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孤独な侯爵令嬢
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シュネーベルク侯爵家の朝食の席は、銀食器が触れ合う微かな音と、大理石の床に響く振り子時計の音だけが支配している。
豪奢なシャンデリアが照らす食卓。そこに座る家族四人の間に、血の通った会話は存在しない。
「……お父様、お母様。お兄様、おはようございます」
エリザベス・シュネーベルクは、音を立てずに引かれた椅子へ静かに腰を下ろすと、頭を下げた。
透き通るような銀髪が、さらりと肩から流れる。冬の湖を思わせる冷ややかな青い瞳は、決して家族と視線を合わせることはない。
「ああ、おはよう」
父であるシュネーベルク侯爵、ダニエルは、新聞から目を離さずに短く答える。母のマグノリアと二歳年上の兄ルーカスもまた、ティーカップを口に運ぶ動作を止めず、視線すら寄越さなかった。
(……今日も、私は完璧でいなければ)
一口ごとにナイフとフォークを揃え、咀嚼の音さえ立てない。
エリザベスは十六歳にして、社交界で「氷像の令嬢」と呼ばれている。だが、それは生まれつきの性質ではない。幼少期から始まった過酷な淑女教育において、ガヴァネスから、口を開けば「淑女らしくない」と叱責され、わずかでも笑みを浮かべれば「品がない」と冷笑され続けてきた結果だった。
「エリザベス。午後にはブレーメン公爵令息がいらっしゃる。粗相のないように」
「はい、お父様。心得ております」
父の言葉に、エリザベスは淡々と応じる。
婚約者であるフレデリック・ブレーメン。彼は若くして騎士団の要職を担う秀才だが、彼との会合もまた、エリザベスにとっては「義務」の延長線上でしかない。
フレデリックはエリザベスに対し、常に事務的で、冷たい。彼はこの政略的な婚約を不満に思っている――エリザベスはそう確信していた。
朝食を終えたエリザベスを待っていたのは、老齢のガヴァネス、カトレア子爵夫人による苛烈な教育だった。
「……申し訳ありません。カトレア子爵夫人」
掠れた声で謝罪を口にしながら、エリザベスは狭い室内を歩き続ける。
頭の上には、ずしりと重い分厚い本が三冊。わずかな揺れも許されないその重みは、彼女を縛り付ける侯爵令嬢という名の鎖そのものだった。
「背筋が曲がっておりますよ! そんなことでは、ブレーメン公爵家に嫁いだ後、シュネーベルクの名を汚すことになります。もう一度!」
「……っ、はい……」
早朝からの自主学習。喉を通らない食事。そして、一分の隙も許されない立ち振る舞いの訓練。
エリザベスの細い体は、すでに限界を迎えていた。視界の端が、ちりちりと熱を帯びたように火花を散らす。息が焼けるように熱く、自分の足がどこを踏みしめているのかさえ定かではない。
「お返事が小さい! シュネーベルクの令嬢が、その程度の重みに耐えられないなど、教育の怠慢ですわ。さあ、歩きなさい!」
カトレア子爵夫人の冷徹な声が、ムチのようにしなる。
その時だった。
(……あ、れ……?)
急激な目眩がエリザベスを襲う。床がぐにゃりと歪み、天井が迫ってくるような錯覚。均衡を失った三冊の本が、派手な音を立てて床に滑り落ちた。
「エリザベス様!? 歩みを止めな……」
ガヴァネスの鋭い叱声が、不意に水の中に沈んだように籠もった。
膝から崩れ落ちる衝撃さえ、もう感じない。
意識が途切れる寸前、エリザベスは奇妙な解放感を感じていた。
(ああ、これでやっと……休める……)
真っ暗な闇の底へ沈んでいく心地よさに身を任せ、彼女は深い眠りへと落ちていった。
その先に、一年という長い空白と、豹変した世界が待ち受けているとも知らずに。
__________
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豪奢なシャンデリアが照らす食卓。そこに座る家族四人の間に、血の通った会話は存在しない。
「……お父様、お母様。お兄様、おはようございます」
エリザベス・シュネーベルクは、音を立てずに引かれた椅子へ静かに腰を下ろすと、頭を下げた。
透き通るような銀髪が、さらりと肩から流れる。冬の湖を思わせる冷ややかな青い瞳は、決して家族と視線を合わせることはない。
「ああ、おはよう」
父であるシュネーベルク侯爵、ダニエルは、新聞から目を離さずに短く答える。母のマグノリアと二歳年上の兄ルーカスもまた、ティーカップを口に運ぶ動作を止めず、視線すら寄越さなかった。
(……今日も、私は完璧でいなければ)
一口ごとにナイフとフォークを揃え、咀嚼の音さえ立てない。
エリザベスは十六歳にして、社交界で「氷像の令嬢」と呼ばれている。だが、それは生まれつきの性質ではない。幼少期から始まった過酷な淑女教育において、ガヴァネスから、口を開けば「淑女らしくない」と叱責され、わずかでも笑みを浮かべれば「品がない」と冷笑され続けてきた結果だった。
「エリザベス。午後にはブレーメン公爵令息がいらっしゃる。粗相のないように」
「はい、お父様。心得ております」
父の言葉に、エリザベスは淡々と応じる。
婚約者であるフレデリック・ブレーメン。彼は若くして騎士団の要職を担う秀才だが、彼との会合もまた、エリザベスにとっては「義務」の延長線上でしかない。
フレデリックはエリザベスに対し、常に事務的で、冷たい。彼はこの政略的な婚約を不満に思っている――エリザベスはそう確信していた。
朝食を終えたエリザベスを待っていたのは、老齢のガヴァネス、カトレア子爵夫人による苛烈な教育だった。
「……申し訳ありません。カトレア子爵夫人」
掠れた声で謝罪を口にしながら、エリザベスは狭い室内を歩き続ける。
頭の上には、ずしりと重い分厚い本が三冊。わずかな揺れも許されないその重みは、彼女を縛り付ける侯爵令嬢という名の鎖そのものだった。
「背筋が曲がっておりますよ! そんなことでは、ブレーメン公爵家に嫁いだ後、シュネーベルクの名を汚すことになります。もう一度!」
「……っ、はい……」
早朝からの自主学習。喉を通らない食事。そして、一分の隙も許されない立ち振る舞いの訓練。
エリザベスの細い体は、すでに限界を迎えていた。視界の端が、ちりちりと熱を帯びたように火花を散らす。息が焼けるように熱く、自分の足がどこを踏みしめているのかさえ定かではない。
「お返事が小さい! シュネーベルクの令嬢が、その程度の重みに耐えられないなど、教育の怠慢ですわ。さあ、歩きなさい!」
カトレア子爵夫人の冷徹な声が、ムチのようにしなる。
その時だった。
(……あ、れ……?)
急激な目眩がエリザベスを襲う。床がぐにゃりと歪み、天井が迫ってくるような錯覚。均衡を失った三冊の本が、派手な音を立てて床に滑り落ちた。
「エリザベス様!? 歩みを止めな……」
ガヴァネスの鋭い叱声が、不意に水の中に沈んだように籠もった。
膝から崩れ落ちる衝撃さえ、もう感じない。
意識が途切れる寸前、エリザベスは奇妙な解放感を感じていた。
(ああ、これでやっと……休める……)
真っ暗な闇の底へ沈んでいく心地よさに身を任せ、彼女は深い眠りへと落ちていった。
その先に、一年という長い空白と、豹変した世界が待ち受けているとも知らずに。
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