異世界転生 剣と魔術の世界

小沢アキラ

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第二部・一章 人界の真実

第五話

 扉の先は、予想に反して広く深い空間だった。
「わああああ!?」
 情けない悲鳴を漏らしながら、空中で騎士を抱えたまま前方宙返りを三回。直後、やや弾力のある床に背中から落下する。大きくバウンドしてから、今度はどすんと尻餅を突く。
 何度か頭を振り、平衡感覚が落ち着いてから、おそるおそる周囲を見回す。
「……………………あれっ」
 と、妙な声を出したのも無理はない。俺は、確か広場の噴水に開いた扉をくぐったはずだ。
 しかし、俺が座っているのは、古びた板張りの壁と天井、そして同じく木製の床に囲まれた廊下だった。落下時に弾力を感じたのは、下が板だったからだ。
 廊下は前方に十五メートルほど続き、突き当たりには温かみのあるオレンジ色の光がちらちら揺れる。周囲の空気さえ、ついさっきまでの冷たく湿った夜気に代わって、古い紙を思わせる乾いた匂いに満たされている。
 いったいここは……と思っていると、背中側の上の方でカリッというような金属音が聞こえた。振り向くと、すぐ目の前にえらく急な階段があり、その上に、小さな扉と一人の少女が静かに立っていた。
 俺は、よろよろと体を起こすと木の階段を慎重に上った。視線の先にある扉は、壁や床と同じ木製。だが、廊下の古色蒼然とした感じに対して、なぜか扉だけが真新しい白木だ。
 天辺から三段下まで辿り着いたところで、扉の前で背を向ける人影が、さっと右手を挙げて俺を制した。その手にはやたらと真鍮製の鍵束が握られていて、扉の鍵穴から抜いたばかりといった風情だ。数秒前に聞こえた金属音は、この人物が扉を施錠した音だと思われる。
「……降りて下さい」
 謎の人物は低く呟くと、俺を追い立てるようにもう一度右手を振った。やむなく質問を中断し、もう一度廊下まで降りる。倒れたキクノの隣まで戻り、振り向くと、ちょうど誰かさんも降りてきたところだった。
 一瞬、新手の騎士かと疑ったが、すぐに少女の腰にも背中にも、短剣の一本たりとも装備されていないことに気付く。服装も、おおよそ戦闘には向かなそうな、簡素な黒い長スカートだ。胸から膝下まで垂れる白いエプロンの、縁取りに施された控えめな透かし編みだけが唯一装飾的と言ってもいいもので、あとは装身具のひとつも身につけていない。
 少し灰色がかった茶色の髪は眉と肩の線でまっすぐに切り揃えられ、血色の薄い顔も特徴を見出しにくい造作だった。整っているが感情を見受けられる表情が一切ない。歳はカズヤより少し上、と見えたが確信は持てなかった。
 いったい何者だろう、とカズヤは少女の眼を見ようとしたが、伏せられた睫毛に隠れて、瞳の色さえ判らない。
 階段を降りた少女はこちらの顔を見ようとせず、エプロンの前で両手を揃え、初めて声を発した。
「廊下をお進み下さい。その先で、騎士キクノを治療します」
 最低限の抑揚だけを備えた、いかなる感情を窺わせない声。俺は慌てて騎士を抱き抱え明かりの方へと歩いた。たちまち短い通路を抜け、奇妙な場所に出る。
 相当に広い、真四角の部屋だった。壁にはランプが幾つも取り付けられており、温かい色調の炎を揺らしている。他に調度らしきものは一切なく、正面の壁に重厚な木製扉が一つ見えるのみだ。
 きょろきょろと周囲を見回していると、続いて出てきた少女が、くるりと振り向き廊下に向かって右手をかざした。
 異世界転移してから常識破りの現象が立て続けに起きているため、ある程度の耐性が付いていると自負している。突然見知らぬ通路に出てきたことには度肝を抜いたが、もうこれ以上驚くことはあるまいと思っていた。が、続く現象に俺は再び度肝を抜かれた。
 通路の奥の方から、左右の壁板がごんごんと音を立てて順繰りに迫り出し、地響きとともに組み合わさっていくではないか。
 わずか数秒で長さ十五メートルの廊下は完全に閉ざされ、最後に上下左右から突き出した板が接合すると、そこはもうただの壁でしかなかった。直前まで存在した廊下の痕跡はまったく、凹みひとつさえ存在しない。
 魔術としても、相当に大掛かりで無駄な高位魔術だ。あれだけの質量の物質を動かすには、長い魔術構文と集中力が必要となるだろう。驚くべきことは、謎の少女が、それを無言で実行してのけたこもだ。
「なんでしょうか」
 何事もなかったかのように右手を下げると、体を俺に向けた。すると次に少女は左手を振ると、傍らの床から長方形の長テーブルが迫り出すように出現する。これも、相当な高位魔術がなければ出来ない芸当だ。
 迫り出てきた長テーブルに動揺しながら少女に視線を向けると、一切動揺せずに冷酷無比な瞳をこちらに向けながら、少々は静かに告げた。
「騎士キクノを治療します。そちらに寝かせて下さい」
 思考の理解が追いつかない中でも、今はキクノを救う事がなによりも優先されることのため、俺は少女の指示に、一切の疑惑も疑問を抱かずに従った。
 鎧姿のまま長テーブルの上で横にすると、テーブル周囲の床から幾筋もの黄金色の光の帯が伸びてきた。光帯は解れながら空中を滑り、キクノの身体の各所へと吸い込まれていく。
 騎士の全身が黄金色の光に包まれた。驚くべき現象に眼を瞠ったカズヤは、少し遅れて、傷口からの出血が完全に停止していることに気付いた。
「これは、一体──」
 何ですか、とカズヤは言おうとしたのだが、騎士の身体を覆う黄金色の光が強く輝いた。思わずカズヤは眼をつぶり、再び見開いた時には、もう騎士の姿は完全に消滅していた。
「……キクノさんは、どこに」
 振り向き尋ねると、少女は今の現象にさえ眉一つ動かさなかったのか、変わらず涼しげに告げた。
「治療に専念するために、別の空間へと転送させました」
「そうか……なら良いんだ」
 あれだけ高位な魔術を駆使しての転送ということは、最早疑いようがない。創世神が、こちらの応答に応じてくれたことが。
 俺の願いは、女神像を通じて創世神に届いたのか、真相はこの際どうでもいい。天界の騎士であるキクノが助かるので有れば、過程などどうでもいい。
 俺は治まっていたはずの涙が数滴、頬を伝い木製の床に落ちた。だが今回の涙は、悔しさなどの負の感情がこもった涙ではなく、嬉しい気持ちなど正の感情がこもった涙だった。
 ──良かった……あの人が死なずに済んで……。
 流れる涙を今度は止めようとせず、自然に泣き止むまで待ち続けようとした。が、しかし。
 少女はこちらの状態などお構いなしに言った。
「そちらの扉から、向こうの部屋に入って下さい。あのお方が、あなたを待っております」
 前方の重厚な木製扉に手を差し向けながら、簡潔すぎる申し立てを言い放ってきた。
 冷酷すぎる対応に唖然としながら、目元を拭いながら尋ね返した。
「あなたは、一体何者なんですか」
「お答えする義務はありません」
 きっぱり断られてしまい、流れていた涙が思わず引っ込んでしまった。
 彼女自身が創世神という可能性も考慮したが、言動や物腰から絶対にないと断言できる。先の高位魔術に似た何かといい充分にあり得たが、騎士が負傷しているというのに眉一つ動かさない冷酷さ、まるで気にも留めていないような素振りから、慈悲深い創世神とは正反対に位置する性格だと確証できる。
 それに、創世神は偉大なる神。──これは偏見になってしまうが──古来より、そういった人物は派手な装飾品などを身に纏っていると定義付けられている。失礼だが、眼前に立つ少女は明らかに素朴な格好をしている。とてもお偉い立場の人間とは思えない。
 少女に会釈してから扉の方へ振り返り、正面の壁にある大きな扉に向かって歩き始める。扉の真正面に立つと、少女の右手一振りで扉が勝手に開くのを見て、律儀にもう一度驚く。
 扉をくぐり、まず視界に入ったのは、精密な模様に編み込まれた、驚くほど毛足の長い深紅の絨毯だった。中都の織物屋で買ったら幾らするのか見当もつないそれが、視線を前に上げても上げても、どこまでも続いている。
 顔をまっすぐ向けると、ようやく、ずっと離れたところに壁が見えた。
 壁と言っても板張りや石積みではない。巨大な黄金の柱が等間隔に並び、それらの間には巨大な板硝子が嵌め込まれている。だから、実際には壁というよりも連続した窓なのだろうが、硝子をこれほど惜しげもなく使った部屋は、中等修剣士寮の大浴場しか知らない。
 総硝子張りの壁の向こうには、月光受けて青く輝く雲と星が幾つも輝いている。それも、広場で見た時よりも近くで。どうやらこの部屋は、かなりの高層部らしい。
 視線をさらに持ち上げていくと、夜空の一角に青白い満月が浮かんでいた。その周囲では、驚くほど沢山の星々が静かに瞬いている。濃密な星空から降り注ぐ光があまりにも明るくて、深夜であることを一瞬でも忘れてしまった。
 最後にカズヤは、真上を振り仰いだ。広い天井には、見事な絵が色鮮やかに描き出されている。光り輝く騎士、退けられる魔界の民、二つの世界を分かつ壁……どうやら創世記の絵物語になっているらしい。
 しかしどうゆうわけか、絵の主題からして絶対に必要と思われる『創世神と邪教神』の姿が、あるべき中央部に存在しない。そこは純白に塗り潰され、何とも言えない虚無感が絵全体を支配している。
 しばし眉をひそめてから、カズヤは顔を戻した。
「…………!?」
 カズヤは絶句した。視線の先に存在したのは、驚くほど巨大なベッドだったのだ。
 先程は絨毯にのみ意識が向いていて気付かなかったが、部屋と同じく円形のベッドは、差し渡しが十メートル近くもありそうだ。四本ある黄金の柱が、同じく金張りの天蓋を支え、そこから白色の薄布が幾重にも垂れ下がっている。寝台は、絹らしき純白の敷布に覆われ、窓から差し込む星明かりを受けて、仄かに輝く。
 そして──ベッドの中央には、横たわる人影が一つ。天蓋から垂れる半透明の薄布に遮られて、おぼろげな輪郭しか見えない。
 カズヤは息を呑み、ベッドの人影に眼を凝らした。どんなに背伸びをしても、ベッド中央に垂れ下がる薄布に隠されて顔は見えない。
 足音を殺してベッドに近付き、息を殺しながら、そっとベッドに右膝を乗せる。
 ふかっと霜雪なように深く沈み込み、カズヤは慌てて両手を突いた。そこ手もまた滑らかな布地に沈んでしまう。
 こんなベッドで一日中眠れたら最高なんだろうなぁ~。と物思いに背中を震わせてから、音を立てないようにそっと左脚もベッドに乗せた。そのまま四つん這いで、ゆっくり、ゆっくりと中央を目指す。
 有り得ないほど巨大な寝台を慎重に這い進みながら、天蓋から垂れる薄布の手前で一旦前進を止め、耳を澄ませた。ごくかすかに、規則的な呼吸音が聞こえてくる。相手はどうやら眠っているようだ。
 おそるおそる、右手を伸ばす。指先を薄布の下に差し込み、ゆっくり、ゆっくりと持ち上げる。
 青白い光がベッドの中央まで届いた瞬間、カズヤは両眼を見開いていた。
 
 横たわっているのは、一人の女性だった。

 銀色の縁取りがついた白の薄物をまとい、身体の上で、雪のように白く華奢な両手を組み合わせている。腕や指は小枝のように細いが、そのすぐ上で薄い布を押し上げる二つの膨らみはとても豊かで、無意識に視線が釘付けになる。慌てて視線を通過させるも、広く開いた襟ぐりから覗く胸元とまた、輝くように白く、視線を釘付けにした。
 最後に、カズヤは女性の寝顔を見た。
 その瞬間、視界から他の全てが消え去った。

 何という造形の完璧さだろうか。もはや人とは思えない。

 異世界の女性の多くは美貌が多い。サヤやユリは学生とは思えないほど可憐だった。騎士となったセレナやキクノも非の打ち所のない美貌だったが、しかし彼女らの美しさはまだ人間の範疇に収まっていた。それが当然なのだ、彼女らは人なのだから。
 しかし、ほんの一メートル離れたところで眠る、この存在は──。
 容貌のたった一部分すら、形容する言葉をカズヤは思いつけなかった。唇一つですら、何に喩えればいいのか解らない。
 閉じられた瞼を縁取る睫毛も、敷布に流れる長い髪も、純金を溶かしたかのようだ。薄闇の蒼と月光の白を映して、冷たく煌めいている。
 カズヤは、いつしか甘い蜜に惑う羽虫のように、考える力を奪われていた。
 この手で触れてみたい。そんな欲求だけが、空っぽになった頭を満たしていく。
 じりッと膝を進めると、これまで嗅いだことのない種類の仄かな香りが、ふわりと漂う。
 伸ばした右手の指先が、もう少し……あと少しで、滑らかな肌に届く──。

 直前。

 眠る女性の、金色の睫毛がかすかに震えた。
 白い瞼が、ゆっくり、ゆっくりと持ち上がっていくのを、カズヤは呆然と見詰めた。視線さえ動かすことができない。
 女性は、薄く開きかけた瞼を一度閉じ、まるでカズヤを焦らすように、ゆっくりとした瞬きを繰り返した。そして三度目で、ついに瞼を完全に持ち上げた。
「あ…………」
 自分の口から零れた吐息を、カズヤは自覚できなかった。
 露わになった瞳は、これまでどんな人間の眼にも見出したことのない、純粋な金色だった。まるで鏡のような光彩を、淡い七色の輝きが、水面のようにたゆたいながら彩っている。この世に存在するどんな宝石すらも色褪せてしまうほどの、神々しい煌めき。
 ベッドの上で膝立ちになったまま、石像のように固まってしまったカズヤの眼前で、目覚めた女性はまったく重さを感じさせない動作でゆるゆると上体を持ち上げた。両腕を胸の下に置いたまま、不可視の力に引かれるかのように起き上がると、長い金色の髪も、風もないのにふわりとたなびいてからひと筋にまとまって背中に流れる。
 眼を開けたことで、ほんの少し幼さが加わった女性は、カズヤの存在など気にも留めぬ様子で右手を口許に持ち上げ、小さなあくびをした。
 まっすぐ伸ばしていた両脚を、揃えて左に折る。細い体の重心が傾くと、右手を敷布について支える。
 その艶めかしい姿勢のまま、女性はついに顔を右に動かし、まっすぐにカズヤを見た。
 二つの小さな鏡に映り込む、唖然とした自分を眺めていると、女性の艶やかな真珠色の唇が小さく動いた。蜂蜜のように甘く、水晶のように清らかな中に、ひと垂らしの艶めかしさを持つ声が、言った。

「待っていましたよ。水樹和也」

 何を言われたのか、理解するのにしばらく時間がかかった。久方振りに呼ばれた自分の名前を認識するのに、かなりの時間を費やした。
 理解が追いつくと、女性と口を聞くことへの緊張でつい声が嗄れてしまった。
「水樹和也って……何故あなたは、俺の名前を……」
 嗄れ声の問いに、女性は天使のような微笑みを浮かべ、混乱している俺を心の底から安心させるような、優しい声色で言った。
「私は、ずっとあなたを待っていたのです。ここで、ずっと」
「俺を……待っていた……?」
「そうです。私は、あなたの魂を転移させた張本人なのですから」
「…………!?」
 途端、俺の思考力は正常に戻り、絶句した。
 女性は今、俺を転移させた張本人と公言した。それはつまり、この女性が──。
 その先を、女性自らが答えた。
「私の名はヒヅキ。人界語で言う、創世神です。お会い出来て嬉しく思います。水樹和也君」

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