身分違いの婚約、別れを認めない元カノ 〜「君だけだ」と言うけれど、私の知らないあなたの過去が苦しいのです〜

恋せよ恋

文字の大きさ
9 / 10

元カノの接触

  ハミルトン公爵邸のサロンは、沈黙が支配していた。
 公爵夫人が不在の午後、家政修行の一環として、キャサリンは領地から届いた報告書を整理していた。そこへ、事前の約束もなく現れたのが、技術チームの副責任者であるナタリー・ジャッカスだった。

 作業服ではなく、身体のラインを強調した真紅のドレスに身を包んだナタリーは、まるで主のような足取りでソファーに腰を下ろした。

「公爵家の空気は、私には少し窮屈すぎるわ。ピエールも、留学中はもっと自由に、私と一緒に笑っていたのに」

 ナタリーは、運ばれてきた茶には目もくれず、真っ直ぐにキャサリンを見据えた。その瞳には、隠しきれない敵意と、勝利を確信した者の優越感が渦巻いている。

「……ナタリー様。本日は、ピエール様へのお仕事の用件でしょうか。彼なら今、王宮へ向かっておりますが」

「いいえ。今日は『婚約者様』、貴女に話があって来たのよ。……ピエールから聞いたわ。貴女との結婚は、お父様の独断なんですってね?」

 キャサリンの指先が、わずかに止まった。ナタリーはそれを逃さず、残酷な笑みを深める。

「可哀想に。ピエールは優しい人だから、貴女を傷つけないように振る舞っているけれど……。彼が本当に心から求めているものが何なのか、貴女は何も知らないのでしょう?」

「……私とピエール様の間には、確かな信頼がございます。過去のことを今更、お話しいただく必要はありませんわ」

「信頼? 形式だけの言葉ね。……いい、キャサリン様。私たちは、そんな薄っぺらな関係じゃなかったのよ」

 ナタリーは身を乗り出し、まるで秘め事を楽しむかのような声で囁き始めた。

「私たちはね、ローゼンタールのあの狭い研究室で、何度も『熱い夜』を過ごしたの。機械の油と図面に囲まれて、誰にも邪魔されない二人だけの夜を。……お互いの『初めて』を捧げあったのも、あの場所だったわ」

 キャサリンの脳内で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
 自分が大切に守ってきた、ピエールとの清廉な時間。彼が自分に触れるときの、あの躊躇いがちな優しさ。それがすべて、ナタリーという恋人がいたからこその余裕だったというのか。

「お互いの肌の温もりを知っている二人にとって、言葉なんて不要だった。……最後の別れの際はね、お互いに涙で離れがたかったわ。彼は私を抱きしめて、『本当は離したくない』って泣いてくれた。……それでも彼は、ハミルトン家の嫡男という重責を選ばなければならなかった。ただ、それだけのことなの」

 ナタリーの言葉は、キャサリンの想像力を最悪の方向へと加速させた。
 自分は、家のために選ばれた「都合の良い婚約者」に過ぎない。ピエールの心の奥底にある熱い情熱も、狂おしいほどの愛も、すべてはナタリーという女性が独占している。

「貴女は、彼の『義務』を満たすことはできても、彼の『乾き』を癒やすことはできない。……だって貴女、彼の愛する技術のことも、彼が私と過ごした、あの震えるような夜のことも、何一つ分かっていないでしょう?」

 キャサリンは、溢れそうになる涙を必死で堪え、膝の上のドレスを強く握りしめた。
 ナタリーの語る「思い出」が、どこまでが真実で、どこからが虚飾なのか、今の彼女には判断がつかなかった。ただ一つ確かなのは、自分には決して手に入らない「過去の時間」を、この女性が握っているということ。

「……お引き取りください。ナタリー様」

「ふふ、そうね。少し刺激が強すぎたかしら? でも、本当のことは知っておいた方が、これからの『義務の結婚生活』が楽になると思って」

 ナタリーは立ち上がり、勝ち誇ったようにキャサリンの横を通り過ぎた。

 扉が閉まる音。
 その瞬間、キャサリンは崩れるように椅子に座り込み、両手で顔を覆った。

(ピエール様……。あなたが私を抱きしめる時、あなたは誰を見ていたのですか?)

 ナタリーの一方的な「暴露」は、キャサリンの心に修復不可能な毒を流し込んだ。
 自分が積み上げてきた「幸せな時間」など、彼がかつて愛した女性の「初めて」という言葉の前では、あまりに無力で、虚しいものに感じられた。

 ピエールがその日の夕刻、いつものように明るい笑顔で帰宅したとき、キャサリンがどれほどの絶望の淵に立っていたか。一途に彼女を想うピエールだけが、最悪の形で裏切られようとしていることに、まだ気づかずにいた。
___________

エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇‍♀️

📢新連載🌹【私の真似ばかりする従姉妹 ~「彼女の嘘で婚約者を奪われたけど、すべて私のお金だけど、大丈夫?」~】

あなたにおすすめの小説

その結婚は、白紙にしましょう

香月まと
恋愛
リュミエール王国が姫、ミレナシア。 彼女はずっとずっと、王国騎士団の若き団長、カインのことを想っていた。 念願叶って結婚の話が決定した、その夕方のこと。 浮かれる姫を前にして、カインの口から出た言葉は「白い結婚にとさせて頂きたい」 身分とか立場とか何とか話しているが、姫は急速にその声が遠くなっていくのを感じる。 けれど、他でもない憧れの人からの嘆願だ。姫はにっこりと笑った。 「分かりました。その提案を、受け入れ──」 全然受け入れられませんけど!? 形だけの結婚を了承しつつも、心で号泣してる姫。 武骨で不器用な王国騎士団長。 二人を中心に巻き起こった、割と短い期間のお話。

私は彼に選ばれなかった令嬢。なら、自分の思う通りに生きますわ

みゅー
恋愛
私の名前はアレクサンドラ・デュカス。 婚約者の座は得たのに、愛されたのは別の令嬢。社交界の噂に翻弄され、命の危険にさらされ絶望の淵で私は前世の記憶を思い出した。 これは、誰かに決められた物語。ならば私は、自分の手で運命を変える。 愛も権力も裏切りも、すべて巻き込み、私は私の道を生きてみせる。 毎日20時30分に投稿

婚約者の母に疎まれ続けたので、結婚直前ですが先に別の公爵家へ嫁ぎます~今さら惜しまれてももう戻りません~

なつめ
恋愛
侯爵令嬢ネフェリナ・ヴァルケインは、幼い頃から決められていた婚約を守るため、十年近くローディアス・フェルゼンの母に耐え続けてきた。 作法を否定され、贈り物を笑われ、亡き母の思い出まで踏みにじられても、婚約者がいつか自分を守ってくれると信じていたからだ。 けれど結婚式を目前にしても、ローディアスは一度として母を止めなかった。 そのうえ最後には、ネフェリナの我慢を当然のように求める。 もう十分です。 そうして彼女は婚約を解消し、以前から打診のあった北方の名門公爵家へ嫁ぐことを選ぶ。 冷徹と噂される若き公爵セヴェリオ・アルスレイン。 だが彼は、誰よりも静かで、誰よりも確実にネフェリナの尊厳を守る男だった。 去られて初めて焦る元婚約者一家。 けれどその頃にはもう、ネフェリナには新しい居場所ができていた。 これは、長く耐えた令嬢が自分で自分を救い、静かな溺愛の中で本当の幸福を選び直す物語。

【完結】だから、私から縁を切った

恋愛
男爵令嬢のシェリルは『仮面伯爵』と呼ばれているエリック・レイベリー伯爵のもとへ嫁いだ。 彼はあだ名通りの冷酷な男でなにがあっても表情を動かさない──ように見えたが、夫婦として過ごすうちにシェリルは彼はほんとうは感情豊かで思いやりの深い男であることを知る。 愛されることは期待していない結婚だったが、シェリルは思いがけない彼の愛情を感じながら夫婦生活を送る。 それから七年。 彼女はエリックに告げた。 「この結婚は失敗だったわ。あなたと一緒になるんじゃなかった」 ※悲恋ものです。ざまぁはありません

【完結】貴方が見えない

なか
恋愛
––––愛し合っていると思っていたのは、私だけでした。 不慮の事故により傷を負い、ある後遺症を抱えたアイラ。 彼女は愛し合い、支え続けた夫には傷を受け入れてもらえると信じていた。 しかし彼の言葉は彼女の期待するものではなかった。 罵倒され、絶望に追い込まれたアイラ。 夫を支えてきた人生を否定された彼女だが、夜になるとある人物がメッセージを残していく。 それは非難する夫との離婚を促すメッセージだった。 昼間は彼女を罵倒する夫と、夜になると彼女を労わるメッセージを残す人物。 不可解な謎に困惑しながらも、アイラは離婚に向けて夫を断罪すると決めた。 考えが読めず、もう見えなくなった夫を捨てて…… 彼女は新たな人生を歩み出すために進み始めた。    ◇◇◇◇◇◇  設定は甘め。  読んでくださると嬉しいです!

心配するな、俺の本命は別にいる——冷酷王太子と籠の花嫁

柴田はつみ
恋愛
王国の公爵令嬢セレーネは、家を守るために王太子レオニスとの政略結婚を命じられる。 婚約の儀の日、彼が告げた冷酷な一言——「心配するな。俺の好きな人は別にいる」。 その言葉はセレーネの心を深く傷つけ、王宮での新たな生活は噂と誤解に満ちていく。 好きな人が別にいるはずの彼が、なぜか自分にだけ独占欲を見せる。 嫉妬、疑念、陰謀が渦巻くなかで明らかになる「真実」。 契約から始まった婚約は、やがて運命を変える愛の物語へと変わっていく——。

月夜に散る白百合は、君を想う

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢であるアメリアは、王太子殿下の護衛騎士を務める若き公爵、レオンハルトとの政略結婚により、幸せな結婚生活を送っていた。 彼は無口で家を空けることも多かったが、共に過ごす時間はアメリアにとってかけがえのないものだった。 しかし、ある日突然、夫に愛人がいるという噂が彼女の耳に入る。偶然街で目にした、夫と親しげに寄り添う女性の姿に、アメリアは絶望する。信じていた愛が偽りだったと思い込み、彼女は家を飛び出すことを決意する。 一方、レオンハルトには、アメリアに言えない秘密があった。彼の不自然な行動には、王国の未来を左右する重大な使命が関わっていたのだ。妻を守るため、愛する者を危険に晒さないため、彼は自らの心を偽り、冷徹な仮面を被り続けていた。 家出したアメリアは、身分を隠してとある街の孤児院で働き始める。そこでの新たな出会いと生活は、彼女の心を少しずつ癒していく。 しかし、運命は二人を再び引き合わせる。アメリアを探し、奔走するレオンハルト。誤解とすれ違いの中で、二人の愛の真実が試される。 偽りの愛人、王宮の陰謀、そして明かされる公爵の秘密。果たして二人は再び心を通わせ、真実の愛を取り戻すことができるのだろうか。

もう何も信じられない

ミカン♬
恋愛
ウェンディは同じ学年の恋人がいる。彼は伯爵令息のエドアルト。1年生の時に学園の図書室で出会って二人は友達になり、仲を育んで恋人に発展し今は卒業後の婚約を待っていた。 ウェンディは平民なのでエドアルトの家からは反対されていたが、卒業して互いに気持ちが変わらなければ婚約を認めると約束されたのだ。 その彼が他の令嬢に恋をしてしまったようだ。彼女はソーニア様。ウェンディよりも遥かに可憐で天使のような男爵令嬢。 「すまないけど、今だけ自由にさせてくれないか」 あんなに愛を囁いてくれたのに、もう彼の全てが信じられなくなった。