私がヒロイン? いいえ、攻略されない攻略対象です

きゃる

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それぞれの想い

紅輝の不安

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 教室に戻ってからも、英語の授業そっちのけで回想する。
 和訳なら本文を見ただけでわかるし、英作文も簡単だ。質問されても教師よりも流暢に話すことができるから、最近は滅多に当てられない。受験用英語を使わずに完璧に答えてしまうから、他の生徒の参考にはあまりならないようだ。
 それよりも――
 斜め二つ前の席に座る紫の背中を見て考える。
 さっき言葉を交わしたことで様々な記憶が甦ってきた。楽しい気持ちや嬉しい気持ち、後悔の念など。
 小さな頃の俺は、確かに彼女に甘えていた。

『櫻井財閥コンツェルン』の現在の総帥は親父だが、何も一代限りのことではない。『櫻井』は何年も前から続いていて、本家の親父にたまたま資質があっただけだ。親父の姉――養護教諭の碧の母親はそれが不満で、親父が後継ぎに指名された後も諦めきれなかったらしい。自分の方がふさわしいと最後まで主張していたと聞いている。
 代々の総帥がより優秀な者を後継に指名するから、男子が継ぐとは限られていない。家に飾られている歴代の肖像画の中には、分家の者や女性の姿もある。結局、伯母は分家の島崎家に嫁ぎ、息子の碧に全てを託すことにしたのだった。

 そんないきさつを当時幼い俺達が知る由もなく、家にしょっちゅう訪ねてきては文句ばかりを言う伯母を三人とも好きにはなれなかった。伯母の監視の目がある日は母にも甘えられない。家で小言を言われ厳しくされている分、俺達は保育園で紫に甘えた。
 
「ゆかりちゃん、お庭であそぼう」
「ゆかりちゃん、ねんどしよ?」
「おーも。おーもあしょぶ」

 彼女が笑って受け入れてくれたから、三人とも子犬のようにまとわりついた。「あか、あお、きいろ。信号兄弟!」とからかわれたことも、最初は嫌だったけれど慣れればどうってことはない。それよりも、誰が紫の一番近くのポジションを奪うかということに、俺達は熱心だったと思う。名前通りの綺麗な紫色の瞳に、一番近くで笑いかけてもらいたかったからだ。
 よく考えれば、長男でしっかりしなければいけないはずの俺が、彼女に甘えるのはおかしい。あの頃から冷静だった蒼が紫に頼るのも。黄は一番ずるくて、一つ年下なことを利用して彼女にわざと抱き着く。しかも、今でもそれは変わらない。
 あの頃の俺達は考えつきもしなかった。
 じゃあ紫は、誰に甘えていたんだ?

「おとうさんとおかあさんはいそがしいの。お兄ちゃんはあんまり遊んでくれない」
「じゃあ俺とあそぼう」
「絵本をよもう」
「おーはブロックがいい」

 思い出す度に恥ずかしくなる。
 甘えさせるどころか、世話をさせていた。これでは決して、好きになってはもらえない。



「はあぁぁ」

 授業中だというのにため息が出てしまう。
 教師が怯え、女生徒達が何かをひそひそ囁いている。紫が振り向き、俺に問いかけるような視線を投げかけてくる。しまった、話が退屈だったんじゃない。勘違いをさせて悪かった。先生に向かって謝罪の意味で頭を下げると、俺は黒板の文字をノートに写すフリをした。

「で、では……59ページを長谷川君、読んで訳して下さい」

 綺麗な発音で読む紫。
 精一杯低くしている声が可愛らしい。
 隣の席の転校生が、うっとり眺めているのが気になるところではあるが。花園だか花澤とかいう転校生は、最初からずっと紫……紫記狙いだ。初日からマークしていたからよくわかる。紫は男装も似合っているから、男の俺から見ても時々カッコよく見えてしまう。女子からすれば、綺麗な顔立ちがたまらないのだろう。
「紫記は女性だぞ」とバラしてしまいたくなる。だが、そうすれば紫がこの学園にいられなくなってしまう。万一女生徒として受け入れられたとしても、今度は男子生徒からのアプローチが心配だ。ただでさえ、蒼も黄も俺に譲る気はないらしい。それに、橙也も――
 この前のダンスレッスンで紫に手を出していたことと言い、彼は薄々感づいているような気がする。
 今心配してもどうなることでもないので、中断していた思いを過去に戻すことにした。



 中学に上がる前の俺達は、紫や母のために強くなりたいと思う一方で焦ってもいた。母親の最期が迫っていることはわかっていたが、一人前になるためには時間が足りなかった。株取引や資産運用の方法は幼い頃から学んでいたから問題なかったものの、肝心の中身が大人になりきれていなかったのだ。母を安心させられないまま天国に旅立たせてしまった俺達は、一層焦った。

 世間の噂とは異なり、俺が教育と観光、蒼が医療と研究、黄がマスコミ関係の株を個人的に保有している。表向きは親父の名義で、実際には俺達が自分自身で運用しているのだ。そのため、母の看病で仕事を溜めていた親父が海外に出かけている間、下見も兼ねてそれぞれの分野に首を突っ込むことにした。
 けれど、見兼ねた紫が俺達を心配し出した。特に俺は、夜遊びをされたと誤解されたまま。理由を説明してもよかったが、それだと自分の財産や能力をひけらかすようで嫌だった。『御曹司』という色眼鏡を付けずに、ただの『紅』として彼女に見られたかったから。

 その頃、最大のライバルであったはずの従兄の碧が、進路を変更し医大に編入したと明言した。彼は伯母の希望通り、大学で経営や経済などを学んでいたはずだ。年上だし頭も良いので、このままいけば後継者争いに加わることは必至だった。けれど、突然降りると言い出したのだ。
 彼の中で何があったのかはわからない。
 ただ、伯母が相当に怒り狂ったであろうことは想像に難くない。
 現在碧は校医兼養護教諭として、この学園に在籍している。もったいない話だが、彼は自分の職務に今のところ満足しているようだ。けれど、先日語った言葉が気になる。
 
『まっさかー。だって、僕はこのために養護教諭になったようなものだし』

 紫を診るためだとしたら?
 彼女の近くにいたくて、敢えてこの学園に入る資格を得たのだとしたら?
 碧も、紫とは昔から面識がある。
 八つも年下の女の子に手を出すはずはないと信じたいが……

「はあぁぁ」

 またもや大きなため息が出てしまった。のんびりしている場合ではないのかもしれない。手を出さないなどと悠長なことは言っていられない。親父に見つからなければいいだけだ。
 だが、当の紫は? ライバルが多い中、鈍い彼女が俺を男として見てくれるのだろうか?

「紅輝様、どうなさったのかしら?」
「憂い顔も素敵だけれど、さっきから何か変よね」

 はっきりと噂されているようだ。

「じゃ、じゃあ本日の授業はここまでで。あと五分時間があるので、最初に配ったプリントを各自まとめておいて下さい」

 教師が慌てて片付け始める。
 紫に、今度は咎めるような視線を投げかけられた。
 しまった、授業を全く気にしていなかった。好きにさせる前に嫌われてどうする?
 
 ――道のりは、思ったよりも遠そうだ。
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