氷の令嬢、幸せを捨てる ~私ではなく「あの子」を愛した皆様、今更すがられても困ります~

恋せよ恋

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身に覚えのない温もり

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 目覚めてから二日目の朝。
 エリザベスは、侍女たちの過剰なほどの献身に戸惑いながら、鏡の前に座っていた。

「エリザベス様、今日は先日お気に入りだった、こちらの若草色のドレスになさいますか?」
「……お気に入り?」
「ええ。フレデリック様が、エリザベス様の瞳の色によく映えると仰って、贈ってくださったものですわ」

 侍女のアンナが、以前の事務的な態度とは打って変わって、親愛の情を込めた笑顔で答える。
 鏡に映る自分を見る。銀髪は美しく整えられ、青い瞳にはかつての絶望感は薄い。だが、エリザベス自身には、このドレスを選んだ記憶も、フレデリックとそんな睦まじい会話をした覚えもなかった。

(知らない……。私のクローゼットに、こんなに明るい色の服なんてなかったはずなのに)
 一年前までの彼女なら、シュネーベルクの格式に相応しい、重厚で暗い色のドレスしか許されなかった。だが、クローゼットを開ければ、そこには春の陽だまりのような色とりどりの衣装が並んでいる。

 身支度を終え、食堂へ向かう足取りは重い。
 かつては処刑場へ向かうような気持ちだったが、今はそれとは別の、正体の知れない恐怖が胸を締め付けていた。

「おはよう、エリザベス! 気分はどうだい?」
 食堂に入るなり、兄のルーカスが席を立って迎えに来た。
 以前の彼なら、妹が部屋に入ってきても視線すら上げなかった。それがいまや、自ら椅子を引き、エスコートまでしてくれる。

「……おはようございます、お兄様。その……あまりにお気遣いいただくと、落ち着きませんわ」
「何を言っているんだ。昨日の今日だ、お前を労わるのは当然だろう。……ああ、そうだ。お前が欲しがっていた、隣国の新作の菓子も取り寄せておいたからな」

 父ダニエルも、母マグノリアも、微笑みながらその光景を眺めている。
 食卓には、かつての静寂はない。家族が今日の予定を語り合い、エリザベスの体調を気遣う言葉が飛び交う。

 だが、エリザベスが口を開くたびに、食卓には微かな「違和感」が漂った。
「感謝いたしますわ、お父様。素晴らしいお心遣いに、心より御礼申し上げます」
 完璧な淑女の礼。淀みのない、けれどどこか距離のある言葉。
 その瞬間、父と母が、一瞬だけ困惑したように顔を見合わせたのを、エリザベスは見逃さなかった。

 彼らが期待しているのは、こんな堅苦しい挨拶ではないのだ。もっと親しげに笑い、幼子のように甘える「あの一年間のエリザベス」なのだ。
(私は、私でしかないのに。……ここにいるのは、偽物だと思われているのかしら)

 食後、エリザベスは逃げるように自室へ戻った。
 何かがおかしい。周囲が変わったのではない。自分が――正確には「自分の体を使っていた存在」が、この家を完全に作り変えてしまったのだ。

 彼女は部屋の中を調べ始めた。一年の間に増えた、見覚えのない品々。
 そして、机の奥の隠し引き出しから、一冊のノートを見つけた。それは、エリザベスがかつて使っていた日記帳だった。
 震える指でページを捲る。半分までは、自分の筆跡だった。義務教育の記録や、家族への諦めが綴られた、暗く冷たい文章。

 だが、一年前の日付を境に、筆跡が劇的に変わっていた。丸みを帯びた、楽しげな文字。

『五月二日。今日から、私が「エリザベス」をプロデュースすることに決めた。まずはあのお堅いお父様を攻略。おねだり作戦、大成功!』

『五月五日。ルーカスお兄様って、実はすごくチョロい。お菓子ひとつでこんなに優しくなるなんて。この家、改造のしがいがあるわね』

『五月十日。フレデリック様とデート。彼は最初、氷みたいに冷たかったけど、ちょっと弱みを見せたらイチコロだった。恋する男って可愛い!』

 エリザベスは、その場に崩れ落ちた。日記には、彼女が決してできなかったことが、軽やかな言葉で綴られていた。
 家族の心を開き、冷徹な婚約者を情熱的な恋人に変え、周囲のすべてを「幸福」という色に塗り替えた、見知らぬ誰かの功績。

「……プロデュース……? 攻略……?」
 聞き覚えのない言葉が並ぶ。

 日記の最後、昨日付のページには、走り書きでこう記されていた。
『もうすぐ本物が戻ってくる。少しやりすぎちゃったかな? でも、エリザベス。今の貴方なら、きっと誰からも愛されるはず。この「幸せ」を壊さないように、頑張ってね!』

 エリザベスの瞳から、一筋の涙が零れた。
 それは感謝ではない。あまりにも残酷な、呪いの言葉に聞こえた。

 彼女は、この一年間努力していない。
 彼女は、家族と向き合っていない。
 彼女は、フレデリックと愛を語り合っていない。
 すべては「」が用意した、中身のない飾り物だ。

 それなのに、周囲は自分にその「完璧なヒロイン」であり続けることを求めている。
「……無理よ。私には。に笑えない……」

 コンコン、とドアが叩かれた。

「エリザベス、僕だ。フレデリックだ。……入ってもいいかい?」
 日記を慌てて隠す。

 扉の向こうにいるのは、あの日記で「イチコロ」と書かれていた、愛に溺れた婚約者。本当の自分を見せれば、彼は失望するだろうか。それとも、軽蔑されるだろうか。

 エリザベスは、震える手で鏡に映る「氷の仮面」をなぞった。幸せなのに、死にたくなるほど苦しい。
 「一年後の目覚め」は、彼女にとって新たな、そして最も過酷な試練の始まりだった。
__________

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