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第三部・二章 血流大戦(前編)
第七話
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左翼を指揮している騎士キクノは、大門に集った上位騎士の中で最も実戦経験に疎く、また追い詰められていた。
最初こそ、キクノは己の解放術で亜人の突進を凌いでいた。
仮に、彼女の率いる第一部隊左翼を襲った山ゴブリン軍が尋常な戦いを仕掛けていれば、キクノは右翼のテレーゼに優るとも劣らない獅子奮迅の働きを見せただろう。
しかし実際には、山ゴブリンの濃密な煙幕で左翼部隊の視界を完全に奪い、足元を潜り抜けて背後から襲うという予想もしなかっ作戦に出た。
ゴブリン如きにしてやられた。
その焦りが、キクノから冷静な判断力を奪った。彼女は、鼻先も見えない濃密な煙の中で闇雲に周囲を見回しながら、衛士たちに指示を飛ばそうとした。だがどうにか気付けたのは、この状態で攻撃命令を出せば同士討ちになってしまうということだけで、煙を除去する方法はまるで思いつかなかった。
パープルの髪を振り乱し、血が滲むほど唇を噛み締めながら、キクノはただ密集した衛士たちを守るために剣を振り続けた。
「……嫌な予感がする」
獣人族特有の嗅覚にこびりつく異臭に気付いたサヤは、隣に立つワタルに尋ねた。しかしワタルはその異臭に気付いていない。
サヤとワタルが配置されたのは、人界守備軍第二部隊左翼の最前部だった。二百メル前方に陣取る第一部隊左翼は現在戦闘中だが、防衛線を抜けてくる敵はいない。
副騎士長ルキウスが預かる第一部隊中央と、騎士テレーゼが預かる右翼も、今のところ持ちこたえている。先ほど伝令に遣わした人族の報告では、右翼と中央が突破される心配はないらしい。
心配なのは、やはり第一部隊の左翼。
指揮を執るキクノは、召喚されてすぐに騎士団を一時的に離脱。治療に専念していたため戦闘経験が他の騎士よりも劣る。実力は折り紙付きだが、いきなりの大役は少々荷が重かったのではないだろうか。前線指揮は本人の希望だったとはいえ、やはりあの騎士──セレナに任せたほうがよかったのではないだろうか。
などと考えながら、頭の中で、配置状況を思い描く。
この戦場に集った騎士は、たった八人。
第一部隊左翼にキクノ、中央にルキウス副騎士長、右翼にテレーゼ。
第二部隊左翼に私とワタル、中央にヒサカゲ騎士長、右翼にセレナ。
そして上空に特異点カズヤという配置である。
「……やっぱり、左翼が不安なんだけど……」
サヤの呟きに、今度はワタルが苦笑で応える。せめて自分たちの配置場所に下位騎士二名を配置すればいいのに、何故騎士長は私たちをここに配置したのだろうか。
事実、数分前から第一部隊左翼の様子がおかしいのだ。損害が出ている気配はないのだが、無数の混乱した叫び声が中央隊の頭越しに届いてくる。よくよく眼を凝らすと、谷底の暗闇よりもなお濃い煙のようなものがたなびいており、煙の中で蠢く者がちらほらと見える。
万が一、第一部隊のキクノが抜かれても、私たちが指揮する獣人部隊と魔術師部隊が迎え撃つ──なのだが、
「みんな、落ち着くんだ」
ワタルが、背後で怯える魔術師を宥める。
戦が始まった瞬間、多くの魔術師が恐怖で震え上がった。
だがそれも仕方ない。一年間修練したとはいえ、心まで強くなるわけではない。凶悪な殺意と直に対面すれば怖がるのも無理はない。──むしろ、恐怖を克服したあいつが異常なのだ。
サヤはしばし沈黙し、答えを出した。
「ワタル」
サヤはもういちど、全員をなだめる隊長に話しかけた。ちらりと視線だけを向けてきたので、続きを口にする。
「わたし、第一部隊の援護に行ってくるね」
すると、隊長の右眉が、ほんの二ミリほど動いた。そこに「なぜ」という問いかけを感じたので、急いで答える。
「私たち獣人族は、暗闇でも眼が効くでしょ? 亜人が用意した煙幕の中でも見えると思うわ」
ワタルは、緑色の瞳でちらりと前方を見やり、二秒ほど考えてから頷いた。
「あまり無茶はしないで。…………君に何かあったら、カズヤに合わせる顔がない」
「大丈夫。危ないと思ったらすぐに撤退するし、私にはあれがあるしね」
神器《餓断剣》の柄頭を軽く叩きながら身を翻し、煙幕の蔓延る前線に向けて疾駆する。獣人族の脚力なら、わずか三十秒で前線にたどり着ける。
その間サヤは思慮を巡らせた。
──もし彼がわたしと同じ立場なら、同じことをしていただろう。自分の戦線を放置し、目の前で混乱する仲間を助けに行くに決まっている。
獣人部隊を指揮する隊長としては失格。でも、決して後悔はしていない。
学園で別れる間際、彼は言った。
正しいと思ったからだ、と。
禁書目録違反という業を犯してなお、彼は後悔しなかった。
そこまでして守りたかった物が何なのか、私には解らない。彼と再会しても、その答えはまだ見つからない。
けれど、騎士セレナと共に戦場に現れたカズヤを見た時、馴染みのない感覚がサヤの胸を過ぎった。切なくもあり、安堵している不思議な感覚。自分でも分析できないのは初めてのことだった。
彼の意思の強さは《守護》にあるのは知っている。
私にとって、強さとは、種族を守ることだ。相手が自分よりも強ければ、速やかに逃げる。種を守るために逃げる。自分より強い相手に、傷だらけになりながら立ち向かうなんて何の意味もない。ずっとそう思っていた。
カズヤは、戦闘技術だけを見れば私と同格だった。しかし彼は、自分よりも強い相手に何度も挑んでいる。
大切な人を失ってまで、彼は戦い続けた。
何のために?
それで彼は、何を得たのか?
再会したカズヤにそう訊ねたかったが、彼の傍には常に騎士セレナが貼り付いていて、接触する機会が限定されてしまった。
空気に混ざる異臭が鼻を刺し、サヤは無理やり思考を中断した。
篝火の光だけが薄赤く揺れており、煙幕のあちこちから、ひたひた、ひたひた、と湿った足音が聞こえる。
無駄な思考を一瞬で排除し、餓断剣を鞘から解き放つ。
獣人族は暗い森に生息するため、自然と夜目が効くようになる。左翼部隊を覆う煙幕は月明かりのない夜と同じほどの宵闇だが、サヤの目にははっきりと見える。
円のように密集する衛士部隊と、それらを守りながら奮闘するキクノ。煙幕に姿を隠しながら奇襲しているゴブリンの集団。
──いた。
サヤは、宵闇の中で蠢く獲物を前に舌なめずりながら、静かに地を蹴った。
なんて……ことなの。
キクノは、呆然とそう考えた。
亜人如き愚者に一方的な戦局など、騎士が参る戦場ではあってはならない。それでは、背後の衛士たちの士気が崩れる恐れがある。
駄目だ……頭が回らない。
暗がりから飛んでくる攻撃の最中、頭部を強く打ったせいで出血が止まらない。指先まで痺れ上がり、満足に動くこともできないキクノの視線の先で、のそりとゴブリンが一歩前に進んだ。汚れた板金の鎧が、鱗のように鈍く光る。
衛士は両手で握った長剣をゴブリンに向けて構えたが、騎士の負傷と見えない攻撃による恐怖で膝が激しく震えており、切っ先が定まらない。小さくかちかちと聞こえるのは、彼の歯が鳴る音か。
守らなければ。
私が、守らなければ。師が愛した民は、私が守らなければならない。
そう思うものの、キクノの体はまるで石になってしまったかのように動いてくれない。敵は、たかだか亜人の兵一匹。一騎当千の騎士には、このゴブリンを千匹まとめて相手にしても勝利できる力が与えられているはずなのに。
「うんまそうだぁ……」
ゴブリン兵が舌なめずりすると、粘っこい唾液がぼたぼたと垂れた。
「さ……下がれ! さもなくば……!」
衛士が懸命に絞り出した警告も、ゴブリンの欲望を煽っただけだった。ニタリと笑った亜人は、蛮刀を構えもしないまま、更に一歩前に出ようとした。その時──。
すとん。
乾いた音が、響いた。
ゴブリン兵が、黄色い両眼を不思議そうに見開きながら自分の胸を見下ろした。
粗雑な板金の鎧から、凶暴なまでの鋭利な金属が生えている。鮮血の雫を宿すそれは、剣の切っ先の、ほんの先っちょ。
何者かが、亜人の心臓を背後から正確に、音もなく貫いたのだ。
「……なんだぁ、こりゃあ……?」
それが、ゴブリン兵の最後の言葉となった。逞しい体から力が抜け、くたくたと煙幕の中へと崩れ落ちる。
その向こうに立っていたのは、他の衛士よりも少しだけ重装備を身にまとった女性剣士。紫髪のポニーテールに、学園の制服を着込んでいる。両手で握られた大剣は、体格よりも一回りほど大きく、騎士が扱う神器と同じほどの業物だ。まだ学生と言ってもいい年齢なのに──そして恐ろしい亜人の兵を殺したばかりなのに、可憐な顔には恐怖の色ひとつ浮かんでいない。
ぼんやりとそこまで見て取ってから、キクノはようやく気付いた。
この女の子は、人族じゃない。
獣人族だ。第二部隊左翼に配置された獣人部隊隊長の、確か名前はサヤ。
第二部隊はまだ後方で待機しているはず。隊長の彼女がなぜここにいるのか。
サヤは私に気付くと、素早く騎士礼を取ってから早口で声を掛けた。
「第一部隊の戦線を維持するために後方から援軍として参りました」
「そ、そう、助かるわ」
「いえ、まだ助かったかは解りません。第一部隊の煙幕が風に乗って第二部隊にまで伸びています。ゴブリンが煙幕に紛れて防衛線を抜ける恐れもあります」
そこでいったん口を閉じたサヤは、周囲を入念に見回した。
「……この戦線を放棄し、残った第一部隊が後方の第二部隊と合流しましょう。まだ煙幕が行き届いていない防衛線ならば、ゴブリンを迎撃できるはずです」
「……解りました。しかし、撤退するのは衛士隊のみです」
「えっ!?」
驚愕の声を上げたサヤの顔をまっすぐに見つめながら、騎士は続けた。
「彼らが撤退するまでの時間を稼ぐ必要があります。殿は私の役目なので、あなたは衛士たちを頼みます」
「しかし、騎士殿でもこう視界が悪いと……」
「これは命令です。衛士を連れて第二部隊と合流、その後は魔術師隊隊長の指示に従いなさい」
「は……はい、騎士殿」
頷くと、サヤは衛士を連れて一緒に煙幕に姿を消した。すぐにゴブリンの「逃がすな! 殺せぇ!」という叫び声が聞こえ、足音が遠ざかっていく。そして聞こえてくる、乾いた音。
十匹ものゴブリンに臆さず立ち向かうとは、とても学生とは思えない胆力だ。しかしあの獣人族には、それができるだけの強さを持っている。
強さ。
自分の中に欠片ほどの強さがあるとも思えない。なぜなら、亜人如きに遅れを取るほど、考えの浅はかな騎士なのだから。
そんな思考を巡らせてからほんの数秒後。突然、騎士の目の前に、先刻の兵士よりも小柄だが、いくぶん高級そうな鎧をまとったゴブリン兵が姿を現した。革鎧ながらしっかりとした仕立てで、しかも黒く染められている。夜目が効く獣人族でも気付けなかったことからしても、どうやら隠密行動に長けた偵察兵らしい。
キクノは無意識のうちに、腰の飛翔鞭に手を伸ばしていた。しかし、抜くことはできなかった。未だ腹の底から染み出してくる恐怖が、指先を冷たく痺れさせている。
キクノ自身は明確には自覚できていないが、その恐怖の源は、己の弱さだった。
亜人の策に溺れる自分の弱さ、譲れない意思を持てない未熟な自分が怖い。禁書目録がなければ何もできないほど哀れな存在だと気付かされるのが、怖い。
凍り付くキクノの耳に、複数の足音が届いた。
立ち尽くすキクノの恐怖を見抜いてか、偵察兵はにやりと笑った。偵察兵の後方にたなびく煙幕の煙の向こうから、幾つもの影が近づいてくる。
偵察兵が、右手に持つ鎌のような武器を構え、キクノににじり寄る。
ゴブリンが、無言で距離を詰める。先刻の一般兵と違って無駄口を叩かないあたりも、よく訓練された上級兵士であることを示している。
早く飛翔鞭を抜き、迎撃せねば。しかし、手が動こうとしない。この期に及んで、体が、いや魂が、戦うという選択を拒否している。
と、その時──。
ある情景が、脳裏に浮かんだ。
あれは、カズヤと対峙した時。圧倒的な実力差だというのに、勇猛果敢に挑んできた剣士。最後まで諦めず、戦力差など気にせず挑む……。
不意に、気付く。
強さという言葉。それはきっと、剣技でも、術力でも、神器でも、解放術でもない。
騎士も民も、誰もが最初から持っており、簡単に忘れてしまうささやかな力。
勇気。
キクノの右手が、ゆっくりと動き始める。痺れたままの指先が、腰の飛翔鞭に触れる。途端、手の感覚が蘇る。神器が何かを語りかけてくる。
ゴブリンが、キクノに向けて、凶悪な鎌を無造作に振り上げる。
刹那──。
しゅばっ、と鋭く空気を裂く音が響き、ゴブリンの頭を貫いた。
「……ぐ、ひ……?」
何が起きたのか訝しむような、ゴブリンの唸り声。脳天には、小さいが向こう側が見える孔が穿たれている。
神器《飛翔鞭》は、伸縮性に長けた強靭な鞭。手首のスナップでまるで飛翔するように敵へ向かっていき、自在に軌道を変化させることのできる。
つまり、それ相応の技量が求められる。剣とは比較にならないほどの集中力を必要とするのだ。少しでも精神を乱せば、鞭は狙った場所に飛翔していかない。
そのような武器を軽々と扱えるというだけで、キクノの技量は並々ならぬことは証明されていると言っていい。しかし本人にはその自覚はまったくない。師との稽古で得た集中力を応用しているだけなのだから。
だが、キクノは気付く。
最初から強い存在などいない。師との鍛錬がなければ神器も扱えなかったし、カズヤと出逢わなければ今のような勇気も振り出せなかった。
私という騎士は、今まで積み重ねてきた多くの経験で作り上げているんだ。戦いを拒否していたのは、一騎当千という固定観念に囚われていたからだ。
彼らのように戦おう。どんなに無様でも、泥に塗れようとも、最後まで諦めずに戦い続ける。
──師よ……少しだけ、力を貸してください。
右手が閃き、青白い輝きが宙を走る。
鞭の先端が手元に戻ってくるのと、複数の首が落ちるのは同時だった。しかしキクノはその結果を確かめることなく視線を動かし、新たな目標に向けて鞭を放った。更に五匹のゴブリンが、瞬時に命を断たれてどさりと崩れ落ちる。
わずか四秒で十五匹のゴブリンを始末したキクノは、更なる新手が取り巻いた。
「騎士だ……」
「大将首だ!」
「殺せ! 殺せ!!」
獰猛な声を浴びながら、キクノは煙幕を斬り裂くように鞭を閃かせた。取り巻くゴブリンの頭部を落とすと、鞭を手元に戻し、叫んだ。
「──この首が欲しければ、命を投げ出す覚悟でかかってきなさい!!」
ありったけの勇気を振り絞った口上に、ゴブリンたちは凶暴な雄叫びで応じた。
いっせいに蛮刀を振り上げ、前後から飛びかかってくる敵兵の群れ目掛けて、鞭を放った。
最前列のゴブリンたちを、円弧を描いて飛翔する先端が迎え撃つ。
ばらばらと幾つもの首が次々に胴から離れ、地面に転がった。少し遅れて、どす黒い鮮血を噴き上げながら体が前のめりに倒れる。
間髪入れず鞭を閃かせる。まったく同じ光景が、もういちど繰り返される。加速と伸縮で威力を上げており、半端な防具ならないも同然の貫通力を発揮する。
二回連続の攻撃で十匹以上が斃され、さしもの恐れ知らずなゴブリンたちも、仲間の呆気ない死に様に怯んだか突進の勢いが鈍った。
いける──。もしここに衛士隊がいたら今のような戦闘は出来ないが、単騎なら飛翔鞭の力を余すことなく使える。
キクノは、自分が行った大量殺戮への恐怖心を抑え込みながら、三度目の飛翔を行った。
しかし、耳に届いたのは、小枝を鉈で落とすようなそれまでの切断音ではなく。
かきぃぃん! という甲高い衝撃音だった。
軌道を激しくぶれさせつつも、どうにか戻ってきた先端を、キクノは思い切り伸ばした右手で受け止めた。先ほどのように摑む余裕はなく、致死の刃が辛くも掌に突き刺さる。
見開いた眼が捉えたのは、煙幕の奥からうっそりと姿を現した、一匹のゴブリンだった。
大きい。
背丈そのものは、人族とたいして変わらない。しかし、全身を包む筋肉の盛り上がりと、黄色い両眼から放射される炎のようは殺気は、他のゴブリンたちとはまるで異なっている。動きやすさを優先しているのか、革に鋲を打った軽そうな鎧を着込み、右手にぶら下げるのは肉厚の山刀。
「……お前が、大将か」
キクノは低い声で問うた。
「おう。山ゴブリンの族長、ソロチだ」
平然と答えたゴブリンは、おもむろに周囲を見回す。
「あーあ、派手に殺ってくれたなあ。折角の策が失敗に終わっちまったよ」
体格のみならず、言葉遣いも他のゴブリンとはまったく違う。強烈な殺気を滾らせながらも、それを高い知性で抑えているようだ。
──関係ない。たった一度、偶然飛翔鞭を跳ね返せたらからって、それが何度も続くわけはない。
キクノは左腕を体の後ろに構え、叫んだ。
「ここで、お前たちは終わりだ!!」
全力、最速の攻撃。
鞭の先端が地面を掠めて跳ね上がって、正確にソロチの首へと飛んだ。だが。
今度もまた、響いたのは高く澄んだ金属音だった。
敵将ソロチは、刀身が灰色に霞むほどの速度で山刀を動かし、下段からの攻撃を見事に防いだのだ。
跳ね返された刃を、ぎりぎりのところで摑み止める。
──馬鹿な!? 飛翔鞭は、ゴブリンの武器くらい切断できるはず……!
驚愕するキクノの視線が、ソロチの山刀に吸い寄せられた。
ゴブリン兵たちが装備している蛮刀と同じく無骨な作りだが、刀身の色合いが違う。あれは原始的な鋳造品ではない。精錬された鋼を、長い時間をかけて鍛えた業物だ。
キクノの驚きを見抜いたか、ソロチは山刀を顔の前まで持ち上げながらにやりと笑った。
「試作品だが、なかなかの出来だろ? 暗黒騎士団から素材と製法を盗むのには苦労したもんさ。だがな……それだけが、お前の攻撃が防がれた理由じゃないぞ、騎士の嬢ちゃん」
「…………ならば、これで!」
鞭を、真上に振り抜く。暗い夜空へと舞った先端は敵の視界から消え、大きな弧を描いて背中を襲う。これは弾けないはず──。
「…………!!」
確信は、即座に裏切られた。ソロチという名のゴブリンの長は、あろうことか山刀を背後に回し、見ることもなく超高速の刃を弾いたのだ。
不規則に揺れながら戻ってきた刃を、キクノはわずかに受け止め損ね、右手の傷に更に食い込んだ。しかしその痛みを感じる余裕といまはない。
「音だよ、嬢ちゃん」
ソロチの短い台詞は、完璧なまでに飛翔鞭の弱点を言い当てていた。
高速飛翔しながら敵に向かう刃は、特徴的な風切り音を発する。耳をよく鍛えている者なら、軌道を予測することは不可能ではない。
わずか数回の攻撃を見ただけで、そこまで看破してのけたソロチの知性にキクノは戦慄した。粗野で下等な亜人であるはずのゴブリンが、まさかこれほどの──。
「亜人のくせに……ってツラだな、嬢ちゃん」
にやりと、しかしどこか凄愴なものを秘めた笑みを浮かべ、ソロチが囁いた。
「俺としちゃこう言わせてもらいたいね。お偉い騎士さまのくせに、てな。一騎当千……そう聞いていたんだが、どうやらお前さんはそうでもないようだな? だからこれだけ混乱させられた、そうなんだろ?」
「……ええ、そうよ」
目の前の敵を、ゴブリンと侮ったのがそもそもの間違いだった。そう悟ったキクノは、虚勢を捨てて頷いた。
「私は未熟者よ。だけどね……勘違いしないで。未熟なのは私であって、こいつじゃない」
飛翔鞭を伸ばし、顔の前まで持ってくる。
飛翔鞭の弱点。それをなくすたった一つの方法は、騎士の奥義たる解放術だ。
この神器はかつて、鎖鎌だった。しかし、創世神殿に頼み鎖鎌から鞭へと姿を変えた。鎌は鋭く小さな刃に、鎖は伸縮性に長けた鞭へ。
その理由は、己の攻撃範囲と速度を増幅させるため。そして、解放術の利点を伸ばすため。
飛翔鞭は、遙かな昔、真宵の新樹林を支配していた大蛇の皮を素材にしている。地の彼方にまで伸びたと言われる皮は、一切の空気抵抗を受けない。
つまり、風切り音を発しない。通常攻撃時よりも射程距離を伸ばし、なおかつ無音で襲いかかってくる。
暗闇に紛れて襲いかかる攻撃。無音のためソロチでも対処できない。
敵将とは彼我十メル。届かない距離ではない。いや、届かなくても、彼等なら絶対に諦めない。
この世界には、たとえ命尽きようとも、決して失われないものがある。
それは意思。
誰かの意思は、心を繋いだ誰かに受け継がれ、そしてまた次の者へと繋がっていく。永遠に、この世界が存在する限り。
カムイの諦めない意思がカズヤに受け継がれたように。私も、最後まで諦めない。
不可能を可能にする。それが、人の意思の力だ。
「────飛翔せよ!!」
叫び声とともに、腕が真横に振り抜かれた。舞い上がった一条の光は高い弧を描き、上からソロチへと襲い掛かる。
「何度やろうが……無駄だッ!!」
ゴブリンの長は、山刀を構えると、先端を全力で弾き返した。
甲高い金属音と真っ赤な火花。呆気なく跳ね返されたが、戻ることはなく再び空へと飛翔した。
鞭が伸びきった、その瞬間。
「リベラシオンッ!!」
キクノは、解放術の式句を高らかに唱えた。
純白の輝きが、谷間を照らし出した。
光の中で、先端が姿を変えていく。先を二つに分け、蛇の頭へと変化する。
鞭にもうっすらと模様が浮かび上がり、まるで遠い夜空の星のように青く煌めかせていた。神器飛翔鞭、その解放された姿。
遙か高みで光を放ち続ける神器に、キクノはそっと右手を差し伸べた。
──美しい。
──まるで我が師……カムイのようだ。
高々と掲げた右手を、力強く握り締める。
鞭が下にしなり、凄まじい勢いでソロチへ降下していく。風切り音すらしない、無音の突撃。
キクノは、力みのない動作で右手を振り下ろした。
流星と化した先端が、音もなく宙を滑り、ゴブリンの背後へと向かった。
「無駄だと……言っただろうが!!」
吠えたソロチが、背後から襲い掛かる蛇を、山刀で叩き落とそうとした。
しかし、分厚い鋼が蛇を捉える、その寸前。神器はそれまでの軌道を急激に変化させ、いったん垂直に跳ねて山刀を空振りさせると、再度真下へと加速した。
ドッ。
かすかな、乾いた音。
次の瞬間、ソロチの鍛え抜かれた体の正中線に、青白い軌跡が走った。
「ガアアアアッ!!」
獰猛な雄叫びを迸らせ、ソロチはキクノに飛びかかろうとした。だが、右半身の動きに、左半身が遅れた。一歩、二歩走ったところで体が完全に分離し、右と左にどうと倒れた。
戻ってきた蛇を丁寧に受け止めると、それは音もなく元に戻った。
キクノは、一滴の血もついていない鞭を無言で見詰めた。
最後まで諦めない意思に、神器は応えてくれたのだろうか。だから、今まで私に見せたことのない姿を、見せてくれたのだろうか。
──師よ。これで私も、一人の騎士になれたのでしょうか……。
遙か彼方、私では到底認識できない場所にいるであろう師に想いを飛ばしながら、騎士キクノは後方の第二部隊と合流ために駆け出した。
最初こそ、キクノは己の解放術で亜人の突進を凌いでいた。
仮に、彼女の率いる第一部隊左翼を襲った山ゴブリン軍が尋常な戦いを仕掛けていれば、キクノは右翼のテレーゼに優るとも劣らない獅子奮迅の働きを見せただろう。
しかし実際には、山ゴブリンの濃密な煙幕で左翼部隊の視界を完全に奪い、足元を潜り抜けて背後から襲うという予想もしなかっ作戦に出た。
ゴブリン如きにしてやられた。
その焦りが、キクノから冷静な判断力を奪った。彼女は、鼻先も見えない濃密な煙の中で闇雲に周囲を見回しながら、衛士たちに指示を飛ばそうとした。だがどうにか気付けたのは、この状態で攻撃命令を出せば同士討ちになってしまうということだけで、煙を除去する方法はまるで思いつかなかった。
パープルの髪を振り乱し、血が滲むほど唇を噛み締めながら、キクノはただ密集した衛士たちを守るために剣を振り続けた。
「……嫌な予感がする」
獣人族特有の嗅覚にこびりつく異臭に気付いたサヤは、隣に立つワタルに尋ねた。しかしワタルはその異臭に気付いていない。
サヤとワタルが配置されたのは、人界守備軍第二部隊左翼の最前部だった。二百メル前方に陣取る第一部隊左翼は現在戦闘中だが、防衛線を抜けてくる敵はいない。
副騎士長ルキウスが預かる第一部隊中央と、騎士テレーゼが預かる右翼も、今のところ持ちこたえている。先ほど伝令に遣わした人族の報告では、右翼と中央が突破される心配はないらしい。
心配なのは、やはり第一部隊の左翼。
指揮を執るキクノは、召喚されてすぐに騎士団を一時的に離脱。治療に専念していたため戦闘経験が他の騎士よりも劣る。実力は折り紙付きだが、いきなりの大役は少々荷が重かったのではないだろうか。前線指揮は本人の希望だったとはいえ、やはりあの騎士──セレナに任せたほうがよかったのではないだろうか。
などと考えながら、頭の中で、配置状況を思い描く。
この戦場に集った騎士は、たった八人。
第一部隊左翼にキクノ、中央にルキウス副騎士長、右翼にテレーゼ。
第二部隊左翼に私とワタル、中央にヒサカゲ騎士長、右翼にセレナ。
そして上空に特異点カズヤという配置である。
「……やっぱり、左翼が不安なんだけど……」
サヤの呟きに、今度はワタルが苦笑で応える。せめて自分たちの配置場所に下位騎士二名を配置すればいいのに、何故騎士長は私たちをここに配置したのだろうか。
事実、数分前から第一部隊左翼の様子がおかしいのだ。損害が出ている気配はないのだが、無数の混乱した叫び声が中央隊の頭越しに届いてくる。よくよく眼を凝らすと、谷底の暗闇よりもなお濃い煙のようなものがたなびいており、煙の中で蠢く者がちらほらと見える。
万が一、第一部隊のキクノが抜かれても、私たちが指揮する獣人部隊と魔術師部隊が迎え撃つ──なのだが、
「みんな、落ち着くんだ」
ワタルが、背後で怯える魔術師を宥める。
戦が始まった瞬間、多くの魔術師が恐怖で震え上がった。
だがそれも仕方ない。一年間修練したとはいえ、心まで強くなるわけではない。凶悪な殺意と直に対面すれば怖がるのも無理はない。──むしろ、恐怖を克服したあいつが異常なのだ。
サヤはしばし沈黙し、答えを出した。
「ワタル」
サヤはもういちど、全員をなだめる隊長に話しかけた。ちらりと視線だけを向けてきたので、続きを口にする。
「わたし、第一部隊の援護に行ってくるね」
すると、隊長の右眉が、ほんの二ミリほど動いた。そこに「なぜ」という問いかけを感じたので、急いで答える。
「私たち獣人族は、暗闇でも眼が効くでしょ? 亜人が用意した煙幕の中でも見えると思うわ」
ワタルは、緑色の瞳でちらりと前方を見やり、二秒ほど考えてから頷いた。
「あまり無茶はしないで。…………君に何かあったら、カズヤに合わせる顔がない」
「大丈夫。危ないと思ったらすぐに撤退するし、私にはあれがあるしね」
神器《餓断剣》の柄頭を軽く叩きながら身を翻し、煙幕の蔓延る前線に向けて疾駆する。獣人族の脚力なら、わずか三十秒で前線にたどり着ける。
その間サヤは思慮を巡らせた。
──もし彼がわたしと同じ立場なら、同じことをしていただろう。自分の戦線を放置し、目の前で混乱する仲間を助けに行くに決まっている。
獣人部隊を指揮する隊長としては失格。でも、決して後悔はしていない。
学園で別れる間際、彼は言った。
正しいと思ったからだ、と。
禁書目録違反という業を犯してなお、彼は後悔しなかった。
そこまでして守りたかった物が何なのか、私には解らない。彼と再会しても、その答えはまだ見つからない。
けれど、騎士セレナと共に戦場に現れたカズヤを見た時、馴染みのない感覚がサヤの胸を過ぎった。切なくもあり、安堵している不思議な感覚。自分でも分析できないのは初めてのことだった。
彼の意思の強さは《守護》にあるのは知っている。
私にとって、強さとは、種族を守ることだ。相手が自分よりも強ければ、速やかに逃げる。種を守るために逃げる。自分より強い相手に、傷だらけになりながら立ち向かうなんて何の意味もない。ずっとそう思っていた。
カズヤは、戦闘技術だけを見れば私と同格だった。しかし彼は、自分よりも強い相手に何度も挑んでいる。
大切な人を失ってまで、彼は戦い続けた。
何のために?
それで彼は、何を得たのか?
再会したカズヤにそう訊ねたかったが、彼の傍には常に騎士セレナが貼り付いていて、接触する機会が限定されてしまった。
空気に混ざる異臭が鼻を刺し、サヤは無理やり思考を中断した。
篝火の光だけが薄赤く揺れており、煙幕のあちこちから、ひたひた、ひたひた、と湿った足音が聞こえる。
無駄な思考を一瞬で排除し、餓断剣を鞘から解き放つ。
獣人族は暗い森に生息するため、自然と夜目が効くようになる。左翼部隊を覆う煙幕は月明かりのない夜と同じほどの宵闇だが、サヤの目にははっきりと見える。
円のように密集する衛士部隊と、それらを守りながら奮闘するキクノ。煙幕に姿を隠しながら奇襲しているゴブリンの集団。
──いた。
サヤは、宵闇の中で蠢く獲物を前に舌なめずりながら、静かに地を蹴った。
なんて……ことなの。
キクノは、呆然とそう考えた。
亜人如き愚者に一方的な戦局など、騎士が参る戦場ではあってはならない。それでは、背後の衛士たちの士気が崩れる恐れがある。
駄目だ……頭が回らない。
暗がりから飛んでくる攻撃の最中、頭部を強く打ったせいで出血が止まらない。指先まで痺れ上がり、満足に動くこともできないキクノの視線の先で、のそりとゴブリンが一歩前に進んだ。汚れた板金の鎧が、鱗のように鈍く光る。
衛士は両手で握った長剣をゴブリンに向けて構えたが、騎士の負傷と見えない攻撃による恐怖で膝が激しく震えており、切っ先が定まらない。小さくかちかちと聞こえるのは、彼の歯が鳴る音か。
守らなければ。
私が、守らなければ。師が愛した民は、私が守らなければならない。
そう思うものの、キクノの体はまるで石になってしまったかのように動いてくれない。敵は、たかだか亜人の兵一匹。一騎当千の騎士には、このゴブリンを千匹まとめて相手にしても勝利できる力が与えられているはずなのに。
「うんまそうだぁ……」
ゴブリン兵が舌なめずりすると、粘っこい唾液がぼたぼたと垂れた。
「さ……下がれ! さもなくば……!」
衛士が懸命に絞り出した警告も、ゴブリンの欲望を煽っただけだった。ニタリと笑った亜人は、蛮刀を構えもしないまま、更に一歩前に出ようとした。その時──。
すとん。
乾いた音が、響いた。
ゴブリン兵が、黄色い両眼を不思議そうに見開きながら自分の胸を見下ろした。
粗雑な板金の鎧から、凶暴なまでの鋭利な金属が生えている。鮮血の雫を宿すそれは、剣の切っ先の、ほんの先っちょ。
何者かが、亜人の心臓を背後から正確に、音もなく貫いたのだ。
「……なんだぁ、こりゃあ……?」
それが、ゴブリン兵の最後の言葉となった。逞しい体から力が抜け、くたくたと煙幕の中へと崩れ落ちる。
その向こうに立っていたのは、他の衛士よりも少しだけ重装備を身にまとった女性剣士。紫髪のポニーテールに、学園の制服を着込んでいる。両手で握られた大剣は、体格よりも一回りほど大きく、騎士が扱う神器と同じほどの業物だ。まだ学生と言ってもいい年齢なのに──そして恐ろしい亜人の兵を殺したばかりなのに、可憐な顔には恐怖の色ひとつ浮かんでいない。
ぼんやりとそこまで見て取ってから、キクノはようやく気付いた。
この女の子は、人族じゃない。
獣人族だ。第二部隊左翼に配置された獣人部隊隊長の、確か名前はサヤ。
第二部隊はまだ後方で待機しているはず。隊長の彼女がなぜここにいるのか。
サヤは私に気付くと、素早く騎士礼を取ってから早口で声を掛けた。
「第一部隊の戦線を維持するために後方から援軍として参りました」
「そ、そう、助かるわ」
「いえ、まだ助かったかは解りません。第一部隊の煙幕が風に乗って第二部隊にまで伸びています。ゴブリンが煙幕に紛れて防衛線を抜ける恐れもあります」
そこでいったん口を閉じたサヤは、周囲を入念に見回した。
「……この戦線を放棄し、残った第一部隊が後方の第二部隊と合流しましょう。まだ煙幕が行き届いていない防衛線ならば、ゴブリンを迎撃できるはずです」
「……解りました。しかし、撤退するのは衛士隊のみです」
「えっ!?」
驚愕の声を上げたサヤの顔をまっすぐに見つめながら、騎士は続けた。
「彼らが撤退するまでの時間を稼ぐ必要があります。殿は私の役目なので、あなたは衛士たちを頼みます」
「しかし、騎士殿でもこう視界が悪いと……」
「これは命令です。衛士を連れて第二部隊と合流、その後は魔術師隊隊長の指示に従いなさい」
「は……はい、騎士殿」
頷くと、サヤは衛士を連れて一緒に煙幕に姿を消した。すぐにゴブリンの「逃がすな! 殺せぇ!」という叫び声が聞こえ、足音が遠ざかっていく。そして聞こえてくる、乾いた音。
十匹ものゴブリンに臆さず立ち向かうとは、とても学生とは思えない胆力だ。しかしあの獣人族には、それができるだけの強さを持っている。
強さ。
自分の中に欠片ほどの強さがあるとも思えない。なぜなら、亜人如きに遅れを取るほど、考えの浅はかな騎士なのだから。
そんな思考を巡らせてからほんの数秒後。突然、騎士の目の前に、先刻の兵士よりも小柄だが、いくぶん高級そうな鎧をまとったゴブリン兵が姿を現した。革鎧ながらしっかりとした仕立てで、しかも黒く染められている。夜目が効く獣人族でも気付けなかったことからしても、どうやら隠密行動に長けた偵察兵らしい。
キクノは無意識のうちに、腰の飛翔鞭に手を伸ばしていた。しかし、抜くことはできなかった。未だ腹の底から染み出してくる恐怖が、指先を冷たく痺れさせている。
キクノ自身は明確には自覚できていないが、その恐怖の源は、己の弱さだった。
亜人の策に溺れる自分の弱さ、譲れない意思を持てない未熟な自分が怖い。禁書目録がなければ何もできないほど哀れな存在だと気付かされるのが、怖い。
凍り付くキクノの耳に、複数の足音が届いた。
立ち尽くすキクノの恐怖を見抜いてか、偵察兵はにやりと笑った。偵察兵の後方にたなびく煙幕の煙の向こうから、幾つもの影が近づいてくる。
偵察兵が、右手に持つ鎌のような武器を構え、キクノににじり寄る。
ゴブリンが、無言で距離を詰める。先刻の一般兵と違って無駄口を叩かないあたりも、よく訓練された上級兵士であることを示している。
早く飛翔鞭を抜き、迎撃せねば。しかし、手が動こうとしない。この期に及んで、体が、いや魂が、戦うという選択を拒否している。
と、その時──。
ある情景が、脳裏に浮かんだ。
あれは、カズヤと対峙した時。圧倒的な実力差だというのに、勇猛果敢に挑んできた剣士。最後まで諦めず、戦力差など気にせず挑む……。
不意に、気付く。
強さという言葉。それはきっと、剣技でも、術力でも、神器でも、解放術でもない。
騎士も民も、誰もが最初から持っており、簡単に忘れてしまうささやかな力。
勇気。
キクノの右手が、ゆっくりと動き始める。痺れたままの指先が、腰の飛翔鞭に触れる。途端、手の感覚が蘇る。神器が何かを語りかけてくる。
ゴブリンが、キクノに向けて、凶悪な鎌を無造作に振り上げる。
刹那──。
しゅばっ、と鋭く空気を裂く音が響き、ゴブリンの頭を貫いた。
「……ぐ、ひ……?」
何が起きたのか訝しむような、ゴブリンの唸り声。脳天には、小さいが向こう側が見える孔が穿たれている。
神器《飛翔鞭》は、伸縮性に長けた強靭な鞭。手首のスナップでまるで飛翔するように敵へ向かっていき、自在に軌道を変化させることのできる。
つまり、それ相応の技量が求められる。剣とは比較にならないほどの集中力を必要とするのだ。少しでも精神を乱せば、鞭は狙った場所に飛翔していかない。
そのような武器を軽々と扱えるというだけで、キクノの技量は並々ならぬことは証明されていると言っていい。しかし本人にはその自覚はまったくない。師との稽古で得た集中力を応用しているだけなのだから。
だが、キクノは気付く。
最初から強い存在などいない。師との鍛錬がなければ神器も扱えなかったし、カズヤと出逢わなければ今のような勇気も振り出せなかった。
私という騎士は、今まで積み重ねてきた多くの経験で作り上げているんだ。戦いを拒否していたのは、一騎当千という固定観念に囚われていたからだ。
彼らのように戦おう。どんなに無様でも、泥に塗れようとも、最後まで諦めずに戦い続ける。
──師よ……少しだけ、力を貸してください。
右手が閃き、青白い輝きが宙を走る。
鞭の先端が手元に戻ってくるのと、複数の首が落ちるのは同時だった。しかしキクノはその結果を確かめることなく視線を動かし、新たな目標に向けて鞭を放った。更に五匹のゴブリンが、瞬時に命を断たれてどさりと崩れ落ちる。
わずか四秒で十五匹のゴブリンを始末したキクノは、更なる新手が取り巻いた。
「騎士だ……」
「大将首だ!」
「殺せ! 殺せ!!」
獰猛な声を浴びながら、キクノは煙幕を斬り裂くように鞭を閃かせた。取り巻くゴブリンの頭部を落とすと、鞭を手元に戻し、叫んだ。
「──この首が欲しければ、命を投げ出す覚悟でかかってきなさい!!」
ありったけの勇気を振り絞った口上に、ゴブリンたちは凶暴な雄叫びで応じた。
いっせいに蛮刀を振り上げ、前後から飛びかかってくる敵兵の群れ目掛けて、鞭を放った。
最前列のゴブリンたちを、円弧を描いて飛翔する先端が迎え撃つ。
ばらばらと幾つもの首が次々に胴から離れ、地面に転がった。少し遅れて、どす黒い鮮血を噴き上げながら体が前のめりに倒れる。
間髪入れず鞭を閃かせる。まったく同じ光景が、もういちど繰り返される。加速と伸縮で威力を上げており、半端な防具ならないも同然の貫通力を発揮する。
二回連続の攻撃で十匹以上が斃され、さしもの恐れ知らずなゴブリンたちも、仲間の呆気ない死に様に怯んだか突進の勢いが鈍った。
いける──。もしここに衛士隊がいたら今のような戦闘は出来ないが、単騎なら飛翔鞭の力を余すことなく使える。
キクノは、自分が行った大量殺戮への恐怖心を抑え込みながら、三度目の飛翔を行った。
しかし、耳に届いたのは、小枝を鉈で落とすようなそれまでの切断音ではなく。
かきぃぃん! という甲高い衝撃音だった。
軌道を激しくぶれさせつつも、どうにか戻ってきた先端を、キクノは思い切り伸ばした右手で受け止めた。先ほどのように摑む余裕はなく、致死の刃が辛くも掌に突き刺さる。
見開いた眼が捉えたのは、煙幕の奥からうっそりと姿を現した、一匹のゴブリンだった。
大きい。
背丈そのものは、人族とたいして変わらない。しかし、全身を包む筋肉の盛り上がりと、黄色い両眼から放射される炎のようは殺気は、他のゴブリンたちとはまるで異なっている。動きやすさを優先しているのか、革に鋲を打った軽そうな鎧を着込み、右手にぶら下げるのは肉厚の山刀。
「……お前が、大将か」
キクノは低い声で問うた。
「おう。山ゴブリンの族長、ソロチだ」
平然と答えたゴブリンは、おもむろに周囲を見回す。
「あーあ、派手に殺ってくれたなあ。折角の策が失敗に終わっちまったよ」
体格のみならず、言葉遣いも他のゴブリンとはまったく違う。強烈な殺気を滾らせながらも、それを高い知性で抑えているようだ。
──関係ない。たった一度、偶然飛翔鞭を跳ね返せたらからって、それが何度も続くわけはない。
キクノは左腕を体の後ろに構え、叫んだ。
「ここで、お前たちは終わりだ!!」
全力、最速の攻撃。
鞭の先端が地面を掠めて跳ね上がって、正確にソロチの首へと飛んだ。だが。
今度もまた、響いたのは高く澄んだ金属音だった。
敵将ソロチは、刀身が灰色に霞むほどの速度で山刀を動かし、下段からの攻撃を見事に防いだのだ。
跳ね返された刃を、ぎりぎりのところで摑み止める。
──馬鹿な!? 飛翔鞭は、ゴブリンの武器くらい切断できるはず……!
驚愕するキクノの視線が、ソロチの山刀に吸い寄せられた。
ゴブリン兵たちが装備している蛮刀と同じく無骨な作りだが、刀身の色合いが違う。あれは原始的な鋳造品ではない。精錬された鋼を、長い時間をかけて鍛えた業物だ。
キクノの驚きを見抜いたか、ソロチは山刀を顔の前まで持ち上げながらにやりと笑った。
「試作品だが、なかなかの出来だろ? 暗黒騎士団から素材と製法を盗むのには苦労したもんさ。だがな……それだけが、お前の攻撃が防がれた理由じゃないぞ、騎士の嬢ちゃん」
「…………ならば、これで!」
鞭を、真上に振り抜く。暗い夜空へと舞った先端は敵の視界から消え、大きな弧を描いて背中を襲う。これは弾けないはず──。
「…………!!」
確信は、即座に裏切られた。ソロチという名のゴブリンの長は、あろうことか山刀を背後に回し、見ることもなく超高速の刃を弾いたのだ。
不規則に揺れながら戻ってきた刃を、キクノはわずかに受け止め損ね、右手の傷に更に食い込んだ。しかしその痛みを感じる余裕といまはない。
「音だよ、嬢ちゃん」
ソロチの短い台詞は、完璧なまでに飛翔鞭の弱点を言い当てていた。
高速飛翔しながら敵に向かう刃は、特徴的な風切り音を発する。耳をよく鍛えている者なら、軌道を予測することは不可能ではない。
わずか数回の攻撃を見ただけで、そこまで看破してのけたソロチの知性にキクノは戦慄した。粗野で下等な亜人であるはずのゴブリンが、まさかこれほどの──。
「亜人のくせに……ってツラだな、嬢ちゃん」
にやりと、しかしどこか凄愴なものを秘めた笑みを浮かべ、ソロチが囁いた。
「俺としちゃこう言わせてもらいたいね。お偉い騎士さまのくせに、てな。一騎当千……そう聞いていたんだが、どうやらお前さんはそうでもないようだな? だからこれだけ混乱させられた、そうなんだろ?」
「……ええ、そうよ」
目の前の敵を、ゴブリンと侮ったのがそもそもの間違いだった。そう悟ったキクノは、虚勢を捨てて頷いた。
「私は未熟者よ。だけどね……勘違いしないで。未熟なのは私であって、こいつじゃない」
飛翔鞭を伸ばし、顔の前まで持ってくる。
飛翔鞭の弱点。それをなくすたった一つの方法は、騎士の奥義たる解放術だ。
この神器はかつて、鎖鎌だった。しかし、創世神殿に頼み鎖鎌から鞭へと姿を変えた。鎌は鋭く小さな刃に、鎖は伸縮性に長けた鞭へ。
その理由は、己の攻撃範囲と速度を増幅させるため。そして、解放術の利点を伸ばすため。
飛翔鞭は、遙かな昔、真宵の新樹林を支配していた大蛇の皮を素材にしている。地の彼方にまで伸びたと言われる皮は、一切の空気抵抗を受けない。
つまり、風切り音を発しない。通常攻撃時よりも射程距離を伸ばし、なおかつ無音で襲いかかってくる。
暗闇に紛れて襲いかかる攻撃。無音のためソロチでも対処できない。
敵将とは彼我十メル。届かない距離ではない。いや、届かなくても、彼等なら絶対に諦めない。
この世界には、たとえ命尽きようとも、決して失われないものがある。
それは意思。
誰かの意思は、心を繋いだ誰かに受け継がれ、そしてまた次の者へと繋がっていく。永遠に、この世界が存在する限り。
カムイの諦めない意思がカズヤに受け継がれたように。私も、最後まで諦めない。
不可能を可能にする。それが、人の意思の力だ。
「────飛翔せよ!!」
叫び声とともに、腕が真横に振り抜かれた。舞い上がった一条の光は高い弧を描き、上からソロチへと襲い掛かる。
「何度やろうが……無駄だッ!!」
ゴブリンの長は、山刀を構えると、先端を全力で弾き返した。
甲高い金属音と真っ赤な火花。呆気なく跳ね返されたが、戻ることはなく再び空へと飛翔した。
鞭が伸びきった、その瞬間。
「リベラシオンッ!!」
キクノは、解放術の式句を高らかに唱えた。
純白の輝きが、谷間を照らし出した。
光の中で、先端が姿を変えていく。先を二つに分け、蛇の頭へと変化する。
鞭にもうっすらと模様が浮かび上がり、まるで遠い夜空の星のように青く煌めかせていた。神器飛翔鞭、その解放された姿。
遙か高みで光を放ち続ける神器に、キクノはそっと右手を差し伸べた。
──美しい。
──まるで我が師……カムイのようだ。
高々と掲げた右手を、力強く握り締める。
鞭が下にしなり、凄まじい勢いでソロチへ降下していく。風切り音すらしない、無音の突撃。
キクノは、力みのない動作で右手を振り下ろした。
流星と化した先端が、音もなく宙を滑り、ゴブリンの背後へと向かった。
「無駄だと……言っただろうが!!」
吠えたソロチが、背後から襲い掛かる蛇を、山刀で叩き落とそうとした。
しかし、分厚い鋼が蛇を捉える、その寸前。神器はそれまでの軌道を急激に変化させ、いったん垂直に跳ねて山刀を空振りさせると、再度真下へと加速した。
ドッ。
かすかな、乾いた音。
次の瞬間、ソロチの鍛え抜かれた体の正中線に、青白い軌跡が走った。
「ガアアアアッ!!」
獰猛な雄叫びを迸らせ、ソロチはキクノに飛びかかろうとした。だが、右半身の動きに、左半身が遅れた。一歩、二歩走ったところで体が完全に分離し、右と左にどうと倒れた。
戻ってきた蛇を丁寧に受け止めると、それは音もなく元に戻った。
キクノは、一滴の血もついていない鞭を無言で見詰めた。
最後まで諦めない意思に、神器は応えてくれたのだろうか。だから、今まで私に見せたことのない姿を、見せてくれたのだろうか。
──師よ。これで私も、一人の騎士になれたのでしょうか……。
遙か彼方、私では到底認識できない場所にいるであろう師に想いを飛ばしながら、騎士キクノは後方の第二部隊と合流ために駆け出した。
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