たちは、そんな薄っぺらな関係じゃなかったのよ」
ナタリーは身を乗り出し、まるで秘め事を楽しむかのような声で囁き始めた。
「私たちはね、ローゼンタールのあの狭い研究室で、何度も『熱い夜』を過ごしたの。機械の油と図面に囲まれて、誰にも邪魔されない二人だけの夜を。……お互いの『初めて』を捧げあったのも、あの場所だったわ」
キャサリンの脳内で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
自分が大切に守ってきた、ピエールとの清廉な時間。彼が自分に触れるときの、あの躊躇いがちな優しさ。それがすべて、ナタリーという恋人がいたからこその余裕だったというのか。
「お互いの肌の温もりを知っている二人にとって、言葉なんて不要だった。……最後の別れの際はね、お互いに涙で離れがたかったわ。彼は私を抱きしめて、『本当は離したくない』って泣いてくれた。……それでも彼は、ハミルトン家の嫡男という重責を選ばなければならなかった。ただ、それだけのことなの」
ナタリーの言葉は、キャサリンの想像力を最悪の方向へと加速させた。
自分は、家のために選ばれた「都合の良い婚約者」に過ぎない。ピエールの心の奥底にある熱い情熱も、狂おしいほどの愛も、すべてはナタリーという女性が独占している。
「貴女は、彼の『義務』を満たすことはできても、彼の『乾き』を癒やすことはできない。……だって貴女、彼の愛する技術のことも、彼が私と過ごした、あの震えるような夜のことも、何一つ分かっていないでしょう?」
キャサリンは、溢れそうになる涙を必死で堪え、膝の上のドレスを強く握りしめた。
ナタリーの語る「思い出」が、どこまでが真実で、どこからが虚飾なのか、今の彼女には判断がつかなかった。ただ一つ確かなのは、自分には決して手に入らない「過去の時間」を、この女性が握っているということ。
「……お引き取りください。ナタリー様」
「ふふ、そうね。少し刺激が強すぎたかしら? でも、本当のことは知っておいた方が、これからの『義務の結婚生活』が楽になると思って」
ナタリーは立ち上がり、勝ち誇ったようにキャサリンの横を通り過ぎた。
扉が閉まる音。
その瞬間、キャサリンは崩れるように椅子に座り込み、両手で顔を覆った。
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自分が積み上げてきた「幸せな時間」など、彼がかつて愛した女性の「初めて」という言葉の前では、あまりに無力で、虚しいものに感じられた。
ピエールがその日の夕刻、いつものように明るい笑顔で帰宅したとき、キャサリンがどれほどの絶望の淵に立っていたか。一途に彼女を想うピエールだけが、最悪の形で裏切られようとしていることに、まだ気づかずにいた。
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