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第二部・最終章 最高の騎士
第三十四話
愚餓の行方を捜す最中、不意に、頭の中で泡のように弾けた声が、現実のものだとはすぐには気付かなかった。
『カズヤくんが危ない!』
艶やかな響きのある女性の声だった。
いままで知り合った誰の声でもないのは容易に解る。ならば、今の声は一体……。
──そんなこと、どうでもいい。
カズヤの身に危険が及んでいるのなら、如何なる理由があろうと助けに行かなければいけない。それが任務であり、偽りの人格である私が持つ、唯一の意思なのだから。
今まさに振り下ろされる直前だった剣を受け止める拮抗状態に入るも、邪教神は何かを警戒したのか、剣を素早く戻し後方へ飛び退いた。
セレナはそっと腰を屈め、空いた左手をカズヤの背中に当て、呟く。
「遅れてしまい、申し訳ありません」
ここに到着した時点で大体の状況は理解できてはいるが、直に触れて分かった。今のカズヤには、以前のような強い意思が宿っていないと。
カズヤは、何故かここにいる兎を強く抱きしめながら、弱々しい口調で答えた。
「こいつが……スコッドが、俺を守ってくれたんだ」
その名を、セレナは知っていた。創世神から任務の説明の際、カズヤをずっと観察していた生物についての話を聞いている。確か、その監視生物の名がスコッドだった。
だが、おかしい。監視生物であるスコッドには、自分の明確な意思は存在せず、与えられた命令を忠実に遂行する、命を持った道具のようなものと、創世神様自身が仰っていた。
既にカズヤの観察という任は解かれ、労をねぎらい、望むように生きるよう言われた監視生物が、カズヤを守るような真似を。
もしや、カズヤの特異点たる未知の影響が、意思を持たないはずの監視生物にも、命令に背く明確な意思を宿らせた、というのか。
「スコッドは、俺を監視するために張り付いてたのに、なんで、俺なんかのために……」
カズヤは、既に息絶えた亡骸を強く抱きしめながら、滲む涙を堪えようとせず流し続けた。
「監視生物のこいつには、意思なんてないはずだろ……でもさ、スコッドは俺に言ったんだ。一緒に旅ができて、楽しかったって……。最後の時間を一緒に過ごせて、嬉しいって……。おかしいよな、何百年も生きてきたくせに、なんで俺と過ごした時間が楽しいんだよ……」
「……そんなの、決まってるでしょ」
不意にセレナは声を強め、その先を決然と言い切った。
「監視生物に意思が宿るほど、お前のことを守りたかったからに決まってます。長い時間で、たった二年とはいえ、有意義な時間を過ごさせてくれたから、自らの命を犠牲にお前を守ったんです」
「そんな……そんなのって、ないよ……俺なんか、守る価値なんてないのに……なんで」
「守る価値がないなんて、悲しいこと言わないで下さい」
泣き崩れるカズヤの背中をさすりながら、諭すように続けた。
「スコッドはお前を守りたいと思ったから、自らの命を散らした。お前が自分の存在を否定することは、スコッドの命懸けの行為を侮蔑するのと同等の意味になってしまいます」
「で、でも……でもさ」
その先を口にすることが出来ず、抱きしめた骸をじっと見詰めた。
セレナはその隙に、カズヤの肩から手を離し、切り裂かれた胸に手を添えてから、治癒術を詠唱する。
傷はかなり深いため完治するのは不可能だが、せめて出血を止めるまではできる。しかし、例え傷が治ったとしても、カズヤが負った心の傷は決して癒えない。
命の恩人たるカムイと戦い、最初から最後まで旅を共にしたスコッドを失ったカズヤは、私では想像すらできないほど深い悲しみに囚われている。それはつまり、生きようとする意思がないのと同義。
カズヤの体は、意思の力が直接関係してくる。今のように、絶望の淵に立たされたカズヤでは、恐らく初等修剣士にも勝てない。
ならば、私が今取るべき行動は一つしかない。
セレナは、生気のない蒼白な顔をしたカズヤを見つめ、微笑みを浮かべた。
「……安心して、カズヤくん。あなたは、私の命に変えても守るから」
断片的な記憶の中で見た、本当の──彼と過ごしたセレナの口調を真似ると、カズヤは一瞬両眼を見開き、またもや涙を流した。
「お前……なんで、セレナの真似なんかを」
「仕方ないでしょ。……私じゃ、あなたを慰めることは出来ないのだから」
哀愁に塗れた言葉を放ち、カズヤの涙を右手で払ってから、騎士は悠然と立ち上がり、堕天の神をその双眸で真っ直ぐに見据えた。
離れた場所で、一連のやり取りを黙って見守っていた邪教神は、すぐには言葉を発さなかった。
やがて、氷のような無機質な表情と同じほどの、全く温度を感じさせない冷徹な言葉が放たれた。
「なるほど。貴様が、小僧の心の支えか」
次第に残虐な笑みが浮かび上がっていく顔色には、一種の狂気じみた醜悪さが滲み出ている。
「いいぞ……。唯一の心の支えである貴様が死ねば、絶望に墜ちる寸前にある小僧の意思は、見事に消滅するだろう」
「……悪いけど、それは無理です」
毅然とした態度でそう言い返すと、セレナはもう一度カズヤの顔を──今度は哀しみに染まった眼で見詰めてから、続けた。
「彼の心を支えているのは、私じゃない。彼が本当に望んでるのは、違う私だから……例え私が死んでも、絶望に屈したりはしない」
セレナは、胸中に収めておけばいい真実を、自分の口から公言してしまった。
本当ならば、騎士セレナである私がカズヤの心を支えてあげたい。でも、それは決して許されない所業。
私は表に出てきてはいけない存在であり、セレナの肉体を支配している、いわば邪教神同等の存在。許されない存在の私が、人の心を支えていいわけがない。
邪教神は、一瞬両眼を細めてから、仕方なさそうにため息を吐いてから剣を構えた。
「なんだっていいさ。小僧が絶望してくれれば、それで構わん」
「そんなこと、絶対にさせない。人界の希望になり得るカズヤは、私が守り通してみせる。例え、私の意思が折れようとも」
華焔剣をゆっくりと上段に振りかぶり、セレナが叫んだ。
「堕天の神、邪教神……改めて、勝負!」
ぶんっ! と空気を揺らして、白銀の騎士が地を蹴った。離れに立つ邪教神に向かって、普通の人間とは思えない速度で突っ込んでいく。
カズヤは途端、「やめろ!」と叫ぼうとした。
今の邪教神は、セレナも知り得ない未知の剣技を習得した強敵。連続技への対応がまだ完璧じゃないセレナには、それだけでも十分に脅威だ。このままでは、彼女の一撃を受け止めた後に、二撃目をもろに受けることになる。
カズヤの読み通り、セレナの上段斬りに対して邪教神は素直に剣を頭上に掲げた。あの動きでは、上段から連続する中段を防げない。
赤い雷光となって振り下ろされたセレナの剣が、激凍剣と衝突し、青白い火花を散らした。
しかし、それに即座に続くべき二撃目は発生しなかった。
カズヤとの撃ち合いでは一切怯まなかった邪教神の剣が、まるで大岩を小枝で叩いたかの如く下方へ大きく弾かれ、体勢を崩したからだ。
「うおっ……」
二歩、三歩と不格好によろける邪教神に向かって、流水のように滑らかな足捌きでセレナが迫った。
ぴんと指先まで前に伸ばされた左手。体を大きく開き、後ろにまっすぐ掲げられた華焔剣。実戦向きとはいえない古流の型だが、流れる金髪や翻るスカートと相まって、その姿は一幅の絵画のように優美だった。
「エェェイッ!」
高く澄んだ気合とともに、大きな半円を描いて剣が撃ち込まれた。速度は恐るべきものだ。しかし動作があまりにも大袈裟だ。
体勢を回復した邪教神は、充分な余裕を持って剣を左に備えた。
がかぁぁん! という大音響を放って、二振りの剣が衝突した。
コマのように回転しながら吹き飛ばされたのは、今度も邪教神のほうだった。地に手を突き、転倒を回避している。
ここに至って、ようやくカズヤにも、眼前で何が起きているかを理解した。
一撃の重さが、まったく違うのだ。
焔天剣は一撃の重さよりも連続技を繰り出すために、同等の武器──神器の中でもまだ軽い部類に入る。無論、一般販売される剣に比べれば何倍の重量を持つが。
セレナの持つ華焔剣は、おそらく焔天剣の数倍にも達する重量を秘めている。それをあれほどの速度で振られては、弾くのはおろか、受け止めることさえ至難だろう。
その事実を悟ったらしい邪教神は、素早く立ち上がったものの、慄然とした表情で更に数歩下がった。それを、セレナが滑るような動きで追う。
続く邪教神の戦いは、俺の時とは一転した一方的な展開となった。
舞うように典雅な型で、セレナが次々と斬撃を繰り出す。邪教神はそれを懸命に受けるが、そのたびに無様に吹き飛ばされる。体捌きだけで回避できれば反撃の機会もあろうが、セレナの剣は大振りであっても凄まじく速く狙いも精妙で、とても綺麗に躱すことなどできない。
以前まで、フロリダ率いる女騎士団に惨敗していた彼女とは思えないほどの、怒涛の連続技……いや、あれは違う。古流の型の繋ぎ目を模索し、それを実行することで連続技のように魅せている。
おそらく、彼女は学習したのだろう。自分の弱さを克服するために、愚直にも何百回と剣を振り、連続技に対応できるように。
わずか五回の攻防で、邪教神はかなり消耗したのか肩で息をしている。
窮地に陥った敵に涼しい表情で剣尖を向け、セレナが言った。
「なるほど。──私の撃ち込みをここまで凌ぐとは、それなりの実力を持っているようですね。しかし……人界を守護する騎士の信念を前に、貴様のような堕天の神が持つ穢らわしい信念など、天と地ほどの差があることをその身を持って学びなさい」
白銀の騎士の優美な立ち姿に、隙は一切ない。たとえ背後から魔術を発動させたとて、瞬間的に対処してくるだろう。
対する邪教神は、もうひと言も発しようとせず、沈黙を貫いていた。
「では──覚悟」
華焔剣がすうっと円弧をなぞり、天を指して垂直に構えられた。
一瞬の静寂。
びゅおおっ! と空気を引き裂いて、赤色の光が走った。
限界まで両眼を見開いたカムイの右手が、霞むほどの速さで動いた。
高い金属音。一条の火花。
受けるのではなく流したのだ。剣と剣を最小限の角度で接触させ、セレナの途轍もなく重い一撃をほんのわずかに逸らす。
重々しい衝撃とともに華焔剣が貫いたのは──カムイの頭の一センチ左、石造りの家の壁だった。切断された髪が空中で散り散りに消滅した。
直後、カズヤは見た。
まず、激凍剣の剣尖から青黒い粘液めいた光が伸びる。それはセレナの胸に触れた。
光に触れた瞬間、セレナは石化したように動きを止めてしまい、壁に刺さる剣を引き抜こうとしなかった。
邪教神が、高々と剣を掲げる。
そして、セレナの右脚に向かって──。
「やめろぉ────ッ!!」
叫びと同時に、剣が悠然と振り下ろされ──
セレナの右脚を、音もなく斬り飛ばした。
俺の網膜に無音で焼き付いたその光景に、やがて音と感触が追いついた。
斬り飛ばされた右脚がこちらに滑り、感覚を失った両手に当たる。
「セレナ──────!!」
誰かに呼ばれた声が耳に届くと同時に、右脚から激痛が襲いかかってきた。
最初に捉えた視覚情報は、右脚の切断面だった。分断された面から、恐ろしいほど大量の血液が溢れ出し、一瞬にして血溜まりが出来上がった。
何が起きたのか、全然解らなかった。突然意識が途絶えたと思えば、途端に右脚が斬り飛ばされていた。
そういえば、カズヤが話していた。邪教神は意識を途絶えさせる光を放つ。俺もそれを受けて、左腕を斬り落とされた、と。
「ぐっ…………」
剣を血溜まりに突き立て、倒れそうになる体を強引に支える。片足がないだけで、まっすぐ立つことが一段と難しくなる。
切断面からは未だ血液が溢れている。このまま放置していたら、数分後には死ぬ。だが、片足の損傷ともなれば、治癒術での完治は難しい。豊潤な空間魔素と高位治癒術を長時間施さなければ、死という未来を数分先送りにするだけだ。
高位治癒術を詠唱するのも、眼前の邪教神を倒さなくては不可能。かといって、手負いの私ではもう邪教神は倒せない。
つまり、現時点を持ってセレナが助かる道はなくなったことになる。
──ごめんなさい、セレナ
最後の思いは、自分ではない自分への謝罪だった。
──騎士として戦う必要のなかったあなたの身を傷つけて、本当にごめんなさい。
本当なら、あなたは今でも教会で魔術の勉強に明け暮れながら、想い人の帰りを待っていたはずなのに。
謝罪を終えると、セレナは顔を後ろに向けた。
視覚が捉えたのは、私なんかのために涙を流す、心優しい剣士──カズヤ。
偽りの存在である私のために、泣いてくれるなんて……。
「……元気でね、カズヤ」
そのひと言を最後に、セレナの体に一振りの長剣が突き込まれる。
どっ、というその音は、先の激突と比べればあまりにもささやかだった。しかしそれは同時に、戦いを決する音でもあった。
セレナの細い背中から、凶悪なまでに鋭い切っ先が現れ、真紅の雫を撒き散らした。長く美しい金髪が、鮮血に濡れながらふわりと流れた。
左右に分断された白銀の胸当てが、粉々に砕ける。騎士の右手から華焔剣が抜け落ち、血溜まりに沈む。
最後に、剣から青黒い光が放たれ、セレナの意思を吸い取る。
そして、邪教神は見た。
騎士の体内にある──虹色に輝く光を。
瞬間、邪教神は口を大きく開き、女の意思をあまさず吸い込んだ。
恐れや痛みが生み出す苦味。
悔恨と悲壮の酸味。
それらに続いて、邪教神の味覚を、得も言われぬ天上の蜜が浸した。
閉じた瞼の裏に、朧な光景がちかちかとフラッシュする。
晴天空の下、愚直に斧を振る特異点。こちらに気付くと、顔を輝かせ、嬉しそうに駆け寄ってくる。
その映像が消えると、今度は傷だらけの特異点が、温かく、力強く抱擁する。
『大好きだよ、カズヤくん』
かすかな声が生まれ、反響し、遠ざかった。
全てが消え去ってからも、邪教神はしばしその余韻に浸った。
素晴らしい。なんと、なんとも美味なる意思だ。
恐らく、今見た映像は騎士ではない他の者の意思だが、どうでもいいことだった。
死にゆく女が最後に抱いた感情──愛を余すことなく摂取し、味わい尽くした。それはまるで、天上の甘露。
邪教神は、体を大きく仰け反らせると、無音の笑いを放った。
俺は──。
本当に、救えないほど愚かで、学習しないのだと、この瞬間に痛感させられた。
虚ろに眼を開いたまま、両腕に残るスコッドの温かさにすがりつくように、自分の体を抱き締める。しかし、仄かな温度も、俺の内側に広がる虚無を埋めるには足りなかった。意識も、肉体も、魂までもが空っぽになってしまったかのようだった。
もう、終わりにしてくれ。
そんな思考が、虚無の奥から泡のように浮かび、弾けた。
俺は、あらゆる意味で敗れた。
俺がいまこの場所に存在する理由はただひとつ、邪教神を倒してみんなを守るため。なのに、実際には俺が多くの犠牲に守られ、こうして無力に蹲っている。
──もうこれ以上、何も見たくない。聞きたくない。
俺はただ、自分の消滅を願った。
血の海に立つセレナの、白く表情を失った美貌に、かすかな感情の色彩が浮か──んだように見えたが、すぐに消えた。
「さて、多くの邪魔が入ったが、最後は貴様だ」
何故か嬉しそうに口角を上げた邪教神が、絶望する俺に瞳を向けた。
「小僧。可能なら、出来るだけ血と悲鳴を上げて、最後を迎えてくれないか? その方が、私にとっても有意義な時間となるからな」
口を閉じると、セレナから激凍剣を抜き取り、血溜まりの上を歩き始めた。
死が、かすかな足音を響かせて近づいてくる。俺はそれを、跪いたままただ待ち受ける。
そんな時だった。
『カズヤくん』
俺の名を呼ぶ声。温かく、包み込むような、優しい声。
『カズヤくん』
ゆっくり、ゆっくりと顔を上げた俺が見たのは。
光が全く差し込まない、暗闇の世界だった。
いや、これは、今の俺の心だ。
多くの犠牲を払い、何も無くなってしまった俺の胸中そのものだ。そこには希望の光もなければ、生きたいと思う意思も願いもない、ただ絶望の闇しか存在しない虚無空間。
そんな中、無限の暗闇が広がっている場所に、二本の足でしっかりと立つ彼女の姿があった。
黒の修道服を着込み、頭の両側で結えた金髪は闇の中でも艶やかに輝き、唇には穏やかな微笑が浮かんでいる。
茶色の瞳には、異世界に転生してからいつも俺を支えてくれた、優しくて力強い光だけが満ちていた。
俺は、それを差し伸べながら立ち上がった。
わななく唇から、彼女の名を呼ぶ声が密やかに零れた。
「……セレナ」
もう一度。
「戻ってきたんだね、セレナ」
人界で一番大切な人であるセレナは──。
笑みにほんの少しの哀しみを滲ませ、そっとかぶりを振った。
『私は、もう二度と戻らない。私の意思は、魂は、邪教神に呑み込まれてしまったから』
その一言は、俺を更なる絶望へと誘った。
「じゃあ……今の君は、何者なの……?」
『今の私は、あなたの中にある記憶──思い出の中にいる、記憶の欠片』
「思い出……記憶の、欠片」
『そう。カズヤくんが私を覚えてくれている限り、私と言う存在は消えない。思いは、繋がれていく。……後ろの、彼女のようにね』
セレナは右手を上げ、俺の後ろを指差した。
振り返る。そして、息を呑む。
春に咲く桜のような桃色髪のショートヘアに、ツンとした可愛らしい鼻。くりくりと大きな瞳には、心の底から尊敬するほどの意思が宿っている。
学園で守ることが出来なかった、法に背く勇気を与えてくれた彼女──ユリは、俺のことを一切恨んでいないような笑顔を浮かべながら進み出て言った。
『わたしたちとカズヤくんは、ずっと心で繋がってる』
反対側に進み出たセレナが、顔の横で結わえた髪を揺らして頷く。
『この繋がりは、あなたの心が紡いできた、旅の中で見つけた、大切な宝物……それがある限り、わたしたちは、あなたの中でずっと生き続ける』
『たとえ、どんなに遠く離れていても、いつか別れる時が来ても、思い出が、気持ちは永遠に残り続ける』
俺の両眼から、熱く透明な雫が溢れた。
一歩前に踏み出し、救えなかった二人の瞳を懸命に覗き込んだ。
「俺は、今も迷ってるんだ……自分が人間なのか、別の存在なのかを……。教えてくれ、二人にとって、俺は一体なんなのかを」
情けない泣き言を、二人は優しく微笑んでから、頷いた。
『自分が何者かなんて、自分で決めていいんだよ。人族も、獣人族も、みんなそうしてるよ』
その言葉に、俺は思い知らされた。
自分が、如何に下らないことで悩んでいたのかを。
悩む必要なんて、なかったんだ。俺は、水樹和也という存在は、誰がなんて言おうと人間だ。どんなに姿が変わろうと、俺が自分を人間だと信じていればいいだけの話だった。
瞬間、虚無空間に一筋の光が差し込んだ。それはカズヤをまっすぐ照らし出し、周囲の暗闇を遠のけていく。
『行って、カズヤくん。わたしたちは、ここであなたをずっと見守っているから』
『忘れないで。意思が消えても、あなたを思い続ける人がいることを』
答えは速やかで、揺るぎなかった。
「忘れないよ。俺を見守ってくれる、二人のことを」
鋭利な刃が、カズヤの右腕を斬り落とそうとした、まさにその瞬間。
立ち上がりざまに振り抜いた黒い剣の切っ先が、ぎりぎりのところで斜め下から銀色の剣を迎撃し、凄まじい火花を散らした。
発生した衝撃は、邪教神を俺から引き離し、後方へと押しやった。
「なにっ!?」
驚愕の声を上げながら下がる邪教神とは対照的に、至って冷静なカズヤは唇をかすかに動かした。
「リベラシオン……」
冷ややかな一言を告げ──。
焔天剣が紅く煌めき。
カムイの左腕を、斬り飛ばした。
「──ッ!!」
邪教神は、斬り飛ばされた左腕にではなく、カズヤの身に起きた異変に絶句した。
先ほどの脆弱な意思とは根本が違う。己の運命を受け入れた、鋼の意思に変わっている。
「貴様、随分といい面になったじゃないか。ようやく、自分が人間じゃないと認めたか」
「……認めたさ」
カズヤの声は、牢乎とした意思に満ちていた。
「ある人が言った。現状維持なんて求めれば、大切な人を失うと。俺が迷い続けるから、失う必要のない命が散っていった」
焔天剣を握る手に、力が込められる。
「だからもう、俺は迷わない。これ以上、大切な者を失わないためにも、俺は迷いという感情を捨てる」
真の解放術によってその身を変えた焔天剣を、邪教神に向ける。
「ここからは、お前が望む俺が相手をしてやる。そして知れ。生きとし生きる全ての者が持つ、意思の強さと、輝きを」
『カズヤくんが危ない!』
艶やかな響きのある女性の声だった。
いままで知り合った誰の声でもないのは容易に解る。ならば、今の声は一体……。
──そんなこと、どうでもいい。
カズヤの身に危険が及んでいるのなら、如何なる理由があろうと助けに行かなければいけない。それが任務であり、偽りの人格である私が持つ、唯一の意思なのだから。
今まさに振り下ろされる直前だった剣を受け止める拮抗状態に入るも、邪教神は何かを警戒したのか、剣を素早く戻し後方へ飛び退いた。
セレナはそっと腰を屈め、空いた左手をカズヤの背中に当て、呟く。
「遅れてしまい、申し訳ありません」
ここに到着した時点で大体の状況は理解できてはいるが、直に触れて分かった。今のカズヤには、以前のような強い意思が宿っていないと。
カズヤは、何故かここにいる兎を強く抱きしめながら、弱々しい口調で答えた。
「こいつが……スコッドが、俺を守ってくれたんだ」
その名を、セレナは知っていた。創世神から任務の説明の際、カズヤをずっと観察していた生物についての話を聞いている。確か、その監視生物の名がスコッドだった。
だが、おかしい。監視生物であるスコッドには、自分の明確な意思は存在せず、与えられた命令を忠実に遂行する、命を持った道具のようなものと、創世神様自身が仰っていた。
既にカズヤの観察という任は解かれ、労をねぎらい、望むように生きるよう言われた監視生物が、カズヤを守るような真似を。
もしや、カズヤの特異点たる未知の影響が、意思を持たないはずの監視生物にも、命令に背く明確な意思を宿らせた、というのか。
「スコッドは、俺を監視するために張り付いてたのに、なんで、俺なんかのために……」
カズヤは、既に息絶えた亡骸を強く抱きしめながら、滲む涙を堪えようとせず流し続けた。
「監視生物のこいつには、意思なんてないはずだろ……でもさ、スコッドは俺に言ったんだ。一緒に旅ができて、楽しかったって……。最後の時間を一緒に過ごせて、嬉しいって……。おかしいよな、何百年も生きてきたくせに、なんで俺と過ごした時間が楽しいんだよ……」
「……そんなの、決まってるでしょ」
不意にセレナは声を強め、その先を決然と言い切った。
「監視生物に意思が宿るほど、お前のことを守りたかったからに決まってます。長い時間で、たった二年とはいえ、有意義な時間を過ごさせてくれたから、自らの命を犠牲にお前を守ったんです」
「そんな……そんなのって、ないよ……俺なんか、守る価値なんてないのに……なんで」
「守る価値がないなんて、悲しいこと言わないで下さい」
泣き崩れるカズヤの背中をさすりながら、諭すように続けた。
「スコッドはお前を守りたいと思ったから、自らの命を散らした。お前が自分の存在を否定することは、スコッドの命懸けの行為を侮蔑するのと同等の意味になってしまいます」
「で、でも……でもさ」
その先を口にすることが出来ず、抱きしめた骸をじっと見詰めた。
セレナはその隙に、カズヤの肩から手を離し、切り裂かれた胸に手を添えてから、治癒術を詠唱する。
傷はかなり深いため完治するのは不可能だが、せめて出血を止めるまではできる。しかし、例え傷が治ったとしても、カズヤが負った心の傷は決して癒えない。
命の恩人たるカムイと戦い、最初から最後まで旅を共にしたスコッドを失ったカズヤは、私では想像すらできないほど深い悲しみに囚われている。それはつまり、生きようとする意思がないのと同義。
カズヤの体は、意思の力が直接関係してくる。今のように、絶望の淵に立たされたカズヤでは、恐らく初等修剣士にも勝てない。
ならば、私が今取るべき行動は一つしかない。
セレナは、生気のない蒼白な顔をしたカズヤを見つめ、微笑みを浮かべた。
「……安心して、カズヤくん。あなたは、私の命に変えても守るから」
断片的な記憶の中で見た、本当の──彼と過ごしたセレナの口調を真似ると、カズヤは一瞬両眼を見開き、またもや涙を流した。
「お前……なんで、セレナの真似なんかを」
「仕方ないでしょ。……私じゃ、あなたを慰めることは出来ないのだから」
哀愁に塗れた言葉を放ち、カズヤの涙を右手で払ってから、騎士は悠然と立ち上がり、堕天の神をその双眸で真っ直ぐに見据えた。
離れた場所で、一連のやり取りを黙って見守っていた邪教神は、すぐには言葉を発さなかった。
やがて、氷のような無機質な表情と同じほどの、全く温度を感じさせない冷徹な言葉が放たれた。
「なるほど。貴様が、小僧の心の支えか」
次第に残虐な笑みが浮かび上がっていく顔色には、一種の狂気じみた醜悪さが滲み出ている。
「いいぞ……。唯一の心の支えである貴様が死ねば、絶望に墜ちる寸前にある小僧の意思は、見事に消滅するだろう」
「……悪いけど、それは無理です」
毅然とした態度でそう言い返すと、セレナはもう一度カズヤの顔を──今度は哀しみに染まった眼で見詰めてから、続けた。
「彼の心を支えているのは、私じゃない。彼が本当に望んでるのは、違う私だから……例え私が死んでも、絶望に屈したりはしない」
セレナは、胸中に収めておけばいい真実を、自分の口から公言してしまった。
本当ならば、騎士セレナである私がカズヤの心を支えてあげたい。でも、それは決して許されない所業。
私は表に出てきてはいけない存在であり、セレナの肉体を支配している、いわば邪教神同等の存在。許されない存在の私が、人の心を支えていいわけがない。
邪教神は、一瞬両眼を細めてから、仕方なさそうにため息を吐いてから剣を構えた。
「なんだっていいさ。小僧が絶望してくれれば、それで構わん」
「そんなこと、絶対にさせない。人界の希望になり得るカズヤは、私が守り通してみせる。例え、私の意思が折れようとも」
華焔剣をゆっくりと上段に振りかぶり、セレナが叫んだ。
「堕天の神、邪教神……改めて、勝負!」
ぶんっ! と空気を揺らして、白銀の騎士が地を蹴った。離れに立つ邪教神に向かって、普通の人間とは思えない速度で突っ込んでいく。
カズヤは途端、「やめろ!」と叫ぼうとした。
今の邪教神は、セレナも知り得ない未知の剣技を習得した強敵。連続技への対応がまだ完璧じゃないセレナには、それだけでも十分に脅威だ。このままでは、彼女の一撃を受け止めた後に、二撃目をもろに受けることになる。
カズヤの読み通り、セレナの上段斬りに対して邪教神は素直に剣を頭上に掲げた。あの動きでは、上段から連続する中段を防げない。
赤い雷光となって振り下ろされたセレナの剣が、激凍剣と衝突し、青白い火花を散らした。
しかし、それに即座に続くべき二撃目は発生しなかった。
カズヤとの撃ち合いでは一切怯まなかった邪教神の剣が、まるで大岩を小枝で叩いたかの如く下方へ大きく弾かれ、体勢を崩したからだ。
「うおっ……」
二歩、三歩と不格好によろける邪教神に向かって、流水のように滑らかな足捌きでセレナが迫った。
ぴんと指先まで前に伸ばされた左手。体を大きく開き、後ろにまっすぐ掲げられた華焔剣。実戦向きとはいえない古流の型だが、流れる金髪や翻るスカートと相まって、その姿は一幅の絵画のように優美だった。
「エェェイッ!」
高く澄んだ気合とともに、大きな半円を描いて剣が撃ち込まれた。速度は恐るべきものだ。しかし動作があまりにも大袈裟だ。
体勢を回復した邪教神は、充分な余裕を持って剣を左に備えた。
がかぁぁん! という大音響を放って、二振りの剣が衝突した。
コマのように回転しながら吹き飛ばされたのは、今度も邪教神のほうだった。地に手を突き、転倒を回避している。
ここに至って、ようやくカズヤにも、眼前で何が起きているかを理解した。
一撃の重さが、まったく違うのだ。
焔天剣は一撃の重さよりも連続技を繰り出すために、同等の武器──神器の中でもまだ軽い部類に入る。無論、一般販売される剣に比べれば何倍の重量を持つが。
セレナの持つ華焔剣は、おそらく焔天剣の数倍にも達する重量を秘めている。それをあれほどの速度で振られては、弾くのはおろか、受け止めることさえ至難だろう。
その事実を悟ったらしい邪教神は、素早く立ち上がったものの、慄然とした表情で更に数歩下がった。それを、セレナが滑るような動きで追う。
続く邪教神の戦いは、俺の時とは一転した一方的な展開となった。
舞うように典雅な型で、セレナが次々と斬撃を繰り出す。邪教神はそれを懸命に受けるが、そのたびに無様に吹き飛ばされる。体捌きだけで回避できれば反撃の機会もあろうが、セレナの剣は大振りであっても凄まじく速く狙いも精妙で、とても綺麗に躱すことなどできない。
以前まで、フロリダ率いる女騎士団に惨敗していた彼女とは思えないほどの、怒涛の連続技……いや、あれは違う。古流の型の繋ぎ目を模索し、それを実行することで連続技のように魅せている。
おそらく、彼女は学習したのだろう。自分の弱さを克服するために、愚直にも何百回と剣を振り、連続技に対応できるように。
わずか五回の攻防で、邪教神はかなり消耗したのか肩で息をしている。
窮地に陥った敵に涼しい表情で剣尖を向け、セレナが言った。
「なるほど。──私の撃ち込みをここまで凌ぐとは、それなりの実力を持っているようですね。しかし……人界を守護する騎士の信念を前に、貴様のような堕天の神が持つ穢らわしい信念など、天と地ほどの差があることをその身を持って学びなさい」
白銀の騎士の優美な立ち姿に、隙は一切ない。たとえ背後から魔術を発動させたとて、瞬間的に対処してくるだろう。
対する邪教神は、もうひと言も発しようとせず、沈黙を貫いていた。
「では──覚悟」
華焔剣がすうっと円弧をなぞり、天を指して垂直に構えられた。
一瞬の静寂。
びゅおおっ! と空気を引き裂いて、赤色の光が走った。
限界まで両眼を見開いたカムイの右手が、霞むほどの速さで動いた。
高い金属音。一条の火花。
受けるのではなく流したのだ。剣と剣を最小限の角度で接触させ、セレナの途轍もなく重い一撃をほんのわずかに逸らす。
重々しい衝撃とともに華焔剣が貫いたのは──カムイの頭の一センチ左、石造りの家の壁だった。切断された髪が空中で散り散りに消滅した。
直後、カズヤは見た。
まず、激凍剣の剣尖から青黒い粘液めいた光が伸びる。それはセレナの胸に触れた。
光に触れた瞬間、セレナは石化したように動きを止めてしまい、壁に刺さる剣を引き抜こうとしなかった。
邪教神が、高々と剣を掲げる。
そして、セレナの右脚に向かって──。
「やめろぉ────ッ!!」
叫びと同時に、剣が悠然と振り下ろされ──
セレナの右脚を、音もなく斬り飛ばした。
俺の網膜に無音で焼き付いたその光景に、やがて音と感触が追いついた。
斬り飛ばされた右脚がこちらに滑り、感覚を失った両手に当たる。
「セレナ──────!!」
誰かに呼ばれた声が耳に届くと同時に、右脚から激痛が襲いかかってきた。
最初に捉えた視覚情報は、右脚の切断面だった。分断された面から、恐ろしいほど大量の血液が溢れ出し、一瞬にして血溜まりが出来上がった。
何が起きたのか、全然解らなかった。突然意識が途絶えたと思えば、途端に右脚が斬り飛ばされていた。
そういえば、カズヤが話していた。邪教神は意識を途絶えさせる光を放つ。俺もそれを受けて、左腕を斬り落とされた、と。
「ぐっ…………」
剣を血溜まりに突き立て、倒れそうになる体を強引に支える。片足がないだけで、まっすぐ立つことが一段と難しくなる。
切断面からは未だ血液が溢れている。このまま放置していたら、数分後には死ぬ。だが、片足の損傷ともなれば、治癒術での完治は難しい。豊潤な空間魔素と高位治癒術を長時間施さなければ、死という未来を数分先送りにするだけだ。
高位治癒術を詠唱するのも、眼前の邪教神を倒さなくては不可能。かといって、手負いの私ではもう邪教神は倒せない。
つまり、現時点を持ってセレナが助かる道はなくなったことになる。
──ごめんなさい、セレナ
最後の思いは、自分ではない自分への謝罪だった。
──騎士として戦う必要のなかったあなたの身を傷つけて、本当にごめんなさい。
本当なら、あなたは今でも教会で魔術の勉強に明け暮れながら、想い人の帰りを待っていたはずなのに。
謝罪を終えると、セレナは顔を後ろに向けた。
視覚が捉えたのは、私なんかのために涙を流す、心優しい剣士──カズヤ。
偽りの存在である私のために、泣いてくれるなんて……。
「……元気でね、カズヤ」
そのひと言を最後に、セレナの体に一振りの長剣が突き込まれる。
どっ、というその音は、先の激突と比べればあまりにもささやかだった。しかしそれは同時に、戦いを決する音でもあった。
セレナの細い背中から、凶悪なまでに鋭い切っ先が現れ、真紅の雫を撒き散らした。長く美しい金髪が、鮮血に濡れながらふわりと流れた。
左右に分断された白銀の胸当てが、粉々に砕ける。騎士の右手から華焔剣が抜け落ち、血溜まりに沈む。
最後に、剣から青黒い光が放たれ、セレナの意思を吸い取る。
そして、邪教神は見た。
騎士の体内にある──虹色に輝く光を。
瞬間、邪教神は口を大きく開き、女の意思をあまさず吸い込んだ。
恐れや痛みが生み出す苦味。
悔恨と悲壮の酸味。
それらに続いて、邪教神の味覚を、得も言われぬ天上の蜜が浸した。
閉じた瞼の裏に、朧な光景がちかちかとフラッシュする。
晴天空の下、愚直に斧を振る特異点。こちらに気付くと、顔を輝かせ、嬉しそうに駆け寄ってくる。
その映像が消えると、今度は傷だらけの特異点が、温かく、力強く抱擁する。
『大好きだよ、カズヤくん』
かすかな声が生まれ、反響し、遠ざかった。
全てが消え去ってからも、邪教神はしばしその余韻に浸った。
素晴らしい。なんと、なんとも美味なる意思だ。
恐らく、今見た映像は騎士ではない他の者の意思だが、どうでもいいことだった。
死にゆく女が最後に抱いた感情──愛を余すことなく摂取し、味わい尽くした。それはまるで、天上の甘露。
邪教神は、体を大きく仰け反らせると、無音の笑いを放った。
俺は──。
本当に、救えないほど愚かで、学習しないのだと、この瞬間に痛感させられた。
虚ろに眼を開いたまま、両腕に残るスコッドの温かさにすがりつくように、自分の体を抱き締める。しかし、仄かな温度も、俺の内側に広がる虚無を埋めるには足りなかった。意識も、肉体も、魂までもが空っぽになってしまったかのようだった。
もう、終わりにしてくれ。
そんな思考が、虚無の奥から泡のように浮かび、弾けた。
俺は、あらゆる意味で敗れた。
俺がいまこの場所に存在する理由はただひとつ、邪教神を倒してみんなを守るため。なのに、実際には俺が多くの犠牲に守られ、こうして無力に蹲っている。
──もうこれ以上、何も見たくない。聞きたくない。
俺はただ、自分の消滅を願った。
血の海に立つセレナの、白く表情を失った美貌に、かすかな感情の色彩が浮か──んだように見えたが、すぐに消えた。
「さて、多くの邪魔が入ったが、最後は貴様だ」
何故か嬉しそうに口角を上げた邪教神が、絶望する俺に瞳を向けた。
「小僧。可能なら、出来るだけ血と悲鳴を上げて、最後を迎えてくれないか? その方が、私にとっても有意義な時間となるからな」
口を閉じると、セレナから激凍剣を抜き取り、血溜まりの上を歩き始めた。
死が、かすかな足音を響かせて近づいてくる。俺はそれを、跪いたままただ待ち受ける。
そんな時だった。
『カズヤくん』
俺の名を呼ぶ声。温かく、包み込むような、優しい声。
『カズヤくん』
ゆっくり、ゆっくりと顔を上げた俺が見たのは。
光が全く差し込まない、暗闇の世界だった。
いや、これは、今の俺の心だ。
多くの犠牲を払い、何も無くなってしまった俺の胸中そのものだ。そこには希望の光もなければ、生きたいと思う意思も願いもない、ただ絶望の闇しか存在しない虚無空間。
そんな中、無限の暗闇が広がっている場所に、二本の足でしっかりと立つ彼女の姿があった。
黒の修道服を着込み、頭の両側で結えた金髪は闇の中でも艶やかに輝き、唇には穏やかな微笑が浮かんでいる。
茶色の瞳には、異世界に転生してからいつも俺を支えてくれた、優しくて力強い光だけが満ちていた。
俺は、それを差し伸べながら立ち上がった。
わななく唇から、彼女の名を呼ぶ声が密やかに零れた。
「……セレナ」
もう一度。
「戻ってきたんだね、セレナ」
人界で一番大切な人であるセレナは──。
笑みにほんの少しの哀しみを滲ませ、そっとかぶりを振った。
『私は、もう二度と戻らない。私の意思は、魂は、邪教神に呑み込まれてしまったから』
その一言は、俺を更なる絶望へと誘った。
「じゃあ……今の君は、何者なの……?」
『今の私は、あなたの中にある記憶──思い出の中にいる、記憶の欠片』
「思い出……記憶の、欠片」
『そう。カズヤくんが私を覚えてくれている限り、私と言う存在は消えない。思いは、繋がれていく。……後ろの、彼女のようにね』
セレナは右手を上げ、俺の後ろを指差した。
振り返る。そして、息を呑む。
春に咲く桜のような桃色髪のショートヘアに、ツンとした可愛らしい鼻。くりくりと大きな瞳には、心の底から尊敬するほどの意思が宿っている。
学園で守ることが出来なかった、法に背く勇気を与えてくれた彼女──ユリは、俺のことを一切恨んでいないような笑顔を浮かべながら進み出て言った。
『わたしたちとカズヤくんは、ずっと心で繋がってる』
反対側に進み出たセレナが、顔の横で結わえた髪を揺らして頷く。
『この繋がりは、あなたの心が紡いできた、旅の中で見つけた、大切な宝物……それがある限り、わたしたちは、あなたの中でずっと生き続ける』
『たとえ、どんなに遠く離れていても、いつか別れる時が来ても、思い出が、気持ちは永遠に残り続ける』
俺の両眼から、熱く透明な雫が溢れた。
一歩前に踏み出し、救えなかった二人の瞳を懸命に覗き込んだ。
「俺は、今も迷ってるんだ……自分が人間なのか、別の存在なのかを……。教えてくれ、二人にとって、俺は一体なんなのかを」
情けない泣き言を、二人は優しく微笑んでから、頷いた。
『自分が何者かなんて、自分で決めていいんだよ。人族も、獣人族も、みんなそうしてるよ』
その言葉に、俺は思い知らされた。
自分が、如何に下らないことで悩んでいたのかを。
悩む必要なんて、なかったんだ。俺は、水樹和也という存在は、誰がなんて言おうと人間だ。どんなに姿が変わろうと、俺が自分を人間だと信じていればいいだけの話だった。
瞬間、虚無空間に一筋の光が差し込んだ。それはカズヤをまっすぐ照らし出し、周囲の暗闇を遠のけていく。
『行って、カズヤくん。わたしたちは、ここであなたをずっと見守っているから』
『忘れないで。意思が消えても、あなたを思い続ける人がいることを』
答えは速やかで、揺るぎなかった。
「忘れないよ。俺を見守ってくれる、二人のことを」
鋭利な刃が、カズヤの右腕を斬り落とそうとした、まさにその瞬間。
立ち上がりざまに振り抜いた黒い剣の切っ先が、ぎりぎりのところで斜め下から銀色の剣を迎撃し、凄まじい火花を散らした。
発生した衝撃は、邪教神を俺から引き離し、後方へと押しやった。
「なにっ!?」
驚愕の声を上げながら下がる邪教神とは対照的に、至って冷静なカズヤは唇をかすかに動かした。
「リベラシオン……」
冷ややかな一言を告げ──。
焔天剣が紅く煌めき。
カムイの左腕を、斬り飛ばした。
「──ッ!!」
邪教神は、斬り飛ばされた左腕にではなく、カズヤの身に起きた異変に絶句した。
先ほどの脆弱な意思とは根本が違う。己の運命を受け入れた、鋼の意思に変わっている。
「貴様、随分といい面になったじゃないか。ようやく、自分が人間じゃないと認めたか」
「……認めたさ」
カズヤの声は、牢乎とした意思に満ちていた。
「ある人が言った。現状維持なんて求めれば、大切な人を失うと。俺が迷い続けるから、失う必要のない命が散っていった」
焔天剣を握る手に、力が込められる。
「だからもう、俺は迷わない。これ以上、大切な者を失わないためにも、俺は迷いという感情を捨てる」
真の解放術によってその身を変えた焔天剣を、邪教神に向ける。
「ここからは、お前が望む俺が相手をしてやる。そして知れ。生きとし生きる全ての者が持つ、意思の強さと、輝きを」
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