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空白の一年、幸福の残骸
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深い闇の底で、エリザベスは光を見ていた。
それは、記憶には存在しない、けれどあまりにも鮮明な「自分」の姿だった。
――夢の中の世界。
そこでは、エリザベスが笑っていた。
ガヴァネスの叱責に怯えることもなく、背筋を凍らせて沈黙することもない。自分によく似た、けれど決定的に魂が異なる「誰か」が、彼女の体を借りて軽やかに舞っていた。
『お父様、見てください! この刺繍、お母様に教わったんです』
『ふむ……少し形は歪だが、筋は悪くない。次はもっと上手くできるだろう』
あの厳格だった父が、目を細めてエリザベスの頭を撫でる。
隣では母が、扇子で口元を隠しながら楽しげに笑い、兄のルーカスまでもが「お前は相変わらず不器用だな」と言いながら、妹に菓子を差し出している。
(……そんなの、嘘よ)
暗闇の中で、エリザベスは震えていた。
私が笑えば、父は「品がない」と背を向けたはず。
私が甘えれば、母は「淑女の自覚を持ちなさい」と突き放したはず。
それなのに、夢の中の家族は、まるで太陽を愛でるように「彼女」を包み込んでいる。
『エリザベス。今日の髪飾りは、僕が贈ったものだね。とても似合っている』
フレデリックだった。
義務的で冷たかったはずの婚約者が、熱を帯びた眼差しで彼女を見つめ、白磁のような指先を愛おしげに絡めている。彼がこんなにも柔らかな声を出せる男だなんて、エリザベスは知らなかった。
夢の中の時間は、残酷なほどの速さで流れていく。
春の庭園でのピクニック、夏の避暑地での語らい、秋の夜長の読書会。
エリザベスは、透明な檻の中に閉じ込められた観測者のように、自分から奪われた幸福な日々を、たった数時間に凝縮された「一年分」として強制的に見せつけられていた。
そして――夢の終わりが来る。
一年の月日が巡り、冬の風が吹き抜けた時。鏡の中にいる「彼女」が、ふと、こちらを振り向いた。
『――交代の時間ね、ホンモノの私。あとは、うまくやってね』
鏡の中の自分が、悪戯っぽく微笑んだ瞬間。世界は硝子が砕けるような音を立てて、粉々に霧散した。
「……エリザベス! エリザベス、意識が戻ったのか!?」
耳元で響く、切実な叫び声。
重い瞼を必死に押し上げると、視界を埋め尽くしたのは、驚くほど憔悴したフレデリック・ブレーメンの顔だった。
いつもの冷徹な仮面はどこにもない。彼の瞳には涙が溜まり、その指先はエリザベスの手を壊れ物を扱うように強く握りしめている。
「……フレ、デリック……様……?」
声を出そうとして、エリザベスは自分の喉が酷く乾燥していることに気づいた。
そして、違和感。
フレデリックが自分の名を、あんなにも甘く、縋るように呼んだことなど一度もない。
「ああ……ああ、神よ! 先生、彼女が! エリザベスが目を開けました!」
フレデリックが叫ぶと同時に、部屋の扉が乱暴に開かれた。
なだれ込んできたのは、シュネーベルク侯爵一家だった。
「エリザベス! ああ、私の可愛い子!」
母マグノリアが、寝台に伏せるようにしてエリザベスを抱きしめる。かつては指先すら触れ合わせることを拒んだ母の、温かな体温と花の香りが鼻をつく。
父ダニエルは、娘の顔を見て震える手で顔を覆い、その隣で兄のルーカスが、安堵のあまり激しく息を吐いていた。
「……もう大丈夫だ、エリザベス。無理に喋らなくていい。一年……一年の間、君が眠り続ける姿を見るのは、死ぬよりも辛かった」
「……いち……ねん?」
エリザベスは、掠れた声で繰り返した。
一年前、自分はガヴァネスのレッスン中に倒れた。そして夢を見ていた。あれは数日のことではなかったのか。
「ええ、そうよ。一年前、貴方が突然倒れて……それから三日後に一度目を覚ましたけれど、それからの貴方は、まるで別人のように朗らかで。でも、昨日また急に倒れて眠りについてしまったから、皆で生きた心地もしなかったのよ」
母の言葉に、エリザベスの思考が止まる。
三日後に一度目を覚ました?
別人のように、朗らか?
(……じゃあ、あの夢は……)
あの一年間の幸福な光景は、ただの夢ではなかった。
自分の体が、自分ではない「誰か」として、この家族と愛を育んでいた現実の時間。
エリザベスの心臓が、恐怖で早鐘を打つ。
「見てごらん、エリザベス。お前が欲しがっていた、西領の希少な青い薔薇だ。お前が目覚めたら見せようと、毎日欠かさずルーカスが手入れをしていたんだ」
父が指差した先には、見事な大輪の青い薔薇が活けられていた。
妹に興味などなかったはずの兄が、泥にまみれて花を育てていたというのか。
「……お父様。……皆様。どうして、そんなに私に……優しくしてくださるのですか?」
喉まで出かかった問いを、エリザベスは飲み込んだ。
だって、答えは分かっている。
彼らが愛しているのは、あの一年間、明るく笑い、家族の心を溶かした「別人のエリザベス」なのだ。
今の自分――感情の出し方を忘れ、無口で冷たい「氷の令嬢」に戻ってしまった自分を、彼らは果たして愛してくれるだろうか。
「エリザベス? どうしたんだい、顔色が悪い。……どこか痛むのか?」
フレデリックが、心配そうに顔を覗き込んでくる。
その愛情に満ちた瞳に見つめられるたび、エリザベスの胸には罪悪感と、それ以上に深い「孤独」が突き刺さる。
「……いえ。少し、混乱しているだけですわ。……お気遣い、感謝いたします。フレデリック様」
エリザベスがそう言った瞬間、フレデリックの表情がわずかに強張った。「様」をつけたこと。そして、かつてのように距離を置いた、完璧すぎる礼儀。
あの一年、彼女は彼のことをなんと呼んでいたのか。どんな風に接していたのか。エリザベスは、震える手でシーツを握りしめた。
目覚めた場所は、かつて望んで止まなかった「愛に溢れた家」のはずなのに。そこは、自分以外の誰かが作り上げた、居場所のない「完璧な檻」だった。
「……私は、どうなってしまったの?」
鏡の中にいた「彼女」の微笑みを思い出し、エリザベスは独り、音の出ない悲鳴を上げた。
__________
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それは、記憶には存在しない、けれどあまりにも鮮明な「自分」の姿だった。
――夢の中の世界。
そこでは、エリザベスが笑っていた。
ガヴァネスの叱責に怯えることもなく、背筋を凍らせて沈黙することもない。自分によく似た、けれど決定的に魂が異なる「誰か」が、彼女の体を借りて軽やかに舞っていた。
『お父様、見てください! この刺繍、お母様に教わったんです』
『ふむ……少し形は歪だが、筋は悪くない。次はもっと上手くできるだろう』
あの厳格だった父が、目を細めてエリザベスの頭を撫でる。
隣では母が、扇子で口元を隠しながら楽しげに笑い、兄のルーカスまでもが「お前は相変わらず不器用だな」と言いながら、妹に菓子を差し出している。
(……そんなの、嘘よ)
暗闇の中で、エリザベスは震えていた。
私が笑えば、父は「品がない」と背を向けたはず。
私が甘えれば、母は「淑女の自覚を持ちなさい」と突き放したはず。
それなのに、夢の中の家族は、まるで太陽を愛でるように「彼女」を包み込んでいる。
『エリザベス。今日の髪飾りは、僕が贈ったものだね。とても似合っている』
フレデリックだった。
義務的で冷たかったはずの婚約者が、熱を帯びた眼差しで彼女を見つめ、白磁のような指先を愛おしげに絡めている。彼がこんなにも柔らかな声を出せる男だなんて、エリザベスは知らなかった。
夢の中の時間は、残酷なほどの速さで流れていく。
春の庭園でのピクニック、夏の避暑地での語らい、秋の夜長の読書会。
エリザベスは、透明な檻の中に閉じ込められた観測者のように、自分から奪われた幸福な日々を、たった数時間に凝縮された「一年分」として強制的に見せつけられていた。
そして――夢の終わりが来る。
一年の月日が巡り、冬の風が吹き抜けた時。鏡の中にいる「彼女」が、ふと、こちらを振り向いた。
『――交代の時間ね、ホンモノの私。あとは、うまくやってね』
鏡の中の自分が、悪戯っぽく微笑んだ瞬間。世界は硝子が砕けるような音を立てて、粉々に霧散した。
「……エリザベス! エリザベス、意識が戻ったのか!?」
耳元で響く、切実な叫び声。
重い瞼を必死に押し上げると、視界を埋め尽くしたのは、驚くほど憔悴したフレデリック・ブレーメンの顔だった。
いつもの冷徹な仮面はどこにもない。彼の瞳には涙が溜まり、その指先はエリザベスの手を壊れ物を扱うように強く握りしめている。
「……フレ、デリック……様……?」
声を出そうとして、エリザベスは自分の喉が酷く乾燥していることに気づいた。
そして、違和感。
フレデリックが自分の名を、あんなにも甘く、縋るように呼んだことなど一度もない。
「ああ……ああ、神よ! 先生、彼女が! エリザベスが目を開けました!」
フレデリックが叫ぶと同時に、部屋の扉が乱暴に開かれた。
なだれ込んできたのは、シュネーベルク侯爵一家だった。
「エリザベス! ああ、私の可愛い子!」
母マグノリアが、寝台に伏せるようにしてエリザベスを抱きしめる。かつては指先すら触れ合わせることを拒んだ母の、温かな体温と花の香りが鼻をつく。
父ダニエルは、娘の顔を見て震える手で顔を覆い、その隣で兄のルーカスが、安堵のあまり激しく息を吐いていた。
「……もう大丈夫だ、エリザベス。無理に喋らなくていい。一年……一年の間、君が眠り続ける姿を見るのは、死ぬよりも辛かった」
「……いち……ねん?」
エリザベスは、掠れた声で繰り返した。
一年前、自分はガヴァネスのレッスン中に倒れた。そして夢を見ていた。あれは数日のことではなかったのか。
「ええ、そうよ。一年前、貴方が突然倒れて……それから三日後に一度目を覚ましたけれど、それからの貴方は、まるで別人のように朗らかで。でも、昨日また急に倒れて眠りについてしまったから、皆で生きた心地もしなかったのよ」
母の言葉に、エリザベスの思考が止まる。
三日後に一度目を覚ました?
別人のように、朗らか?
(……じゃあ、あの夢は……)
あの一年間の幸福な光景は、ただの夢ではなかった。
自分の体が、自分ではない「誰か」として、この家族と愛を育んでいた現実の時間。
エリザベスの心臓が、恐怖で早鐘を打つ。
「見てごらん、エリザベス。お前が欲しがっていた、西領の希少な青い薔薇だ。お前が目覚めたら見せようと、毎日欠かさずルーカスが手入れをしていたんだ」
父が指差した先には、見事な大輪の青い薔薇が活けられていた。
妹に興味などなかったはずの兄が、泥にまみれて花を育てていたというのか。
「……お父様。……皆様。どうして、そんなに私に……優しくしてくださるのですか?」
喉まで出かかった問いを、エリザベスは飲み込んだ。
だって、答えは分かっている。
彼らが愛しているのは、あの一年間、明るく笑い、家族の心を溶かした「別人のエリザベス」なのだ。
今の自分――感情の出し方を忘れ、無口で冷たい「氷の令嬢」に戻ってしまった自分を、彼らは果たして愛してくれるだろうか。
「エリザベス? どうしたんだい、顔色が悪い。……どこか痛むのか?」
フレデリックが、心配そうに顔を覗き込んでくる。
その愛情に満ちた瞳に見つめられるたび、エリザベスの胸には罪悪感と、それ以上に深い「孤独」が突き刺さる。
「……いえ。少し、混乱しているだけですわ。……お気遣い、感謝いたします。フレデリック様」
エリザベスがそう言った瞬間、フレデリックの表情がわずかに強張った。「様」をつけたこと。そして、かつてのように距離を置いた、完璧すぎる礼儀。
あの一年、彼女は彼のことをなんと呼んでいたのか。どんな風に接していたのか。エリザベスは、震える手でシーツを握りしめた。
目覚めた場所は、かつて望んで止まなかった「愛に溢れた家」のはずなのに。そこは、自分以外の誰かが作り上げた、居場所のない「完璧な檻」だった。
「……私は、どうなってしまったの?」
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