維新の残響

植木田亜子

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四、

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 東の空がしらじらと明け染めていくのを横目に見ながら、栄一は寛永寺へとつづく広小路を歩いていた。
 黒門前に来い、と蔵之介はたしかにそう言った。
 昨夜からそのことばの意味を考え続けていたが、なんだか馬鹿らしくなって途中でやめた。あいつの考えていることがわからないのは、いまに始まったことではない。しかしそれでも、蔵之介は必ず来るという確信だけはあった。
 いったん三橋の前で足を止めると、刀の柄に手を伸ばした。目釘にもはばきにも緩みはなく、柄糸の巻き加減も手にしっくりとなじんでいる。
 刀を置いてから四年近くが経っていた。袴をつけたのも久しぶりだ。それでも刀の手入れを怠ったことだけはなかった。
 栄一は下げ緒をほどいて襷がけにした。そこまでしなくても、とは思わない。道場では自分が上だという自負がある。三年前よりも格段に腕を上げているという確信もあった。だが、蔵之介は実戦経験を積み、真剣の扱いに慣れているはずだ。その差はあまりにも大きい。
 とはいえ負けるとは思わない。栄一には策があった。
 三橋の上からぽつんとひとりで佇む蔵之介の姿が見えた。何をするふうでもなく、ぼんやりと黒門を眺めているようだ。
 黒門か……。
 蔵之介がこの場所を指定してきたのは、日光街道への入り口だからかと考えていたが、違うのかもしれない。
 近寄ると、蔵之介は無言で一瞥を寄越した。
 こうやって改めて見ると、醸し出す雰囲気はやはりむかしとは少し違っている。この三年、いったいどこで何をしていたのだろう。上野を落ちのびたということは、やはり東北を転戦したということだろうか。短くない年月を思い、胸が苦しくなった。
 そんな栄一の思いをよそに、蔵之介は唐突にこんなことを話し始めた。
「この黒門だが、やけにきれいに残っている。おかしいと思わないか?」 
 いったい何のはなしだというのか。
 ここは上野戦争のとき、討伐軍最強の薩摩隊の猛攻を受けた場所だ。むろん、最大の激戦地になった。
 墨黒の立派な木造りの門は、たしかに蔵之介の言うとおり、一見昔と変わらない姿をとどめている。だが近くで見ると、無数の弾痕があることを栄一は知っていた。
 蔵之介はつづけた。
「不忍池の向こうから撃ち込まれたアームストロング砲が、吉祥閣を炎上させて彰義隊は敗走した。そんな話を聞いた」
「それがどうしたと言うんだ」 
 まったく話が読めない。栄一は仕方なくつづきを促した。
「敗戦が確実になったとき、俺は馬上から退却を叫んで山内を駆けまわった。寄せ手のない北側、根岸のほうへ逃げろとな。おそらく上野を出たのは俺たちが最後だったのではないかと思う。だが、俺は吉祥閣が燃えているのを見ていない。たとえそれが俺の記憶違いだったとしても、吉祥閣などただの山門に過ぎない。それを燃やされたぐらいで敗走するものか」
 たしかに一理ある話だった。寛永寺は三十万五千坪の境内に三十六の子院を持つ大寺院である。そのうちひとつの山門を落とされたくらいで敗走とは、たしかに解せない。言われてみれば、砲弾は不忍池に落ちるばかりで、まったく山に届いていなかったなどという噂話を耳にしたこともある。そのときは旧幕臣のたわごとと深く考えなかったが、もしそれが本当だとすれば、それはアームストロング砲の性能ではなく、それを扱う兵の技量の問題だろう。
 栄一があの日、山から上がる煙を見たのは確かだ。だが、それがなにによってもたらされた火であるのかは、いまさら確かめようがない。
 蔵之介はさらにつづける。
「アームストロング砲が勝敗を決したというのは、薩長のやつらのでまかせではないかと、ふとそんなことを思ったのだ。それで一度ここを見ておきたくなった」
 それがこの場所を指定してきた理由か。栄一は呆れた。
「たとえお前の言う通りだったとして、今さらそれが何だというんだ」
「あれは礼砲だったのかもしれない……」
 栄一は一瞬耳を疑ったが、聞き違いではないようだ。
 礼砲とは軍隊が大砲で空砲を撃つことにより、相手に敬意を表すという礼式である。
「いったい何に対しての礼砲だと言うんだ」
「さあ、それはわからないが……」
 栄一はため息を漏らした。
「蔵之介、俺にはお前が何を言っているのかさっぱり理解できぬ。だがもうどうでもいい。はっきりしているのは、立場上俺は引けないということだ。お前と同じようにな」 
 蔵之介は、このときはじめて栄一を正面から見据えた。そしてふっ、と笑うとこう言った。
「確かにその通りだ」
 これが合図となった。
 視線が交差し、同時に右手が柄へ伸びる。
 刹那、蔵之介の抜き打ちの一閃が、逆袈裟に切り上げられた。
 栄一は刀を胸元に引き寄せ、かろうじてそれを受け流したが、このとき刀はまだ半分鞘の中だった。恐るべき抜き打ちの速さである。
 だがその瞬間、
 ―――かかった。
 と、栄一は思った。
 初太刀を躱せれば勝てる。それは昨夜、長屋木戸の前で、その姿を見たときから思っていたことであった。
 蔵之介は刀の鯉口を切ったまま落とし差しにしていた。これはよほど抜き打ちのはやさ、つまり居合に自信があるということにほかならない。
 常に鯉口を切ったままにしていれば、とっさのときに、「鯉口を切る」という動作分だけ刀をすばやく抜き放つことができる。だがそれは同時に、刀が鞘に固定されていないということでもあった。
 つまり蔵之介は、しゃがんだりしたときに刀が落ちてしまわないよう鞘を通常よりも立てて、つまり落とし差しにしているのだ。
 こういう剣客を相手にする場合の対策はひとつ。できるだけ早く尋常の立合に持ち込むことだ。だからこそ栄一は敢えてその間合いに入ったのだ。先に抜かせるために―――
 が、次の瞬間、渾身の返す刀が逆胴を狙って襲いかかってきた。
 栄一はハッとした。
 ぎりぎりのところではじき返しはしたが、まるで狙い定めたかのような太刀筋である。
 ―――まさかこれを狙っていたのか。
 もしかしたら罠にはまったのは自分の方なのかもしれない。
 気づいたときには遅かった。蔵之介の息をもつかせぬ連続攻撃が始まっていた。
 初太刀を躱せば多少なりとも焦りを誘えると思ったが、甘かった。むしろ追い詰められたのは自分のほうだ。できれば無傷で捕えたいなどと考えていたのは、はなはだしい思い上がりだった。
 体勢を立て直すことさえままならない猛攻が続いた。しかもそのひと太刀ひと太刀が鋭く、重い。それでもかろうじて耐え続けられていたのは、蔵之介の太刀筋を覚えていたからか。
 束の間、互いの刀がぶつかり合う鋭い金属音だけが響いていたが、ふと蔵之介の肩越しに門前町の風景が見えていることに気がついた。いつの間にか自分は黒門を背にしていたらしい。
 このまま押され続けるのはまずい。懸命につけ入る隙をさぐるが、思うように反撃のきっかけをつかめないまま、ついに栄一の背中が黒門に当たった。
 と、同時に蔵之介の太刀が上段から袈裟掛けに振り下ろされた。
 ―――まずい。
 この状況で鍔迫り合いに持ち込んでも押し負けるのは確実だ。栄一は、受け止めようとして上げかけた刀をとっさに下ろして体を傾けると、さらに、渾身の蹴りを蔵之介の丹田に食らわせた。
 振り下ろされた蔵之介の刀は、左肩の上三寸のところで木造りの黒門に当って止まった。食い込んだ刃が蔵之介の動きを一瞬止め、栄一に逃れる隙を与えた。
 苦肉の、そして一か八かの作戦は、しかし見事にはまった。
 腹を押さえつつ、苦悶の表情を浮かべながら蔵之介はつぶやいた。
「道場剣術のくせに足癖が悪いな……」
 栄一は、ほっと息をついた。
 命の危険を脱した直後だというのに、ふしぎと清々しい気分だった。恐怖も力みもなく、あるのはただ心地のよい緊張感だ。
 正眼に構えてふたりは対峙した。
 その間を風が吹き抜け、松籟が辺りにそそぐ。
 あなどりも驕りも、かけ引きも打算もない。それどころか刀を交える理由すら、すでになかった。
 来い―――。
 と、栄一がつぶやいたそのときだった。
 洋装に身を包んだ無粋な黒い集団が、蔵之介の背後にあらわれた。真ん中には中森逮部長のすがたもある。どうやら尾行されていたらしい。
 栄一は自分のうかつさを恨んだ。通常なら考えられない失態である。
「倉持。今おめの背中にピストルを向けちょう。まず刀を捨ててから、ゆっくりとこっちを向け」
 なまりの強いひとりの邏卒がそう言いながら、蔵之介の背後に近づいてきた。その様子を見て、栄一は舌打ちした。
 ―――馬鹿が、近づきすぎだ。
 ピストルの腕に自信がないのはわかるが、そんなに寄ってしまってはピストルを持っている意味がない。そして、そんな隙をこの男が見逃すはずはない。
 蔵之介、待て―――。
 と、諫めるいとまもなかった。 
「まったく、これだから田舎者は困る」
 言うなり、蔵之介は振り向きざまに太刀を投げつけた。同時に脇差が閃く。その抜き打ちの早さに栄一は目を見張った。脇差は短い分、さらに速さを増したようだった。
 邏卒たちが、「あッ」と思ったときには、指が絡みついたままのピストルが地面に転がっていた。時がとまったように、邏卒たちは呆然とその物体を見つめていた。
 しかし中森は違った。
「撃てッ」
 怒号が響き、次なる撃ち手が蔵之介に狙いを定める。
 パンッ―――。
 乾いた銃声。
 が、次の瞬間、そこに倒れこんだのはピストルを構えた、その邏卒自身だった。
 数瞬後、皆のあっけにとられた表情は、そのまま栄一に向けられていた。その左手に握られたピストルから硝煙が上がっている。発砲したのは栄一だった。
 二度もやつらに蔵之介を殺されてたまるか。ただそう思った。それ以外に理由はないし、栄一にはそれで十分だった。
 こめかみに青筋を立てた中森が、こちらを睨みつけているのが視界の端に見えていた。もう後戻りはできない。そのつもりもない。すでに覚悟は決まっていた。
「蔵之介ッ―――」
 そう叫んだ瞬間、ふたりの太刀が旋風となって邏卒たちを襲った。
 こうなったらピストルよりも刀が強かった。至近距離で動き回る敵にそう狙いを定められるものではない。そのうえ、彼らはふたりを囲んでしまっている。刀を握っているときと同じ感覚だったのだろうが、いざ発砲しようとして同士討ちの危険に気がついたのだ。
 あたふたと三尺棒を抜くがもう遅い。すでにふたりは黒門脇に広がる松の植え込みへと飛び込んでいた。背後で銃声が聞こえているが、おそれるほどのものではない。ふたりは木々の間を縫うように走った。
 栄一は一度、木の陰から振り返ってみたが、三尺棒を振りかざして本気で追ってくる者はいないようだった。まあそれも当然だろう。腕そのものが違いすぎるし、そのことに気がつかないほど馬鹿でもないらしい。手負いを抱えているということもある。本腰で追ってくるのは体勢を立て直してからだ。
 植え込みを抜け、武家屋敷が立ち並ぶ界隈に出た。こんな人気のない場所でぐずぐずしてはいられない。街道をふさがれれば東京から逃げ出すのはまず不可能だ。
 北へ向かい日光街道から町を出るか。ただ逃げるだけならそれが一番無難だろう。だがそのあとはどうする。こうなった以上、栄一が頼れる場所はもう家族のいる静岡しかなかった。しかしそのためには町の反対側から東海道へ出るしかない。
 柳川藩邸の長い塀に手をついて栄一は立ち止まった。
「いったん寺の境内にでも身をひそめるか」
 この先を左に曲がれば、小さな寺院が密集する地域である。こんなところに突っ立ているよりはましだろうとおもったのだが、そのとき蔵之介の目配せに気がつき、辻の方へと目をやった。角を曲がった右手に誰かがいるようだ。
 蔵之介は塀を背にして柄に手を掛け、栄一は一歩下がって大上段に刀を構えた。呼吸を整え、気配を探る。だが次の瞬間、塀の陰から聞こえてきたのは意外な言葉だった。
「斬らねえでくだせえ 、旦那。あっしです」
 ふたりはとっさに顔を見合わせた。それは間違いなく寛八の声だった。
「なんでお前がここに……」
 驚くふたりに寛八はこう言って笑った。
「言ったでしょう、旦那。二本差しのお侍には逆らえねえんですよ」
 つまり寛八にまで尾行されていたということだ。いくら動揺していたとはいえ、栄一は自分自信に呆れるしかなかった。
 しかしこうなってはこの男に期待するしかない。「こっちへ」と促され、ふたりは素直に従った。
 いくらも歩かぬうちに立ち止ると、寛八は振り返って自信ありげな笑みを浮かべた。
「隅田川をくだって濱御殿まで行きましょう」
 そこは三味線堀だった。この堀には船着き場があり、野菜や材木を積んだ船が隅田川方面から往来しいる。そして隅田川は江戸湾へと流れ込む。
 それなら市中を行かなくとも町の西側まで行ける。そこまで行けば、品川宿まで一里の距離であり、そのまま東海道を行けば静岡まで四日だ。
「寛八、お前というやつは……」
 言葉につまる栄一に寛八は、
「感激するのはまだ早い。急いでくだせえ」
 ふたりを小舟に乗せると、その体の上にむしろをかぶせた。が、すぐにその端をちょこっとめくり、満面の笑みをのぞかせてこう言った。
「内藤の旦那ァ、よくぞ御無事で」
 
 ゆらゆらと揺れながら舟はゆっくり隅田川を下った。
 櫂のきしむ規則正しい音と舟の揺れが心地いい。ふと気づくと、となりから蔵之介の寝息が聞こえてる。栄一は呆れた。同時に緊張している自分が馬鹿らしくなった。
 しばらくして寛八がむしろをめくった。どうやら江戸湾に出たらしい。
 秋晴れの東京の空を見上げながら、栄一は開放感に包まれていた。こんな清々しい気持ちはいつぶりだろう。
 ここに未練はない。
 刀を存分に振り回して、ピストルを構える薩摩の者どもを蹴散らしてやった。これほど愉快なことがほかにあるものか。
 静岡に行って家族とともに畑を耕せばいい。必死で働けばきっと何とかなる。妹のよい嫁ぎ先も探してやらねばならない。忙しくなるだろう。
 ひと段落つけば自分も嫁をもらって子供を育てる。いつか撃剣の道場を開くことができれば、息子を一流の剣客に育て上げるのだ。娘だったとしても構うものか。それもきっといい人生にちがいない。
 栄一はやけに落ち着いていた。そしてそんな自分が不思議だった。あるいはいっときの興奮がそう思わせているだけなのかもしれない。
 だが、それでいい。いまだけはすべてを忘れよう。
 言い聞かせながら目を閉じると、栄一はすぐに寝息をたて始めた。

 日が西に傾きかかったころ、三人は濱御殿を少し過ぎた辺りの砂浜におり立った。
 寛八とはここで別れる。もう二度と会うことはないかもしれない。
「お前のように優秀な男がいてくれたこと、本当によかったと思っている。感謝するぞ、寛八」
 簡潔に礼を述べ、あとは、「達者で暮らせ」とだけ言い残し、栄一は踵を返した。顔もろくに見ず、返事も聞かなかった。
 砂浜が途切れた松林のあたりで振り返ってみると、予想した通り、寛八はまだ見送っていた。頭の上で大きく手を振りながら何かを叫んでいるようだ。
 海風にかき消され、途切れ途切れになった言葉をつなぎ合わせてみて、おもわず胸がつまった。
 吉村家に受けた多大なご恩、この寛八一生忘れやせん―――。
 顔もろくに見ず、返事も聞かなかったのは、感傷的になることを恐れたためだ。だが結局は同じだった。こみ上げる感情が涙となって頬をつたった。
 松の木に額をこすりつけて泣く栄一に、江戸湾の風は優しかった。
 ここにはもう二度と来ることはないだろう。そう思うと、舟の上でした決意が早くも鈍りそうになる―――だが、もう行かなくては。気をつかって先に行った蔵之介を追わなければならない。
 栄一は涙を拭うと、かつての江戸を一度だけふり返ったが、そのあとは前だけを見て一心に歩きつづけた。
 品川宿の手前で、ぶらぶらと先を行く蔵之介に追いついた。急にふたりきりになると、なんだか気恥ずかしい。栄一は、街道沿いに咲く秋の七草を数えながら黙々と歩きつづけた。
 しかし気まずい雰囲気は宿場に入るまでだった。そこでは一転して騒がしい客引き合戦が繰り広げられており、そのときになって、ふたりはひとつの問題に直面したのだった。路銀のことである。
 栄一は仕方がないにしても、なぜ蔵之介にさえ先立つものがないのか。呆れる栄一にたいして、その言い訳は、「仲間が持っている」というものだった。何が起こるかわからないからと、安全のために仲間に預けたらい。
「仕方ない」
 こいつをあてにした自分が馬鹿だったと諦め、栄一は質屋の前で足をとめた。
 驚く蔵之介に、 
「売れるものはこれしかないだろう」
 そう言って脇差を抜いた。それを質に入れて路銀にする。むろん、たいした刀ではないのでたいした金にはならなかったが、蔵之介は済まなそうに終始うつむいていた。
 変なところで気を遣うやつだ。ついさっき本気で斬りかかってきたくせにと、栄一は可笑しくなった。
 すでにいい時間だったが、できるだけ早く東京から離れたいという思いから、ふたりは次の川崎で宿をとることにした。
 宿に入ったときにはすでにとっぷりと日が暮れており、とりあえず腹だけを満たすと、ふたりはすぐに布団に入った。
 行燈の火を吹き消そうとしたとき、その灯りに照らし出された蔵之介の横顔にふと目を奪われ、栄一はこんなことを言った。
「本当に亡霊ではないのだな。いまだに信じられん。お前はまっ先に死に急ぐ奴だとおもっていたが……」
「それは誉め言葉か」
「そんなはずないだろう」
 ため息まじりに応じる。
「これのおかげかもしれん」
 そう言って蔵之介が荷物の中から取り出したのは肌守りだった。泥と汗と、もしかしたら血が入り混じった汚れでわかりにくいが、もとは藤色のようだ。
 栄一は嫌な顔をした。そんなものを渡してくる女がいたのかと呆れ、義兄になるはずだった自分に見せびらかしてくるかと、もう一度呆れた。とはいえ、いまさらとやかく言うことでもない。栄一はあいまいに頷きながら応えた。
「裁縫の腕はたいした女じゃないな」
 ちくりと嫌みを込めたつもりだったが失敗したようだ。蔵之介は目を見開いて栄一の顔をまじまじと見つめた後、突然吹き出した。
「なにがおかしい」
 少々的外れなことを言ったという自覚はあったが、それにしてもそこまで笑うことはないのではないか。となりの部屋にまで響くほどの笑い声をあげる蔵之介に、栄一は顔を顰めた。
「いい加減にしろ、迷惑だ」
 やっとのことで笑いを収めると、蔵之介はこう言った。
「裁縫の腕はよくない、か。それを聞けば、おかよは怒るだろうな」 
 そうか。淡い藤色。その生地の色にどこか見覚えがあると思ったのは、妹のかよが好きな色だったためか……。
 じんわりとあたたかなものが胸にこみ上げ、栄一は幸せな気持ちで火を吹き消した。
 翌日から始まった東海道の旅は思いがけず快適なものになった。追手に気を張っていたのはその午前中くらいで、次の宿場に着くころには、なるようになれと開き直っていた。
 戸塚宿では役人とすれ違った。そのとき蔵之介はおもむろに、「宮さん宮さん~」とトンヤレ節を唄い出し、栄一を驚かせた。
 トンヤレ節とは、東征軍が江戸へ向かって行軍しているときに、戦意高揚と街道の村々に対して新政府の正当性を喧伝するために歌われた行進曲のようなものである。
 詰襟の役人は怪訝な顔をふたりに向けたが、結局何も言わずに通り過ぎた。その姿が見えなくなったところでふたりして大笑いした。まさか政府への謀反人が、「宮さん宮さん」と鼻歌まじりに往来を歩いているとは思うまい。
 このころには、栄一はほとんど初めてといえる旅をただ楽しみはじめていた。
 箱根の峠では富士を眺めた。そのすがたは噂にたがわぬ美しさであったが、そんな美しい景色をよそに、「やはり富士を描かせたら北斎が一番だ」とか、「いや、広重にはかなわない」とか、不毛な争いを繰り広げたりもした。
 その争いは原宿まで続き、そのころには史上最強の剣客はだれだとか、戦国最高の参謀はだれだとかいうところまで話が及んでいた。
 静岡に入ったときには旅の終わりをさみしいとさえ感じていたが、夕刻には府中宿に着いた。旅の終わりである。宿に泊まる必要も、もうない。
 宿場の手前で立ち止まると栄一は言った。
「俺はこのまま家族のもとに向かう」
 お前は―――、と言いかけたその言葉を遮るように、蔵之介は応えた。
「仲間が待っている」
 何かあったときのことを考慮して、落ち合う場所をあらかじめ決めてあるのだろう。
 わかっていたことだった。引き留めはしない。少し寄っていけと言いかけたが、それもやめた。蔵之介が首を縦に振ることはないだろう。
「じゃあな」
 と言ってから栄一は考えた。蔵之介にももう二度と会うことはないかもしれない。言っておくべきことが何かあるはずだ。そう思ってしばらく考えたが何も思いつかなかった。
 結局栄一は腰の太刀を抜くと、黙ってそれを蔵之介に差し出した。本人の太刀は邏卒に投げつけたまま拾う暇はなく、ずっと脇差だけで旅を続けていたのだ。
「……本当にいいのか」
 思いつめたような声で、蔵之介は言った。
「俺にはもう必要ない」
 そう言うと、強引に蔵之介の手に太刀を握らせた。受け取った太刀を大事そうに腰に差す様子を見届けてから、栄一は明るく言った。
「追手に気をつけろ」
「お前もな」
 そう答えると、蔵之介は踵を返して歩き出した。同じように、栄一が歩き出そうとしたとき、「広沢真臣のことだが」と、背後で声がした。
 ふり返ると、こちらを見つめる蔵之介と目が合った。
「もしも本当のことを知りたければ―――」
 言いかけるのを遮るように、栄一は首を横に振った。
「どうでもいい」
 そう言って笑うと、蔵之介もつられて笑った。
 ふたりしてひとしきり笑いあったあと、蔵之介は、「じゃあな」と言った。そしてふたたび背を向けると、もう振り返ることはなかった。
 やがて雑踏に紛れて見えなくなるまでその背中を見送ると、栄一もまた歩きだした。
 ひとりになってからは、休むことなく歩きつづけた。
 日が山の端に沈みかかったころ、栄一は城下から少し離れた農村にいた。記憶のなかの手紙の住所をたどってやって来たのだ。
 何度もひとに道を尋ねたりしたせいでずいぶんかかってしまったが、やっと家族が住むと思われる家を視線の先に確認していた。山を背にして立つ、藁葺屋根の小さな農家だ。
 美しい田園に囲まれたあぜ道を、栄一はことさらゆっくりと歩いている。
 ―――家族はどう思うだろう。
 この三年の家族の苦労を思うと、いまさら自分に居場所があるとは思えなかった。家が近づくにつれて、そんな不安がもたげ始めたのだ。
 三年前、わがままを言ってひとり東京に残った。そしていまになって、職を失ったからと連絡もせずにやって来た。しかも自分はいまや立派な謀反人だ。
 あきれ果てるか。怒り狂うか。それとも失望するだろうか。
 あれこれと思い悩むうち、いつの間にか足は止まり、根を生やしたように動かなくなっていた。
 ますます気が重くなる。
 いっそ蔵之介を追うか……。どうせ自分は政府に追われる身だ。彼らと行動を共にすることに何の不都合もない。むしろそのほうがすべて丸く収まるのではないか。いまから府中宿に戻って、安宿を片っ端から当たれば見つけられる可能性は高い。
 と、そんなことまで考え始めたときだった。
 視線の先にふっと明かりがともった。家の窓からこぼれ出た光だ。
 気づくと辺りは真っ暗だった。
 その闇の中に、やわらかくてあたたかい家々の光が、点々と浮かび上がっていく。夕餉の匂いがいまにもただよってきそうだ。そう言えば、今朝から何も食べずに歩き続けていた。
 空腹も疲労も限界だったのだろう。気がつけばふたたび歩き出していた。光と匂いに誘われるようにふらふらと動き出した足は、空腹に後押しされてどんどん速くなっていった。
 そのときになってふと気がついた。体がやけに軽い。なぜだろうと考え、すぐに合点する。
 そうか。
 刀も棒も腰になければ、自分はこんなにも早く、軽やかに走れるのだ―――。
 それだけのことに思わず笑みがこぼれた。なぜだかこころまで軽くなってくる。
 いつの間にか栄一は、田畑に囲まれた一本道を思いっきり走っていた。
 ―――きっと大丈夫だ。
 そう自分に言い聞かせる。失望されてたって構わない。いずれお前がいてくれてよかったと思われるほど懸命に働き、孝行すればいい。
 ここから、この場所からまた人生を始められるはずだ。
 栄一は数十間を夢中で駆け抜け、わが家の前に立った。懐かしい匂いがする。この家にちがいない。
 はやる気持ちを抑え、深呼吸をしてから、栄一は声をあげた。
「父上母上、私です。開けてください。栄一が帰りました―――」
 奥から息を呑む気配が伝わってきた。慌ただしい物音が聞こえたあと、すぐに戸が開かれた。
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