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天使の皮を剥ぐ瞬間
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翌朝、学園の回廊を歩くエミリアの足取りは、昨日までとは打って変わって重いものだった。
胸の奥には、冷え切った澱のような感情が居座っている。昨日の放課後、ナタリーが放った嘲笑と、それを見て見ぬふりをしたヘンリーの表情が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
「エミリア様ぁ! おはようございます!」
背後から、弾んだ声が響く。
振り返れば、そこには昨日と変わらぬ、愛らしい微笑みを浮かべたナタリーがいた。彼女は小走りに駆け寄ってくると、当然のようにエミリアの腕に自分の細い腕を絡ませる。
「……おはよう、ナタリー」
エミリアは、自分の声が微かに震えるのを必死で抑えた。
ナタリーは、エミリアの顔を覗き込むと、大袈裟に眉を下げて見せる。
「まあ、エミリア様。少しお顔色が悪いようですわ。もしや、昨日も遅くまで私とヘンリー様のために、魔導具の調整をしてくださっていたのでは……? ああ、申し訳ありません。私、自分の無力さが情けなくて……」
ナタリーの瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
これだ。この「守ってあげたい」と思わせる健気な仕草。
昨日までのエミリアなら、「いいのよ、あなたの体の方が大事だわ」と優しく微笑んで、自らの魔力を分け与えていただろう。
だが、今のエミリアの目には、その涙が薄汚れた水滴にしか見えなかった。
「……そうね。少し疲れているのかもしれないわ」
エミリアは、あえて突き放すようなことはせず、静かに言葉を返した。
その時、廊下の向こうからヘンリーがやってくるのが見えた。
「二人とも、おはよう。今日も仲が良いね」
ヘンリーは爽やかな笑みを浮かべて近づいてくる。
昨日のナタリーの不敬を聞いていたはずの彼は、まるで記憶を消去したかのように、いつもの「完璧な婚約者」を演じていた。
「ヘンリー様!」
ナタリーが、エミリアの手を離してヘンリーの方へ駆け寄る。
そして、彼の袖をぎゅっと掴み、上目遣いで彼を見つめた。
「ヘンリー様、聞いてください。エミリア様が、私を気遣って無理をなさっているんです。私、自分の身分を呪いたくなりますわ。男爵家の娘でなければ、もっとエミリア様を支えられるのに……っ」
ナタリーの声は、周囲の学生にも聞こえるような、絶妙な大きさだった。
周囲からは「なんて健気な男爵令嬢なんだ」、「それに比べて、侯爵令嬢様は少し冷たい顔をされているな」という囁きが漏れる。
ヘンリーは、エミリアを一瞬だけ見た。
その瞳には、昨日と同じ「後ろめたさ」と、それを覆い隠すための「憐れみ」が混ざっている。
「エミリア。ナタリーは君を慕っているんだ。そんなに強張った顔をしないで、彼女を安心させてやってくれないか?」
ヘンリーの言葉に、エミリアは眩暈を覚えた。
彼は、ナタリーの嘘を知っている。それなのに、私に「優しいエミリア」を演じることを強要するのか。
彼にとって、私は「魔力と金を提供し、自分たちの都合を叶えてくれる便利な盾」でしかないのだと、改めて突きつけられた気分だった。
「……そうね。ごめんなさい、ナタリー。少し考え事をしていただけなの」
エミリアが無理に口角を上げると、ナタリーは「良かったですぅ」と満面の笑みを浮かべた。
そして、ヘンリーとエミリアの間に割って入るようにして歩き始める。
「あ、そうだわ! エミリア様。今日の魔力実習、私、また魔力切れを起こしそうで怖いですの。後で、少しだけ『補給』をお願いしてもよろしいですか?」
ナタリーが甘えるようにエミリアの指先に触れる。
魔力譲渡。
エミリアの膨大な魔力を他者に直接分け与える行為は、術者の精神をひどく摩耗させる。ナタリーはそれを知っていながら、まるでお菓子をねだるような軽さで要求してきた。
「ああ、それなら僕もお願いしたいな。最近、父上の領地運営を手伝っていて、少し疲れ気味なんだ。エミリアの魔力は、本当に心に効くからね」
ヘンリーまでもが、追随する。
二人にとって、エミリアの献身は「当然の権利」へと成り下がっていた。
エミリアは、二人を視界に入れないようにして、空を仰いだ。抜けるような青空が、今の自分の心境とは正反対で、酷く疎ましかった。
(……いいでしょう。そこまで望むなら)
エミリアは、心の中で冷たく呟いた。
この学園で行われる魔力実習。それは、学生の保有魔力量を測定し、その適性を評価するものだ。
ナタリーとヘンリーは、エミリアから分け与えられた魔力を「自らの力」として測定させ、優秀な成績を収めてきた。
だが、エミリアが「分け与える」魔力には、実はある特性があった。それは、浄化の力。
二人が日常的に浴びている「瘴気の淀み」を無意識に払い、彼らの虚弱な体質を無理やり健康な状態に繋ぎ止めていたのだ。
「ええ、分かったわ。放課後、いつもの温室で」
エミリアの快諾に、二人は顔を見合わせて喜んだ。
ナタリーは勝ち誇ったような視線をエミリアに向け、ヘンリーは「さすが僕の婚約者だ」と満足げに頷く。
その場を去ろうとした時、エミリアの背後にナタリーが忍び寄り、耳元で囁いた。他の学生やヘンリーには聞こえない、氷のような低い声。
「……エミリア様。いつまでそんな悲しそうな顔をしてるの? そんな顔、ヘンリー様は嫌いですって。もっと可愛く笑わないと、本当に捨てられちゃいますわよ?」
クスクスという含み笑いと共に、ナタリーはヘンリーの腕を取って歩き出した。
ヘンリーは、少しだけ戸惑ったような素振りを見せたが、ナタリーの柔らかな胸が自分の腕に押し付けられると、鼻の下を伸ばしてそのまま歩調を合わせた。
残されたエミリアは、一人、廊下の中央に立っていた。
( もう、十分だわ )
エミリアは、震える自分の右手を左手で押さえた。怒りではない。深い深い、失望。
これまであの二人を支えてきたのは、友情でも愛でもなかった。それは、エミリアという「魔力の資源」を奪い合う、ハイエナたちの宴に過ぎなかったのだ。
「……ナタリー、ヘンリー。あなたたちは、自分の足で立っているつもりなのね」
エミリアの瞳から、光が消える。
「なら、私が、あなた達のための『杖』を捨てた時……。どうなるか、楽しみにしているわ」
彼女は、かつて慈しんだ二人への情を、その場で完全に切り捨てた。
侯爵令嬢としてのプライドが、今、黒く冷たい炎となって燃え上がろうとしていた。
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胸の奥には、冷え切った澱のような感情が居座っている。昨日の放課後、ナタリーが放った嘲笑と、それを見て見ぬふりをしたヘンリーの表情が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
「エミリア様ぁ! おはようございます!」
背後から、弾んだ声が響く。
振り返れば、そこには昨日と変わらぬ、愛らしい微笑みを浮かべたナタリーがいた。彼女は小走りに駆け寄ってくると、当然のようにエミリアの腕に自分の細い腕を絡ませる。
「……おはよう、ナタリー」
エミリアは、自分の声が微かに震えるのを必死で抑えた。
ナタリーは、エミリアの顔を覗き込むと、大袈裟に眉を下げて見せる。
「まあ、エミリア様。少しお顔色が悪いようですわ。もしや、昨日も遅くまで私とヘンリー様のために、魔導具の調整をしてくださっていたのでは……? ああ、申し訳ありません。私、自分の無力さが情けなくて……」
ナタリーの瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
これだ。この「守ってあげたい」と思わせる健気な仕草。
昨日までのエミリアなら、「いいのよ、あなたの体の方が大事だわ」と優しく微笑んで、自らの魔力を分け与えていただろう。
だが、今のエミリアの目には、その涙が薄汚れた水滴にしか見えなかった。
「……そうね。少し疲れているのかもしれないわ」
エミリアは、あえて突き放すようなことはせず、静かに言葉を返した。
その時、廊下の向こうからヘンリーがやってくるのが見えた。
「二人とも、おはよう。今日も仲が良いね」
ヘンリーは爽やかな笑みを浮かべて近づいてくる。
昨日のナタリーの不敬を聞いていたはずの彼は、まるで記憶を消去したかのように、いつもの「完璧な婚約者」を演じていた。
「ヘンリー様!」
ナタリーが、エミリアの手を離してヘンリーの方へ駆け寄る。
そして、彼の袖をぎゅっと掴み、上目遣いで彼を見つめた。
「ヘンリー様、聞いてください。エミリア様が、私を気遣って無理をなさっているんです。私、自分の身分を呪いたくなりますわ。男爵家の娘でなければ、もっとエミリア様を支えられるのに……っ」
ナタリーの声は、周囲の学生にも聞こえるような、絶妙な大きさだった。
周囲からは「なんて健気な男爵令嬢なんだ」、「それに比べて、侯爵令嬢様は少し冷たい顔をされているな」という囁きが漏れる。
ヘンリーは、エミリアを一瞬だけ見た。
その瞳には、昨日と同じ「後ろめたさ」と、それを覆い隠すための「憐れみ」が混ざっている。
「エミリア。ナタリーは君を慕っているんだ。そんなに強張った顔をしないで、彼女を安心させてやってくれないか?」
ヘンリーの言葉に、エミリアは眩暈を覚えた。
彼は、ナタリーの嘘を知っている。それなのに、私に「優しいエミリア」を演じることを強要するのか。
彼にとって、私は「魔力と金を提供し、自分たちの都合を叶えてくれる便利な盾」でしかないのだと、改めて突きつけられた気分だった。
「……そうね。ごめんなさい、ナタリー。少し考え事をしていただけなの」
エミリアが無理に口角を上げると、ナタリーは「良かったですぅ」と満面の笑みを浮かべた。
そして、ヘンリーとエミリアの間に割って入るようにして歩き始める。
「あ、そうだわ! エミリア様。今日の魔力実習、私、また魔力切れを起こしそうで怖いですの。後で、少しだけ『補給』をお願いしてもよろしいですか?」
ナタリーが甘えるようにエミリアの指先に触れる。
魔力譲渡。
エミリアの膨大な魔力を他者に直接分け与える行為は、術者の精神をひどく摩耗させる。ナタリーはそれを知っていながら、まるでお菓子をねだるような軽さで要求してきた。
「ああ、それなら僕もお願いしたいな。最近、父上の領地運営を手伝っていて、少し疲れ気味なんだ。エミリアの魔力は、本当に心に効くからね」
ヘンリーまでもが、追随する。
二人にとって、エミリアの献身は「当然の権利」へと成り下がっていた。
エミリアは、二人を視界に入れないようにして、空を仰いだ。抜けるような青空が、今の自分の心境とは正反対で、酷く疎ましかった。
(……いいでしょう。そこまで望むなら)
エミリアは、心の中で冷たく呟いた。
この学園で行われる魔力実習。それは、学生の保有魔力量を測定し、その適性を評価するものだ。
ナタリーとヘンリーは、エミリアから分け与えられた魔力を「自らの力」として測定させ、優秀な成績を収めてきた。
だが、エミリアが「分け与える」魔力には、実はある特性があった。それは、浄化の力。
二人が日常的に浴びている「瘴気の淀み」を無意識に払い、彼らの虚弱な体質を無理やり健康な状態に繋ぎ止めていたのだ。
「ええ、分かったわ。放課後、いつもの温室で」
エミリアの快諾に、二人は顔を見合わせて喜んだ。
ナタリーは勝ち誇ったような視線をエミリアに向け、ヘンリーは「さすが僕の婚約者だ」と満足げに頷く。
その場を去ろうとした時、エミリアの背後にナタリーが忍び寄り、耳元で囁いた。他の学生やヘンリーには聞こえない、氷のような低い声。
「……エミリア様。いつまでそんな悲しそうな顔をしてるの? そんな顔、ヘンリー様は嫌いですって。もっと可愛く笑わないと、本当に捨てられちゃいますわよ?」
クスクスという含み笑いと共に、ナタリーはヘンリーの腕を取って歩き出した。
ヘンリーは、少しだけ戸惑ったような素振りを見せたが、ナタリーの柔らかな胸が自分の腕に押し付けられると、鼻の下を伸ばしてそのまま歩調を合わせた。
残されたエミリアは、一人、廊下の中央に立っていた。
( もう、十分だわ )
エミリアは、震える自分の右手を左手で押さえた。怒りではない。深い深い、失望。
これまであの二人を支えてきたのは、友情でも愛でもなかった。それは、エミリアという「魔力の資源」を奪い合う、ハイエナたちの宴に過ぎなかったのだ。
「……ナタリー、ヘンリー。あなたたちは、自分の足で立っているつもりなのね」
エミリアの瞳から、光が消える。
「なら、私が、あなた達のための『杖』を捨てた時……。どうなるか、楽しみにしているわ」
彼女は、かつて慈しんだ二人への情を、その場で完全に切り捨てた。
侯爵令嬢としてのプライドが、今、黒く冷たい炎となって燃え上がろうとしていた。
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