眠らない世界で彼女は眠る

楠木 楓

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それぞれの道

9.遺品

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 死因は心臓麻痺だったという。
 そこに至った理由は不明のまま。

 だが、かつてのヒトは寝不足によって様々な不調を引き起こし、死に至ることもあったらしい、と、ホーリーの死体を見送った歴史研究かの一人が声高に叫んでいた。
 エミリオ達にその真偽を突き詰めることはできないが、失われた治療法の中に彼女を救うものがあったのかもしれない、と思えば嘆きの声も出てくるというものだ。

「開けるぞ」
「…………ん」

 シオンの言葉にエミリオが短く返事をする。
 二対の目に見守られ、シオンはそっと鍵穴に鍵を差し込む。

 かちり、と小さな音がしたところでノブを回せば、何の抵抗もなく半周を回る。
 うるさい心音から目を背け、少しだけ手を引く。それだけで扉は音もなく数ミリの隙間を作り出す。中へ入るにはもう少し手前へ寄せる必要があった。

 力をこめようとして、シオンは自分の手が震えていることに気づく。
 心臓にあわせ、息が荒れる。嫌だ、という思いが脳を侵食し始めていた。

 扉を開けてもホーリーはいない。
 主を失った、空っぽの冷たい部屋がそこにある。
 そんな現実を見たくない。

 何故だろう。そんなことを考えてしまう。
 シオンの母や父、親類達はもっと淡々と身内の死を受け入れ、処理していたというのに。歳の差か。経験の差か。それとも、両親の死に酷く嘆き、処理すら厭うホーリーの姿を見てきたからか。

 わからない。理解が及ばない。
 それでも、恐怖は確かにシオンの中にあった。

「シオン」

 暖かい手が彼女の手に触れる。

「……エミリオ」
「一緒に、開けようぜ」

 彼は視線を一度だけ背後に向け、扉へと戻す。
 数秒も経っただろうか。もう一つ、シオンの手に温もりが加わった。

「一人じゃ、できなくても、皆でならできる。
 ホーリーさんがよく言ってた」

 小さなドアノブを三人の大人が掴む図は、第三者から見れば滑稽に映るだろう。
 そうまでしなければ、薄い扉一枚開けることができないのか、と。

 シオンは震えた唇を持ち上げる。
 笑うなら笑えばいい。これが自分達にできる精一杯なのだから。

 三人の力が扉を開く。

 音もなく広がった内側の風景は、まだ人の温もりが残っているように思えた。
 埃一つない室内。綺麗に整えられた廊下と玄関口。リビングに繋がる扉は開けっ放しにされており、締められることのないカーテンが曇り空の窓を彩っている。

 三人は無言で入り口から室内へと足を進めていく。
 廊下を通り、リビングまで行けば、あたかも彼女がまだそこで暮らしているかのような香りが彼らの鼻へと届けられる。

 週末に焼いていたのであろう甘いクッキーの匂い。
 しおれ始めている花のかすかな香り。
 部屋に干されている服からは柔軟剤の優しい芳香。

「綺麗なものだな」

 整然とした室内はホーリーの几帳面な性格をよく表している。
 仕事用の机にはメモ書きや翻訳文の走り書き、未翻訳資料の写しが散乱しているが、ゴミの類は一切見受けられない。
 ちょこん、と置かれた可愛らしいキャビネットには家族三人が映った立体写真が飾られており、その前には香炉が置かれている。近づけばふわりと線香の匂いがした。

「散らかすようなヤツじゃねぇもん」
「…………そう、だね」

 死を感じていたからこそ、片付けたのではないか。
 嫌な想像を過ぎらせたマリユスは言葉を飲み込んだ。

 口にしてしまえば最後、この部屋から出て行くことすらできず蹲ってしまいそうだった。

「この部屋と、寝室やら書斎にある物を私達は分け合うんだ」
「そう、だね」

 いらない、とは言えない。
 その言葉はホーリーの否定に繋がる。

「まずは手分けして物の整理からだな」

 裕福であったはずのホーリーだが、自宅はそう広くない。
 リビングと寝室、大き目の書斎。後は誰かが泊まる際に利用していたのであろう殆ど何もない部屋が一つ。三人がかりで仕分けを始めればあっという間に終わることだろう。

「私は寝室。エミリオはリビング。マリユスは書斎を頼む」
「了解」
「わ、かったよ」

 故人とはいえ女性の寝室を男に任せるわけにもいくまい。シオンは率先して寝室を担当することとした。
 専門書が多く置かれているであろう書斎は、三人の中で最も学があり、史料の扱いにもある程度は精通しているであろうマリユス。雑多なものが多いリビングはエミリオ。

 彼らは互いに目を合わせ、一度頷いてからバラバラに行動を始める。
 欲するモノを探すためではない。彼女の想いを受け取るために、だ。

 手で持ち帰ることができそうなもので使えるものがあれば現物を貰う。残された家財はくじ引きで分け合っても良いし、必要としている人のもとへ渡るように手配しても良い。
 家は申し訳ないけれど売りに出し、得たお金を三等分する。

 ホーリーが暮らしていた家に移り住むという選択肢が三人の中に出てくることはない。

「こんな物も持ってたのか……」

 リビングに置かれた品々をエミリオは眺める。
 電子書籍を詰め込んでいるのであろう端末。スイッチ一つで簡易な料理を作ってくれる装置。体を一瞬で綺麗にしてくれるスモーク缶。

 一人暮らしの女らしい物の数々。
 極普通に生きる者達でも手に入れることができるそれらは、発明家として名を馳せた女の手元にあるに相応しいとは思えない。

「なんだ、あいつ。
 これ、そんな大事にしてたのか」

 壇上に立つための身支度に使ったのだろうジュエリーボックスには、淡い色をした小粒の宝石があしらわれたネックレスやペンダント、ブレスレットにイヤリングが入っている。
 そんな中に一つ、異彩を放つ物。エミリオはそれを摘み、持ち上げた。

 端から崩れ始めている鱗は、なおも光を得て淡く輝いている。
 中学生が買えるような安価なビーズの色はすっかり剥げ落ちてしまっており、緑と青は透明に変わっていた。

 美しく高価な品々と肩を並べるにはあまりにも不釣合いなストラップだが、ホーリーにとっては同じくらい、否、宝石よりもずっと大切な物として保管されていたのだろう。
 エミリオの自宅にも同じ物が保管されているが、細やかな手入れなど行えるはずもない彼の物はホーリーの者よりも劣化が激しく、鱗はまばらに輝くだけとなってしまっていた。

「……ホーリー。
 オレがこれ、貰っても良いよな」

 他のアクセサリーはシオンが使えばいい。どのみち、男であるエミリオがつけることのできるデザインではなかった。
 家具も金も道具も、全てを引き換えにしてでもエミリオは手の内にある小さなストラップを欲した。

 自分も、シオン達も、心の底から欲するモノなどありはしないのだ。いかなる財よりも、道具よりも、死した彼女の存在だけを求める。
 思い出深い品の一つをエミリオが選んだところで、引き止める声はない。

 粛々とこの行為を終わらせ、各々が時間をかけて心を整理していくのだ。
 容易くふさがることのない傷でも、偉大なる時間が治療してくれる。

 濁った瞳を持ったエミリオは漠然とそんなことを考えていた。

「エ、エミリオ」

 マリユスが、一冊の本を恭しく抱きしめながらやってくるまでは。

「どうした」

 極限まで感情をそぎ落とした声で尋ねつつ振り返れば、マリユスの後ろにシオンの姿が見える。
 どうやら二人きりで話すようなことではないらしい。
 エミリオは手にしていたものを一旦、元の場所へと戻し彼らに近づく。

「……に、日記があったんだ」

 そう言って出されたのは、革張りの日記だ。
 年季が入った深い色。指先が表紙をなぞれば心地よい感触が伝わってくる。

 厚さ五センチはあるこの日記帳はわざわざどこかで作らせたものなのだろう。市場に出回っている紙媒体を探すことは非常に難しい。このような品を生産、販売している業者があるとは思えない。

「ずいぶん、古いもんみてぇだな」
「始めの日付は、十年、前のものだった、よ」

 鼻をすするマリユスは日記をエミリオへと押し付けた。重たい荷物を無理やり持たせるためではなく、必要な人間へ、開くに相応しい人間へ与えるように。

 今時、物を書き留める手法は電子の世界で行われる。メモ用紙という言葉こそ残っているものの、実際に使われているのは極薄の液晶だ。何度も使いまわすことができ、誤字を書き直す際に跡が残ることもない。
 紙という媒体が根絶されたわけではないのだが、劣化や利便性を考えた場合、普段使いとして選択されることは殆どなかった。

 一部の物好きやマニア、デザインの一環として使われるのが精々で、ホーリーは一部の物好きに分類されるだろう。
 史料の解読メモやアイディアの走り書きに紙を使用している姿を三人は何度か見たことがある。鉛筆と呼ばれる道具を使い、真っ白な紙に黒い文字を書いていく様は何とも言えぬ感動を彼らにもたらした。

 ぱらり、とエミリオが表紙をめくれば、遊び紙と呼ばれる部分にホーリー直筆と思われる文章が三人の目に映る。

「……ホーリーにとって、本当の遺書は、これなんだな」

 シオンは愛おしい者を見るように目を細めた。
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