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CHAPTER1
3
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殺害現場を確認したあと、私は部下たちに地取り捜査を命じた。因みに地取り捜査とは、地図上に境界線を引き、その範囲内の全ての建物を訪れ、不審者の目撃情報を集める作業のことを指す。だが、この作業は既に、所轄の東京湾岸中央署員と第一機動捜査隊が行っている。
古手川からの通報を受け、最初に現場に到着したのは、東京湾岸中央署の地域課の警察官二名だった。彼らは到着後、直ちに現場保存の任に就いた。続いて第一機動捜査隊、所轄の刑事課員、鑑識係員の順に臨場した。そして最後に到着したのが、臨場要請を受けた私たち警視庁刑事部捜査一課殺人犯捜査第四係員だ。
結局のところ地取り捜査は空振りだった。機捜も所轄も、私が率いる比嘉班の捜査員たちも、犯人に繫がる有力な手掛かりを、この高層マンションの住人から得ることはできなかった。
ただ一つわかったことは、タワーマンション『有明スカイタワー』全体が、殺人事件発生時に、完全な密室状態にあったという点だ。
翌朝、帳場が立った東京湾岸中央署に顔を出した私は、捜査会議が始まる前、上司の沖警部の許へ報告に行った。彼は、本庁の幹部数人と小会議室で待機していた。合同捜査本部は、この階の上の講堂に設置されていた。
「密室?」
沖警部は顔を顰め、上擦った声をあげた。
「どういうことだ、比嘉君?」
お茶の入った湯飲み茶碗を手に取りながら訊ねる。
他の幹部も、私の唇の動きに注目している。
「セキュリティシステムは万全で、住人が持っている鍵がなければ、オートロックを解除することは出来ません」
「合鍵を作ればいいじゃないか?」
質問したあと、沖警部はお茶で唇を湿らした。
「あのマンションの鍵は、合鍵が作れないタイプのものです」
「裏口は?」
「ありますけど、表と同じようにオートロックが掛かっており、住人が持っている鍵がなければ解除できません」
「そうか……」
報告を受けた沖警部は、浮かぬ顔で下顎を摩った。瞼を閉じ、暫く考え込んだ。再び瞼を開けると、
「防犯カメラの方は、どうなっている?」
と質問してきた。
私は徐にかぶりを振った。
「映像を解析した結果、映っていたのはあのマンションの住人と宅配業者のみです。これといって特に怪しい人物はいません」
「住人の中に犯人がいるんじゃないのか?」
「はい、係長。実は私もそれを疑っております」
「で、マル害の死亡推定時刻は?」
「防犯カメラの映像から、保原香澄さんは、一昨日の午後九時三十分過ぎに帰宅したことが確認できました」
「午後九時半か……つまりマル害が殺害されたのは、それ以降ということだな」
「昨日、 東京湾岸中央署で検視なさった前田警部の話によりますと、恐らく一昨日の深夜から昨日未明に掛けて、ということです。詳しいことは、T女子医大法医学教室にて明日行われる司法解剖を待ってみなくてはわからないそうです」
「済まんが比嘉君。キミ、部下を伴ってその解剖に立ち会ってくれ」
「えっ、私がですが」
私は自分の顔を指差した。
沖警部が無言で頷く。
「わかりました」
私は卑屈な作り笑いを浮かべた。
「嫌なのか?」
「いいえ」
私は低い声で答えた。
そこへ引き戸を開け、所轄の制服警察官が一名入ってきた。女性警察官だ。本庁の幹部連中に一礼すると口を開いた。
「間もなく捜査会議が始まります。皆さん、講堂の方へ移動お願い致します」
「行こうか、比嘉君」
沖警部は両腕をあげ気怠く首を動かすと重い腰をあげた。
他の幹部連中も席を立ち、入口へ向かってぞろぞろと歩き出した。私はその列の一番後ろについた。
東京湾岸中央署最上階の講堂。その入り口には、『江東区有明タワーマンションOL殺害事件特別捜査本部』と墨で大きく書かれた紙が張り出されていた。所謂、警察隠語でいう戒名だ。
私は、講堂の廊下側の列の一番前に座った。左隣は、四係のもう一つ班の主任桐畑さんが座っている。
捜査会議には、鑑識と捜査二課の捜査員、所轄署員、そして捜査一課の捜査員総勢四十人前後が出席した。正面上座には幹部連中の姿があった。形式上の本部長は、所轄の署長が就任していたが、実際にこの帳場を仕切るのは管理官の松原警視だ。今回は第一回目の捜査会議と言うこともあって、捜査一課長和田勤警視正の姿もあった。刑事としての私の能力を高く評価し、警視庁に引き抜いた人物だ。
司会進行役の捜査一課強行犯捜査第二係長桜庭俊彦警部が、徐にハンドマイクを手に取った。因みにこの強行犯捜査第二係は、捜査本部の運営が主な任務だった。
「これより第一回目の合同捜査会議を開始する。起立っ! 敬礼っ!」
私たち捜査員が、一斉に立ちあがり、敬礼した。
皆が着席すると、桜庭さんは保原香澄の他殺体発見時の状況と死因、死亡推定時刻等を淡々と説明し始めた。これといって新しい情報もなく、昨日の地取りの聞き込み捜査で得た情報と内容はほぼ同じだった。
会議の最中、私は昨日検視官の前田沙織警部が語って『胃と十二指腸と小腸の一部と、卵巣、子宮、膣、外性器、左乳房がなくなっているのよね。どうしてかな?』という点について考え込んでいた。
会議が佳境に差し掛かった時、不意に桜庭さんから名指しされた。
「おい、比嘉警部補。ちゃんと話を聞いているのかね。キミを見ているとさっきからまるで上の空って感じじゃないか」
「……済みません」
私は小さく頭をさげた。そして思い切って胸に抱く疑問をぶつけてみることにした。
「管理官、宜しいでしょか?」
捜査員一同が、私一人に注目した。皆の視線が突き刺さる。
「何だ。構わん、いってみろ」
松原管理官は顎をしゃくった。
「マル害を殺害した犯人は、どうして犯行後マル害の身体の一部を切り取り持って帰ったのでしょうか?」
「はぁ?」
松原管理官が面を喰らったような顔をしている。手許に目を落とし、資料を凝視した。訝し気に首を傾げる。
捜査員たちが並ぶ列の後ろの方では、この場違いな発言に対し、失笑する者もいた。所轄の連中だ。
資料に一通り目を通した後、松原管理官は顔をあげた。ハンドマイクを手に取った。
「知るか、そんなこと。被疑者を逮捕して、直接本人に訊ねりゃいいだろう」
松原管理官は、私の発言を一蹴すると、鼻先で嘲笑った。再び失笑が起こった。
そんな中、鑑識の人間が居並ぶ列の中ほどに座っていた女性が立ちあがった。検視官の前田沙織警部だ。
「嘗て、ビクトリア朝時代のロンドンの街中を震撼させた切り裂きジャックは、殺害した女性の身体の一部を持ち帰り、食べたそうです……所謂カニバリズムですね」
沙織さんは妖艶な笑みを口許に浮かべた。
「カニバリズム……? 何だよそれっ。この変態女がぁ」
松原管理官は不快感を露わにした。
しかし私は、今し方述べた沙織さんの意見に対し、〝いや違う。そんな目的じゃない。被疑者はもっと違う目的のため、マル害の身体の一部を切り取り持って帰ったんだ……〟と頭の中で否定する。
たが、結局のところその解答を出せないままだった。
一時間ほどで捜査会議は終了した。初回としては異例の短さだった。現時点で被疑者として名前が挙がったのは、石黒孝雄、吉川敏樹の二名だった。二人は何れも、今回の猟奇殺人事件の被害者保原香澄に個人的な恨みを持っていた。殺害に至る動機としては充分だ。
私は荷物を纏め鞄に詰め込むと席を立った。視線の先に徳丸の姿を捉えると、彼の許へ向かって歩き出した。徳丸も私に気づき、先に声を掛けてきた。
「主任、どうしたんですか?」
やや不安気な目つきだ。
「明日、私とT女子医大に行って欲しいんだけど」
「T女子医大ってまさか……」
徳丸は表情を沈ませ俯いた。
「ピンポーン。正解、明日午後一時からだ。佳主馬絶対に遅れるなよな」
「主任、何も自分じゃなくて、他の奴にやらせりゃいいじゃん」
徳丸は豪く不機嫌になり、私に喰って掛かった。
私は、二、三度かぶりを振ると、右手の親指を立て、右斜め後ろを指差した。徳丸が指先を目で追う。
私は首だけで振り向いて、
「あんたも会議に出たんだったら、知ってるでしょ。今回の私の 相棒、あの坊やよ」
と吐き捨てるようにいってから気怠い溜め息を吐いた。
「確か、岩手県警本部長の息子ですよね」
「そう、立花警視長の三男。当然、彼も父親と同じキャリア様って訳」
「キャリア様に、司法解剖つき合わせる訳には行きませんよね」
徳丸は苦笑すると、納得したように頷いた。
「佳主馬さぁ、あんたはいいよね。 東京湾岸中央署の伊東係長と組むことができて。私はあの坊やと敷鑑だよ。あーあ、嫌なっちゃうなぁ」
私は下唇を吐き出し、口をへの字に曲げた。
敷鑑とは、被害者の人間関係を洗い出し、被害者を殺害する動機を持つ関係者を探し出す作業のことだ。
そこへ、東京湾岸中央署の刑事組織犯罪課強行犯係長伊東浩市警部補が近寄ってきた。私は軽く目礼する。伊東さんも目礼で返してきた。
「比嘉警部補、お宅の若者をお借りします」
「どうぞ、遠慮なく存分に使って遣ってください」
いうと、私は伊東さんと組むことになった徳丸の白け面をちらりと見た。
「はい。こちらもそのつもりです。本庁の人間がどれだけ使えるのか楽しみです」
いったあと、伊東さんは所轄の捜査員数人ががいる方を見て、声を掛けた。
「おーい立花君。こっちにきて、警視庁の比嘉警部補に挨拶しなさい」
イタリア製の高級スーツを粋に決めた、今風の好青年が私に目礼してから近づいてきた。
「東京湾岸中央署刑組課強行犯係の立花純です。宜しくお願い致します」
「そう。本庁捜査一課殺人班四係の比嘉です。宜しく……」
お互い挨拶を交わした。
「比嘉警部補、立花君をあなたの下で鍛えてやって下さい」
「ええ、まあ」
どう答えていいのか困り、私は適当に相槌を打った。
「さて、徳丸君。そろそろ行こうか」
伊東さんは彼の肩を軽く叩いた。
「じゃあ主任、失礼します」
徳丸は私に頭をさげると、先を行く伊東さんの後を追った。
私たち二人の役割は地取りだった。勿論、昨日の初動捜査でタワーマンション『有明スカイタワー』は全室調べ尽くしている。今回は範囲を広げての捜査だ。担当する区域は、『有明スカイタワー』周辺江東区有明〇〇だった。
「それじゃ私たちもそろそろ聞き込みに出掛けますか」
「はい、わかりました」
「ねえ、私たちが使えそうな覆面残っているかな?」
私は首を傾げながら訊ねてみた。
「さあ」
分かりませんといったように、立花君は首を振った。
立花君が私の顔を覗き込むように見る。
「あの、聞き込みってどちらの方へ……」
「マル害の交友関係洗ってみる」
「交友関係ですか」
「そう」
私は頷き、話を続けた。
「彼女、 前科があるのよね。二年前の二月に、覚醒剤〇・一を所持したという容疑で、 関東信越厚生局麻薬取締部に捕まっているのよ」
「よくご存じで」
「立花君、あんたさっきの会議で何聞いていたのぉ。桜庭さんが言っていたでしょ。マル害の保原香澄って女性は、数年前までグラビアモデルやっていて、Y組関係者とも深い仲だって。逮捕もこれが三回目で、執行猶予も付かなくて懲役一年六ヶ月の実刑喰らっちゃて、昨年の七月に栃木刑務所を出所したあとは、芸能活動を再開することなく、結婚詐欺師に鞍替えしたって訳」
「ああ、そうでした」
立花君は手にした資料に目を通しつつ頷いた。
この坊や、本当に大丈夫かな? と、私はちょっと不安な気分になった。
「そういうことだから、まずは男性関係から洗ってみるか」
「男性関係ですか」
「多分、派手に遊び回っていたと思うよ。男に大金貢がせちゃったりしてさぁ、でなきゃあんな高級マンションに住める訳ないじゃん」
「そうですよね」
途中、刑事部屋に立ち寄り、覆面パトカーのキーを借りると、地下駐車所まで下りた。
「私、運転するから、あんたは助手席に乗って」
言いながら私は三菱ランサーの右ドアに向かい、リモコンでロックを解除する。
ピピッ。
機械音が鳴り、ロックが解除されたことを確かめると、私はドアノブに手を掛けた。
エンジンを掛けながら、助手席に座る立花君に話し掛けた。
「男性関係洗い出す前に一度、現場へ行ってみましょう。現場百篇していう言葉あるでしょ」
「はあ現場百篇ですか?」
「そう。現場にこそ事件解決への糸口が隠されているものなの。初動捜査で何か見落としていないか、もう一度あの部屋へ行って確認したいのよ」
私は、左手でハンドブレーキを解除する。正面を向き直して、シフトレバーをPからDに入れた。右足でアクセルを踏む。三菱ランサーはゆっくりと動き出した。スロープを通り抜け表通りへ出た。フロントガラスに雨粒が当たった。私はワイパーのスイッチをONにした。
十数分後、私がハンドルを握る三菱ランサーは、現場となった『有明スカイタワー』の駐車所へ着いた。建物に近い来客用の空きスペースに駐車すると、三菱ランサーから降りた。リモコンを使って車のドアをロックする。雨脚が酷くなってきた。
「あの白いサニー、うちの署で使っている覆面です。僕たちの他に誰かきているのかな」
立花君は、三菱ランサーの二台右隣フェンス側に駐車中のその覆面パトカーを指差した。怪訝そうに小首を傾げたあと、私を見た。
「そりゃまあ、私たち以外にも現場を訪れる刑事がいたって可笑しくはないでしょう。こりゃあ土砂降りになるわね。走りましょう」
私は平然といい捨て、マンションのエントランスへ向かって走り出した。
頭が濡れないように、手提げ鞄で雨を凌ぐ。だが、やらないよりはましだという程度だ。何れにしてもこの横殴りの雨では、濡れてしまうことに変わりはない。
エントランスと車寄せを隔てるステンレスの柵の前には、立ち番の制服警察官が一人、棒を持って突っ立っている。東京湾岸中央署地域課に所属する男性警察官だ。レインコートを着ていたが、警帽の方はずぶ濡れだ。エントランスに向かって走る私たちの姿に気づき、敬礼した。
「ご苦労様です……。ん? 比嘉かぁ、久しぶりだな。じゃなかった比嘉警部補殿、お久しぶりであります」
立ち番の警察官は、嘗て私が卒配時にお世話になったあの平沢さんだった。
「平沢さん、止めてください。警部補殿っていうのは……昔みたいにタメ口で結構です」
私は少し恐縮したようにいった。
「そうはいかん。俺は未だに巡査部長のままだ。階級の方は比嘉さん、あんたの方が上だ」
「またまたそんなことをいう、止めてください。困っちゃうな、何かやり辛い。ところで平沢さん、いつから東京湾岸中央署の方に?」
「一週間前だ。その前は、単身赴任で大島の方へ行っていた。上の人間に逆らうと大変だ。俺のように島流し遭っちゃうからな」
平沢さんは自嘲した。
「あの平沢さん」
と不意に立花君が声を掛けた。
「うん。あんたは確かうちの署の刑組課強行犯係の……」
「立花です。ところで平沢さん。誰かきてるんですか? うちのサニーが停まっているから」
立花君は駐車場に停まっているその覆面パトカーを指差した。
「ああ、本庁の桐畑さんって奴とうちの若い者が来ている。比嘉さん、急がないと手柄先越されちゃうぜ」
平沢さんは口許を緩めると、右目を瞑った。
「あっ、そうだった。こんなところで油売ってる場合じゃなかった。失礼します平沢さん」
私は雨で濡れてしまった頭を下げると、心持ち速足にエントランスへ向かった。
古手川からの通報を受け、最初に現場に到着したのは、東京湾岸中央署の地域課の警察官二名だった。彼らは到着後、直ちに現場保存の任に就いた。続いて第一機動捜査隊、所轄の刑事課員、鑑識係員の順に臨場した。そして最後に到着したのが、臨場要請を受けた私たち警視庁刑事部捜査一課殺人犯捜査第四係員だ。
結局のところ地取り捜査は空振りだった。機捜も所轄も、私が率いる比嘉班の捜査員たちも、犯人に繫がる有力な手掛かりを、この高層マンションの住人から得ることはできなかった。
ただ一つわかったことは、タワーマンション『有明スカイタワー』全体が、殺人事件発生時に、完全な密室状態にあったという点だ。
翌朝、帳場が立った東京湾岸中央署に顔を出した私は、捜査会議が始まる前、上司の沖警部の許へ報告に行った。彼は、本庁の幹部数人と小会議室で待機していた。合同捜査本部は、この階の上の講堂に設置されていた。
「密室?」
沖警部は顔を顰め、上擦った声をあげた。
「どういうことだ、比嘉君?」
お茶の入った湯飲み茶碗を手に取りながら訊ねる。
他の幹部も、私の唇の動きに注目している。
「セキュリティシステムは万全で、住人が持っている鍵がなければ、オートロックを解除することは出来ません」
「合鍵を作ればいいじゃないか?」
質問したあと、沖警部はお茶で唇を湿らした。
「あのマンションの鍵は、合鍵が作れないタイプのものです」
「裏口は?」
「ありますけど、表と同じようにオートロックが掛かっており、住人が持っている鍵がなければ解除できません」
「そうか……」
報告を受けた沖警部は、浮かぬ顔で下顎を摩った。瞼を閉じ、暫く考え込んだ。再び瞼を開けると、
「防犯カメラの方は、どうなっている?」
と質問してきた。
私は徐にかぶりを振った。
「映像を解析した結果、映っていたのはあのマンションの住人と宅配業者のみです。これといって特に怪しい人物はいません」
「住人の中に犯人がいるんじゃないのか?」
「はい、係長。実は私もそれを疑っております」
「で、マル害の死亡推定時刻は?」
「防犯カメラの映像から、保原香澄さんは、一昨日の午後九時三十分過ぎに帰宅したことが確認できました」
「午後九時半か……つまりマル害が殺害されたのは、それ以降ということだな」
「昨日、 東京湾岸中央署で検視なさった前田警部の話によりますと、恐らく一昨日の深夜から昨日未明に掛けて、ということです。詳しいことは、T女子医大法医学教室にて明日行われる司法解剖を待ってみなくてはわからないそうです」
「済まんが比嘉君。キミ、部下を伴ってその解剖に立ち会ってくれ」
「えっ、私がですが」
私は自分の顔を指差した。
沖警部が無言で頷く。
「わかりました」
私は卑屈な作り笑いを浮かべた。
「嫌なのか?」
「いいえ」
私は低い声で答えた。
そこへ引き戸を開け、所轄の制服警察官が一名入ってきた。女性警察官だ。本庁の幹部連中に一礼すると口を開いた。
「間もなく捜査会議が始まります。皆さん、講堂の方へ移動お願い致します」
「行こうか、比嘉君」
沖警部は両腕をあげ気怠く首を動かすと重い腰をあげた。
他の幹部連中も席を立ち、入口へ向かってぞろぞろと歩き出した。私はその列の一番後ろについた。
東京湾岸中央署最上階の講堂。その入り口には、『江東区有明タワーマンションOL殺害事件特別捜査本部』と墨で大きく書かれた紙が張り出されていた。所謂、警察隠語でいう戒名だ。
私は、講堂の廊下側の列の一番前に座った。左隣は、四係のもう一つ班の主任桐畑さんが座っている。
捜査会議には、鑑識と捜査二課の捜査員、所轄署員、そして捜査一課の捜査員総勢四十人前後が出席した。正面上座には幹部連中の姿があった。形式上の本部長は、所轄の署長が就任していたが、実際にこの帳場を仕切るのは管理官の松原警視だ。今回は第一回目の捜査会議と言うこともあって、捜査一課長和田勤警視正の姿もあった。刑事としての私の能力を高く評価し、警視庁に引き抜いた人物だ。
司会進行役の捜査一課強行犯捜査第二係長桜庭俊彦警部が、徐にハンドマイクを手に取った。因みにこの強行犯捜査第二係は、捜査本部の運営が主な任務だった。
「これより第一回目の合同捜査会議を開始する。起立っ! 敬礼っ!」
私たち捜査員が、一斉に立ちあがり、敬礼した。
皆が着席すると、桜庭さんは保原香澄の他殺体発見時の状況と死因、死亡推定時刻等を淡々と説明し始めた。これといって新しい情報もなく、昨日の地取りの聞き込み捜査で得た情報と内容はほぼ同じだった。
会議の最中、私は昨日検視官の前田沙織警部が語って『胃と十二指腸と小腸の一部と、卵巣、子宮、膣、外性器、左乳房がなくなっているのよね。どうしてかな?』という点について考え込んでいた。
会議が佳境に差し掛かった時、不意に桜庭さんから名指しされた。
「おい、比嘉警部補。ちゃんと話を聞いているのかね。キミを見ているとさっきからまるで上の空って感じじゃないか」
「……済みません」
私は小さく頭をさげた。そして思い切って胸に抱く疑問をぶつけてみることにした。
「管理官、宜しいでしょか?」
捜査員一同が、私一人に注目した。皆の視線が突き刺さる。
「何だ。構わん、いってみろ」
松原管理官は顎をしゃくった。
「マル害を殺害した犯人は、どうして犯行後マル害の身体の一部を切り取り持って帰ったのでしょうか?」
「はぁ?」
松原管理官が面を喰らったような顔をしている。手許に目を落とし、資料を凝視した。訝し気に首を傾げる。
捜査員たちが並ぶ列の後ろの方では、この場違いな発言に対し、失笑する者もいた。所轄の連中だ。
資料に一通り目を通した後、松原管理官は顔をあげた。ハンドマイクを手に取った。
「知るか、そんなこと。被疑者を逮捕して、直接本人に訊ねりゃいいだろう」
松原管理官は、私の発言を一蹴すると、鼻先で嘲笑った。再び失笑が起こった。
そんな中、鑑識の人間が居並ぶ列の中ほどに座っていた女性が立ちあがった。検視官の前田沙織警部だ。
「嘗て、ビクトリア朝時代のロンドンの街中を震撼させた切り裂きジャックは、殺害した女性の身体の一部を持ち帰り、食べたそうです……所謂カニバリズムですね」
沙織さんは妖艶な笑みを口許に浮かべた。
「カニバリズム……? 何だよそれっ。この変態女がぁ」
松原管理官は不快感を露わにした。
しかし私は、今し方述べた沙織さんの意見に対し、〝いや違う。そんな目的じゃない。被疑者はもっと違う目的のため、マル害の身体の一部を切り取り持って帰ったんだ……〟と頭の中で否定する。
たが、結局のところその解答を出せないままだった。
一時間ほどで捜査会議は終了した。初回としては異例の短さだった。現時点で被疑者として名前が挙がったのは、石黒孝雄、吉川敏樹の二名だった。二人は何れも、今回の猟奇殺人事件の被害者保原香澄に個人的な恨みを持っていた。殺害に至る動機としては充分だ。
私は荷物を纏め鞄に詰め込むと席を立った。視線の先に徳丸の姿を捉えると、彼の許へ向かって歩き出した。徳丸も私に気づき、先に声を掛けてきた。
「主任、どうしたんですか?」
やや不安気な目つきだ。
「明日、私とT女子医大に行って欲しいんだけど」
「T女子医大ってまさか……」
徳丸は表情を沈ませ俯いた。
「ピンポーン。正解、明日午後一時からだ。佳主馬絶対に遅れるなよな」
「主任、何も自分じゃなくて、他の奴にやらせりゃいいじゃん」
徳丸は豪く不機嫌になり、私に喰って掛かった。
私は、二、三度かぶりを振ると、右手の親指を立て、右斜め後ろを指差した。徳丸が指先を目で追う。
私は首だけで振り向いて、
「あんたも会議に出たんだったら、知ってるでしょ。今回の私の 相棒、あの坊やよ」
と吐き捨てるようにいってから気怠い溜め息を吐いた。
「確か、岩手県警本部長の息子ですよね」
「そう、立花警視長の三男。当然、彼も父親と同じキャリア様って訳」
「キャリア様に、司法解剖つき合わせる訳には行きませんよね」
徳丸は苦笑すると、納得したように頷いた。
「佳主馬さぁ、あんたはいいよね。 東京湾岸中央署の伊東係長と組むことができて。私はあの坊やと敷鑑だよ。あーあ、嫌なっちゃうなぁ」
私は下唇を吐き出し、口をへの字に曲げた。
敷鑑とは、被害者の人間関係を洗い出し、被害者を殺害する動機を持つ関係者を探し出す作業のことだ。
そこへ、東京湾岸中央署の刑事組織犯罪課強行犯係長伊東浩市警部補が近寄ってきた。私は軽く目礼する。伊東さんも目礼で返してきた。
「比嘉警部補、お宅の若者をお借りします」
「どうぞ、遠慮なく存分に使って遣ってください」
いうと、私は伊東さんと組むことになった徳丸の白け面をちらりと見た。
「はい。こちらもそのつもりです。本庁の人間がどれだけ使えるのか楽しみです」
いったあと、伊東さんは所轄の捜査員数人ががいる方を見て、声を掛けた。
「おーい立花君。こっちにきて、警視庁の比嘉警部補に挨拶しなさい」
イタリア製の高級スーツを粋に決めた、今風の好青年が私に目礼してから近づいてきた。
「東京湾岸中央署刑組課強行犯係の立花純です。宜しくお願い致します」
「そう。本庁捜査一課殺人班四係の比嘉です。宜しく……」
お互い挨拶を交わした。
「比嘉警部補、立花君をあなたの下で鍛えてやって下さい」
「ええ、まあ」
どう答えていいのか困り、私は適当に相槌を打った。
「さて、徳丸君。そろそろ行こうか」
伊東さんは彼の肩を軽く叩いた。
「じゃあ主任、失礼します」
徳丸は私に頭をさげると、先を行く伊東さんの後を追った。
私たち二人の役割は地取りだった。勿論、昨日の初動捜査でタワーマンション『有明スカイタワー』は全室調べ尽くしている。今回は範囲を広げての捜査だ。担当する区域は、『有明スカイタワー』周辺江東区有明〇〇だった。
「それじゃ私たちもそろそろ聞き込みに出掛けますか」
「はい、わかりました」
「ねえ、私たちが使えそうな覆面残っているかな?」
私は首を傾げながら訊ねてみた。
「さあ」
分かりませんといったように、立花君は首を振った。
立花君が私の顔を覗き込むように見る。
「あの、聞き込みってどちらの方へ……」
「マル害の交友関係洗ってみる」
「交友関係ですか」
「そう」
私は頷き、話を続けた。
「彼女、 前科があるのよね。二年前の二月に、覚醒剤〇・一を所持したという容疑で、 関東信越厚生局麻薬取締部に捕まっているのよ」
「よくご存じで」
「立花君、あんたさっきの会議で何聞いていたのぉ。桜庭さんが言っていたでしょ。マル害の保原香澄って女性は、数年前までグラビアモデルやっていて、Y組関係者とも深い仲だって。逮捕もこれが三回目で、執行猶予も付かなくて懲役一年六ヶ月の実刑喰らっちゃて、昨年の七月に栃木刑務所を出所したあとは、芸能活動を再開することなく、結婚詐欺師に鞍替えしたって訳」
「ああ、そうでした」
立花君は手にした資料に目を通しつつ頷いた。
この坊や、本当に大丈夫かな? と、私はちょっと不安な気分になった。
「そういうことだから、まずは男性関係から洗ってみるか」
「男性関係ですか」
「多分、派手に遊び回っていたと思うよ。男に大金貢がせちゃったりしてさぁ、でなきゃあんな高級マンションに住める訳ないじゃん」
「そうですよね」
途中、刑事部屋に立ち寄り、覆面パトカーのキーを借りると、地下駐車所まで下りた。
「私、運転するから、あんたは助手席に乗って」
言いながら私は三菱ランサーの右ドアに向かい、リモコンでロックを解除する。
ピピッ。
機械音が鳴り、ロックが解除されたことを確かめると、私はドアノブに手を掛けた。
エンジンを掛けながら、助手席に座る立花君に話し掛けた。
「男性関係洗い出す前に一度、現場へ行ってみましょう。現場百篇していう言葉あるでしょ」
「はあ現場百篇ですか?」
「そう。現場にこそ事件解決への糸口が隠されているものなの。初動捜査で何か見落としていないか、もう一度あの部屋へ行って確認したいのよ」
私は、左手でハンドブレーキを解除する。正面を向き直して、シフトレバーをPからDに入れた。右足でアクセルを踏む。三菱ランサーはゆっくりと動き出した。スロープを通り抜け表通りへ出た。フロントガラスに雨粒が当たった。私はワイパーのスイッチをONにした。
十数分後、私がハンドルを握る三菱ランサーは、現場となった『有明スカイタワー』の駐車所へ着いた。建物に近い来客用の空きスペースに駐車すると、三菱ランサーから降りた。リモコンを使って車のドアをロックする。雨脚が酷くなってきた。
「あの白いサニー、うちの署で使っている覆面です。僕たちの他に誰かきているのかな」
立花君は、三菱ランサーの二台右隣フェンス側に駐車中のその覆面パトカーを指差した。怪訝そうに小首を傾げたあと、私を見た。
「そりゃまあ、私たち以外にも現場を訪れる刑事がいたって可笑しくはないでしょう。こりゃあ土砂降りになるわね。走りましょう」
私は平然といい捨て、マンションのエントランスへ向かって走り出した。
頭が濡れないように、手提げ鞄で雨を凌ぐ。だが、やらないよりはましだという程度だ。何れにしてもこの横殴りの雨では、濡れてしまうことに変わりはない。
エントランスと車寄せを隔てるステンレスの柵の前には、立ち番の制服警察官が一人、棒を持って突っ立っている。東京湾岸中央署地域課に所属する男性警察官だ。レインコートを着ていたが、警帽の方はずぶ濡れだ。エントランスに向かって走る私たちの姿に気づき、敬礼した。
「ご苦労様です……。ん? 比嘉かぁ、久しぶりだな。じゃなかった比嘉警部補殿、お久しぶりであります」
立ち番の警察官は、嘗て私が卒配時にお世話になったあの平沢さんだった。
「平沢さん、止めてください。警部補殿っていうのは……昔みたいにタメ口で結構です」
私は少し恐縮したようにいった。
「そうはいかん。俺は未だに巡査部長のままだ。階級の方は比嘉さん、あんたの方が上だ」
「またまたそんなことをいう、止めてください。困っちゃうな、何かやり辛い。ところで平沢さん、いつから東京湾岸中央署の方に?」
「一週間前だ。その前は、単身赴任で大島の方へ行っていた。上の人間に逆らうと大変だ。俺のように島流し遭っちゃうからな」
平沢さんは自嘲した。
「あの平沢さん」
と不意に立花君が声を掛けた。
「うん。あんたは確かうちの署の刑組課強行犯係の……」
「立花です。ところで平沢さん。誰かきてるんですか? うちのサニーが停まっているから」
立花君は駐車場に停まっているその覆面パトカーを指差した。
「ああ、本庁の桐畑さんって奴とうちの若い者が来ている。比嘉さん、急がないと手柄先越されちゃうぜ」
平沢さんは口許を緩めると、右目を瞑った。
「あっ、そうだった。こんなところで油売ってる場合じゃなかった。失礼します平沢さん」
私は雨で濡れてしまった頭を下げると、心持ち速足にエントランスへ向かった。
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