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第三部・三章 血流大戦(後編)
第十二話
そうだ。
そのまま、まっすぐこっちに来い。
潜伏からの奇襲は、我らオーガ族の専売特許だ。
隠蔽は完璧だ。金属鎧など物ともせず、灌木の作り出す暗がりに溶け込んでいる。
紫髪の少女は用心深く周囲を警戒しているが、その視線はエガリルの潜む茂みをただ通り過ぎるのみ。あと七メートル……五メートル……。
──いいぞ。実にいい、この感じ。血が騒ぐぞ。
三メートルの距離まで近づいてきた少女が、不意に右へ向きを変え、部下が隠してきた死体のほうへ進み始めた。
もう少し引き寄せたかったが、まあ、大した差じゃない。
エガリルはまったくの無音で暗がりから滑り出て、左手を伸ばしながら少女の背中に迫った。口を塞ぎ、驚愕に縮こまる喉を、鋭利な短剣で一気に切り裂く──
その予感があまりにもリアルだったために、エガリルは、目の前にきらりと光った刃に即座に対応できなかった。
「……うおっ!」
慌てて飛び退くと同時に、剣先が顎下の露出した肌を掠める。
まったくこちらに気付いていないはずだった少女が、背中を向けたまま左腰の大剣とも取れる長剣を滑らかに抜き打ったのだ。実に見事な一撃。あと少し踏み込んでいたら、喉を裂かれていた。
振り向き、両手で剣を構え直す少女の瞳に、恐怖と驚きなど微塵もない。あるのは敵意と殺意だと見てとり、エガリルは暗殺がとっくに見破られていたことをしぶしぶ認めた。
「……女、何故解った」
少女は、油断なく剣を構えながら、素っ気なく答えた。
「獣人族は空気の流れに敏感だからよ。あんたの放つ殺意が、かすかに空気を震わせてたのよ」
「じ、獣人族だと……?」
瞬きしながらも、エガリルは遠い記憶が刺激されるのを感じていた。この女、ずっと昔に人界へ逃げ込んだ……。
しかし、思考がどこかに辿り着く前に、少女がすうっと息を吸い、物凄い大声で叫んだ。
「敵襲!! 敵襲──!!」
ちっと舌打ちし、短剣を右腰に収める。
仕方ない、遊びもここまでか。
エガリルは、大きく左手を上げると、同じく叫んだ。
「同胞よ……獲物を狩れ!!」
今度こそ、少女が驚愕に眼を見開いた。
エガリルの背後、数十メートル離れた茂みから、ざざざ……と次々に身体を起こしたのは、オーガ族の精鋭兵三十人。
少女の警告に反応して馬車から飛び降りた衛士隊長も、北側から駆けつけてきた十名ほどの衛士
たちも、一様に凍りついた。
「な……後ろに敵が!? 数十人規模!?」
天界の騎士キクノは、補給部隊からの急報が信じられずに叫び返した。
まずい──まずい!
馬車が襲われ、物資が焼かれでもしたら全軍が動けなくなる。後方に護衛を置いたとはいえ、暗がりでの戦闘を得意とするオーガ族相手では何分持つか分からない。
救援を百、いや二百は送らなければ。しかし、いま本隊を動かせば、北から接近しつつある敵部隊に待ち伏せを気取られるかもしれない。そうなったらもう、数で遥かに優る敵に、ひとたまりもなく殲滅されてしまう。
いや、既に奇襲計画は露見していると考えるべきなのか? ならば全軍を南に動かして、再度の機会を待つか?
即座に結論が出せず、立ち尽くすキクノの耳に、太い声が届いた。
「まさか、俺たちの南進を見抜いて、ここに兵を伏せさせていたのか……いや、それとも最初から……」
一キロ北の丘から戻ってきた騎士長ヒサカゲとセレナだった。キクノからすれば雲の上の存在とも思える二人だが、その顔にももう余裕はない。ことにセレナは、すぐにでも補給部隊のところへ飛んでいきそうだ。
ヒサカゲの肩越しに北を見やると、丘陵地帯の向こうに、接近しつつある大軍が巻き上げる土煙がうっすらと見て取れる。
騎士長は一瞬瞑目すると、すぐに青灰色の両眼をかっと見開いて指示した。
「キクノ、本隊を後退させろ。嬢ちゃん、すぐに補給部隊の救援に向かえ。北からの敵は、こっちに向かってるカズヤと合流して食い止める」
「止めると言っても……騎士長、敵の騎士団は五千を超えます! カズヤもまだ戻ってきていないというのに……」
「弟子の頑張りに師が答えないわけにはいかんさ。早く行け!! 最後の一兵までも費やして敵軍を削り切ると決めたカズヤの意思に答えてやるんだ!!」
ヒサカゲは、それだけ言うとくるりと北を向いた。
節くれ立った右手が、左腰の斬穿剣をゆっくりと抜き放つ。
年経た刀身の色褪せた輝きを見れば、剣に残された時間が僅かであるのは明らかだった。
立て続けに三度、火花が闇に弾けた。
紫色の髪の少女は、エガリルの死角からの斬撃を初見で全て弾いてみせた。
しかもエガリルは一撃離脱戦法にも関わらず、三撃目にして反撃に移った。更にその斬撃は、左肩をわずかに掠めていた。
掠めただけで刺されたような出血に、オーガ族長は思わず称賛の口笛を鳴らした。
──間違いない。奴は、我らと同じ血を持つ者だ。
卓越した察知能力と俊敏性。暗がりへと対応の速さ。奴は間違いなく、人界へと逃げ込んだオーガ族の末裔。
遥か太古、人界と魔界が隔たれる前に、オーガ族は魔界で一、二を争うほど過激な種族へと発展していた。
血で血を洗う毎日。何万もの魔獣を己の牙と爪で引き裂くなど日常茶飯事。時には、同族内で牙を研ぎ合い、血に塗れていた。
安息などない日々。だがそれを望まなかった小心者共は、多くの同胞を連れて人界へと逃げ込んだ。
人界での怠惰な時間を過ごすごとに、オーガの誇り高い血が薄れていき、いつしか人族に奴隷として扱われるようになった愚かな末裔。
──教えてやる。遥か昔、《古の大戦》から続く古き血、純血のオーガ族の実力というものを。
獣人族サヤは、全神経を極限まで研ぎ澄ますことで空気の微弱な変化に気付き、死角から襲い掛かるオーガ族を迎え撃っていた。
しかし、この技法は体力を消耗する。常に空気の変化に反応するため精神負荷を常に感じ続けている。
──これが……本来の獣人の動き。
荒い呼吸を繰り返しながら、サヤは焦燥に駆られていた。
そんな中、暗がりから不気味な声が響く。
「獣人族の娘よ……何故そこまでして戦う」
この声……エガリルだ。
サヤは神経を微かに緩め、何処からかこちらを見ているエガリルに向けて叫んだ。
「決まってるでしょ! 仲間を……人界の民を守るためよ!」
「仲間……? 馬鹿なことを」
嘲笑う声に続いて、エガリルは言った。
「お前も知ってるはずだ。古の大戦後、人族は同じ民である貴様らを奴隷のように扱っていたことを」
獣人族の忌まわしい過去を指摘された途端、心臓に短剣を突きつけられたような痛みが胸に生じた。
「お前がいくら人族のために身を削ろうが、人界に貴様等の居場所などない」
「そ、そんなことは……!」
強く否定しようとした。
しかし、そこから先の言葉が出なかった。
エガリルはその一瞬を待っていたかのように、左から姿を現した。
両手に生えた鋭利な爪が月明かりで妖しく光り、サヤの喉元に迫る。
サヤは間一髪で体を回転させ回避するも、反応が一瞬だけ遅れてしまい、右肩を軽く抉られる。
「くっ!!」
痛みによる呻き声を必死に抑え、強引に剣を横殴りする。
エガリルは再び茂みに飛び退き、姿をくらませる。
損傷箇所の右肩にちらりと視線を走らせる。肉が少しだけ抉られており、出血が止まらない。今すぐ治癒術を施したいが、一瞬でも隙を見せようものなら、今度こそ喉元を抉り取られる。
「くっ……くっく」
茂みの向こうから、抑えられない含み笑いが聞こえてくる。
「自分でも気付いているではないか……。人族は命をかけてまで守る価値がないことに」
決定的な台詞に、サヤはほんの一瞬だけ思考を停止させた。
……そうだ。彼らは、利用するだけ利用するんだ。私が必死に戦っても、彼らは私に感謝なんかしない。
そんな彼らのために、戦う必要なんてあるのだろうか。
「……私は」
右肩を抑える手が、無気力に解ける。長剣すらもゆっくりと下ろしてしまい、戦意すらも消えていくのが解る。
もう……無理だ。
私にはもう、戦う理由がない。剣を取る理由が、ない。
全てを諦めようとした矢先──。
一人の男の姿が、脳裏に浮かび上がった。
違う世界の人族だというのに、人界の民を守るために戦った男。
異質なはずの私を、普通の女の子と同じように話しかけてくれた男。
自分が守りたいと思う者のために戦う男。
運命に翻弄されながらも立ち止まらずに歩み続けた男。
最後まで、諦めずに戦い続けた男──カズヤの姿を。
──彼は、大切な人を沢山失った。
それでも、彼は剣を取ってる。戦うことをやめなかった。
どんなに恨まれても……妬まれても……。
誰にも感謝されなくても、戦い続けた。
そんな彼に、私は無意識に惹かれ、同時に憧れた。
守りたい意思。諦めない意思。
そして、愛を注ぐ意思。
ここにもしカズヤがいたら。
きっと、戦うことをやめない。人族のために戦うことをやめるなんて、一切考えない。
サヤは、痛みを感じさせない動きで剣を掲げ、両眼を静かに閉じる。
隙だらけの構え。
暗殺の達人たるエガリルからすれば、いつでも来いと捉えられる挑発の構えだった。
エガリルは、獲物が諦めたんだと思い、舌なまずる。
──この手で喉を裂き、肉を抉り取る。
知らしめる。純血のオーガの力を。
月光を照らし続ける月に、分厚い雲が覆いかぶさる。明かりが薄れ、灌木が更なる暗闇に呑まれる。
エガリルは、獣人の娘の周囲が完璧に暗闇に覆われる。夜目の効くオーガ族の長には、仕留める獲物の姿がはっきりと見えている。
茂みから無音で移動し、獣人の娘の背後に回り込む。両脚で強く地面を踏みつけ──。
無音で、茂みから身を出す。
空気を振動させずに飛びかかったことで、獣人の娘は気づいていない。このまま奴の喉元を──。
「リベラシオン……」
静かに唱えられた奇妙な単語が、暗闇から放たれる。
エガリルの視界が、漆黒に包まれる。
何が起きたのか解らない。
理解できたのは、己の頭部が空間に呑み込まれたことだけ。
***
「はぁ……はぁ……」
滝のように流れ出る汗を振り払いながら、サヤは荒い呼吸を必死に整えようとする。
──まさか……一回使っただけで……ここまで疲れるなんて。
戦争が始まる二日前、カズヤに誘われて行った剣との対話と呼ばれる儀式で習得した解放術。
餓断剣の解放術。率直に言ってしまえば、空間を削り取る。
全てを噛み砕く餓狼の牙は、空間そのものを呑み込み、消し去る。消された空間やそこにあった物は剣に呑まれ、糧となる。
呑み込まれた物は、二度と戻ることはない。
突撃していたエガリルの頭部を削り取れたのは偶然と呼べる奇跡だ。一秒でも遅れていれば、今頃は私の方が頭部を失っていた。
しかし。
聞いてはいたが、解放術は予想以上に体力を消耗させられる。戦闘による疲労もあるが、歩くことすらままならない。
「……早く、部隊と合流しなきゃ」
剣を支えに、頼りない足取りで一歩ずつ歩んでいく。
…………?
不意に、サヤの瞳の焦点が、赤い空へと向かった。
──光。
降り注ぐ、乳白色の光の粒子。ふわり、ふわりと雪のように舞い降りてくる。
漆黒の夜空。血の色の星々。
それらを背後に浮かぶ、小さな──それでいて凄まじく巨大な存在感を放つシルエット。
──人。女性だ。
真珠でできているかのように輝くブレストプレート。籠手とブーツも同色。
長めのスカートは、無数の細布が縫い合わされ、まるで翼のようにはためいている。夜風になびく長い髪は、艶やかな金色──。
「創世神……さま」
無意識に、サヤが呟いた。
星空からゆっくりと舞い降りてくる女の、小さな顔がちらりと垣間見えた瞬間、獣人族は吸い寄せられるように身を乗り出した。
空に浮く人影が、右手を前に伸ばした。
しなやかな五本の指を、ふわりと横に振り払う。
世界が、大きく揺れる。
人影の指先から、薄絹のカートンのような光が放たれて、灌木地帯の背後へと降り注ぐ。
地響き。
立っていられないほどの地震に、思わず膝をつく。
空に浮く女は、真下のサヤを見下ろした。
女の私ですら息を呑むほどの美貌に、サヤはしばし惚けていた。
騎士長ヒサカゲは、愛剣を右手にぶら下げたまま、ただ立ち尽くした。
目の前に、幅百メルはあろうかという巨大な地割れが口を開けている。左右はどちらも見渡す限り続き、深さは推測することもできない。縁からは断続的に石片が剥がれ落ちていくが、どれほど耳を澄まそうと、それらが底にぶつかる音は聞こえない。
この大地の裂け目は、数十秒前にはまったく存在していなかった。
天空から、壮麗な光が降り注ぎ、それが触れた途端に地面が割れたのだ。
一万人もの魔術師を投じようとも、とうていこれほどの天変地異は引き起こせまい。
神威だ。神の御業だ。
こんな芸当が出来るのは、一人しかいない。
ヒサカゲは畏怖とともにそう考えた。それを説明できるだけの根拠がある。
巨大な地割れの向こう岸には、行く手を遮られた五千人の暗黒騎士団たちが、呆然と立ち竦んでいる。
地割れは、全速で疾駆していた彼ら全員が安全に停止できるだけの余裕を取って生じた。
騎士長はそこに、多くの命を消し去ることへの躊躇いを感じた。
「やれやれ……相変わらず、お人好しな神なことで……」
そのまま、まっすぐこっちに来い。
潜伏からの奇襲は、我らオーガ族の専売特許だ。
隠蔽は完璧だ。金属鎧など物ともせず、灌木の作り出す暗がりに溶け込んでいる。
紫髪の少女は用心深く周囲を警戒しているが、その視線はエガリルの潜む茂みをただ通り過ぎるのみ。あと七メートル……五メートル……。
──いいぞ。実にいい、この感じ。血が騒ぐぞ。
三メートルの距離まで近づいてきた少女が、不意に右へ向きを変え、部下が隠してきた死体のほうへ進み始めた。
もう少し引き寄せたかったが、まあ、大した差じゃない。
エガリルはまったくの無音で暗がりから滑り出て、左手を伸ばしながら少女の背中に迫った。口を塞ぎ、驚愕に縮こまる喉を、鋭利な短剣で一気に切り裂く──
その予感があまりにもリアルだったために、エガリルは、目の前にきらりと光った刃に即座に対応できなかった。
「……うおっ!」
慌てて飛び退くと同時に、剣先が顎下の露出した肌を掠める。
まったくこちらに気付いていないはずだった少女が、背中を向けたまま左腰の大剣とも取れる長剣を滑らかに抜き打ったのだ。実に見事な一撃。あと少し踏み込んでいたら、喉を裂かれていた。
振り向き、両手で剣を構え直す少女の瞳に、恐怖と驚きなど微塵もない。あるのは敵意と殺意だと見てとり、エガリルは暗殺がとっくに見破られていたことをしぶしぶ認めた。
「……女、何故解った」
少女は、油断なく剣を構えながら、素っ気なく答えた。
「獣人族は空気の流れに敏感だからよ。あんたの放つ殺意が、かすかに空気を震わせてたのよ」
「じ、獣人族だと……?」
瞬きしながらも、エガリルは遠い記憶が刺激されるのを感じていた。この女、ずっと昔に人界へ逃げ込んだ……。
しかし、思考がどこかに辿り着く前に、少女がすうっと息を吸い、物凄い大声で叫んだ。
「敵襲!! 敵襲──!!」
ちっと舌打ちし、短剣を右腰に収める。
仕方ない、遊びもここまでか。
エガリルは、大きく左手を上げると、同じく叫んだ。
「同胞よ……獲物を狩れ!!」
今度こそ、少女が驚愕に眼を見開いた。
エガリルの背後、数十メートル離れた茂みから、ざざざ……と次々に身体を起こしたのは、オーガ族の精鋭兵三十人。
少女の警告に反応して馬車から飛び降りた衛士隊長も、北側から駆けつけてきた十名ほどの衛士
たちも、一様に凍りついた。
「な……後ろに敵が!? 数十人規模!?」
天界の騎士キクノは、補給部隊からの急報が信じられずに叫び返した。
まずい──まずい!
馬車が襲われ、物資が焼かれでもしたら全軍が動けなくなる。後方に護衛を置いたとはいえ、暗がりでの戦闘を得意とするオーガ族相手では何分持つか分からない。
救援を百、いや二百は送らなければ。しかし、いま本隊を動かせば、北から接近しつつある敵部隊に待ち伏せを気取られるかもしれない。そうなったらもう、数で遥かに優る敵に、ひとたまりもなく殲滅されてしまう。
いや、既に奇襲計画は露見していると考えるべきなのか? ならば全軍を南に動かして、再度の機会を待つか?
即座に結論が出せず、立ち尽くすキクノの耳に、太い声が届いた。
「まさか、俺たちの南進を見抜いて、ここに兵を伏せさせていたのか……いや、それとも最初から……」
一キロ北の丘から戻ってきた騎士長ヒサカゲとセレナだった。キクノからすれば雲の上の存在とも思える二人だが、その顔にももう余裕はない。ことにセレナは、すぐにでも補給部隊のところへ飛んでいきそうだ。
ヒサカゲの肩越しに北を見やると、丘陵地帯の向こうに、接近しつつある大軍が巻き上げる土煙がうっすらと見て取れる。
騎士長は一瞬瞑目すると、すぐに青灰色の両眼をかっと見開いて指示した。
「キクノ、本隊を後退させろ。嬢ちゃん、すぐに補給部隊の救援に向かえ。北からの敵は、こっちに向かってるカズヤと合流して食い止める」
「止めると言っても……騎士長、敵の騎士団は五千を超えます! カズヤもまだ戻ってきていないというのに……」
「弟子の頑張りに師が答えないわけにはいかんさ。早く行け!! 最後の一兵までも費やして敵軍を削り切ると決めたカズヤの意思に答えてやるんだ!!」
ヒサカゲは、それだけ言うとくるりと北を向いた。
節くれ立った右手が、左腰の斬穿剣をゆっくりと抜き放つ。
年経た刀身の色褪せた輝きを見れば、剣に残された時間が僅かであるのは明らかだった。
立て続けに三度、火花が闇に弾けた。
紫色の髪の少女は、エガリルの死角からの斬撃を初見で全て弾いてみせた。
しかもエガリルは一撃離脱戦法にも関わらず、三撃目にして反撃に移った。更にその斬撃は、左肩をわずかに掠めていた。
掠めただけで刺されたような出血に、オーガ族長は思わず称賛の口笛を鳴らした。
──間違いない。奴は、我らと同じ血を持つ者だ。
卓越した察知能力と俊敏性。暗がりへと対応の速さ。奴は間違いなく、人界へと逃げ込んだオーガ族の末裔。
遥か太古、人界と魔界が隔たれる前に、オーガ族は魔界で一、二を争うほど過激な種族へと発展していた。
血で血を洗う毎日。何万もの魔獣を己の牙と爪で引き裂くなど日常茶飯事。時には、同族内で牙を研ぎ合い、血に塗れていた。
安息などない日々。だがそれを望まなかった小心者共は、多くの同胞を連れて人界へと逃げ込んだ。
人界での怠惰な時間を過ごすごとに、オーガの誇り高い血が薄れていき、いつしか人族に奴隷として扱われるようになった愚かな末裔。
──教えてやる。遥か昔、《古の大戦》から続く古き血、純血のオーガ族の実力というものを。
獣人族サヤは、全神経を極限まで研ぎ澄ますことで空気の微弱な変化に気付き、死角から襲い掛かるオーガ族を迎え撃っていた。
しかし、この技法は体力を消耗する。常に空気の変化に反応するため精神負荷を常に感じ続けている。
──これが……本来の獣人の動き。
荒い呼吸を繰り返しながら、サヤは焦燥に駆られていた。
そんな中、暗がりから不気味な声が響く。
「獣人族の娘よ……何故そこまでして戦う」
この声……エガリルだ。
サヤは神経を微かに緩め、何処からかこちらを見ているエガリルに向けて叫んだ。
「決まってるでしょ! 仲間を……人界の民を守るためよ!」
「仲間……? 馬鹿なことを」
嘲笑う声に続いて、エガリルは言った。
「お前も知ってるはずだ。古の大戦後、人族は同じ民である貴様らを奴隷のように扱っていたことを」
獣人族の忌まわしい過去を指摘された途端、心臓に短剣を突きつけられたような痛みが胸に生じた。
「お前がいくら人族のために身を削ろうが、人界に貴様等の居場所などない」
「そ、そんなことは……!」
強く否定しようとした。
しかし、そこから先の言葉が出なかった。
エガリルはその一瞬を待っていたかのように、左から姿を現した。
両手に生えた鋭利な爪が月明かりで妖しく光り、サヤの喉元に迫る。
サヤは間一髪で体を回転させ回避するも、反応が一瞬だけ遅れてしまい、右肩を軽く抉られる。
「くっ!!」
痛みによる呻き声を必死に抑え、強引に剣を横殴りする。
エガリルは再び茂みに飛び退き、姿をくらませる。
損傷箇所の右肩にちらりと視線を走らせる。肉が少しだけ抉られており、出血が止まらない。今すぐ治癒術を施したいが、一瞬でも隙を見せようものなら、今度こそ喉元を抉り取られる。
「くっ……くっく」
茂みの向こうから、抑えられない含み笑いが聞こえてくる。
「自分でも気付いているではないか……。人族は命をかけてまで守る価値がないことに」
決定的な台詞に、サヤはほんの一瞬だけ思考を停止させた。
……そうだ。彼らは、利用するだけ利用するんだ。私が必死に戦っても、彼らは私に感謝なんかしない。
そんな彼らのために、戦う必要なんてあるのだろうか。
「……私は」
右肩を抑える手が、無気力に解ける。長剣すらもゆっくりと下ろしてしまい、戦意すらも消えていくのが解る。
もう……無理だ。
私にはもう、戦う理由がない。剣を取る理由が、ない。
全てを諦めようとした矢先──。
一人の男の姿が、脳裏に浮かび上がった。
違う世界の人族だというのに、人界の民を守るために戦った男。
異質なはずの私を、普通の女の子と同じように話しかけてくれた男。
自分が守りたいと思う者のために戦う男。
運命に翻弄されながらも立ち止まらずに歩み続けた男。
最後まで、諦めずに戦い続けた男──カズヤの姿を。
──彼は、大切な人を沢山失った。
それでも、彼は剣を取ってる。戦うことをやめなかった。
どんなに恨まれても……妬まれても……。
誰にも感謝されなくても、戦い続けた。
そんな彼に、私は無意識に惹かれ、同時に憧れた。
守りたい意思。諦めない意思。
そして、愛を注ぐ意思。
ここにもしカズヤがいたら。
きっと、戦うことをやめない。人族のために戦うことをやめるなんて、一切考えない。
サヤは、痛みを感じさせない動きで剣を掲げ、両眼を静かに閉じる。
隙だらけの構え。
暗殺の達人たるエガリルからすれば、いつでも来いと捉えられる挑発の構えだった。
エガリルは、獲物が諦めたんだと思い、舌なまずる。
──この手で喉を裂き、肉を抉り取る。
知らしめる。純血のオーガの力を。
月光を照らし続ける月に、分厚い雲が覆いかぶさる。明かりが薄れ、灌木が更なる暗闇に呑まれる。
エガリルは、獣人の娘の周囲が完璧に暗闇に覆われる。夜目の効くオーガ族の長には、仕留める獲物の姿がはっきりと見えている。
茂みから無音で移動し、獣人の娘の背後に回り込む。両脚で強く地面を踏みつけ──。
無音で、茂みから身を出す。
空気を振動させずに飛びかかったことで、獣人の娘は気づいていない。このまま奴の喉元を──。
「リベラシオン……」
静かに唱えられた奇妙な単語が、暗闇から放たれる。
エガリルの視界が、漆黒に包まれる。
何が起きたのか解らない。
理解できたのは、己の頭部が空間に呑み込まれたことだけ。
***
「はぁ……はぁ……」
滝のように流れ出る汗を振り払いながら、サヤは荒い呼吸を必死に整えようとする。
──まさか……一回使っただけで……ここまで疲れるなんて。
戦争が始まる二日前、カズヤに誘われて行った剣との対話と呼ばれる儀式で習得した解放術。
餓断剣の解放術。率直に言ってしまえば、空間を削り取る。
全てを噛み砕く餓狼の牙は、空間そのものを呑み込み、消し去る。消された空間やそこにあった物は剣に呑まれ、糧となる。
呑み込まれた物は、二度と戻ることはない。
突撃していたエガリルの頭部を削り取れたのは偶然と呼べる奇跡だ。一秒でも遅れていれば、今頃は私の方が頭部を失っていた。
しかし。
聞いてはいたが、解放術は予想以上に体力を消耗させられる。戦闘による疲労もあるが、歩くことすらままならない。
「……早く、部隊と合流しなきゃ」
剣を支えに、頼りない足取りで一歩ずつ歩んでいく。
…………?
不意に、サヤの瞳の焦点が、赤い空へと向かった。
──光。
降り注ぐ、乳白色の光の粒子。ふわり、ふわりと雪のように舞い降りてくる。
漆黒の夜空。血の色の星々。
それらを背後に浮かぶ、小さな──それでいて凄まじく巨大な存在感を放つシルエット。
──人。女性だ。
真珠でできているかのように輝くブレストプレート。籠手とブーツも同色。
長めのスカートは、無数の細布が縫い合わされ、まるで翼のようにはためいている。夜風になびく長い髪は、艶やかな金色──。
「創世神……さま」
無意識に、サヤが呟いた。
星空からゆっくりと舞い降りてくる女の、小さな顔がちらりと垣間見えた瞬間、獣人族は吸い寄せられるように身を乗り出した。
空に浮く人影が、右手を前に伸ばした。
しなやかな五本の指を、ふわりと横に振り払う。
世界が、大きく揺れる。
人影の指先から、薄絹のカートンのような光が放たれて、灌木地帯の背後へと降り注ぐ。
地響き。
立っていられないほどの地震に、思わず膝をつく。
空に浮く女は、真下のサヤを見下ろした。
女の私ですら息を呑むほどの美貌に、サヤはしばし惚けていた。
騎士長ヒサカゲは、愛剣を右手にぶら下げたまま、ただ立ち尽くした。
目の前に、幅百メルはあろうかという巨大な地割れが口を開けている。左右はどちらも見渡す限り続き、深さは推測することもできない。縁からは断続的に石片が剥がれ落ちていくが、どれほど耳を澄まそうと、それらが底にぶつかる音は聞こえない。
この大地の裂け目は、数十秒前にはまったく存在していなかった。
天空から、壮麗な光が降り注ぎ、それが触れた途端に地面が割れたのだ。
一万人もの魔術師を投じようとも、とうていこれほどの天変地異は引き起こせまい。
神威だ。神の御業だ。
こんな芸当が出来るのは、一人しかいない。
ヒサカゲは畏怖とともにそう考えた。それを説明できるだけの根拠がある。
巨大な地割れの向こう岸には、行く手を遮られた五千人の暗黒騎士団たちが、呆然と立ち竦んでいる。
地割れは、全速で疾駆していた彼ら全員が安全に停止できるだけの余裕を取って生じた。
騎士長はそこに、多くの命を消し去ることへの躊躇いを感じた。
「やれやれ……相変わらず、お人好しな神なことで……」
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すると遥か空の彼方、誰も到達できないほどの高度に存在する、巨大な空獣に守られた天空城にたどり着く。
主人不在らしきその城に入ると頭の中にダイレクトに声が流れてきた。
――霊子力パターン、熾天使《セラフ》と認識。天界の座マスター登録します。……ああ、お帰りなさいルシフェル様。お戻りをお待ち申し上げておりました――
風景が目まぐるしく移り変わる。
天空城に封じられていた七つの天国が解放されていく。
移り変わる景色こそは、
第一天 ヴィロン。
第二天 ラキア。
第三天 シャハクィム。
第四天 ゼブル。
第五天 マオン。
第六天 マコン。
それらはかつて天界を構成していた七つの天国を再現したものだ。
気付けば明星は、玉座に座っていた。
そこは天の最高位。
第七天 アラボト。
そして玉座の前には、明星に絶対の忠誠を誓う超常なる存在《七元徳の守護天使たち》が膝をついていたのだった。
――これは異世界で神なる権能と無敵の天使軍団を手にした明星が、調子に乗ったエセ強者を相手に無双したり、のんびりスローライフを満喫したりする物語。
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