実兄の婚約者に恋した貴方を、私はもう愛さない。その椅子、行方不明のお兄様のものですよね?

恋せよ恋

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偽りの婚約解消準備

  数日後、私はパルマン侯爵邸の応接室で、シモン様と対峙していた。
 テーブルの上には、私が持参した「婚約解消に関する合意書」が置かれている。シモン様は、それをまるで待ち望んでいた福音であるかのように、隠しきれない歓喜の表情で見つめていた。

「……セシリア、本当にいいのか? あんなに頑なだった君が、ようやく理解してくれたんだね」

 シモン様の声には、安堵と、そして傲慢な勝利の色が混じっている。
 私は伏せ目がちに、声を微かに震わせて見せた。

「……ええ。シモン様が、あそこまでヘンリエッタ様に心を寄せていらっしゃると知っては、もう、私が隣にいる意味などございませんわ。……私が『強い女』であるがゆえに、貴方にとっての重荷になっていたのであれば、身を引くのがせめてもの誠実さだと思いましたの」

 私が「シモンの望むセシリア」を演じてみせると、彼は立ち上がり、殊勝な顔をして私の肩に手を置いた。

「分かってくれて嬉しいよ。君のその潔さ、感謝する。……君なら一人でも立派にやっていける。だがヘンリエッタ様は、僕がいないと明日をも知れぬ身なんだ。これは、男としての義務なんだよ」

 義務。その言葉が、私の耳には酷く滑稽に響いた。
 彼が守ろうとしているのは、ヘンリエッタ様ではない。自分を「英雄」として崇めてくれる、都合のいい鏡だ。

「……つきましては、シモン様。正式な解消の手続きは、パルマン家が家督継承の手続きを終えた後、あわせて発表する形にいたしましょう。今すぐ公表しては、世間の風当たりも強いでしょうから」

「ああ、君の配慮には恐れ入るよ。……実は、今日この後、父上に僕が家を継ぐ意思があることを伝えるつもりなんだ。君との婚約が円満に終わる目処が立ったのなら、父上も反対はされないだろう」

 シモン様は、すでに「次期侯爵」としての輝かしい未来を確信していた。
 私は彼を見送りながら、内心で冷たく毒を吐いた。

(ええ、存分に踊ってください。その舞台の床が、すでに抜けていることにも気づかずに)
 

 シモン様が向かった先は、現侯爵である彼の父が籠もる書斎だった。
 部屋に入ったシモン様は、長年、兄パスカル様の影に隠れていた二男としてのコンプレックスを脱ぎ捨てるかのように、堂々と宣言した。

「父上。兄上があのようなことになった今、パルマン家の未来を空席にしておくわけにはいきません。……僕が、家を継ぎます。そして、孤独になったヘンリエッタ様を妻として迎え、彼女の人生を支えていく決意を固めました」

 パルマン侯爵は、深い肘掛け椅子に身を沈め、机に組んだ両手で口元を隠していた。
 本来ならば、長男の死と推定される事態から間もないこの時期、次男が後継者と婚約の組み替えを同時に直訴するなど、不謹慎極まりない事態である。

 だが、侯爵は怒鳴らなかった。それどころか、厳しい叱責さえ飛ばさなかった。

「……セシリア嬢との婚約はどうするつもりだ」

「彼女とは、先ほど話し合いがつきました。彼女も納得し、合意書に署名する準備もできています。彼女のような強い女性なら、もっと相応しい相手がいるでしょう。ですが、ヘンリエッタ様には、僕しかいないのです!」

 シモン様の熱弁を、侯爵は無機質な瞳で見つめていた。
 
 実はこの数日前、侯爵の元には「ある隠密」から報告が届いていた。
 そこには、シモンが自家の資産をヘンリエッタにねだられるまま流用している実態と、そして――死んだはずの長男、パスカルが生きており、反撃の機を窺っているという驚愕の事実が記されていた。

 パスカルからの文には、こうあった。

『父上、どうか不穏分子は泳がせてください。彼らが自らの愚かさを証明するまで、あえて沈黙を守っていただきたい』

 侯爵は、目の前で鼻を高くしている次男を見つめ、静かに息を吐いた。
 我が家の優秀な嫡男を「見つけさせない」ように工作した勢力に、モンクトン侯爵家が関わっている疑いもある。今ここでシモンを止めれば、尻尾を掴み損ねる。

「……わかった。家督の継承と再婚については、追って正式な場を設ける。それまでは、身を慎み、継承者としての自覚を持って動くがいい」

「ありがとうございます、父上! 必ずや、パルマン家の名に恥じぬ働きをしてみせます!」

 シモン様は、歓喜に震えながら書斎を後にした。
 扉が閉まった後、侯爵は机の引き出しから、本物の印章指輪を取り出した。パスカルから届けられた、本物の証。

「……シモン。お前のその『優しさ』が、どれほど人を傷つけ、家を壊そうとしているか。その報いを受けるがいい」
 


 一方、自室に戻った私は、窓の外を眺めていた。
 庭の隅では、ヘンリエッタ様が、シモン様がプレゼントしたであろう高価な首飾りを陽に翳して、うっとりと眺めている。
 
 彼女が手にしているのは、パルマン家の資産であり、私がシモン様と築くはずだった未来の断片だ。
 
 私は、パスカル様との隠れ家で交わした約束を思い出す。

 『鼠どもを最も高く昇らせる』。
 
 シモン様は今、絶頂にいる。
 「婚約解消」という最後の手枷から逃れ、愛する女性を救い、一族の長となる。そんな完璧な物語の主人公になったつもりでいる。
 
 だが、彼が署名した「合意書」には、小さな、けれど致命的な特約条項が含まれている。
 『本合意は、両当事者の不法行為がないことを前提とする』。
 
 私は、手元のペンを置いた。
 潮は、もう足元まで満ちてきている。
 次に彼らが目を開ける時、そこにあるのは輝かしい未来ではなく、底なしの泥沼であることを、私は確信していた。
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