もう一度を聴きながら

ゆく

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3. 目撃

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 食事を終えて店を出ると、もうすっかり日も沈んでいた。相変わらず駅へ続く道は帰宅途中の会社員らしき人たちが同じ方向へと歩いている。

 樫谷の選んだ料理はどれも悠介の好みに合っていて、本当においしかった。ついつい樫谷に勧められるがままビールなんかも飲んでしまって、気がつけば二時間は経っていた。

 酔ってるわけではないものの、気分がふわふわと高揚しているのはわかる。久しぶりに、綾子以外の誰かと一緒に食事をした。相手とまともに話すのは初めてだったのに、間に挟まったアクリルパネルの存在すら忘れていた。


「ああ――もうほら。綾瀬お前、酔ってるな」


 樫谷はふらつきながら歩く悠介の腕を掴んで、立ち止まらせる。店にいる時はまだそこまで酔っているようには見えなかったのに、会計を済ませて外に出るほんの少しの間で一気に酔いが回ったようだ。


「酔ってない。いいか樫谷、俺は酔ってないから」
「知ってるか綾瀬、酔っ払いはいつの時代もそう言うんだよ!」


 唇を尖らせて酔いを否定した悠介に、樫谷は食い気味に大笑いする。会話が聞こえたのか、女性三人組がくすくす笑って二人の横を追い越していった。


「綾瀬のせいで笑われただろ」
「ええー。俺のせいじゃないよ、樫谷が大笑いしてるからだって!」


 さっきとは反対で、今度は樫谷がわざとらしく拗ねてみせる。そんな樫谷の太い二の腕を悠介が手のひらで押し、笑い飛ばした。ワイシャツ越しに軽く触れただけなのに、明らかに固い感触がしてぎょっとする。


「うわっ……樫谷の筋肉すごいなぁ、ジムとか行ってるの?」
「前は行ってたけど、今はちょっと行ける雰囲気じゃないから、宅トレがほとんどかな」
「男らしくていいね。俺とは大違いだ」
「綾瀬は細いよな。筋肉も脂肪も少なそう……」


 そう言うと、樫谷も悠介の二の腕を掴んだ。自分の右腕を鷲掴みにしている手は、一回りくらい大きい。太く長い指は節ばっていて、手の甲は血管が目立った。それだけで男らしく、男くさい。情シスの数少ない女性同僚が「うちの男連中と違って営業の樫谷さんはガタイがいい」と言っていたのは、こういうところからだろうか。


「俺は細いんじゃなくて普通体型だよ。筋肉も脂肪もそれなりにある。樫谷と比べたらみんな細いって判定になると思うけど」
「そうか?」


 悠介の言葉を、樫谷はいまいち納得していないようだった。


 駅までの十五分を、二人とも酔い覚ましがてら歩き出す。

 樫谷にはああ言ったものの、実際悠介は日本人の成人男性としては細めだという自覚がある。陸上部で長距離走の選手だった学生時代の間で、無駄な贅肉は落ち、ただ走るためだけの筋肉が残った。大学を卒業後、長時間パソコンにかじりつく職種に就いてからは、走ることもなくなって、いつの間にか〝それなり〟な体型になっている。


 駅へ向かう途中、悠介は隣で歩く樫谷の横顔をちらりと見た。

 おいしい食事と酒で満足したのか、口角のすっきり上がっている様子に、今夜は満足できたらしい。

 これまで、入社時のたった二週間の座学研修でしか関わりがなかった同期は、悠介が知るよりも気さくな人物だった。実際は噂話が耳に入るくらいで、どういった人物なのか知る機会はなかったからというのも大きいかも知れない、と悠介は考える。

 情シスの先輩や同僚に聞かされていたのは、高圧的だとか、冷たいだとか、告白するとセフレならいいよと言われるだとか、ネガティブな内容ばかりだった。


(全然高圧的じゃないし、冷たいとか真逆だ。)

(セフレ云々はよくわからないけど……でも、仕事なのにわざわざお礼したいとか言うやつがそんな無責任なこと言うとは思えないし……)

(――きっと噂も先輩たちの勘違いや誤解だろう。)


 はぁ、と一息吐いて、視線を樫谷の横顔から逸らした。
 イレギュラーな対応をさせられたことは微妙だったけれど、それが自分の仕事であるのだし、結果、樫谷の噂が信憑性のないことだと自分なりに結論づけられたことは良かった。

 信号待ちで立ち止まったタイミングで樫谷のいる右方向を見ると、切れ長の黒い瞳がすぐ傍でじっと自分を見下ろしていた。まさか見られているとは思っていなかった悠介は、その視線の強さに一瞬どきりと息を呑む。悠介のたじろぐ様子を見た樫谷は目力を和らげて口角を上げた。その顔が街頭の白い灯りに照らされる。


「樫谷はこの後は寮に戻るのか?」


 樫谷は頷く。
 悠介と違って樫谷が寮住まいだということは食事の際に聞いた。地方出身の樫谷は就職のために上京してからはもうずっと寮住まいだ。後輩が増えてきてなかなか肩身が狭いんだ、と言って寮を出ることも考えているが、忙しさで部屋探しすらままならないらしい。

 彼が配属されてる営業企画部は社内でも一、二を争う忙しい部署で、定時で帰れることは皆無だ。無理もない。在宅勤務運用が始まるまでは、情シスと営業企画の窓だけがいつも煌々と明るかった。


「……今から電車で三十分、歩いて十五分だ」
「きついね」
「綾瀬は会社の近くだろ、家賃とか高くないのか?」
「高いよ。高いけど、まぁ家賃補助とかあるし、まぁやっていけてる感じかな」
「あのへんだと相場ってどのくらい? 綾瀬の部屋の家賃って……あ、ごめん。いきなりこんなこと聞いて」


 さすがに終電までには会社を出られるものの、そこから寮に帰るとなると、なかなか疲れがとれないらしい。さすがに公共の場で自宅の家賃を声高に言うのははばかられたので、耳打ちするように、悠介は自宅の家賃額を教えると、樫谷の切れ長の目が丸く開いた。


「……高くないか?」
「うち、ファミリー仕様の2LDKだから。しかも分譲賃貸なんだよ」
「2LDK!? しかも分譲賃貸……」
「うん。だから結構高い」
「何でまたそんな物件を……」
「それがねぇ」


 ……「彼女と同棲するつもりの物件だったんだけど。」
 そう言うと、目だけでなく口も、樫谷は同じように丸く開く。


「彼女がいるのか。ああ、そういえばそうだったな……」
「……樫谷に彼女がいるって言ったことあったっけ?」
「あ、ああ。入社した時の飲み会で、言ってたぞ」


 入社した時の飲み会。
 座学の研修が終わったタイミングで飲み会があったなと思い出した。二卓に分かれた気がする。悠介は同じ情シスの楠田や、おとなしめの同期たちと静かに飲んで食べていた。だけど樫谷とじっくり話した記憶はなかった。


「同棲しようと思って部屋を借りたんだけど」
「……しなかったのか?」
「新型ウイルスのせいで、彼女の親が今はやめとけって言い出して」
「……なるほど、そういうことか……」
「そう。だから今はファミリー仕様の2LDKで一人暮らし」


 歩行者用の信号が青に変わって歩き出した悠介の後を、気まずそうな表情を浮かべた樫谷が追う。言わなくてもいいことを言ってしまった、と言った後で後悔した。情シスの仲間内ではこの話題はすっかり笑い話として定着しているから忘れていたけれど、これは完全に〝痛い話〟なのだ。


「あ、あのな、二人暮らしするつもりが一人暮らしになっちゃったけど、気楽でいいなって思ってもいるんだ。だから、そんな気まずくならないでいいよ」
「そういうもんなのか……?」
「そういうもんだよ。――あ、ちょっとコンビニに寄っても、」


 いいかな?と、そう言いかけた時だった。

 大通りから一本入った道を歩く。立ち並ぶ飲み屋と、カフェと、コンビニ、風俗店。抜けた先には、駅へ続く地下道の入り口がある。朝食用のパンでも買いたいなと、気まずそうな顔をしたままの樫谷を振り返った瞬間、遠目に、でもはっきりと、見覚えのある姿が目に入った。


 きれいに巻かれた茶色い髪。高めのヒール。膝丈の水色のワンピース。
 数日前に悠介が自宅で見た姿と同じ服装。


「…………綾瀬? どうした?」


 立ち止まったまま動かない悠介の視界を塞ぐように、樫谷が正面に立った。
 樫谷のその広い肩幅の向こう側。

 指と指を絡めて、重なるように知らないスーツ姿の男とくっついて、休憩料金の掲示されたホテルへ入っていこうとしているのは、綾子だった。
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