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婚約の申し込み再び
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「必死だな。もっと早く必死になっていれば、ここまで拗れずに済んだんじゃないか?」
フェルナンド団長の声は低く、静かだったが、その場にいた全員の胸に綺麗に突き刺さった。
一瞬の沈黙――そして、誰かが耐えきれずに小さく吹き出す。
それを皮切りに、周囲から控えめな失笑が零れた。
ウィリアムは、なにも言い返さなかった。言い返せなかった、が正しい。拳を握りしめ、唇を噛みしめたまま、視線を落とす。その沈黙が、なにより雄弁だった。
クラリッサがかつて、ただ憧れ、追いかけ、そして傷ついた――何度も胸の奥に封じ込めたはずの想いが、今になって静かに疼き出す。
(もう、魔法は解けたはずなのに。“好きだった人”で、終わったはずなのに……)
それでも。
目の前で片膝をつき、逃げ場のない覚悟を向けてくるこの人は、かつての“手の届かない王子様”ではなく――
「もう一度、俺の隣に立ってほしい。――俺と、婚約してくれないか?」
クラリッサは、すぐには答えなかった。
(ずるい人……。こんな顔、今さら見せるなんて)
けれど同時に、はっきりと理解していた。この人は、ようやく“クラリッサ”を見ているのだと。
(……十歳の頃みたいに、『王子様すてき!』なんて無邪気にときめいてるわけじゃないの)
十五歳のときに目撃してしまった、行きずりの女性との――いえ、詳細など思い出したくもない寝乱れた光景。
十八歳の夜会で遭遇した、未亡人と思しきご婦人との、あからさまな“事後”の空気。
(……見たわ。ええ、しっかり見たわよ。記憶力が良いのが、こんなときだけ恨めしいわね)
それら全部が、ぞろぞろと脳裏に行列を作って蘇ってくるものだから、胸がきゅっとして――ついでに胃もきゅっとする。また、胃薬のお世話になるのかしら。
( 初恋って、もっと綺麗な思い出のまま保存されるものじゃなかったかしら……?なんで“黒歴史フォルダ”に、こんなに高画質で残ってるのよ)
それでも。
その全部を知った“今のわたし”の前で、必死な顔で片膝をついているこの人を見てしまったら――切なくて、可笑しくて、そしてやっぱり、少しだけ胸が熱くなる。
数日後。ウィリアムは、正式にルーブル子爵家を訪れていた。
応接室で向かい合うのは、穏やかな眼差しのクラリッサの父ルドルフと、優雅な微笑みの母アメリア。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
ウィリアムは、深く一礼した。
「改めて申し上げます。これまでの数年間、私の不誠実な態度により、クラリッサ嬢を深く傷つけました」
言い訳はしなかった。視線も逸らさなかった。
「それでも、クラリッサ嬢を生涯の伴侶として望んでいます。今度こそ、誠心誠意、向き合う覚悟です。――どうか、婚約をお許しください」
しばしの沈黙。
先に口を開いたのは、父ルドルフだった。
「覚悟、ですか」
その一言に、ウィリアムの背筋が強張る。
「……その覚悟を、なぜ今になって得たのか。それを、これから先の人生を逃げずに娘に示せますか?」
「はい。逃げません」即答だった。
それまで黙って成り行きを見守っていたアメリアが、ふっと柔らかく微笑んだ。
「“覚悟ができました”と仰る方は多いのですけれど……」
アメリアは、紅茶のカップにそっと手を添えながら言った。
「たいていの方は、“覚悟が必要になってから”慌てて仰るのですわ」
視線だけを、静かにウィリアムへ向ける。
「……本当に覚悟をお持ちの方は、娘を泣かせる前に、もう行動なさっていますもの」
その言葉に、ウィリアムは深く、深く頭を下げた。
クラリッサは、その背中を見つめながら思う。
(……本当に、遠回りな人)
けれど。
遠回りの末に、ようやく同じ場所に立ったのなら――今度は、立ち止まらずに見極めればいい。
それが、恋に溺れていた少女ではない、“今のわたし”の選択だった。
深く頭を下げたままのウィリアムを前に、クラリッサはすぐには言葉を返さなかった。
応接室には、時計の針の音だけが静かに響いている。
(……昔のわたしなら、ここでブンブン頷いていたわね)
胸が高鳴り、涙をこらえきれず、「はい」と答える未来しか見えていなかった頃の自分。
けれど今は違う。
「ウィリアム様」
呼びかける声は、驚くほど落ち着いていた。
「わたしは……すぐにお返事はいたしません」
顔を上げたウィリアムの瞳が、わずかに揺れる。
「理由は、おわかりになりますでしょう?」
「……はい」
短い返事。それだけで、彼が理解していることは伝わった。
「九年間ですわ。婚約しているという事実だけが存在して、わたしは、ずっと“いないもの”のように扱われてきました」
責める声ではない。事実を、淡々と並べるだけの声。
「今になって向き合われても、それが“後悔”なのか、“愛情”なのか――わたしには、まだ見極める時間が必要です」
ウィリアムは、否定しなかった。
「ですから」
クラリッサは、はっきりと続ける。
「条件付きで、考えさせてください」
「条件……?」
「はい」
彼女は、微笑んだ。かつての夢見る少女の笑顔ではなく、現実を見据えた、大人の微笑みで。
「わたしは、これからも王宮で働き続けます。あなたの“都合のいい位置”には戻りません」
「……」
「夜会も、社交も、仕事も。わたしの人生は、わたしのものです」
そこで一拍、間を置く。
「それでも、あなたが隣に立ちたいと望むなら――行動で示してください」
ウィリアムは、深く息を吸い、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました」
その覚悟を見届けたように、ここで、静かに紅茶を置く音がした。
「まあ……」
アメリアが、柔らかな笑みを浮かべて口を開く。
「本当に、都合のよろしいお話ですこと」
声は穏やか。けれど、刃はしっかりと研がれている。
「九年も放置なさって、娘が去ろうとした途端に“覚悟ができた”とおっしゃるなんて」
ウィリアムの背筋が、ぴしりと伸びる。
「わたくし、恋は奇跡だと思っておりますの。けれど――奇跡は、待つものではなく、掴みに行くものですわ」
微笑みは、崩れない。
「その努力を怠った方が、『今さら』向き合う覚悟だけは一人前に主張なさるのなら……」
一拍。
「どうか、娘をとりもどせるなどと、お思いにならないでくださいませ」
空気が、きんと冷えた。
それでも逃げずに立っているウィリアムを見て、アメリアはようやく小さく頷いた。
「――そこからやり直す覚悟があるのなら。わたくしも、母として、見届けましょう」
クラリッサは、母の横顔を見つめながら思う。
(……お母様、容赦ないわ)
けれどその厳しさこそが、彼女を“守るための刃”であることを、クラリッサは誰よりも理解していた。
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フェルナンド団長の声は低く、静かだったが、その場にいた全員の胸に綺麗に突き刺さった。
一瞬の沈黙――そして、誰かが耐えきれずに小さく吹き出す。
それを皮切りに、周囲から控えめな失笑が零れた。
ウィリアムは、なにも言い返さなかった。言い返せなかった、が正しい。拳を握りしめ、唇を噛みしめたまま、視線を落とす。その沈黙が、なにより雄弁だった。
クラリッサがかつて、ただ憧れ、追いかけ、そして傷ついた――何度も胸の奥に封じ込めたはずの想いが、今になって静かに疼き出す。
(もう、魔法は解けたはずなのに。“好きだった人”で、終わったはずなのに……)
それでも。
目の前で片膝をつき、逃げ場のない覚悟を向けてくるこの人は、かつての“手の届かない王子様”ではなく――
「もう一度、俺の隣に立ってほしい。――俺と、婚約してくれないか?」
クラリッサは、すぐには答えなかった。
(ずるい人……。こんな顔、今さら見せるなんて)
けれど同時に、はっきりと理解していた。この人は、ようやく“クラリッサ”を見ているのだと。
(……十歳の頃みたいに、『王子様すてき!』なんて無邪気にときめいてるわけじゃないの)
十五歳のときに目撃してしまった、行きずりの女性との――いえ、詳細など思い出したくもない寝乱れた光景。
十八歳の夜会で遭遇した、未亡人と思しきご婦人との、あからさまな“事後”の空気。
(……見たわ。ええ、しっかり見たわよ。記憶力が良いのが、こんなときだけ恨めしいわね)
それら全部が、ぞろぞろと脳裏に行列を作って蘇ってくるものだから、胸がきゅっとして――ついでに胃もきゅっとする。また、胃薬のお世話になるのかしら。
( 初恋って、もっと綺麗な思い出のまま保存されるものじゃなかったかしら……?なんで“黒歴史フォルダ”に、こんなに高画質で残ってるのよ)
それでも。
その全部を知った“今のわたし”の前で、必死な顔で片膝をついているこの人を見てしまったら――切なくて、可笑しくて、そしてやっぱり、少しだけ胸が熱くなる。
数日後。ウィリアムは、正式にルーブル子爵家を訪れていた。
応接室で向かい合うのは、穏やかな眼差しのクラリッサの父ルドルフと、優雅な微笑みの母アメリア。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
ウィリアムは、深く一礼した。
「改めて申し上げます。これまでの数年間、私の不誠実な態度により、クラリッサ嬢を深く傷つけました」
言い訳はしなかった。視線も逸らさなかった。
「それでも、クラリッサ嬢を生涯の伴侶として望んでいます。今度こそ、誠心誠意、向き合う覚悟です。――どうか、婚約をお許しください」
しばしの沈黙。
先に口を開いたのは、父ルドルフだった。
「覚悟、ですか」
その一言に、ウィリアムの背筋が強張る。
「……その覚悟を、なぜ今になって得たのか。それを、これから先の人生を逃げずに娘に示せますか?」
「はい。逃げません」即答だった。
それまで黙って成り行きを見守っていたアメリアが、ふっと柔らかく微笑んだ。
「“覚悟ができました”と仰る方は多いのですけれど……」
アメリアは、紅茶のカップにそっと手を添えながら言った。
「たいていの方は、“覚悟が必要になってから”慌てて仰るのですわ」
視線だけを、静かにウィリアムへ向ける。
「……本当に覚悟をお持ちの方は、娘を泣かせる前に、もう行動なさっていますもの」
その言葉に、ウィリアムは深く、深く頭を下げた。
クラリッサは、その背中を見つめながら思う。
(……本当に、遠回りな人)
けれど。
遠回りの末に、ようやく同じ場所に立ったのなら――今度は、立ち止まらずに見極めればいい。
それが、恋に溺れていた少女ではない、“今のわたし”の選択だった。
深く頭を下げたままのウィリアムを前に、クラリッサはすぐには言葉を返さなかった。
応接室には、時計の針の音だけが静かに響いている。
(……昔のわたしなら、ここでブンブン頷いていたわね)
胸が高鳴り、涙をこらえきれず、「はい」と答える未来しか見えていなかった頃の自分。
けれど今は違う。
「ウィリアム様」
呼びかける声は、驚くほど落ち着いていた。
「わたしは……すぐにお返事はいたしません」
顔を上げたウィリアムの瞳が、わずかに揺れる。
「理由は、おわかりになりますでしょう?」
「……はい」
短い返事。それだけで、彼が理解していることは伝わった。
「九年間ですわ。婚約しているという事実だけが存在して、わたしは、ずっと“いないもの”のように扱われてきました」
責める声ではない。事実を、淡々と並べるだけの声。
「今になって向き合われても、それが“後悔”なのか、“愛情”なのか――わたしには、まだ見極める時間が必要です」
ウィリアムは、否定しなかった。
「ですから」
クラリッサは、はっきりと続ける。
「条件付きで、考えさせてください」
「条件……?」
「はい」
彼女は、微笑んだ。かつての夢見る少女の笑顔ではなく、現実を見据えた、大人の微笑みで。
「わたしは、これからも王宮で働き続けます。あなたの“都合のいい位置”には戻りません」
「……」
「夜会も、社交も、仕事も。わたしの人生は、わたしのものです」
そこで一拍、間を置く。
「それでも、あなたが隣に立ちたいと望むなら――行動で示してください」
ウィリアムは、深く息を吸い、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました」
その覚悟を見届けたように、ここで、静かに紅茶を置く音がした。
「まあ……」
アメリアが、柔らかな笑みを浮かべて口を開く。
「本当に、都合のよろしいお話ですこと」
声は穏やか。けれど、刃はしっかりと研がれている。
「九年も放置なさって、娘が去ろうとした途端に“覚悟ができた”とおっしゃるなんて」
ウィリアムの背筋が、ぴしりと伸びる。
「わたくし、恋は奇跡だと思っておりますの。けれど――奇跡は、待つものではなく、掴みに行くものですわ」
微笑みは、崩れない。
「その努力を怠った方が、『今さら』向き合う覚悟だけは一人前に主張なさるのなら……」
一拍。
「どうか、娘をとりもどせるなどと、お思いにならないでくださいませ」
空気が、きんと冷えた。
それでも逃げずに立っているウィリアムを見て、アメリアはようやく小さく頷いた。
「――そこからやり直す覚悟があるのなら。わたくしも、母として、見届けましょう」
クラリッサは、母の横顔を見つめながら思う。
(……お母様、容赦ないわ)
けれどその厳しさこそが、彼女を“守るための刃”であることを、クラリッサは誰よりも理解していた。
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