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忘れちゃいけないらしい
何と、言えばいいのだろうか。
この世界で助けてくれている主人に逆らってしまった。ごめんねと彼は言っているけれど反抗されて不快に思っているのではないだろうか。きっとこの世界でこのまま追い出されたら死ぬだろう。なんとかなるかとポジティブに考えることはできない。あの森で見た恐ろしい生物はきっとこの世界のいたるところにいるのだ。彼が伊織を追い出すことはあまり考えられないけれど、そうだとははっきり言えない。
「すみません、本当に」
「大丈夫だよ、こっちこそ、冷たい言い方だったよね」
この男はきっと伊織には興味がない。元の世界で何をしていたのか、今まで何をしてきたのか関係ないと思っているのだろう。そうして、きっと元の世界に戻す気などないのだ。この世界にいるようにただ仕向けているだけ。それならばこの男をとことん利用して元の世界に戻るしかない。世話になっておいてこんなことを考えるだなんて最低かもしれないが、きっとこうしなければ生きてはいけない。あんなに優しい声で、顔で、子供だから保護したと言っておきながら、きっとアルバートは伊織の気持ちなんて考えないのだろう。
「気をつけます、今後」
「……気をつけるっていうのは」
アルバートの言葉に、伊織は真っ赤に腫れた目を細めて笑った。アルバートは言葉を失って、悲しそうな顔をした。あんな顔をしていたってきっとアルバートはただ優しいだけの人間ではないのだ。
「仕事の話、しましょう」
「……目はちゃんと冷やしておいてね」
掠れた声ではい、と答えると、アルバートはそっと伊織から離れていった。この世界は優しい人ばかりだと思っていた。セバスチャンも、アルバートも。伊織には優しかった。けれどそれが無償の愛や同情である可能性は低い。セバスチャンに関しては仕事だからだろう。アルバートに関しては、分からない。この男が何を考えているのか、何も。
「ここにある書類を日付順に並べていってほしい」
「それだけですか?」
「とりあえずはこれから始めようか」
積み上げられた書類をソファの前の机に置いて、アルバートはそう言った。伊織を気遣う態度を見せている。それをどう捉えるべきか、今はまだ考えなくてもいいだろう。
「無理はしないでね、冷やしながらでいいよ」
「書類が濡れちゃいます」
「じゃあ冷やしてからでいいよ」
そう言われて、仕方なく目元をハンカチで覆う。早く腫れが引けば仕事もできるだろう。こんなふうに時間があるといろんなことを考えてしまうから、もっと忙しいほうがいいのに。そうは思ってもそんなことは口にできなかった。
「どうして、アルバートさんは良くしてくれるんですか?」
「言ったでしょ? 君は子どもなんだから、保護するって」
「本当にそれだけですか?」
聞いてから、しまったと思った。ネガティブなことばかりを考えていて、聞きにくいことを聞いてしまった。
「どうしてそう思うんだい?」
「……誰にでも、アルバートさんは、こんなふうに優しいんですか?」
「誰にでもじゃないよ」
「じゃあどうして、」
「あんまり聞かないほうがいいんじゃないかな」
また、アルバートは冷たい声音でそう言った。これ以上踏み込んではならない領域が彼にはある。そこを今後も見極めていかなければならないだろう。
「すみま、せん」
「僕こそごめんね」
ハンカチを外して彼を見ても、きっと笑顔でそう言っているのだろう。ぞくりと背筋に詰めたいものが走るような感覚を覚える。どうしても、彼が人間らしく思えなくて。およそ人間らしい感情というものを見たことがない。
「あまり、君に怯えられたくないんだ」
「え」
「本当の僕を知ったら、きっと君は逃げちゃうからね」
ハンカチで顔を覆う中、手に何かが触れた。壊れ物にふれるように優しく恭しく手を持ち上げられ、やわらかな何かが押し当てられる。
「アルバートさん?」
「知らないでいてほしいな」
「アルバート、さん……?」
指先から温かな体温を感じる。もう片方の手でハンカチを取ると、アルバートは手を握ったまま伊織の前で中腰で伊織の顔を覗き込んでいた。
「わかってほしいけど、わからないでいてほしい」
その顔は、初めて見るアルバートの人間らしい表情だった。まさか、と思った。だってアルバートとは初めて会った。この短期間で、しかも男で、アルバートが伊織に好感を抱くほど共にはいなかった。
「ええと、」
「今はまだいいよ。忘れてくれなければ」
こういうとき忘れろというのが普通ではないだろうか。
いつも通りの笑みを浮かべたアルバートを見上げて、そろりと離れた手が離れていくのを見送った。これから働くはずなのに、これからどうなってしまうのだろうか。
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