君と出逢ったキセキ

繁村錦

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 八月に入り美雨はN北高三年三組と吹奏楽部の代表として、白血病の治療のためS医大付属病院に入院している和葉の許に見舞いに行くことになった。同行者は、担任の村瀬と学級委員長の野沢圭一の二人だ。三人は、村瀬が運転する彼の自家用車で大津市瀬田月輪町のS医大病院へ向かった。
 抗がん剤を投与され、間もなくその副作用で脱毛が始まる和葉は、夏だというのニット帽を被り、ベッドの上に横たわっていた。
 美雨は、無菌室のガラス越しに、親友の顏をまじまじと見やった。相変わらず蒼白い顔をしている。少し照れ臭そうにはにかんでいた。

「……美雨、来てくれたんだ、ありがとう」

「和葉……心配したんだよ」

「ごめんね、クラスのみんなに迷惑掛けちゃって」

「うぅん、迷惑だ何てなんて誰もそんなこと思っちゃいないよ」

「そう……」

 和葉は不意に淋し気な笑顔を見せた。窓の外に広がる夏の空と緑が映える山野に目を向ける。

「影山君、負けちゃったんだってね。お母さんから聞いた」

 視線を窓の外から室内に戻し、和葉はガラス越しに美雨の顏を見ながら言った。

「最後の最後に打たれちゃったみたいね。アイツ、わたしを甲子園に連れて行くなって言ってたくせに」

「可愛そうだよ美雨、そんなこと言っちゃ影山君が」


「……そうね」

 身体中にチューブやコードを付けられた和葉を見ていると、とても辛くて美雨はこれ以上言葉続かなかった。
 和葉が痛々しく見え、彼女の顏を直視出来ず、視線を逸らしていると、

「ねえ。冷たく当たってごめんね美雨」

 思い掛けない言葉を掛けられた。

「……わたしの方こそごめん和葉、変な意地張っちゃって」

 美雨は和葉の顏を見詰め、素直に謝った。

「ねえ、お母さん。アレ、美雨に渡して」

 和葉は同席する母に何事かを頼んだ。美雨たちは和葉の母郁恵の顏をちらりと見る。郁恵は頷くと、ハンドバックの中から、白い封筒を取り出した。

「これ、アリーナ・キンスキーのチケットなんだ……本当は美雨と仲直りを兼ねて二人で行きたかったんだけど、私、無理みたいだから……美雨、彼を誘って行って来なよ」

「どうぞ、雨森さん」

 郁恵は、娘から預かったアリーナ・キンスキーのコンサートチケットが入った封筒を手渡した。
 美雨は担任の村瀬の顏を見やった。村瀬は無言で受け取りなさいと意を込めるように小さく頷く。
 アリーナ・キンスキーは、ロシア出身の天才バオリニストで、この月の二十九日に来日コンサートが大阪の中之島のフェスティバルホールで開催される予定だった。

「和葉……早く良くなって来年は必ず二人で行こう」

「うん……」

 薄っすらと涙を溜めた瞳で和葉は美雨の顔を見詰め小さく頷いた。
 美雨も泣いていた。貰い泣きするように郁恵も噎び泣いた。村瀬と野沢は目頭を熱くさせ、視線を逸らした。

「もうみんな泣かないで、私はきっと良くなってみんなの許に必ず戻って来るから」

 和葉は態と気丈に振る舞っているように、美雨の目には移った。

「絶対だよ、約束だからね。来年の三月にはみんな揃って卒業しようね」

「うん」

 和葉は無理に笑みを浮かべ頷いた。それが美雨には辛くとても痛々しく見えてならなかった。

 翌日、美雨は和葉の希望通り遊馬をアリーナ・キンスキーのコンサートに誘ってみることにした。吹奏楽部の練習が終わると、遊馬の自宅を訪ねた。元浜町の『ギャリー禅』、遊馬の母方の祖父奥村修三が経営するギャラリー兼画材店だ。その奥に住居がある。
 美雨が遊馬の自宅に行くのは、これが二度目だった。『ギャリー禅』の前で自転車から降り、スタンドを立てる。チラリと店の中を覗いてみる。ベレー帽を被った白髪頭の眼鏡を掛けた老人が一人店番をしていた。
 あの人が遊馬君のお祖父さんだろうか、と思いつつ、店内に入った。

「……うん、いらっしゃい」

 膝の上にお玉を抱いた老人が、美雨に声を掛けた。

「あの、その、わたし……お客さんじゃなくて、その……ゆ、遊馬君の同級生で……」

 もごもごと喋っていると、ああと老人は頷き、

「遊馬のお友だちか……孫は今出掛けている、どうぞ、中にお入り、お茶でも淹れて上げるから」

 そう言うと振り返り、修三は店の奥の家屋に通じる引き戸を指さした。

「えっ、いいんですかでも……」

「アズキを助けてくれたお嬢さんじゃろ、あんた」

「は、はい」

「さあ、遠慮しない遠慮しない。大歓迎じゃ上がりなさい」

 修三は満面の笑みを浮かべ、美雨を誘った。

「はい、お邪魔します」

 頷き、美雨は店内から母屋の方に上がった。前回、この屋敷を訪れた時通されたリビングが、店舗の真後ろだった。

「ここに通じていたんだ……あっアズキ。元気にしてた」

 美雨は人懐こい仔猫を抱き上げ、頬擦りした。黒猫が喉を鳴らす。

「生憎、煎餅しかないが、どうぞ」

 修三がテーブルの上にお茶と茶菓子を置いた。

「済みません」

 美雨は申し訳なさそうに頭を下げる。

「孫から儂のことを色々と訊いておるじゃろう」

「えっ!?」

 お茶を一口飲んだ直後に、行き成り唐突なことを修三から問われ、美雨は思わず咳込んだ。

「……す、済みません、噎せちゃって」

「大丈夫かい、お嬢ちゃん」

「は、はい」

「済まなんだな……要らぬことを尋ね」

「……いいえ」

 美雨は茶碗を手に持ったまま小さくかぶりを振った。

「あの子が画家になりたいと言うのをこの儂が反対しておるのは、もうご存知であろう」

 修三に問われ、美雨は真顔になった。

「はい、でもその理由までは……」

「あの子の父親を儂が憎んでいるとあの子は思っておるが、それは勘違いじゃ」

「違うんですか……」

 美雨は、以前遊馬から聞かされた話と少し違うと思い、怪訝気味に首を傾げた。

「あれに、そのあの子の父親に仕事を紹介したのはこの儂だ……」

「仕事って……」

 意味が分からず美雨は鸚鵡返しに問い掛けた。

「知らなかったまさか贋作を製作する仕事だったとは」

 修三が告白したあと、美雨は、

「そのこと、遊馬君はご存知なんですか」

「ああ知っておる」

「ならどうして……」

「さあ、分からぬ。孫が、この儂があの子の父親を恨んでいると勘違いしている理由が分からぬ」

「そうなんですか……でも、だったらどうして遊馬君が美実大学を受験することを反対なさっているですか」

 美雨は、修三を睨みつけながら問い掛ける。

「何故だと思う?」

「わたしには分かりません。うちの両親も、わたしが音大を受験すること反対し、看護学校へ行けと五月蠅くて、あっ、うちの父は医者をやっていて……その……」

「そうかい、お医者さんの娘さんか」

 うんうんと何度も修三は頷いた。

「でもわたしは、父が勧める看護学校を受験する気はありません」

「お父さんに逆らっているんだね」

「はい。どうしても音大に行きたいんです」

「音楽のことについては、儂にはよく分かん。だが、あんたのお父さんの気持ち、考えていることは手に取るように分かる」

 修二は如何にも気難しそうな顔をして言った。

「父の気持ち、考えていることが分かるって……?」

 怪訝気味に首を傾げながら、美雨は修二を凝視する。
 腕を組むと修二は、静かに目を閉じ、低い声で唸った。程なくして目を開けると、柔らかい笑みを浮かべた。

「お嬢さん、あんたのお父さんはあんたに幸せになってもらいたいと願っているから、音大を受験することを反対しておられるんじゃきっと」

「父が、わたしに幸せになって欲しいなどと……?」

 美雨は戸惑った。遊馬の祖父が口にした言葉の意味が理解出来ないのだ。
 わたしに、幸せになって欲しいから音大受験を反対するってどういう意味だ?

「失礼な言い方をするが、お嬢さん、この先あんたが音楽家として生きて行ける才能があると自分ではっきり分かるかね」

 修二が確信に迫る質問を投げ掛けえ来た。すると美雨はハッと思い、思案し始める。
 好きというだけでは音楽家として成功出来ない。修二はそのことを言っているのだ、と美雨は改めてそう認識した。同時にこの老人は、自分の孫の遊馬にも、画家としての才能が乏しいと言っているのと同じだった。
 美雨は修二の言葉を頭の中で何度も反芻してみた。自分には音楽家としての才能があるのかどうか、音楽家として生計を立てることが出来るのかどうか。答えは以前から既に出ていた。自分には音楽の才能はない。並みの人間に比べほんの少しだけ、ピアノが弾け、バイオリンを扱え、クラリネットが吹ける程度だ。この程度ではとても音大に合格することなど出来ない。そして、恐らく遊馬も美雨が思っているよりも、美術の才能に恵まれていないのだ。
 美雨が奥村家のリビングで修二と話し込みながら遊馬が帰って来るのを待っていると、自転車のブレーキ音が聞こえた。

「おっ、どうやらあの子が帰って来たみたいじゃ」

 玄関の方を見やり修二が言った。美雨も小さく頷く。ドアを開ける音がした。

「只今、お祖父ちゃん」

 遊馬の声だ。

「お帰り、遊馬」

「ねえ、誰か来てるの。外に自転車が止まっているけど」

「ああ、お前にお客さんじゃよ。例の仔猫を助けてくれたお嬢さんじゃ」

「美雨? もしかして美雨が来てんの」

 少しだけ弾んだ声が聞こえた。遊馬が顏を覗かせた。手には、ホームセンターのレジ袋を持っている。中身は猫の餌だ。

「お邪魔してます遊馬君」

 美雨は少し照れ臭そうに頭を下げる。

「……で、どうだった? 昨日、北川さんのお見舞い行ったんだろ」

「思っていたよりも元気そうだった。これから本格的な治療が始まるって言っていた」

「大丈夫だよ、今は昔と違って医療もかなり進歩しているから、彼女きっと治るって……あっごめん、キミのお父さんお医者さんだったね。素人の俺がこんなこと言ったりして……」

「……うん。きっと治るよ和葉は大丈夫」

 美雨は小さく頷いた。遊馬の顔が霞んで見える。薄っすらと涙が滲んでいるのだ。零れ落ちた涙を手の甲で拭う。

「あの……遊馬君、今月最後の日曜日に、一緒に、そのアリーナ・キンスキーって人のコンサートに行かない? 和葉からチケット貰ったんだ二枚。本当は仲直りを兼ねてわたしと行きたかったみたいだけど、病気の所為で駄目になったから遊馬君を誘って行って来いって……」

 美雨は、ポーチの中から茶封筒に入ったコンサートチケット二枚を取り出した。

「……ごめん、その……」

 遊馬はぼそぼそと口籠った。

「予定あるよね、遊馬君も」

 諦めがちに美雨が尋ねる。
 すると、遊馬の祖父修二が、

「お嬢さん、そのアリーナ・キンスキーさんてのは、実は亡くなった儂の娘の友人で……」

「お祖父ちゃん、僕が説明する。美雨、彼女はお祖父ちゃんが言った通り俺の母の友人だったんだ。アリーナさんは、来日する度に俺をコンサートに招待してくれているんだ。実はその、今年も招待されていて……」

「……そうだたんだ。じゃあ、仕方ないね、誰か他の人誘ってみる」

 淋しさを感じながら美雨は言うと、手にした二枚のチケットを凝視する。

「待って美雨。俺、アリーナさんに事情を説明して、そのチケットでコンサートに行くことにする」

「いいの、そんなことしても。大丈夫なの」

「事情をちゃんと説明すれば、きっと彼女だって理解してくれる筈だよ」

「ホントっ!?」

「約束する、だからコンサート一緒に行こう。北川さんの厚意を無駄にしちゃいけないから」

「約束だよ遊馬君」

 美雨は、彼の祖父が目の前にいるにも拘らず、遊馬に抱き付き泣き出した。

「おいっ、美雨。ちょっと祖父ちゃんの前で……おいっ、美雨ってばぁ」

「うんうん、若いってのは素晴らしいことじゃ。この気持ちを忘れずに今を精一杯生きるんじゃぞ、二人とも」

「はい」

 美雨は修二の言葉を受け、力強く頷いてみせた。

 八月二十九日、美雨はいつもより早い時間に目が覚めた。外はまだ薄暗かった。枕元に置いたスマホを手に取り現在時刻を確かめる。

「四時過ぎか……」

 正直いうと昨晩はあまり寝られなかった。そのため寝覚めが悪い。寝つけなかった理由は簡単だ。美雨の想い人である遊馬との初デートだと考えただけで、乙女心がときめいてしまい、興奮して寝つけなかったのだ。
 美雨は頭から布団を被り二度寝することにした。それが間違いだった。次に彼女が目を覚ましてみると、すっかり夜が明け、朝日が差していた。

「……ん!?」

 今何時なのかと思い、美雨は重い寝惚け眼を擦りながらスマホを手に取った。
 07:32:26…………。虚しく静かに秒数のカウントが進んで行く。

「ゲッ、七時半過ぎてるじゃないっ!!」

 一気に目が覚めた。
 美雨は慌ててベッドから這い出ると、ショーツとブラだけという年頃の女の子にしては少しはしたない格好のまま部屋を飛び出した。手には着替え用の新しいショーツとブラを持って。
 階段のところまで足早に歩いて行き、

「お母さん、何で起こしてくれなかったのよっ!」

 母聡子に文句を言う。

「何度も起こしたわよ。でも一向に起きて来ないあんたが悪いんでしょ、美雨」

「五月蠅いな……起こしてくれればよかったのにっ」

 ブツブツと不満を口にしながら階段を下りると、日課となっているシャワーを浴びるため美雨はバスルームへ向かった。ドアも締めず、背中に手を回してブラを外す。ちょうどトイレから出て来た弟の渉と出くわした。

「うわっ、おっぱい丸見えっ。姉ちゃんはしたないって、僕だって一応男子なんだからそんな格好で家の中あるかないでよ」

「エッチ、見るなっ」

「五月蠅いよ、貧乳っ」

「私だって一応バスト八十五のDカップはあるんだぞ」

 言いながら美雨は片手で胸を隠し、もう一つの腕を伸ばしドアを閉めた。

「そんな格好で歩いている美雨が悪いのよ」

 聡子が娘に小言を言った。

「姉ちゃん、急がないと電車乗り遅れちゃうよ。今日彼氏さんとデートなんだろ」

「彼氏じゃない、ただのお友達かな……」

 本当は彼氏だったらいいのにと思いつつ、ショーツを脱ぎバスルームへ入った。
 急いでシャワーを浴び、新しい下着を身に着ける。
 リビング・ダイニングに入る前に、二階の自分の部屋に上がり、美雨は今日の初デートに着ていく夏物の白地に花柄のワンピースをクローゼットから取り出した。等身大の鏡の前に立ち、それを合してみる。

「やっぱり、いつも通りTシャツにジーンズの方がいいかな……」

 美雨は鏡に映る自分の姿を見詰め、首を傾げながら考える。

「さっさとしなさい、美雨。お母さんもう直ぐお仕事出掛けるから」

 一階から母聡子の声がした。
 小児科医の聡子は内科医の夫康介同様週に何度か地元の市立病院へ出掛けていた。この日も午前九時からの診療時間に間に合うように、出掛ける準備をしていたのだ。

「はーい、分かった。今下りるから」

 やっぱり最初に決めたワンピースを着ることにした。美雨はワンピースに着替えると、部屋を出て一階に下りた。リビング・ダイニングへ入る。

「あまり遅くならないようにね。美雨、分かってるの、あなたは高校三年受験生なんだから」

 娘が席に着くなり、聡子は小言を口にする。

「はいはい。ちゃんと分かってます」

 母の顔も見ず、美雨は食卓の上に並べられた朝食に手を伸ばした。バタートーストとハムエッグ、そして生野菜のサラダだ。
 美雨は味わって食べるなどとは無縁の如く、急いでそれらの物を頬張り、オレンジジュースで喉の奥へ流し込む。

「消化に悪いからよく噛んで食べなさい」

 いつもの通り、聡子は小児科医らしく、娘に注意する。
 しかし美雨は、そんなことなどお構いなしに、ものの数分で朝食を平らげると、席を立った。

「ああ、急がなくっちゃ。電車に間に合わない」

「美雨食事が済んだらちゃんと歯を磨きなさい。虫歯になっちゃうわよ」

「分かってるてばぁ、五月蠅いなぁもうっ」

 母に文句を言うと、美雨は洗面台に向かった。
 顔を洗い歯を磨くと美雨は、

「じゃあ行って来ます」

 家を出た。
 午前八時十分に、JR高月駅に着いた。何とか八時十八分発米原行の列車に間に合った。
 十分後、美雨が乗った列車はJR長浜駅に到着した。ホームには遊馬の姿があった。高校生らしく白いT シャツにジーンズといった爽やかな格好だ。
 ドアが開き遊馬が列車に乗り込んで来た。

「おはよう遊馬君」

「おはよう美雨」

 遊馬は窓際に座る美雨の隣に腰掛けた。彼の顔を見た途端、安心したのか油断してしまい、美雨は欠伸をした。

「眠そうだね」

「うん」

 頷いたあと、美雨は涙目を擦りながら続ける。

「昨夜、遅くまで起きていて……て言うか、なかなか寝付けなくて」

「実は俺も、なかなか寝付けなくて眠いんだ。祖父ちゃんに起こしてもらわなければ遅刻するところだった」

 遊馬の話を聞き、美雨は両頬を崩した。満面の笑みを浮かべる。

「何だ、遊馬君もわたしと一緒だったんだ」

 午前八時四十分、二人を乗せた列車がJR米原駅に着く。ここで午前八時四十八分発新快速姫路行に乗り換える。

 JR大阪駅に到着したのは、定刻通り午前十時十三分だった。
 大阪市北区中之島のフェスティバルホールで開催されるロシア人バイオリニスト、アリーナ・キンスキーの来日コンサートの開演時間は午後二時からだった。フェスティバルホールにはその一時間前の午後一時から入場出来る。
 地下街を通って高層ビル群が乱立する外へ出ると、大阪の中心地梅田界隈を行き交う人混みに美雨は圧倒された。

「大阪の人ってみんなどうしてあんな急ぎ足のかしら……」

「そんなん知りまへんはお嬢はん」

 と遊馬は態と大阪弁を使った。

「もう、遊馬君たら、わたしを揶揄って」

「ごめんごめん……、開演までまだ時間あるけど昼ご飯どうする」

 遊馬はくちゃくちゃに顔を崩しながら嬉しそうに謝罪すると、真顔になって尋ねた。
 満面の笑みを浮かべていた美雨も、彼に倣うように真顔になると、小首を傾げながら、

「お好み焼き食べたい。せっかく大阪に来たんだらさ」

「お好み焼きか、よしっそうしよう」

 言いながら遊馬はスマホを取り出し、食べ歩き情報サイトのアプリを開いた。

「あった」

 と言って遊馬は、スマホを覗き込む美雨に、

「ここなんかどう?」

「お好み焼き専門店『〇〇〇梅田店』か……うん、いいね。じゃあここにしよう」

 サイト上でお客さんの評判もいいその店に決めた。JR大阪駅のある梅田から南へ向かって百メートルほど歩いた雑居ビルの一階にテナントして入っているお好み焼き専門店だ。午前十一時開店だ。まだ時間があるので二人は梅田の街を散策することにした。
 お好み焼き専門店で豚玉と海鮮ミックスをそれぞれオーダーし、軽く昼食を済ませる。店を出たのが午後十二時十分過ぎだった。
 大阪市道南北線、通称四つ橋筋を中之島へ向かって歩いた。渡辺橋を通り、堂島川と土佐堀川の中州中之島に渡る。フェスティバルホールの外壁が見えた。

「こここだ」

 遊馬が指差した。

「うん」

 美雨は頷くと、彼の顔を見やった。そして左腕のBABY-Gで現在時刻を確かめる。
 12:28だ。入場出来る時間までまだ三十分近くある。ホールの正面玄関前には既に、このコンサートを楽しみにしてる人々が集まっていた。

「どうする」

 美雨が尋ねると遊馬は、少し躊躇うように、

「無理を聞いてもらったアリーナさんに挨拶しろって、うちの祖父ちゃんが五月蠅くて」

「そうなんだ、当然よね……ごめんね、私が無理なことお願いしたばかりに」

「そんな、美雨が気にすることないさ」

 そう言うと遊馬はスマホを取り出し、どこかに電話を掛けた。

「はい、今、正面玄関の前です。えっ、裏口に回れって……でも僕、その彼女が……えっ一緒に来ればいいって、はい分かりました。じゃあ今から裏口に回ります」

 電話を切ると、遊馬は美雨を見やった。

「美雨、裏口に行こう。アリーナさんのマネージャーが待ってるから、キミも一緒に行こう」

「えっ、わたしも行っていいの」

 美雨の顔が驚きのあまり強張った。
 遊馬は小さく頷いた。

「うん、事情を話したら連れて来なさいって」

「ホント、嬉しい……でも何だか緊張しちゃうな」

 美雨は遊馬に誘われ、関係者以外立ち入ることの出来ない裏口に回った。そこには、アリーナのマネージャーである日本人女性と数人のスタッフが待っていた。背の高い四十十代半ばの中年女性だ。スカートではなく黒を基調したシックな落ち着いたパンツスーツをきている。黒縁の眼鏡を掛ける彼女の全身からは知性が滲み出ていた。

「あら、また背が伸びたね遊馬君。だんだん亡くなったお母さまに似て来た。その憂いを秘めた黒い瞳なんて桜子にそっくり……、その子が、遊馬君の彼女さん? 初めまして、私は佐伯塔子と申します、アリーナ・キンスキーのマネージャーをやっております。遊馬君のお母さまとは音大時代に同級生だったもので」

「は、初めまして……、そ、そのこ、小室遊馬君の同級生の、あ、雨森美雨と申します。ほ、本日は、む、無理を言いまして本当に済みませんでした」

「まあ、緊張しちゃって可愛い……。いいカノジョさんが出来て良かったわね遊馬君」

 塔子に、カノジョと呼ばれ、美雨は少し照れ臭くなった。また遊馬がどんな反応を示すのか気になり、彼の横顔をチラリと見やった。

「ええ、まあその……」

 遊馬も照れ笑いを浮かべ、恥ずかしそうに頭を掻いていた。
 塔子に案内され、スタッフと一緒にアリーナが待つ楽屋に通された。
 実物のロシア人天才バイオリニスト、アリーナ・キンスキーは写真で見るよりもずっと綺麗だった。彼女は既にこの日のコンサートのために用意したステージ衣装の真っ赤なドレスに着替えていた。胸元が大きく開き、バストサイズ八十九Fカップの豊満な胸が強調され、遊馬は目のやり場に困っていた。同性である美雨さえ恥ずかしそうに視線を外すくらいだ。

「アリーナさん、本日は無理を言って済みませんでした」

 美雨は早速謝罪の言葉を述べた。
 それをマネージャーの塔子が英語で彼女に伝える。アリーナは母国語のロシア語の他、英語、フランス語、ドイツ語が堪能だった。しかし日本語は片言しか理解出来ないようだ。

「イイエ、コチラコソ……美雨。アナタノオ友達、早ク良クナッテ、来年ハ一緒ニ私ノコンサート来テ下サイ。三人ヲ招待シマス」

「……ありがとうございます、アリーナさん。その言葉を聞いたらきっと和葉も喜ぶと思います。必ず来年は三人一緒にコンサートに行きます。ねっ遊馬君」

 美雨は視線をロシア人女性から遊馬に移した。
 遊馬も頷いた。
 アリーナの楽屋を後にすると二人は、スタッフに案内されリサイタル会場へ向かった。
 この日の、曲目は、
 チャイコフスキー イタリア奇想曲op.45 
 チャイコフスキー 幻想序曲『ロメオとジュリエット』
 チャイコフスキー バイオリン協奏曲 ニ長調op.35
 の三曲だった。
 コンサートが終了し、もう一度アリーナの楽屋に顔を出した。そこで挨拶を済ませると、二人は帰路に就いた。
 長浜へ戻る列車の中で、美雨は改めて音大を受験する決意を固めた。

「私決めた。絶対音大を受けるって。今日帰ったら両親を説得してみる」

 夕闇に染まる湖国の風景を車窓から眺める遊馬に向かって、美雨は力強く言った。

「俺も祖父ちゃんを説得し、美大受験してみる」

「お互い悔いのないように頑張ろうねっ」

 訳もなく興奮し、美雨は両腕の拳を胸の前で握り締めた。
 流れる車窓の外は既に夏の終わりを告げていた。
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