維新の残響

植木田亜子

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三、

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 天保十五年生まれの栄一が物心ついたころには、二歳下の蔵之介は弟のような存在であった。ともに父が南町奉行所の同心だったため、親同士の交流が深かったというのがその理由である。
 幼いころから桃井春蔵のもとで鏡新明智流を学び、撃剣の腕を競いあった仲でもあった。三歳年下の妹や七歳年下の弟以上の時間を一緒に過ごしたのは間違いない。
 ともに嫡男だったということも大きい。道場や昌平黌からの帰りには、将来家職を継いで同心になったあかつきには、その役目をまっとうし、将軍の御膝元であるこの江戸を守ろうと誓い合ったりした。
 しかし、性格はまるで違った。栄一が白だと言えば蔵之介は黒だと言い、栄一が右に行こうとすれば蔵之介は左に行こうとした。
 栄一が十三、蔵之介が十一のときのことだ。
 一本をとるまで立合をやめないと豪語する蔵之介に辟易した栄一が、わざと一本を譲ったことがあった。子供のころの二歳ちがいは大きく、それまで栄一は蔵之介に立合で負けたことは一度もなかったのだ。
 栄一がわざと負けようとしたことを見抜いた蔵之介は、竹刀を放り出して栄一に突進し、馬乗りになって殴りかかったのだった。防具を付けているため痛くはなかったし、まわりの兄弟子たちがすぐにふたりを引きはがして事なきを得た。だがこのとき、蔵之介のうちに獣のような激しい血が流れているのだということを栄一は知った。自分とは違うということをはっきりと思い知ったのだ。
 歳を重ねるごとに性格の差はより顕著になり、栄一はいつからか蔵之介の性質を危ぶむようになった。
 栄一が同心見習いを始めたのは十四のときだった。見習いを始めるには遅いくらいだが、蔵之介はさらに遅く、元服を過ぎてさらに一年がたった十六のころだった。
蔵之介の父上も蔵之介の性格を心配していたのだろう。その後折に触れ、「倅のことを気にかけてやってくれ」と、栄一に頼んできたことからもそれはわかる。
 体調の悪かった父が早くに隠居したこともあって、栄一は十九歳で家督を継ぎ、正式に同心となったが、蔵之介はその後もずっと見習いのままだった。
 子どものころはいく度となく喧嘩もしたし、大人になってからも口論は日常茶飯だったが、それで関係が壊れることはなかった。その先も立場や性格の違いがふたりの関係を変えることはないと信じていた。
 だが、決裂は突然訪れた。
 そもそもの始まりは大政奉還だった。その後徳川家の後退は、王政復古の大号令、鳥羽伏見での敗戦を経て、江戸無血開城という一応の決着を迎えたかに見えた。が、新支配者としてなんの権威も実績も持たないまま江戸城に入った新政府の東征軍を、旧幕臣や江戸市民が諾々と受け入れるはずはなく、江戸の治安は悪化の一途をたどるに至った。
 それに対応しようと、東征軍参謀西郷吉之助(隆盛)は、松平慶頼や勝義邦(海舟)らに江戸の取締りを委任したのだった。
 その配下となった栄一が市中見廻りに出ていたときのことだ。
 慶応四年閏四月の半ば。その日、雨のせいもあってか町はめずらしく穏やかで、何事もなく見廻りを終えて帰路へとついた。道中、蔵之介と出会い、連れだって屯所へと向かった。
 同心見習いという身分のまま幕府の崩壊を迎えた蔵之介だったが、父親の説得もあって栄一と共に新政府の配下に入っていたのだ。
 筋違御門の桝形を抜け、大番所の前まできたとき栄一はふと足をとめた。何げなく江戸城を見上げ、こうつぶやいた。
「まさに四面楚歌だな」
 それが東征軍の状況を指しているのだということを、蔵之介は瞬時に察した。つまりこうだ。
 北関東では、恭順に反対して江戸を脱出した旧幕府の西洋式陸軍が転戦し、同じく抗戦派であり、アジア最強を誇る旧幕府艦隊が品川沖に停泊している。そして、上野寛永寺に籠るのは、旧幕臣を中心とした彰義隊、約三千である。
 三千といっても、寛永寺は江戸城の枝城としての役割を担った大寺院である。その攻めるに難く守るに易い地形を利用しての籠城戦ともなれば、東征軍の被害は甚大なものになるだろう。
 それらの存在が、江戸城に入った東征軍にとって脅威となり、孤立させる結果となっているのだ。
 一つを攻めれば、ほかが連携して一気に囲まれる。敵中深くに入り込んでしまっている東征軍にしてみれば、連携して攻めこまれることだけは絶対に避けねばならない。かといって、連携する間を与えることなく殲滅するだけの戦力はない。そう考えれば、これまでの東征軍の弱腰な態度が説明できる。
 いまがその東征軍を、事実上全権を握る西郷吉之助もろとも叩き潰す絶好の機会である。それは、大政奉還から後の幕府の後退を全て無に帰すほどの打撃を新政府に与えることになるだろう。
 とはいえいまさらどうすることもできない。すでに大概の抗戦派は江戸を脱出し終えているか殺されている。これほどの謀を実行に移せるだけの智謀と権力をもった人物など、もう江戸には残っていない。それが栄一の見解だった。
 だが、思いもよらぬ名が蔵之介の口をついて出た。
「勝安房守―――」
 栄一は驚愕した。正気の沙汰とは思えない。
 勝といえば江戸無血開城の立役者で、恭順派の筆頭格である。その勝にこんなことを進言すれば、牢獄行きの可能性すら否定できない。
 現にほんのひと月ほど前にも、江戸城奪還を模索した海軍奉行並榎本武揚などが、慶喜の意向によって捕えられている。すぐに釈放されたものの、旧幕臣同士だからといって気を許すことはできないという好例である。だれが敵でだれが味方か、その目算を見誤ればそういうことも起こりうるのがいまの情勢だった。
 しかし、蔵之介は不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「あの方は単純な恭順派ではあるまい」
 結局その後、ふたりは赤坂の勝の自邸にいた。蔵之介は放っておけば何をしでかすかわからない。栄一は諦めて付き添ったかたちだ。門前払いを食うならそれでもよかったが、勝は意外にもあっさりふたりを招き入れた。形式上、ふたりはいま勝の配下ということになっているのだから、さほど驚くことではないのかもしれない。むろん、言葉を交わしたことはないが。
「徳川家再興の儀について―――」
 いきなり蔵之介は言った。
 ひやりとした。いくら何でもそんな言い方はない。栄一はだんだん敵の本丸に正面突破を仕掛けている気分になってきた。背中はすでに嫌な汗でぐっしょりだ。
「なんでそれをオイラに直訴するんだい」
 と、勝は尋ねた。栄一は緊張したが、その口調に怒りや非難はなかった。
「まず申し上げたいのは、敵軍を江戸城に招き入れた手腕、見事というほかございません」
「オイラは戦なんてやる気はねえよ」
 蔵之介は敢えて東征軍や新政府軍ではなく、「敵軍」と言った。その真意に気づいた勝が、先回りしてこんなことを言ったのだ。さすがに頭の回転は速い。
「はッ―――。しかし、それはわれわれとて考えておりません」
「ほう、じゃあ目的は一体なんだい」
「いまのこの状況、安房守様の手腕をもってすれば、水戸の上様を呼び戻すことができるのではないかと……」
 蔵之介の狙いは、「悪化の一途をたどる江戸の治安は、もはや徳川家の威光をもって治めるよりほかはない」ということを新政府に認めさせ、慶喜を江戸に呼び戻すというところにあった。
 栄一の言った、「四面楚歌」の、この状況を利用して圧力をかければ、新政府はいずれ策謀と知りながらもその要求を呑まざるをえなくなる。
 つまり、負ける危険をおかして戦をするか、慶喜を新政府に加えるか。という二択を、圧倒的に優位な立場から新政府に迫ろうというのである。
 徳川家の求心力と慶喜の政治力をもってすれば、そこから巻き返しを図ることなど造作もないだろう。
 ふたたび徳川幕府主導の国を目指すというわけではない。新政府に慶喜を参加させ、あわよくばその中心を担わせる。それが蔵之介の狙いである。
 だが新政府の中心である薩長の連中は、長年慶喜のその政治手腕に辛酸をなめさせられてきた。慶喜に対する忌避感は想像に難くない。可能性は五分五分といったところだろう。
 蔵之介の話をひと通り聞き終わっても、勝の飄々とした態度は変わらなかった。
 栄一はほっとした。元同心がふたりして伝馬町の牢にぶち込まれるという最悪の事態は、とりあえず避けられたようだ。
 しかし胸をなでおろしたのも束の間、話は思いもよらぬ展開を見せはじめた。
「ならお前ェ、ちょいと彰義隊に入ってくれ」
 小僧に使いを頼む手代のような気軽さで勝が切り出し、
「御意」 
 と、ふたつ返事で蔵之介が答えたとき、栄一は、
「あッ……」
 と、声を上げそうになるのを、かろうじてこらえたのだった。
 できることなら今すぐ蔵之介を表へ引っ張り出し、説教のひとつでもぶってやりたいくらいだ。
 ふたりが言うほど、ことは単純な話ではない。
 彰義隊は、もともと慶喜の実家である一橋家の家臣らが、朝敵となった主君の冤罪を雪ぐために渋沢誠一郎などの呼びかけにより結成されたのが始まりだった。だが、その門戸を、「一橋家臣に限らず」としたのをきっかけに、当初の性格とはまったくかけ離れた精神を持つ集団へと変化を遂げていった。
 穏健派と袂を分かち、いま上野に屯集するのは、大半が東征軍に一矢報いるためには死をもいとわないという血気盛んな若者たちである。
 そんなところに潜入するということは、それだけで大変な危険をともなうものだ。
 隊士は旧幕臣の息子たちが多くを占めるが、嫡男ではなくほとんどがその二男三男だということもそれを物語っている。
 十七歳になる栄一の弟は、水戸にたつ上様をお見送りした直後、「あとのことは兄上にお任せします」と、頭を下げて家を出て行ったきり戻ってこない。蔵之介に男兄弟はいない。それはつまり自分たちの生死が、そのまま家の存亡にかかわるということである。
 頭が痛くなってきた。もしこのことが原因で蔵之介に何かあれば、蔵之介の父上に申し訳が立たない。
 悔やむ栄一をよそに、ふたりの話はどんどん進んだ。
「お前ェには、暴発を防ぐための抑え役として彰義隊に入ってもらいたい」
「お任せください。すべて承知しております」
 それは、こうなることを予想していた口ぶりだった。言われてみればたしかにそのとおりである。
 勝が周旋をおこなっている間、彰義隊の暴発を防げるかどうかがこの計画の成否を握っている。しかし、あのような若者たちにとって何もせずにただそこに居るだけ、ということがどれほど難しいことであるか。彼らの日ごろの様子を見ていれば容易に想像できる。
 それを抑えるための誰かを彰義隊に潜り込ませるという発想は至極もっともであり、この状況でその下知を自分たちが受けるのは、まったくの道理であった。
 栄一はもう覚悟を決めるしかった。
 そのあとは連絡方法などのこまごまとした話になったが、勝の頭のなかにはすでにこれに類似する計画があったとしか思えぬほど、話はすんなりまとまった。「ただの恭順派ではない」、そう言った蔵之介の読みは、どうやら当ったらしい。
 勝は蔵之介を彰義隊に入隊させ、栄一を連絡係とした。
 その帰り道、栄一は蔵之介に、
「危険だぞ」
 と、くり返し言った。
 戦をしたがっている連中のなかで、「戦をするな」と説くことの危険さがわからない蔵之介ではない。だが、このとき蔵之介は、「お前は昔から心配性だ」と笑いとばし、そのあとは何を言っても、「大丈夫だ」とくり返すだけだった。
 栄一の不安が消えることはなかったが、どのみち引き返すことはできないのだ。無理矢理にでも自分を納得させ、任務をこなすしかなかった。
 ほころびがあらわれたのはそれから約ひと月後、五月十四日だった。
 その日栄一は上野に向かうため、八丁堀の自邸を出た。絹糸のような雨が延々と降りつづく、いかにも梅雨らしい日であったと思う。
 門前町の辻にさしかかったとき、人だかりが行く手をふさいでいることに気がつき、「またか」と、ため息まじりに栄一はつぶやいた。
 このひと月ほど、彰義隊士の間で、「錦切れ狩り」なる行為が流行している。
 東征軍が身につけている黒の筒袖の腕には、「錦切れ」と呼ばれる布が縫いつけられている。彼らは、行き違う東征軍に絡んでは、その官軍を証明する印である「錦切れ」を奪い取っていくのだという。
 人だかりの中心ではそんなやり取りが繰り広げられ、さらにそれをとりまく人垣からは、彰義隊士への声援があがっているのだ。
 徳川家が去り、こころの拠り所を失った江戸市民が、突然入り込んできた言葉も通じないような西国の侍たちを歓迎するはずはない。そのうえ資金不足の東征軍の兵は無銭飲食をくり返すというから、金離れのいい彰義隊の人気が上がるのも無理はなかった。
 栄一は微妙な立場に立たされていた。元幕臣としては彰義隊に与したいが、東征軍の配下という立場上それはできない。ここは避けて通るしかなかった。
 そう思って立ち去ろうとしたとき、数人の若い侍たちが人垣をかき分けて出てきた。揃いの水色の弁慶袴をつけているところを見ると、彰義隊士にちがいない。
 と、その瞬間、侍のなかに蔵之介の姿を見つけ、栄一は絶句した。
 足早に歩み寄ると無言で蔵之介の前に立ちはだかり、二の腕を掴んで力まかせに引っ張った。抵抗する蔵之介を無視し、引きずりながら歩き続ける。不忍池のほとりで足を止めると、おもむろに胸ぐらを掴んだ。
「これはいったい何のつもりだッ!」
 怒鳴りつけ、蔵之介の手に握られていた錦切れを乱暴に奪い取って、それを地面に投げつけた。
「抑え役として彰義隊に入ったお前が、あいつらに感化されてどうするッ」 
 怒りはすでに沸点に達していた。そんな自分自身が栄一はふしぎだった。
 蔵之介は、もしかしたらなりゆき上しかたなくほかの彰義隊士につきあっただけかもしれない。潜入しているのだから、下手に反対すれば自分の身が危ういのだ。そう自分に言い聞かせようとするが、湧き上がる苛立ちが抑えられなかった。
「お前の御父上は、そういうところを心配しておられたのではないかッ」
 栄一がつい説教口調になると、それまで黙って聞いていた蔵之介は、
「……いま説教はかんべんしろ」
 と、静かに反論した。栄一の腕を振りほどき、不忍池へと視線を向けた。栄一もつられて目をやる。
 そこには見ごろを迎えた蓮の花が、うす紅色の清楚なたたずまいを見せてくれていた。池面をおおいつくさんばかりの葉には、雨露がきらめいている。
 毎年かわらぬ景色がひろがっていた。
 この国にこれからどのようなことが起ころうと、それはずっとかわらず同じままなのだろうか。
 しばらくの間、不忍の風景を眺めてから、蔵之介は切り出した。
「感化されたわけではない」
「なら何だというんだ」
「どうせもう終わりだろう」
 たしかに蔵之介の言う通りだった。当初、勝は作戦の猶予をふた月とした。それ以上かかってしまえば、北関東の戦況も、ほかのあらゆる情勢も変わってしまう。彰義隊の暴発を抑えるのもそれが限界だろうと考えていた。
 その時点で成就が望めなければこの計画に見切りをつけ、各々自分の判断でそのあとの身の振り方を考えると申し合わせていたのだ。
 あれからまだひと月だが、もう限界であることは皆が感じていた。
 直接の原因は、軍務官判事として江戸城に入った長州藩士の大村益次郎であるらしい。大村は、できるだけ穏便にことを済ませようとしていた西郷と真っ向から対立、一気に江戸の旧幕府方勢力を殲滅させる方針だという。
いまは戦時だ。予定通りにことが運ばないのは想定していたことだった。
「彰義隊への総攻撃が明後日という噂を聞いた。もう上野には戻らないほうがいい」
 これを言うことが今日の目的だった。全面衝突はもう避けられない。つまり作戦は失敗したのだ。これ以上蔵之介が彰義隊にとどまる理由はなかった。
 むっつりと黙り込むその横顔を覗き込むようにして、栄一は念を押した。
「わかったな、蔵之介」
 しかしそれには答えず、蔵之介は苦し気な口調でこう言った。
「……薩長のつくる国に自分の居場所はない。彰義隊の連中はそう思っている。俺にはそれがよくわかる。お前にはわからんだろうな……」
 そのとき、「お前は侍ではない」と線を引かれた気がして、カッと頭に血が上った。鎮まりかけていた怒りがふたたび吹き出し、栄一は怒鳴った。
「ふざけるなッ。だから死ぬとでも言うつもりか―――」
 居場所がないなど、変化を恐れてそこから逃げているだけだ。そんなのはただの現実逃避ではないか。
 戦が始まれば勝つことは不可能だ。籠城戦とは、後詰めの存在があって初めて戦略として成立する。その周旋ができていないいま、どんなに奮戦したところで彰義隊に勝ち目はない。
 それをわかっていて戦をすることに何の意味がある。やるだけやりましたと己を満足させ、徳川家の霊廟の前で切腹できればそれで本望だとでも言うのか。それが侍だとでも言うつもりか―――。
 次々に浮かぶ言葉を、それでも口に出せなかったのは、栄一自身、こころのどこかでそれが侍なんだと思っていたからだ。
「お前は家に戻ればいい。俺は彰義隊に残る」
 すべてを見透かしたようにそう言うと、蔵之介は立ち去ろうとした。その肩に、栄一はあわてて手をかける。
「待てッ。まだ話は終わってな―――」
 だがその瞬間、蔵之介がつぶやいたひと言に栄一は凍りついた。
 この、腰抜けが―――。
 つい出てしまった。そんな感じだった。蔵之介の表情からもそれはよくわかった。だからこそ栄一には、よりこたえたのだ。
 蔵之介は、しかし撤回も言い訳も、取り繕うこともしなかった。ただこう言った。
「おかよには、済まないと伝えてくれ」
 栄一の妹であるかよは、もう何年も前から蔵之介に嫁ぐことが決まっていた。このような情勢でなければとっくに夫婦になっていただろう。
 このとき、蔵之介の顔に一瞬つらそうな表情が浮かんだ気がしたが、すぐにそれを打ち消すと、踵を返し、寛永寺へと帰っていった。
 それが最後だった。
 翌早暁。聞いたこともないほど張り詰めた寛八の声に栄一は飛び起きた。
 おっ取り刀で家を飛び出すと、雨のなかを寛永寺に向かって走ったが、すでに遅かった。上野の山は二千の討伐隊に完全に包囲されていたのだ。
 寛八とふたりですべての門を調べたが、どの門も厳重に固められて立ち入る隙は皆無だった。
 討伐隊の主力である薩摩隊が黒門に攻撃を開始したのは六ツ半(午前七時)。山に近づくことさえできなかった栄一には、その後の戦況はわからなかった。
 ただ、開戦と同時に鳴り始めた大砲の砲声が、最後まで鳴り続けていたということだけはよく覚えている。栄一にはそれが、世界そのものが壊れていく音のように感じられた。
 夕刻、上野の山から煙が上がっているのが見えた。大勢の予想に反して寛永寺はわずか一日で落とされたのだった。
 ひとりの討伐隊の藩兵が、放心したように立ち尽くす栄一の横を通りかかったのは、何刻ほどだったろう。あたりはすでに真っ暗だった。
 藩兵は怪訝な表情を栄一に向け、誰何した。
「何者だ。こんなところで何をしている」
「俺は……」
 ―――何者か。
 幕臣であり、同心であり、侍だった。しかし気づけばそのすべてを失っていた。どこでどう間違えたのだろう。なんと答えたらいいのかわからなかった。
 無言で押し通ろうとする栄一を、藩兵は呼び止めた。
「ちょっと待て」
 ふり返りながら、刀の鯉口をそっと切る。
「俺はいま忙しい」
 それ以上何か言ってくれば叩き斬ってやろうと思ったが、意外にも藩兵はそこで引きさがった。上野の落ち武者ではないと判断したのかもしれない。
 どこをどう歩き回ったのかは覚えていないが、自邸にたどり着いたときにはすでに朝だった。栄一は倒れこむように横になると、そのまま深い眠りに落ち、そのあとは昼も夜もなく放心したように日々を過ごした。
 九日後の五月二十四日。新政府から徳川家へ、八百万石から駿河七十万石に減封のうえ移封という沙汰が出た。それは同時にほとんどの家臣が侍という身分も家禄も剥奪され、路頭に放り出されるということでもあったが、そのことに対してすら何の感慨もわかなかった。
 家族は徳川家に従って移住したがっているようだった。ここにいたところでどうせ同じなら、せめて徳川家というこころのよりどころが欲しいという、その程度の理由だ。だがそれはそのまま武家であることを捨てて生きるという決断でもあった。
 移住を決意したほかの幕臣たちが江戸を去り始めた八月、そのときになってようやく栄一はひとつの決心をした。
「死のう―――」
 いくら考えても、武士としてではない人生など想像できなかったのだ。
 本当は戦のあった日、藩兵に誰何されたときからわかっていたことだった。幕臣であり、同心であり、侍であることが自分のすべてだということを。そしてその身分を裏付け、保障していたのは、ほかでもない徳川の世そのものだったということを。
 薩長がつくる国に自分の居場所はないと言った蔵之介は正しかったのだ。
 上野で死ぬべきだったと後悔したが、すでに遅い。すぐに気持ちを切り替え、栄一はどう死ぬべきかを考えた。
 行動に出たのはそれから間もなくの、残暑が厳しい日の夜だった。
 栄一は赤坂御門にいた。
 遅くになって、わずかな供廻りを連れた勝が出てくると、そのゆく手を阻むようにゆっくりと歩み出た。
 栄一の顔に提灯をかざした小者が、わっと声を上げて飛びずさった。その手が刀の柄にかかっていることに気がついたのだ。
 ふたりの供侍が腰を落とし、同じく柄に手をかけた。
「吉村か。その様子じゃあ、オイラを斬りにきたってところかい」
 勝は飄々と言い、さらに、
「何に怒っている」
 と、質問してきた。
「抵抗もせずに勝手に江戸城を明け渡した恨み、すべての幕臣に代わって晴らさせていただきます」
 栄一はこのとき、半ば本気でそんな身の程知らずなことを考えていた。だが、それがただの虚勢であり、結局は自分の死に何らかの意味を求めただけだったのだと、今ならわかる。
 色めき立つ供侍をよそに、勝は歩み寄ってきた。
「お前ェには無理だよ」
 その言葉が終わらぬうちに、栄一の刀は闇に閃いていた。正眼に構えられた刀の切先が、勝の三尺前にぴたりと定められている。
 供侍たちがすかさず刀を抜き放った。
 だが勝は平然と彼らを手で制し、同時にずっと懐に入れたままだった右手を出した。その手に握られていた真っ黒な物体に栄一は目を見張った。供侍や小者までもが息を呑んだようだった。
「直神影流免許皆伝のあなたが、刀を構える相手にいきなりピストルを抜くとは……見損ないました」
「鏡新明智流免許皆伝のお前ェに危険はおかせねえよ」
 ピストルを構えたまま勝は、
「なあ、吉村―――」
 と、親しげに呼びかけた。
「まさか本当に一日で片ァ着けられるとは想像してなかったな。すっかりやられたなあ。あの大村って野郎に」
 上野戦争を指揮した大村益次郎は、長州征伐の折にもそのたぐい稀なる才知で戦を勝利に導いた長州藩士である。江戸に入ってわずかのうちに西郷ですら手を焼いていた江戸の情勢を一気に収めてしまったのだった。
「聞こえていただろう。あの大砲の音が」
 アームストロング砲。雌雄を決したのはこの最新の大砲だったという。元込め式の施条砲で、飛距離、命中率において旧来の大砲とは比べ物にならない威力がある。  
 栄一は昼間その威力を目の当たりにしていた。鳥羽伏見のときも、より新しい兵器を持つ新政府軍に幕府はなすすべなく惨敗している。
 勝は背後の江戸城をふり返って見上げた。その表情は、過ぎ去りし徳川の世を儚んでいるようでもあり、来る薩長の世に思いを馳せているかのようでもあった。
「もう侍の時代じゃねえってこったなァ」
 勝は、「その侍の大将である徳川の時代でもない」と、暗に言っていたのだろう。
 だがそんなことはわかっていた。新政府に……いや、時代の流れに抗おうとしたほとんどの侍たちが、そんなことはとっくにわかっていた。それでも抗おうとしたのは、ただそうせずにはいられなかったからだ。
 やはりこの男は蔵之介とは違う。徳川家の再興を真に望んでいたわけではない。自らの知略に立身出世を賭けてその駆け引きを楽しむ、そんな戦国武将のような気持ちで立ち回っていたにすぎない。考えればこの男の言動はずっとそうだった。そのことにもう少し早く気がついていれば、すくなくとも蔵之介を死なせずに済んだはずだ。
 構えた刀の切先が月明かりを受けてきらきらときらめいた。栄一は震えていたのだ。恐怖でも怒りでもない。ただ無念だった。こんな心境では、たとえ相手が目録だったとしても勝てはしないだろう。
「これがあいつの生きざまだった。わかってやれ」 
 そのときすべてを覚った。勝は、はじめから蔵之介が戻る気がなかったのだということを知っていたのだ。
 喉の奥から悲鳴とも嗚咽ともつかぬ音が溢れ出た。全身の力が抜け、栄一は地面に膝をついていた。
「吉村、駿河に行きたくないならここに残れ。職を紹介してやる。剣術教授の職だ。お前ェにぴったりだろう」
 そして最後に、
「お前ェは生きろ。刀を捨ててな」
 そう言い残すと、勝は御門を後にした。
 彰義隊や蔵之介のように一途に死ぬことができなかったのなら、醜くともせめて懸命に生き抜くしかない。あのときそう思った。だが結局は、勝のように確信をもって生きることもできなかった。
 本来の主人を忘れ、皇城と呼ばれるようになった江戸城が、何食わぬ顔で佇んでいることがそれだけで苛立たしかったのは、そこに自分自身のすがたを重ねていたからかもしれない。
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