眠らない世界で彼女は眠る

楠木 楓

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眠る赤ん坊

3.吉報

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 生後数ヶ月。毎月の検査でも相変わらずの結果が出るばかりで、ホーリーの異常性に関する情報は出てきていない。身体の発育が遅れ気味ではあるが、感情面に関してはむしろ他の赤ん坊より豊かだ、という、個性の範囲内で収まることばかりが判明していく。

「元気ならいいけどね」

 腹を括ったマリーは小さな手を懸命に伸ばすホーリーに指を差し出した。小さな肉球のような指が五本、しっかりと母のそれを掴み、口元へ運ぶ。
 遠慮なく最大限の力を込められてはいるが、所詮は赤ん坊の力だ。引き抜くことは難しくない。

 しかし、マリーは自身の指が唾液でべたべたになるのを楽しげに眺めていた。
 最近になってミルクの期間を終え、殆ど離乳食に移行しつつあるホーリーは、以前と比べると目を開けている時間が長くなっている。
 泣く回数は相変わらずの多さではあるが、周囲へ興味を示す時間や音を発する時間、手足を動かす時間が増えたことは、マリーの肩にのしかかっていた重みを多少軽くしてくれた。

 慌しいことの方が多かった日々を過ぎ、余裕が生まれるようになった今、彼女は娘の愛らしさに目を緩ませる時間長く得ることができるようになっていた。

 穏やかな時間を長く得るためにも、また、他の赤ん坊達と違い、活動時間が短いホーリーが、そのわずかな時間の中で少しでも笑顔でいられるように。マリーは自分の指が唾液塗れになろうが、歯茎で潰されようが、優しく見守るばかりであった。

 暖かな日差しのある昼下がり。
 母と子は幸せな時間をゆったりと過ごす。

 その時間を切り裂いたのは、鳴り響く着信音。
 人が聞き逃すことのないようにと設定された甲高い音に、それまで母の指へ集中していたホーリーの感情が揺れる。あぁ、とマリーが嘆きの声を漏らすより先に、彼女は目に涙を浮かべ、喉の奥、腹の底から泣き声を上げ始めた。

「まったく。誰よ……」

 こちらの様子を探ることができない以上、相手を責めるのはお門違いだ。そんなものはわかっている。わかっているが、文句の一つも言いたくなるのが人間だ。
 ホーリーを抱き上げ、軽く背を叩きながら未だに呼び出しを続けてくる電話端末を手に取った。

 画面に表示されていたのは、ホーリーのかかりつけがいる病院だ。ここ数ヶ月ですっかり見慣れてしまったその文字に、マリーは慌てて通話ボタンを押す。

「こちらマリー・ライトです。
 うちの娘について何かわかったんですか!」

 何か発見があればすぐに連絡するという約束であった。今まで、一度としてかかってこなかったのは、ホーリーの異常が判明してこなかった末の結果。ならば、こうしてかかってきた電話の意味するところとは。

 大きな期待を寄せるのは至極当然のことであった。
 相手の応答を待たずして飛び出た問いかけは、電話向こうの人間を圧倒したらしい。

 急くマリーの気持ちを置いて、たっぷり数秒。
 何度も聞いた男の声が聞こえてくる。

「ライトさん。まだ、はっきりとしたことはわからないのですが、もしかすると、ホーリーちゃんの異常についてわかるかもしれません。
 つきましては、都合の良い日に当病院へ来ていただきたいのですが」
「行きます! 今すぐにでも!」
「それでは、明日は大丈夫ですか?」
「勿論!」

 何か用事があったとして、ホーリーの異常性の正体を知るより重要なことがあろうか。
 全ての言葉に対し、マリーは食い気味に言葉を返していく。
 とんとん拍子に予定が決まり、通話はあっという間に終わる。ここにきて何があり、ホーリーの異常性の解明に繋がりつつあるのか、という説明はしてもらえなかったが、どのみち、明日になればわかることだ。

 泣きつかれたのか、すんすんと鼻を鳴らしながら再び目を閉じてしまったホーリーの顔を拭う。力強く抱きしめたい衝動を押さえ込むのは膨大な理性を要したが、ここで感情のまま行動に移せば再びあの大音量が発生するのは明白だ。

「良かったわね、ホーリー」

 意識を失う理由がわかれば、彼女も他の赤ん坊達と同じように大きくなり、生きてゆくことができる。今のままでは幼稚園や保育園に預けることも難しいだろうと悩んでいたが、それも明日になれば解消されるかもしれない。
 異常性を否定しようとは思わないけれど、それでも、周囲と同じように生きていけるというのは一つの喜びだ。

 マリーは早速、夫へメールを送る。
 今日も夜遅くまで帰ってこないだろう彼だが、きっと彼女と同じように喜んでくれるに違いない。

 かくしてやってきた次の日。
 ホーリーを連れて病院へやってきたマリーは緊張の面持ちで待合室に座っていた。

 大きなお腹を抱えた妊婦達。赤ん坊の検診に来ている母親達。一様に幸せそうな顔をしているなか、彼女だけは違っている。心配そうな目を向ける者も少なくはなかったが、ここは病院で、専門の人間がいるのだ。素人が余計な口出しをするのも良くはないだろう、と声をかける者は一人もいない。

 予定していた時間から数十分。大きな病院では予定が前後することなどよくある話だ。
 ようやくのことで名を呼ばれたマリーは、通常の診察室ではなく、院内の奥にある関係者用の談話室へと案内された。

「失礼します」

 看護師に案内された部屋へ入ると、向かい合うようにして柔らかなソファに座っている二人の男がいた。片方はホーリーのかかりつけである医者で、マリーの端末へ連絡を入れてくれた男だ。
 もう一人の男は見覚えのない人間だ。白衣を身にまとっている医者と違い、品の良い灰色のスーツを着た彼は医者というよりもエリートサラリーマンや教授のような雰囲気がある。後ろに撫で付けられた白い髪の毛が厳格な雰囲気をより強調していた。

「すみません。お待たせしてしまった上に、こちらから出向きもせず」
「いいえ。構いません。
 それで、この子の異常について何かわかったんですか?」

 医者は立ち上がり、マリーをソファへ誘導する。
 彼女は元々彼が座っていた位置の隣に腰を下ろし、斜め前にいる男へ軽く頭を下げた。
 この場にいるということは、ホーリーの異常に何らかの関わりがある人物ということだ。これからどのような話がされるのかはわからないけれど、円滑にことを進めるためにもコミュニケーションをおろそかにすることはできない。

「ライトさん。こちらは私の古い友人のオスカー・ゾーム。
 歴史人類学の教授で、今も大学で教鞭を振るっています」
「初めまして。ご紹介に預かりました、オスカーです」

 真っ直ぐ伸びた背筋は座っていようとも曲がることはなく、頭を下げる動作一つですら美しくなされていた。普段から自身の体をどう扱い、どのように見られているのかを気にかけている人間の動きだ。
 マリーも改めて頭を下げ、隣に座っている医者へ疑問の視線を投げかける。
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