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第一部・一章 コモレヴィの森
第九話
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俺が初めて恐怖を知ったのは、小学生の頃に妹と一緒に見たゾンビ映画だった。
特殊メイクの精巧さによって完璧なまでに再現されたゾンビは、小学生だった俺にとって恐怖以外の何者でもなかった。当時は傍らで怯え泣く妹を怖がらせないように必死に手を握っていたが、本音は俺も怖いから握っていただけだった。
だがそれ以降、俺はあまり恐怖という感情に干渉することはなかった。
理由は簡単。日本が平和過ぎるから。
過去に後世へ傷跡を残すほどの戦争はあったが、今ではそんなものゲームでしか聞かない言葉になりつつある。
徴兵令の時代なら、俺ぐらいの歳は戦場に駆り出されているだろうが、今は重火器などレプリカとなった世界に於いて、戦争など一般高校生である俺には恐怖の対象外にあるものだ。
平和に慣れきってしまった俺は、知らないうちに恐怖という感情を無くしてしまっていた。
それ故に、目の前にある純粋な殺意に、足が竦んでしまっていた。
異質な存在としか言えない魔界の民であるゴブリンは、黄色い眼球から強烈な殺意を出している。
ゴブリンと目が合ったのはほんの一瞬だというのに、それだけで俺の足はぴくりとも動かなかった。
ただ棒立ちしてる俺の前で、一匹のゴブリンがギィィっと、耳に響く甲高い声──もしかしたら笑い声を上げ、立ち上がった。
そして、喋った。
「おい見ろよ! 今日は当たりだぜ! また人界の餓鬼が転がりこんできたぜぇ!」
途端、ドーム中がぎぃぎぃ、きっきっという不快な喚き声で満ちた。近くのゴブリンが次々に、蛮刀を片手に飢えた視線を向けてくる。
「どうする、こいつも捕まえるかぁ?」
最初のゴブリンがそう叫ぶと、奥のほうからグラァッと大きい雄叫びが響き、全員が静まる。
左右に割れた群の間を進み出てきたのは、周りの小柄なゴブリンより一回り大きな体軀を持つ、リーダーとおぼしき一匹だった。
蛇の鱗鎧を装備し、額の鉢金には多彩な飾り羽を突き立てている。その下の赤みを帯びた両眼は、他のゴブリンとは比較にならないほどの邪悪さと、薄気味悪い知性を放射していた。にやりと歪めた口の端から、黄色い乱杭歯を剥き出させて、隊長ゴブリンは嗄れ声で言った。
「人界の男なんぞ幾らでも売れやしねぇ。面倒だが、そいつはここで殺せ」
殺す。
という言葉を、どのようなレベルで受け取ればいいのか、俺は一瞬で悟った。
小学生が冗談でいう言葉とは、重みが違う。
奴らは俺をここで殺すつもりだ。あの粗悪な蛮刀で肉を引き裂き、内臓を引きずり出して、無様に殺す気だ。
逃げなきゃ……早く逃げなきゃ、殺される……。
今すぐ振り返って逃げろ。俺は自分に向かって叫んだ。
だが動かない。両脚が地面に深く根を張ってしまったかのように、わずかにも動くことができない。
当たり前だ。俺がここに来た理由は、連れ去られたセレナを助けるためなんだ。彼女だけ置いて逃げるわけにはいかない。
そうだ……セレナ、彼女はどこにいるんだ。
さっきゴブリンは「また」と言っていた。ということは、俺の他にもいるってこと。それに隊長ゴブリンは、人界の男なんて幾らでも売れないから殺せと言った。
裏返せば、女なら売れるということ。
恐らく奴らは、セレナを魔界で商品として売るつもりだ。
そして俺は、このまま何もしなければ無残に殺され、セレナは死よりも過酷な運命が待っている。
そんなこと、許されるわけがない。
動かない両脚を強く叩き、意識をゴブリンに向ける。
五人の手下が蛮刀をぶら下げて、こちらに近づきつつある。ゆっくりとした歩調といい、牙を剥きだした嗜虐的な笑みといい、確実に下に見ている。
後ろで待機している二十近くのゴブリンたちも、眼に興奮の色を浮かべぎぃぎぃと囃し立てている。
そしてその奥にある粗雑な荷車に、俺はようやく探していたものを発見した。
暗がりに紛れて見え難かったが、黒い修道服のセレナが、体を荒縄で縛られ、瞼は閉じたままだが、顔色からして意識を失っているだけと思える。
元々奴らの目的は、セレナを魔界に拉致し売り飛ばすことだ。奴らとて商品に傷をつけたくないはずだから、この洞窟内にいる間はセレナに危害が加わることはないだろう。
つまり、セレナを連れてこの洞窟から抜け出せば俺の勝ちということになる。もしくは──
「戦って……倒すしかない」
小さく呟いた。
セレナを助け出し、俺も生きて帰るためには、向かってくるゴブリンを倒すしかない。
もちろん、簡単には行かないだろう。戦力差はあまりに巨大だ。蛮刀と粗悪な鎧で武装したゴブリン五体に対して、こちらは衛士から渡された剣一本だけ。ましてや、剣術や魔術も半人前以前の段階だ。
絶望的な戦力差だが、それでもやらなければならない。彼女をを助けるためにも。
剣を両手で持ち、深呼吸を繰り返し、不安で揺れ動く心をゆっくりと落ち着かせていく。
「うおおおおおお!!」
腹の底から雄叫びを迸らせ、前のゴブリン向けて突進する。雄叫びの効果は充分だったようで、五匹のゴブリンは黄緑色の眼を丸くして立ち止まった。もっとも、それは声のせいではなく、捨て身の突進を仕掛けてきたことに驚いたからかもしれないが。
ちょうど十歩目で俺は体をぐっと沈め、真正面に立つゴブリンに全力のタックルをぶちかました。不意打ちと体格差の修正効果で、ゴブリンは醜い呻き声をあげものの見事に後ろにひっくり返り、手足を振り回しながら後方に転がっていった。
体を起こすと、四匹のゴブリン達は今尚驚愕したように眼を丸めたまま、その場に棒立ちしている。幸い、連中の状況対応力はそれほど高くないのか、後ろの連中もいまだ立ち上がることなく、ポカンとこちらを見ている。
そうだ、そのままボーッとしてろ! 罵るように祈りながら、剣の収まっていた鞘を、篝り火に向かって投擲する。
投げた瞬間、さすがに他の連中とは一味違う知能を持っているのか、隊長ゴブリンが怒りに満ちた声を轟かせた。
「てめーら!! 叩き落とせー!!」
大雑把な命令を言い終える頃には、鞘は篝り火に激突していた。大量の火の粉を撒き散らしながら炎は分厚い氷に衝突し、熱で溶けた氷によって、ばしゅっという音を白い蒸気を残してあっけなく消えた。
ドームの半分は眼前な暗闇に包まれた。半分の方からゴブリンの喚き声が聞こえてくる。
俺はその隙に、暗闇に紛れてゴブリンどもの間を縫って、反対側にある篝り火まで走り抜けた。
そこでまた、隊長ゴブリンの怒声が響き渡った。
「そいつを火に──」
もう遅い。篝り火に飛びつき、氷めがけて蹴り倒す。
こちらも反対側と同じように消化されると、ドームは完全な暗闇に包まれ──次いで、シャツの胸ポケットに入れていた草穂の仄かな青白い輝きがそっと闇を遠ざけた。
ここで、二つ目の僥倖が訪れた。
周囲にうじゃうじゃいる連中が一斉に甲高い悲鳴を上げ、ある者は顔を覆い、またある者は後ろを向いてうずくまった。見ると、池の向こうに立っている隊長ゴブリンさえも、不快そうに顔を歪め、左手で眼を顔を覆っている。
「こいつら……これに怯えているのか?」
いや、あり得なくもない。空間魔素と魔術は創世神の恩恵。古の大戦に置いて創世神の恩恵は勝敗を大きく分けたと言っても過言ではない。きっと魔界の民は皆、魔術を使える人間を創世神の使いと勘違いしているんだろう。
絶好の機会を逃すまいと、顔を覆った手の隙間からこちらを凄まじい怒りの視線で睨んでいる隊長ゴブリンに向かって、俺は一歩踏み出した。
両手で握った剣を左右に振ってみる。毎日薪割りで使用してる斧より少し重いが、ちょうどいいくらいの質量と重量だ。
「クソ餓鬼が! この俺と戦う気かぁ!」
じりじりと間合いを詰める俺を片目で睨めつけながら、隊長が吠えた。同時に右手で腰から巨大な蛮刀をじゃりんと抜き放つ。黒ずんだその刀身は、錆びと血がこびり付き、異様な迫力を纏っている。
勝てるのか……この化け物に──!?
背丈は大差ないが、体重と筋肉量と気迫では遥かに優るであろう敵と対峙した瞬間、先程の恐怖が鮮明に蘇る。
だがすぐに、歯を食い縛って前進を続ける。
こいつを倒せば、周りのゴブリンもきっと畏怖して逃げ出すはずだ。そうなれば、セレナと一緒に、シスターが待ってる教会に帰れる。
だがもし、ここで奴を倒せなかったら、セルカを助けられなかったら、俺は死んでもなお自分を恨み続けるだろう。この世界で初めて出会った彼女──大切な友達だけは、何があっても助ける。
「俺がやらなくて……誰がやるんだ!!」
半分は隊長に、半分は自分に向けてそう叫びながら、残る距離を一気に詰めた。
剣道などしたことはないが、斧を振る時と同じ要領だ。左足を深く踏み込み、剣を敵の右肩めがけて袈裟懸けに斬り降ろす。
決して楽観視していたわけではないが、隊長ゴブリンの反応は、他のゴブリンと違い予想以上に速かった。
こちらの打ち込みを無視する勢いで横殴りに振り回された蛮刀を、体を沈めてぎりぎりで掻い潜る。掠めた髪が何本か巻き込まれ引きちぎれる感覚。剣は命中したものの、蛇の鱗鎧の肩当てを砕くに留まったようだ。
こいつの一撃は強力だが、一振りの隙が大きい。
今の一撃で瞬時に分析し、こいつの特性を演算する。
一回り大きい体軀に身の丈にあった蛮刀。掠めただけで髪をちぎれる膂力。こいつはきっと、一撃必殺型であり、動きを止めたら力で押し切られてしまう。
ならばこちらは手数で攻める。
低い姿勢のまま敵の横を抜けざま、がら空きの脇腹目掛けて水平斬りを繰り出す。今度も鱗鎧を貫通できずに、鱗を五、六枚弾き飛ばしただけだ。
ちゃんと研いどけよ! と衛士に毒づきをしながら、ごうっと頭上から降ってくる反撃の一太刀を危うく躱す。蛮刀の分厚い切っ先が苔に覆われた地面を深く穿ち、改めてゴブリンの膂力に戦慄する。
だが今ので、こいつに大きな隙が生まれた。隊長ゴブリンが硬直から回復する前に反撃に入るべく深く踏み込み、右下から低く斬り上げようとした、寸前。
突如、右目を正体不明の激痛が襲い掛かった。
──なんだ!? この痛みは!?
灼熱の棒を押し当てられたような激痛に一瞬だけ意識を持っていかれてしまい、剣の軌道が直前でぶれてしまった。
俺の剣は、狙っていた頭部ではなく、ゴブリンの左腕を切り飛ばした。切断面から迸る鮮血は、青白い光の中で真っ黒に見えた。跳ね飛んだゴブリンの左手が、くらくる回りながら苔の上に没し、どぷんと重い水音が響いた。
俺は自分に起きた現象を理解出来ないでいた。俺は確かに、隊長ゴブリンの頭を斬ろうとした。だが直後、原因不明の激痛が右目を襲い、剣の軌道を微かに歪めた。
──なんで……なんで急に右目が。
理解できないまま考えるも、全く分からなかった。右目を抑えながらゴブリンに視線を向けると──。
左腕を切り飛ばされた隊長ゴブリンのぎらつく黄色い眼には、怯みも怖れもない、圧倒的な憎悪だけが渦巻いていた。傷からはどす黒い血を、そして口からは憎悪に満ちた咆哮を迸らせながら──
「ガルルァアッ!!」
右手の蛮刀を猛烈な勢いで振り回した。
戦場において一瞬の油断は死を招く。俺はこの言葉を、この瞬間になって痛感した。
自分に起きた違和感に気を取られてしまい、一瞬反応に遅れてしまい、横殴りにごうっと飛んできた肉厚の刃を、俺は回避しきれなかった。
先端近くが左肩を掠めた、その圧力だけで二メートル以上も吹き飛ばされ、氷の張った池に背中から叩き付けられる。
そこでようやく、隊長ゴブリンは背中をかがめ、蛮刀を地面に突き立て、右手で左腕の切断面を掴んだ。みちみち、と肉を掴む悍ましい音が響く。力任せに肉を握り潰し、強引に止血している。
隊長が動けない今のうちに、そう思い立ち上がろうと片手に氷を突いた、その瞬間──。
左肩から、先程の右目同様の──全身の神経を焼き切れるかと思うほどの灼熱感が弾け、世界が一瞬無色になった。抑えようもなく涙が流れ、喉から呻き声が零れる。
氷上でうずくまり、浅い呼吸を繰り返す以外に出来ることがない。それでも、耐えられる限界の遥かに超える痛みの正体を知るために首を回し、左肩の受傷部を見る。そして、息を呑んだ。
服の袖は丸ごと引き千切られ、剥き出しになった肌に大きく醜い傷が口を開けていた。わずかに掠めただけで、巨大な鉤爪に抉られたかのようだ。
皮膚と肩の肉がごっそり削られ、真っ赤な血が絶え間なく噴き出している。左腕は指先まで他人のもののようにぴくりとも動かないのに、痛みだけは鮮明に感じる。
あの時、なんで隊長の首を跳ねなかったんだ。俺の中の覚悟が固まっていないから、俺自身が躊躇したのか?
命を奪うという行為に。
魔界の民だろうが、如何なる理由があろうと、あいつは生命を持った生き物なんだ。その命を刈り取ることに、俺は躊躇った。だから、最も重要な視覚を奪うような痛みが生じたのか。
結局俺は、迷い続けていただけなのか。覚悟をした気でいて、迷いなんてない風を装って……
そして、その迷いに足元をすくわれた。
何故俺は躊躇ったのか。これは最低限の安全が保障された試合や稽古ではなく、武器を持った者同士の殺し合い、命の奪い合いだというのに。
涙でぼやける視界の先で、隊長が切断された左腕の止血を終え、おもむろに俺を見た。両眼から放射される凄まじい怒りと殺意の念で、周囲の空気が揺らいでいるかのように錯覚させられる。
「この屈辱は、お前を八つ裂きにしても収まりそうもねぇが……とりあえずぶっ殺す」
頭上で蛮刀をぶん、ぶんと回しながら近づいてくる隊長から視線を外し、遠く離れた場所に横たわるセレナの姿をちらりと見た。
立つんだ。立って戦わなきゃ、セレナが。と自分に呼びかけるも、体が動こうとしない。心から生まれた負の感情が、死への恐怖が、物理的な拘束力となり、自分自身を縛っているかのように。
重い足音が、うずくまる俺のすぐ前で止まった。空気が動き、巨大な蛮刀が高く振りかぶられるのを感じた。もう回避も反撃も出来ない。
助けられなくて、ごめん──。
セレナに心から謝罪し、俺は歯を食い縛った。
特殊メイクの精巧さによって完璧なまでに再現されたゾンビは、小学生だった俺にとって恐怖以外の何者でもなかった。当時は傍らで怯え泣く妹を怖がらせないように必死に手を握っていたが、本音は俺も怖いから握っていただけだった。
だがそれ以降、俺はあまり恐怖という感情に干渉することはなかった。
理由は簡単。日本が平和過ぎるから。
過去に後世へ傷跡を残すほどの戦争はあったが、今ではそんなものゲームでしか聞かない言葉になりつつある。
徴兵令の時代なら、俺ぐらいの歳は戦場に駆り出されているだろうが、今は重火器などレプリカとなった世界に於いて、戦争など一般高校生である俺には恐怖の対象外にあるものだ。
平和に慣れきってしまった俺は、知らないうちに恐怖という感情を無くしてしまっていた。
それ故に、目の前にある純粋な殺意に、足が竦んでしまっていた。
異質な存在としか言えない魔界の民であるゴブリンは、黄色い眼球から強烈な殺意を出している。
ゴブリンと目が合ったのはほんの一瞬だというのに、それだけで俺の足はぴくりとも動かなかった。
ただ棒立ちしてる俺の前で、一匹のゴブリンがギィィっと、耳に響く甲高い声──もしかしたら笑い声を上げ、立ち上がった。
そして、喋った。
「おい見ろよ! 今日は当たりだぜ! また人界の餓鬼が転がりこんできたぜぇ!」
途端、ドーム中がぎぃぎぃ、きっきっという不快な喚き声で満ちた。近くのゴブリンが次々に、蛮刀を片手に飢えた視線を向けてくる。
「どうする、こいつも捕まえるかぁ?」
最初のゴブリンがそう叫ぶと、奥のほうからグラァッと大きい雄叫びが響き、全員が静まる。
左右に割れた群の間を進み出てきたのは、周りの小柄なゴブリンより一回り大きな体軀を持つ、リーダーとおぼしき一匹だった。
蛇の鱗鎧を装備し、額の鉢金には多彩な飾り羽を突き立てている。その下の赤みを帯びた両眼は、他のゴブリンとは比較にならないほどの邪悪さと、薄気味悪い知性を放射していた。にやりと歪めた口の端から、黄色い乱杭歯を剥き出させて、隊長ゴブリンは嗄れ声で言った。
「人界の男なんぞ幾らでも売れやしねぇ。面倒だが、そいつはここで殺せ」
殺す。
という言葉を、どのようなレベルで受け取ればいいのか、俺は一瞬で悟った。
小学生が冗談でいう言葉とは、重みが違う。
奴らは俺をここで殺すつもりだ。あの粗悪な蛮刀で肉を引き裂き、内臓を引きずり出して、無様に殺す気だ。
逃げなきゃ……早く逃げなきゃ、殺される……。
今すぐ振り返って逃げろ。俺は自分に向かって叫んだ。
だが動かない。両脚が地面に深く根を張ってしまったかのように、わずかにも動くことができない。
当たり前だ。俺がここに来た理由は、連れ去られたセレナを助けるためなんだ。彼女だけ置いて逃げるわけにはいかない。
そうだ……セレナ、彼女はどこにいるんだ。
さっきゴブリンは「また」と言っていた。ということは、俺の他にもいるってこと。それに隊長ゴブリンは、人界の男なんて幾らでも売れないから殺せと言った。
裏返せば、女なら売れるということ。
恐らく奴らは、セレナを魔界で商品として売るつもりだ。
そして俺は、このまま何もしなければ無残に殺され、セレナは死よりも過酷な運命が待っている。
そんなこと、許されるわけがない。
動かない両脚を強く叩き、意識をゴブリンに向ける。
五人の手下が蛮刀をぶら下げて、こちらに近づきつつある。ゆっくりとした歩調といい、牙を剥きだした嗜虐的な笑みといい、確実に下に見ている。
後ろで待機している二十近くのゴブリンたちも、眼に興奮の色を浮かべぎぃぎぃと囃し立てている。
そしてその奥にある粗雑な荷車に、俺はようやく探していたものを発見した。
暗がりに紛れて見え難かったが、黒い修道服のセレナが、体を荒縄で縛られ、瞼は閉じたままだが、顔色からして意識を失っているだけと思える。
元々奴らの目的は、セレナを魔界に拉致し売り飛ばすことだ。奴らとて商品に傷をつけたくないはずだから、この洞窟内にいる間はセレナに危害が加わることはないだろう。
つまり、セレナを連れてこの洞窟から抜け出せば俺の勝ちということになる。もしくは──
「戦って……倒すしかない」
小さく呟いた。
セレナを助け出し、俺も生きて帰るためには、向かってくるゴブリンを倒すしかない。
もちろん、簡単には行かないだろう。戦力差はあまりに巨大だ。蛮刀と粗悪な鎧で武装したゴブリン五体に対して、こちらは衛士から渡された剣一本だけ。ましてや、剣術や魔術も半人前以前の段階だ。
絶望的な戦力差だが、それでもやらなければならない。彼女をを助けるためにも。
剣を両手で持ち、深呼吸を繰り返し、不安で揺れ動く心をゆっくりと落ち着かせていく。
「うおおおおおお!!」
腹の底から雄叫びを迸らせ、前のゴブリン向けて突進する。雄叫びの効果は充分だったようで、五匹のゴブリンは黄緑色の眼を丸くして立ち止まった。もっとも、それは声のせいではなく、捨て身の突進を仕掛けてきたことに驚いたからかもしれないが。
ちょうど十歩目で俺は体をぐっと沈め、真正面に立つゴブリンに全力のタックルをぶちかました。不意打ちと体格差の修正効果で、ゴブリンは醜い呻き声をあげものの見事に後ろにひっくり返り、手足を振り回しながら後方に転がっていった。
体を起こすと、四匹のゴブリン達は今尚驚愕したように眼を丸めたまま、その場に棒立ちしている。幸い、連中の状況対応力はそれほど高くないのか、後ろの連中もいまだ立ち上がることなく、ポカンとこちらを見ている。
そうだ、そのままボーッとしてろ! 罵るように祈りながら、剣の収まっていた鞘を、篝り火に向かって投擲する。
投げた瞬間、さすがに他の連中とは一味違う知能を持っているのか、隊長ゴブリンが怒りに満ちた声を轟かせた。
「てめーら!! 叩き落とせー!!」
大雑把な命令を言い終える頃には、鞘は篝り火に激突していた。大量の火の粉を撒き散らしながら炎は分厚い氷に衝突し、熱で溶けた氷によって、ばしゅっという音を白い蒸気を残してあっけなく消えた。
ドームの半分は眼前な暗闇に包まれた。半分の方からゴブリンの喚き声が聞こえてくる。
俺はその隙に、暗闇に紛れてゴブリンどもの間を縫って、反対側にある篝り火まで走り抜けた。
そこでまた、隊長ゴブリンの怒声が響き渡った。
「そいつを火に──」
もう遅い。篝り火に飛びつき、氷めがけて蹴り倒す。
こちらも反対側と同じように消化されると、ドームは完全な暗闇に包まれ──次いで、シャツの胸ポケットに入れていた草穂の仄かな青白い輝きがそっと闇を遠ざけた。
ここで、二つ目の僥倖が訪れた。
周囲にうじゃうじゃいる連中が一斉に甲高い悲鳴を上げ、ある者は顔を覆い、またある者は後ろを向いてうずくまった。見ると、池の向こうに立っている隊長ゴブリンさえも、不快そうに顔を歪め、左手で眼を顔を覆っている。
「こいつら……これに怯えているのか?」
いや、あり得なくもない。空間魔素と魔術は創世神の恩恵。古の大戦に置いて創世神の恩恵は勝敗を大きく分けたと言っても過言ではない。きっと魔界の民は皆、魔術を使える人間を創世神の使いと勘違いしているんだろう。
絶好の機会を逃すまいと、顔を覆った手の隙間からこちらを凄まじい怒りの視線で睨んでいる隊長ゴブリンに向かって、俺は一歩踏み出した。
両手で握った剣を左右に振ってみる。毎日薪割りで使用してる斧より少し重いが、ちょうどいいくらいの質量と重量だ。
「クソ餓鬼が! この俺と戦う気かぁ!」
じりじりと間合いを詰める俺を片目で睨めつけながら、隊長が吠えた。同時に右手で腰から巨大な蛮刀をじゃりんと抜き放つ。黒ずんだその刀身は、錆びと血がこびり付き、異様な迫力を纏っている。
勝てるのか……この化け物に──!?
背丈は大差ないが、体重と筋肉量と気迫では遥かに優るであろう敵と対峙した瞬間、先程の恐怖が鮮明に蘇る。
だがすぐに、歯を食い縛って前進を続ける。
こいつを倒せば、周りのゴブリンもきっと畏怖して逃げ出すはずだ。そうなれば、セレナと一緒に、シスターが待ってる教会に帰れる。
だがもし、ここで奴を倒せなかったら、セルカを助けられなかったら、俺は死んでもなお自分を恨み続けるだろう。この世界で初めて出会った彼女──大切な友達だけは、何があっても助ける。
「俺がやらなくて……誰がやるんだ!!」
半分は隊長に、半分は自分に向けてそう叫びながら、残る距離を一気に詰めた。
剣道などしたことはないが、斧を振る時と同じ要領だ。左足を深く踏み込み、剣を敵の右肩めがけて袈裟懸けに斬り降ろす。
決して楽観視していたわけではないが、隊長ゴブリンの反応は、他のゴブリンと違い予想以上に速かった。
こちらの打ち込みを無視する勢いで横殴りに振り回された蛮刀を、体を沈めてぎりぎりで掻い潜る。掠めた髪が何本か巻き込まれ引きちぎれる感覚。剣は命中したものの、蛇の鱗鎧の肩当てを砕くに留まったようだ。
こいつの一撃は強力だが、一振りの隙が大きい。
今の一撃で瞬時に分析し、こいつの特性を演算する。
一回り大きい体軀に身の丈にあった蛮刀。掠めただけで髪をちぎれる膂力。こいつはきっと、一撃必殺型であり、動きを止めたら力で押し切られてしまう。
ならばこちらは手数で攻める。
低い姿勢のまま敵の横を抜けざま、がら空きの脇腹目掛けて水平斬りを繰り出す。今度も鱗鎧を貫通できずに、鱗を五、六枚弾き飛ばしただけだ。
ちゃんと研いどけよ! と衛士に毒づきをしながら、ごうっと頭上から降ってくる反撃の一太刀を危うく躱す。蛮刀の分厚い切っ先が苔に覆われた地面を深く穿ち、改めてゴブリンの膂力に戦慄する。
だが今ので、こいつに大きな隙が生まれた。隊長ゴブリンが硬直から回復する前に反撃に入るべく深く踏み込み、右下から低く斬り上げようとした、寸前。
突如、右目を正体不明の激痛が襲い掛かった。
──なんだ!? この痛みは!?
灼熱の棒を押し当てられたような激痛に一瞬だけ意識を持っていかれてしまい、剣の軌道が直前でぶれてしまった。
俺の剣は、狙っていた頭部ではなく、ゴブリンの左腕を切り飛ばした。切断面から迸る鮮血は、青白い光の中で真っ黒に見えた。跳ね飛んだゴブリンの左手が、くらくる回りながら苔の上に没し、どぷんと重い水音が響いた。
俺は自分に起きた現象を理解出来ないでいた。俺は確かに、隊長ゴブリンの頭を斬ろうとした。だが直後、原因不明の激痛が右目を襲い、剣の軌道を微かに歪めた。
──なんで……なんで急に右目が。
理解できないまま考えるも、全く分からなかった。右目を抑えながらゴブリンに視線を向けると──。
左腕を切り飛ばされた隊長ゴブリンのぎらつく黄色い眼には、怯みも怖れもない、圧倒的な憎悪だけが渦巻いていた。傷からはどす黒い血を、そして口からは憎悪に満ちた咆哮を迸らせながら──
「ガルルァアッ!!」
右手の蛮刀を猛烈な勢いで振り回した。
戦場において一瞬の油断は死を招く。俺はこの言葉を、この瞬間になって痛感した。
自分に起きた違和感に気を取られてしまい、一瞬反応に遅れてしまい、横殴りにごうっと飛んできた肉厚の刃を、俺は回避しきれなかった。
先端近くが左肩を掠めた、その圧力だけで二メートル以上も吹き飛ばされ、氷の張った池に背中から叩き付けられる。
そこでようやく、隊長ゴブリンは背中をかがめ、蛮刀を地面に突き立て、右手で左腕の切断面を掴んだ。みちみち、と肉を掴む悍ましい音が響く。力任せに肉を握り潰し、強引に止血している。
隊長が動けない今のうちに、そう思い立ち上がろうと片手に氷を突いた、その瞬間──。
左肩から、先程の右目同様の──全身の神経を焼き切れるかと思うほどの灼熱感が弾け、世界が一瞬無色になった。抑えようもなく涙が流れ、喉から呻き声が零れる。
氷上でうずくまり、浅い呼吸を繰り返す以外に出来ることがない。それでも、耐えられる限界の遥かに超える痛みの正体を知るために首を回し、左肩の受傷部を見る。そして、息を呑んだ。
服の袖は丸ごと引き千切られ、剥き出しになった肌に大きく醜い傷が口を開けていた。わずかに掠めただけで、巨大な鉤爪に抉られたかのようだ。
皮膚と肩の肉がごっそり削られ、真っ赤な血が絶え間なく噴き出している。左腕は指先まで他人のもののようにぴくりとも動かないのに、痛みだけは鮮明に感じる。
あの時、なんで隊長の首を跳ねなかったんだ。俺の中の覚悟が固まっていないから、俺自身が躊躇したのか?
命を奪うという行為に。
魔界の民だろうが、如何なる理由があろうと、あいつは生命を持った生き物なんだ。その命を刈り取ることに、俺は躊躇った。だから、最も重要な視覚を奪うような痛みが生じたのか。
結局俺は、迷い続けていただけなのか。覚悟をした気でいて、迷いなんてない風を装って……
そして、その迷いに足元をすくわれた。
何故俺は躊躇ったのか。これは最低限の安全が保障された試合や稽古ではなく、武器を持った者同士の殺し合い、命の奪い合いだというのに。
涙でぼやける視界の先で、隊長が切断された左腕の止血を終え、おもむろに俺を見た。両眼から放射される凄まじい怒りと殺意の念で、周囲の空気が揺らいでいるかのように錯覚させられる。
「この屈辱は、お前を八つ裂きにしても収まりそうもねぇが……とりあえずぶっ殺す」
頭上で蛮刀をぶん、ぶんと回しながら近づいてくる隊長から視線を外し、遠く離れた場所に横たわるセレナの姿をちらりと見た。
立つんだ。立って戦わなきゃ、セレナが。と自分に呼びかけるも、体が動こうとしない。心から生まれた負の感情が、死への恐怖が、物理的な拘束力となり、自分自身を縛っているかのように。
重い足音が、うずくまる俺のすぐ前で止まった。空気が動き、巨大な蛮刀が高く振りかぶられるのを感じた。もう回避も反撃も出来ない。
助けられなくて、ごめん──。
セレナに心から謝罪し、俺は歯を食い縛った。
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その後人里発見と、自身の立ち位置。生活基盤を確保。
有名になって、王都へ。
日本人の常識で突き進む。
そんな感じで、進みます。
ただ主人公は、ちょっと凝り性で、行きすぎる感じの日本人。そんな傾向が少しある。
異世界側では、少し非常識かもしれない。
面白がってつけた能力、超振動が意外と無敵だったりする。
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最初はこの胡散臭過ぎるユニークスキルを疑ったが、薬草集めでレベルが2に上がった俺は、好奇心に負け、ダメ元で再びスライムと戦う。
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※カクヨムで先行配信をしています。
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