実兄の婚約者に恋した貴方を、私はもう愛さない。その椅子、行方不明のお兄様のものですよね?

恋せよ恋

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嵐の前の夜会

  パルマン侯爵邸の広間は、かつてないほどの光輝に包まれていた。
 天井のシャンデリアは、まるで星々を閉じ込めたかのように煌めき、床には磨き上げられた大理石が冷たい光を反射している。流れる旋律は軽やかで、集まった貴族たちの扇が揺れるたびに、甘美な香水と欲望の香りが混ざり合って漂っていた。

 今夜の主役は、誰の目にも明らかだった。

「……見て。あの方が、次期侯爵になられるシモン様よ」

「隣にいらっしゃるのは、モンクトン侯爵家のヘンリエッタ様でしょう? パスカル様の婚約者だったはずですが……」

「シモン様が、不憫な彼女を一生支えると宣言されたそうですわ。なんて慈悲深く、美しい愛の物語かしら」

 壁際で囁かれる社交界の住人たちの声は、シモン様にとって、この上ない賛辞として響いていた。
 彼は、胸を張り、眩いばかりの正装で壇上に立っていた。その表情には、長年「完璧な兄」の陰に隠れてきた次男の卑屈さは微塵もなく、選ばれし者としての陶酔が滲み出ている。

 そして、その傍らに寄り添うヘンリエッタ様。
 彼女は、私から奪い取ったあのオリーブ色のドレスを纏っていた。
 最高級のシルクが、彼女の白皙の肌を際立たせ、計算し尽くされたレースの意匠が、彼女をまるで聖母か女神のように見せている。シモン様が贈ったであろう高価な宝石が首元で火花を散らし、彼女の勝利を祝福しているようだった。

「……シモン様。わたくし、夢を見ているようですわ」

 ヘンリエッタ様が、潤んだ瞳でシモン様を見上げる。その手は、彼の腕にしっかりと、そして独占的に絡みついていた。

「夢じゃない、ヘンリエッタ。今日、この場で、僕がパルマン家の正式な継承者であることを宣言する。そうすれば、もう君を脅かすものは何もない」

 シモン様は、彼女の耳元で甘く囁いた。
 彼の中では、すべてが完璧だった。
 兄は死に、家督は自分のもの。疎ましかった「強い婚約者」は自ら身を引き、代わりに「守るべき愛しい女」が隣にいる。
 
 会場の隅に、喪に服すような漆黒の、装飾一つない地味なドレスを着た私――セシリア・ダルクが立ち尽くしていることに、彼は気づいてさえいなかった。

 いや、たとえ視界に入っていたとしても、それは勝利を彩るための、惨めな敗北者の影にしか見えなかっただろう。
 やがて、パルマン侯爵が重い足取りで壇上に姿を現した。

 音楽が止まり、会場に緊張が走る。シモン様は、期待に胸を膨らませ、父の口から「継承」の言葉が出るのを今か今かと待ち構えた。

「皆様。今宵、この場に集まっていただいたのは、パルマン侯爵家の未来について、重大な発表をさせていただくためです」

 侯爵の声は低く、そしてどこか冷徹だった。
 シモン様は、誇らしげに一歩前へ出た。隣でヘンリエッタ様が、自分が「侯爵夫人」と呼ばれる瞬間を夢見て、ドレスの裾を上品に摘み直す。

 そのドレスに刻まれた、家紋の意匠。
 獅子とオリーブが絡み合う、正嫡の妻のみが許される「禁忌」の模様。
 それが、灯火の下で呪いのように浮かび上がる。

「わが長男、パスカルの行方が途絶えてから、多くの混乱があった。……そして今、次男シモンがその座を継ぎ、新たな伴侶を迎えるべきとの声もある。……

 侯爵の言葉が、不自然な間を置いた。

 その時。
 広間の大きな扉が、音も立てずに開かれた。
 
 吹き込んできたのは、夜の闇と、潮の香りを孕んだ冷たい風。
 集まった貴族たちが、怪訝そうに振り返る。
 
 逆光の中に立つ、一人の男の影。
 杖をつき、顔の半分を覆うような深い傷跡を刻みながらも、その立ち姿は、壇上のシモン様を遥かに凌駕する圧倒的な威厳を放っていた。

「ん? 誰だ……!?」

 シモン様の声が、恐怖で裏返る。
 
 私は、漆黒のドレスの裾を静かに捌き、その「影」を迎え入れる準備をした。
 
 潮は、今、完全に満ちたのだ。
 
 嵐の前の静けさは、たった今、終わりを告げた。
 これから始まるのは、美しき愛の物語などではない。
 裏切りと、嘘と、略奪の上に築かれた「砂の城」が、本物の王の帰還によって粉々に砕け散る、残酷な断罪の宴である。
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