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5. つかの間の同居人
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月に一度の出社日。
半月前にも袖を通した夏用のスーツは、翌日すぐにクリーニングに出した。何となく着る気になれなくて、ビニールに包まれたままクローゼットにしまっている。とは言え他に持っているスーツは春秋冬用のもので、夏に着るには重い。
「……綾瀬は内勤だし、別にジャケットは着なくてもいいんじゃないか?」
クローゼットの前で腕組みしてうんうん唸る悠介の背後から、社内一の美形がその整った顔を肩に乗せた。毛先から雫が悠介の肩に落ちて濡らす。
「内勤はクールビズだろ。適当なスラックスとワイシャツだけでいけると思うぞ」
「……樫谷。朝からシャワーを浴びるのはいいんだけど、せめて髪くらい乾かして出てきてくれ」
「寝室から唸り声がするから気になって見にきただけだよ。ドライヤーは今から」
そう言うと、吊してあるいくつかの中から明るいグレーのスラックスを手に取って悠介に渡した。
「この色。綾瀬に似合ってて、俺は好き」
「……じゃあこれにする」
「おう」
自分の手からスラックスを受け取る悠介を見て、樫谷は嬉しそうに目尻を下げて寝室から出て行った。
あの日、落ち込んでいるのを放っておけないと言って悠介にくっついてきた樫谷は、宣言どおり「放っておかない」ことを決めたらしい。この半月足らずですっかりこの家に馴染んでしまっているのは、週の半分はここに泊まり込んでいるからだ。
寝室のクローゼットの半分は樫谷のスーツと部屋着のスウェットで埋められているし、家主の悠介には見覚えのない食器や箸がいつの間にか食洗機に突っ込まれていたりする。靴だって、仕事用の革靴だけでなく普段履きのサンダルまで置いてある。
最初の数回は「お邪魔します」と言って上がっていたのに、今じゃ会社から帰宅した樫谷の玄関を開けてからの第一声は「ただいま」だ。さすがに終電での帰宅となると悠介に遠慮するらしく寮へと帰るが、そうじゃなければなるべく悠介の住むここへと通っているように思えた。
パジャマを脱いで下着姿になると、つかの間の同居人が選んだスラックスに脚を通す。しっかりとプレスされたスラックスは、履くだけで気分がしゃきっとするから好きだ。もっともそこらへんの紳士服店で適当に買ったものがほとんどで、着こなしているとは言えないけれど。
着替え終わってリビングへ向かうと、ソファーであぐらをかきながらドライヤーをかけている樫谷の姿が目に入った。くつろぎすぎやしないか、と一瞬呆れたものの、それほどリラックスしてるのだと思えば、まぁいいか、と諦めの境地に至る。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「えー?」
何を飲むか聞いた声はドライヤーの音でかき消されて聞き返されてしまった。仕方なくさっきよりも気合いを入れて大きな声を出す。
「コーヒーと、紅茶、どっちがいいんだ?」
「コーヒーで頼む」
「わかった」
樫谷の返答も聞こえなかったが、口の動きで理解した。
悠介は砂糖もミルクもたっぷり入れたカフェオレが好きだが、樫谷は砂糖なしでミルクたっぷりが好きらしく、一度彼が淹れてくれたものを取り違えて飲んでしまった時はお互いに顔をしかめることになった。取り違えないよう樫谷が自分のマグカップを持ち込んでからは、それもなくなった。
髪を乾かし終わった樫谷はドライヤーのコードをまとめると、リビングから出て行く。洗面所にドライヤーをしまいに行って、それから寝室で着替える流れのはず。その間に朝食とコーヒーの準備をしておかねば。
(樫谷って、意外と情に厚いやつだったんだなぁ……)
樫谷がこれほど泊まり込んでいる理由には心当たりがありすぎる。
綾子のことを思い出す余地を与えないようにしてくれているのだろう。一度だけ「別れるのか?」と尋ねられたが、わからない、としか答えられなかった。
日中は仕事に集中して綾子のことを考える暇はないし、夜は夜で樫谷が構ってくれていることで悠介は寂しさを感じていない。入社した時以来、没交渉だった同期の優しさがありがたい。
今日の朝食は食パンとゆで卵、ヨーグルト。
樫谷が仕事帰りに買ってきた駅ナカのパン屋の食パンを厚めに切って、焼き色を強に設定したトースターで焼く。ゆで卵は樫谷が持ち込んだゆで卵専用の家電で作り置きしているものを冷蔵庫から取り出した。ほんの少しだけ半熟気味に作ったものを縦半分に切って、パン皿の隅に置く。ヨーグルトは近所の生協で買った無脂肪のものだ。
朝食を用意しながら、ふと「何で朝からこんな……」とはっとする。
悠介は元々朝食はあまり食べないタイプだったのに、樫谷が泊まるようになってからというものの、あれ食べたい、これ食べたいといったリクエストに応えていたら、朝からこんなに食べるようになっていた。
しかも今朝はまだ軽めだ。
たまに樫谷本人が朝食を準備する時は「俺は朝はごはん派なんだよな」と言って、どこの旅館の朝食かと思うようなものがダイニングテーブルに並ぶ。
「たった半月なのに、どんだけだよ……」
いくら樫谷の押しが強いからといって、ここまで流されるとは自分でも思っていなかった。悠介は苦笑いをしつつ、二人分の朝食を、家具店で綾子が一目惚れして買ったテーブルに並べると、スーツへ着替えた樫谷が鼻歌を口ずさみながら着席した。
「今日は妙に機嫌がいいな?」
「まあな」
互いの好みに淹れたコーヒーをそれぞれの席に置いて悠介も着席すれば、どちらからともなく「いただきます」と手を合わせて食べ始める。
「今日は綾瀬と一緒に出勤できるだろ。楽しみだなと思って」
「一緒に出勤するだけなのに?」
トーストをかじりながら聞き返す。「わかってないなぁ」と言いながら、したり顔で樫谷は答えをはぐらかした。傍らに置いたスマホが鳴って、主である悠介よりも先に樫谷が手に取る。
パスコードを設定しているからロックの解除はできないものの、通知に表示されている内容は樫谷でも読める。ロック画面の通知を見た樫谷の眉間にしわが寄る。それだけで、スマホの鳴動理由がわかった。
「綾子からLINE?」
返事の代わりに、さらに眉間のしわが深くなる。
普段、仕事で営業企画部に出向いた際に遠目で見る樫谷はいつも悠介から見れば完璧な笑顔を誰かしらに向けていることが多い。だから、こういう仲になってから意外と感情表現が豊かなことに驚いた。
綾子とはあの日から会っていない。
何となく会う気がしなくて、家デートの誘いも断ってしまっていたし、何より家には今みたいに樫谷がいる。会えば責めてしまう気がした。
「ふん。今日帰りに寄るね、だと」
その内容に、樫谷の手からスマホを取り返そうと手を伸ばしたものの、樫谷はさっと避けて渡そうとしない。悠介も、そこまで頑固に取り返そうとしているわけではないので、二度目に避けられた後はおとなしく朝食に戻った。
「綾瀬、スマホのパスコード教えろ」
「何で」
「俺が返信するから」
「樫谷が?」
「どうせ綾瀬のことだから、いいよって返信するんだろ。させるか」
「はぁ……別にいいけどさ。変な返信しないなら」
悠介が四桁のパスコードを教えると、樫谷はおもむろにロックを解除して、手慣れた操作を始める。
「…………この、1225って、誕生日か?」
「うん。俺の誕生日」
「へえ……」
「昔からクリスマスと誕生日一緒くたにされてるけどな」
「まじか。本当にそういうのあるんだな」
――俺はちゃんとクリスマスと誕生日、別々に祝ってやるからな。
そう言って、眉間のしわはそのままで、樫谷は口の端をぐんと上げた。機嫌が悪いのか良いのか、いまいちわかりづらいその表情に、悠介は「変な表情してる」と笑って、甘いコーヒーに口をつける。
「ほら、返信しといてやったぞ」
綾子のLINEに返信し終えたらしい。
画面を下に向けて手渡されたので、どんな内容で返信したのだろうとトーク画面を開いてみると「今日はデートだから無理」とだけ書いて送られていた。既読はまだついていなかった。
半月前にも袖を通した夏用のスーツは、翌日すぐにクリーニングに出した。何となく着る気になれなくて、ビニールに包まれたままクローゼットにしまっている。とは言え他に持っているスーツは春秋冬用のもので、夏に着るには重い。
「……綾瀬は内勤だし、別にジャケットは着なくてもいいんじゃないか?」
クローゼットの前で腕組みしてうんうん唸る悠介の背後から、社内一の美形がその整った顔を肩に乗せた。毛先から雫が悠介の肩に落ちて濡らす。
「内勤はクールビズだろ。適当なスラックスとワイシャツだけでいけると思うぞ」
「……樫谷。朝からシャワーを浴びるのはいいんだけど、せめて髪くらい乾かして出てきてくれ」
「寝室から唸り声がするから気になって見にきただけだよ。ドライヤーは今から」
そう言うと、吊してあるいくつかの中から明るいグレーのスラックスを手に取って悠介に渡した。
「この色。綾瀬に似合ってて、俺は好き」
「……じゃあこれにする」
「おう」
自分の手からスラックスを受け取る悠介を見て、樫谷は嬉しそうに目尻を下げて寝室から出て行った。
あの日、落ち込んでいるのを放っておけないと言って悠介にくっついてきた樫谷は、宣言どおり「放っておかない」ことを決めたらしい。この半月足らずですっかりこの家に馴染んでしまっているのは、週の半分はここに泊まり込んでいるからだ。
寝室のクローゼットの半分は樫谷のスーツと部屋着のスウェットで埋められているし、家主の悠介には見覚えのない食器や箸がいつの間にか食洗機に突っ込まれていたりする。靴だって、仕事用の革靴だけでなく普段履きのサンダルまで置いてある。
最初の数回は「お邪魔します」と言って上がっていたのに、今じゃ会社から帰宅した樫谷の玄関を開けてからの第一声は「ただいま」だ。さすがに終電での帰宅となると悠介に遠慮するらしく寮へと帰るが、そうじゃなければなるべく悠介の住むここへと通っているように思えた。
パジャマを脱いで下着姿になると、つかの間の同居人が選んだスラックスに脚を通す。しっかりとプレスされたスラックスは、履くだけで気分がしゃきっとするから好きだ。もっともそこらへんの紳士服店で適当に買ったものがほとんどで、着こなしているとは言えないけれど。
着替え終わってリビングへ向かうと、ソファーであぐらをかきながらドライヤーをかけている樫谷の姿が目に入った。くつろぎすぎやしないか、と一瞬呆れたものの、それほどリラックスしてるのだと思えば、まぁいいか、と諦めの境地に至る。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「えー?」
何を飲むか聞いた声はドライヤーの音でかき消されて聞き返されてしまった。仕方なくさっきよりも気合いを入れて大きな声を出す。
「コーヒーと、紅茶、どっちがいいんだ?」
「コーヒーで頼む」
「わかった」
樫谷の返答も聞こえなかったが、口の動きで理解した。
悠介は砂糖もミルクもたっぷり入れたカフェオレが好きだが、樫谷は砂糖なしでミルクたっぷりが好きらしく、一度彼が淹れてくれたものを取り違えて飲んでしまった時はお互いに顔をしかめることになった。取り違えないよう樫谷が自分のマグカップを持ち込んでからは、それもなくなった。
髪を乾かし終わった樫谷はドライヤーのコードをまとめると、リビングから出て行く。洗面所にドライヤーをしまいに行って、それから寝室で着替える流れのはず。その間に朝食とコーヒーの準備をしておかねば。
(樫谷って、意外と情に厚いやつだったんだなぁ……)
樫谷がこれほど泊まり込んでいる理由には心当たりがありすぎる。
綾子のことを思い出す余地を与えないようにしてくれているのだろう。一度だけ「別れるのか?」と尋ねられたが、わからない、としか答えられなかった。
日中は仕事に集中して綾子のことを考える暇はないし、夜は夜で樫谷が構ってくれていることで悠介は寂しさを感じていない。入社した時以来、没交渉だった同期の優しさがありがたい。
今日の朝食は食パンとゆで卵、ヨーグルト。
樫谷が仕事帰りに買ってきた駅ナカのパン屋の食パンを厚めに切って、焼き色を強に設定したトースターで焼く。ゆで卵は樫谷が持ち込んだゆで卵専用の家電で作り置きしているものを冷蔵庫から取り出した。ほんの少しだけ半熟気味に作ったものを縦半分に切って、パン皿の隅に置く。ヨーグルトは近所の生協で買った無脂肪のものだ。
朝食を用意しながら、ふと「何で朝からこんな……」とはっとする。
悠介は元々朝食はあまり食べないタイプだったのに、樫谷が泊まるようになってからというものの、あれ食べたい、これ食べたいといったリクエストに応えていたら、朝からこんなに食べるようになっていた。
しかも今朝はまだ軽めだ。
たまに樫谷本人が朝食を準備する時は「俺は朝はごはん派なんだよな」と言って、どこの旅館の朝食かと思うようなものがダイニングテーブルに並ぶ。
「たった半月なのに、どんだけだよ……」
いくら樫谷の押しが強いからといって、ここまで流されるとは自分でも思っていなかった。悠介は苦笑いをしつつ、二人分の朝食を、家具店で綾子が一目惚れして買ったテーブルに並べると、スーツへ着替えた樫谷が鼻歌を口ずさみながら着席した。
「今日は妙に機嫌がいいな?」
「まあな」
互いの好みに淹れたコーヒーをそれぞれの席に置いて悠介も着席すれば、どちらからともなく「いただきます」と手を合わせて食べ始める。
「今日は綾瀬と一緒に出勤できるだろ。楽しみだなと思って」
「一緒に出勤するだけなのに?」
トーストをかじりながら聞き返す。「わかってないなぁ」と言いながら、したり顔で樫谷は答えをはぐらかした。傍らに置いたスマホが鳴って、主である悠介よりも先に樫谷が手に取る。
パスコードを設定しているからロックの解除はできないものの、通知に表示されている内容は樫谷でも読める。ロック画面の通知を見た樫谷の眉間にしわが寄る。それだけで、スマホの鳴動理由がわかった。
「綾子からLINE?」
返事の代わりに、さらに眉間のしわが深くなる。
普段、仕事で営業企画部に出向いた際に遠目で見る樫谷はいつも悠介から見れば完璧な笑顔を誰かしらに向けていることが多い。だから、こういう仲になってから意外と感情表現が豊かなことに驚いた。
綾子とはあの日から会っていない。
何となく会う気がしなくて、家デートの誘いも断ってしまっていたし、何より家には今みたいに樫谷がいる。会えば責めてしまう気がした。
「ふん。今日帰りに寄るね、だと」
その内容に、樫谷の手からスマホを取り返そうと手を伸ばしたものの、樫谷はさっと避けて渡そうとしない。悠介も、そこまで頑固に取り返そうとしているわけではないので、二度目に避けられた後はおとなしく朝食に戻った。
「綾瀬、スマホのパスコード教えろ」
「何で」
「俺が返信するから」
「樫谷が?」
「どうせ綾瀬のことだから、いいよって返信するんだろ。させるか」
「はぁ……別にいいけどさ。変な返信しないなら」
悠介が四桁のパスコードを教えると、樫谷はおもむろにロックを解除して、手慣れた操作を始める。
「…………この、1225って、誕生日か?」
「うん。俺の誕生日」
「へえ……」
「昔からクリスマスと誕生日一緒くたにされてるけどな」
「まじか。本当にそういうのあるんだな」
――俺はちゃんとクリスマスと誕生日、別々に祝ってやるからな。
そう言って、眉間のしわはそのままで、樫谷は口の端をぐんと上げた。機嫌が悪いのか良いのか、いまいちわかりづらいその表情に、悠介は「変な表情してる」と笑って、甘いコーヒーに口をつける。
「ほら、返信しといてやったぞ」
綾子のLINEに返信し終えたらしい。
画面を下に向けて手渡されたので、どんな内容で返信したのだろうとトーク画面を開いてみると「今日はデートだから無理」とだけ書いて送られていた。既読はまだついていなかった。
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