もう一度を聴きながら

ゆく

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4. 小さなガッツポーズ

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 まばたき一つできないまま、男と抱き合いながら綾子が建物の中へ連れ立っていこうとしているのを、悠介はじっと見ていた。学生時代から七年以上も付き合ってきた恋人を見間違えるわけがない。


「…………何で、俺が買った服で」
「……おい、綾瀬。どうした?」


 綾子の着ているワンピースは、よりにもよって悠介が綾子にねだられて買ったものだ。

 悠介が吐き出した一言を樫谷の耳は拾わなかったらしい。見開いた悠介の視線の先を追いかけ、そこに二人組の男女の姿を認めると、腕を悠介の肩に回してぐるっと反転させた。


「えっ、ちょ……樫た」
「――お前、顔真っ青だぞ。こっち来い」
「え、あ、ちょ、ちょっと……!!」


 一回り大きな体で悠介を隠しつつ、まるで二人連れから遠ざけるように後ろから抱え込みながら背中をぐいぐいと押すので、悠介はたまらずたたらを踏む。

 後ろを見ようとすればすかさず樫谷の両手で顔を挟まれた。背後を確認しようとしても、わずかな隙間すらその厚い手に遮られている。

 そのままの勢いで樫谷は悠介を人出の多い大通りまで追い出して、そこでようやく解放した。慌てて今まで自分がいた通りを見たけれど、綾子と、彼女が一緒にいた男の姿はすでになかった。


「…………。」
「綾瀬」


 樫谷が呼びかけるのも聞かず、悠介はもう一度その場へ戻ろうとしたものの、足が鉛のように重い。……動かない。


「綾瀬」
「…………。」
「さっきのカップルは、知り合いなのか」
「……知り合い、というか」


 ――さっき話した同棲予定の彼女なんだ。
 そんなこと、言えるわけがなかった。


「お前、本当に顔が真っ青だぞ。……大丈夫か?」


 少し猫背になった樫谷に、顔を覗き込まれた。
 悠介は「大丈夫」と言おうとして「大丈夫じゃない」と、言いたかった言葉と反対の言葉が口をついて出たことに気づかなかった。

 駅へと向かう人波が二人を邪魔そうによけていることに気づいた樫谷は、固まったままの悠介の手を引いて歩く。時折こちらを横目で見ていることが雰囲気だったけれど、話したくなくて無言を貫いた。


(……さっきのは、綾子だ。綾子だった。あの服は俺が春にねだられて買った奴だった。この前うちに来た時にも着てたから覚えてる。バッグだって、その時に持ってた。横顔しかはっきり見れなかったけど、絶対にあれは綾子だった。)


 ああ、頭の中がグルグルする。


(一緒にいた男は誰だ。今日は仕事じゃなかったのか? いや、いつもなら仕事が終わってる時間だし、仕事帰りだったのか? スーツ。スーツ着てた。……同僚? 一緒に帰ってた? いや、ただの同僚なら、あんなにくっついてるわけあるもんか……)


 数日前の休日、悠介のマンションを訪ねてきた綾子の姿を思い出していた。ポジティブな考えが浮かぶと同時に、それを打ち消すネガティブな考えも即行で浮かぶ。あの日は自宅デートで数時間一緒にいたから、服装を見間違えるわけがない。

 てっきり駅へと向かっているのかと思っていたのに、樫谷の先導でたどり着いたのは、トイレとベンチ、自動販売機とゴミ箱しかないような小さな公園だった。


「ちょっと待ってろ」


 樫谷はそう言って悠介をベンチに座らせると、煌々と明るい光を放つ自動販売機へ駆けていった。その背中に、肩幅広いな、とか、三つ揃えが似合うってすごいな、とか、頭の隅に綾子と謎の男の姿が浮かびそうになるたびに、くだらないことをぼんやりと考えた。

 左手首に着けたスマートウォッチが、時報で小さく二度震える。


(――あ。そういえば、スマホ)


 スラックスのポケットに突っ込んだままのスマホを取り出すと、二十時の表示の下に、LINEの通知が一通見えた。その通知をタップしてロックを外すと、綾子とのLINEのトーク画面が開いた。


『今日は明日の準備でまだ帰れそうにないから、ゆぅんちには寄らないでおくね♡』


 送信時間は一時間前だった。

 悠介のことを「ゆぅ」と独特な書き方で呼ぶのは綾子だけだ。
 何でわざわざ〝う〟を小文字にするのと尋ねたら「だってそっちの方が可愛いじゃん」と、まだ大学生で髪も短かった頃の綾子が悪気なしで答えたのを思い出した。

 ……何の準備なんだか。

 二十時。いつも綾子はこのぐらいの時間にマンションへ来ていた。綾子も悠介と同じように決して定時では帰れない職種だけれど、悠介よりは早く帰宅する。年に数回あるという忙しい時期は終電間際で帰るようだったけれど。


(本当に、残業だったのかもわかんないな。)


 随分と親しそうだった。
 休憩時間の設定されている宿泊施設で、一体何の準備をするって言うんだか。

 そういえば普段なかなか悠介は来ない地区だけど、綾子の職場はここからそう離れていないはずだった。


(自分の職場の近くで、こんな堂々とラブホに入って行ける仲ってことか……)


 不思議と涙は出ない。
 綾子に言いたいこと、聞きたいことはあるけれど、どうせ今電話をかけたところで繋がりやしないだろう。かと言って、あそこで出待ちする気にもなれない。

 こんなに自分は冷めた人間だったかな、とトーク画面をにらんでいると、頬にいきなり冷たい感触がした。見上げると、ペットボトルをいくつも抱えた樫谷が、ベンチに腰かけた悠介を見下ろしていた。街灯の灯りが逆光でその表情は見えない。


「え。何それ。何でそんなにたくさんペットボトル持ってんの……?」
「いや、綾瀬の好みがわからなかったから、取り敢えず売ってるやつ全部買ってきただけなんだけど……」


 緑茶、ミネラルウォーター、フレーバーウォーター、コーラ、ファンタ、コーヒー。
 自動販売機を見ると、確かに抱えているものと同じパッケージらしきペットボトルが並んでいる。本当に全種類買ったらしい。

 ベンチの真ん中に座っている悠介は端にずれ、樫谷に隣へ座るよう促す。すると、肩と肩がぶつかるくらいの勢いでくっついて座られた。


「……近くない?」
「近くない」


 それよりもと何を飲むか選べと急かされて、悠介は樫谷の腕の中からコーラを取る。樫谷本人は緑茶を選んだようで、二人並んで一息ついた。

 炭酸がシュワシュワと喉を落ちていくのが気持ちいい。さっきまで何だか妙に寒かったのに、触れた肩から樫谷の体温と夏の蒸し暑さが戻ってきて、コーラがよりおいしい。


「……ありがと」
「どういたしまして。って言いたいけど、別にコーラ一本くらいでいいよ」
「いや、コーラだけじゃないじゃん。こんなにペットボトルばっか買ってどうすんの」
「……家で飲むから大丈夫だ」


 樫谷の傍に置かれた残り四本のペットボトル。まずこの四本を抱えて帰るのか、と悠介はたまらず吹き出した。樫谷は緑茶を飲みつつ、横目で悠介をにらむ。


「いや、本当に色んな意味で、ありがと。樫谷には変なとこ見られちゃったな」
「……さっきのアレは、知り合い、か?」


 少しだけ体の向きを樫谷の方へ傾けて頭を下げると、ペットボトルの蓋を閉めて脇に置いてから、樫谷も悠介の方へ向いた。


「知り合いっていうか……彼女です……」
「――は? アレが? さっき綾瀬が言ってた、同棲するはずだったっていう、彼女?」
「うん」


 はぁ!?と、樫谷は今日一番の大声を上げた。
 至近距離での叫びに一瞬悠介の耳が痛くなる。


「アレ、男連れだったぞ!?」
「……あー、うん。そうだね」
「そうだね、じゃなくて!」


 ラブホに入っていってただろ!? と今度は音量を下げて、でも勢いはそのままで言葉をぶつけられた。遠慮のない言葉に悠介が唇の端をひくつかせると、それに気づいた樫谷ははっと黙る。


「ごめん。俺も、まだちょっと混乱してて」
「……いや、俺こそ、騒いで悪い」


 訪れる静けさ。
 今日一日だけで、樫谷に何度気まずそうな思いをさせてしまったのか、考えるだけで気が重い。


「俺が――俺が食事なんて誘わなかったら。いや、仕事を頼まなかったら、良かったな」


 そしたらお前は彼女の浮気現場なんて見なくても済んだのに。
 聞こえるか聞こえないかの小さな声で、ごめん、とつぶやく。


「んー……でも、まぁ彼女が浮気してるって事実は変わらないしなぁ。多分、俺の巡り合わせが悪かっただけだよ」
「でも」
「……あの様子見ると、今日が初めてじゃなさそうだったしさ。早めに知れて、良かったんだと思う」
「綾瀬……」


 浮気された張本人よりも泣きそうな顔になっている目の前の美形に、これはこれでいいものが見れたな、と苦笑いする。社内一の美形モテ男の泣きそうな顔なんて、見ようと思っても見れないに違いない。


「……一人でいる時に、浮気に気づいたんじゃなくて良かったよ」


 もう温くなりつつある手の中のコーラを、樫谷の視線を感じながら一口飲む。


「綾瀬。お前、今日一人で大丈夫なのか」
「わかんないなぁ。でも、多分樫谷が想像してるよりは、そんなにダメージ感じてないんだよ」
「……そんな泣きそうな顔してるのにか?」
「いやいや。泣きそうな顔してるのは、樫谷の方、でしょ」
「俺はいいんだよ。心配なのはお前だ」
「…………。」


 どうしてこんなことになったんだろう。
 入社以来、ほぼ没交渉だった同期の男と、顔を向かい合わせて泣きそうになっているなんて、朝起きた時点では想像すらしていなかった。


「決めた。――俺、今日は綾瀬と一緒にいる」
「…………は?」
「そんな顔してる綾瀬を放っておけるわけないだろ。って俺は寮だから……綾瀬んちに行く」
「はい?」
「お前が落ち着くまで一緒にいるから、安心しろ」
「……はいい?」


 さっきまで泣きそうな顔をしていたはずの樫谷が急に言い出したことに、俺は手からコーラのボトルを落として慌てる。蓋をしていなかったから、足下の土にこぼれたコーラがしみこんでいく。


「俺が行ったら、迷惑か?」
「め、迷惑じゃ、ないけど……」
「よしっ」


 視界の端で、小さく樫谷が拳を作ったのを悠介は見た。
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