2 / 8
第二話 ことわりをきくとき
しおりを挟む
「暑い……」
この村に来てから、2度目の夏だ。
着ている麻の着物は所々擦り切れて、少女が着るには少々小さくなってはきたが、居候の身の上で新しい着物をねだれるはずもない。けれども今は、その丈や裄の短さが有り難く思えた。
畑の手伝いを終えて、いつものように古びた社にやって来たみおは、己の顔を手で仰ぎながら泉の近くの大きな岩に寄りかかって腰を下ろす。
背に伝わる岩の冷たさは心地よかったが、炎天下のなか丘を上がってくる間に吹き出た汗はぽたりぽたりと地面に落ちる。木立のなかの水辺とくれば畑などより遙かに涼しいけれど、それでも止まらない汗を袖で拭ったみおは、再び「暑い」と口にした。
「暑いの寒いのと、人の子はほんにうるさい。夏が暑くなくてどうする」
突然目の前に童男が涌いて出た。深い水底のように青い瞳をこちらに向ける姿に驚くこともなく、みおは「だって暑いものは暑いんだもん」と唇を尖らせる。
彼に出会ったのは、去年の夏。村に来てすぐの頃だった。
両親を亡くしたみおは、生まれ育った村を離れ、母方の縁を頼ってこの村に来た。親類である子のない夫婦は、みおの醜い姿に眉を顰めながらも身を寄せることを許してくれた。
少女は顔立ちだけいえば、けして醜女ではない。目はくりりと丸く愛嬌があったし、ふっくらとした薄紅色の唇は童を抜け出しつつある娘らしい愛らしさがあった。けれど、右目の周り、顔の半分を覆うほどの大きな紫のアザが蝶の姿で張り付いていた。
人々はそのアザを薄気味がって『鬼子の印』とひそやかに、けれど少女の耳にも入るほどの無遠慮さで囁きあっていた。
『本当は鬼の子に違いない』
『いつか妖が迎えにくる印だ』
心ない言葉に傷ついて泣くたびに、抱き締めて頭を撫でてくれた両親はもういない。
まだひとりで生きていくことが出来ない以上、誰かの庇護の下に入るしかないのだということは幼心にも理解はできた。醜いアザはどうしようもないが、少しでも役にたたなくては、いつ夫婦の気が変わり追い出されるか知れない。
(役にたたなくちゃ)
その一心で、村に着いて早々手伝いを申し出たみおは、水汲みを言いつかった。
小さな村のたったひとつの井戸は、前年に枯れてしまったのだという。田畑には川から水路をひいているが、日常使う水は川か社の泉で汲むと教えられたみおは、家にほど近い川を避け、小さな丘の上にある社を訪れた。
今は神主もいないという社は、鳥居と小さなお堂があるだけの小じんまりとしたもので、朽ちかけた縁がいかにも落ちぶれた風情だ。参る人の姿もないそこは、ただうるさいほどに鳴き立てる蝉の声が響いていた。
その小さな社の奥。泉のそばに、彼がいた。
左隣に腰を下ろした童男の手を取り、そっと握って引き寄せ、己の頬にあてがう。
「冷たくて気持ちいい」と笑えば、彼の口からはただ呆れたような溜息だけがこぼれた。
袖の中にのぞく虹色の鱗を見つめるみおに、「そこまで暑いなら、泉にでもつかればよい」と言いながら童はやんわりと少女の手をほどいた。
「確かに暑いけど、底なしの泉なんておっかなくて入れないよ」
「ならば、村の子らと川の浅瀬で遊べばよい」
「川は、嫌い」
「嫌い、か。みおはいつ見てもひとりでおるの。川でなくとも、皆と遊んでいるところを見たことがない」
「……? いつも見てるの?」
童とは2日とあけず会ってはいるが、それはみおがここにやって来るからだ。ここ以外では姿を見たことなどなかったから、てっきり彼はここ以外には出歩けないものだと思っていたみおは、意外な気持ちでその横顔を見つめた。
「た、たまたまじゃ! 我が村を散歩していたらたまたまよく見かけるのじゃ」
「ここ以外で会ったことないよ?」
「見えないようにしておるのじゃ!」
「なんで? 見かけたなら声をかけてくれればいいのに」
「考えてもみよ。おまえが我と話をしているのを見られても、村の者には我の姿は見えぬ。気味悪く思われようが」
どういうワケか、童の姿はみおにしか見えない。
見えてよかったと心から思う。1年を経て、いまだ村に親しく話す者もいない少女にとって、この童は本当に貴重な話し相手なのだ。
「そんなの……話しかけてくれていいのに」
「だからそれではお前が気味悪く──」
「もう、気味悪がられてるよ」
胸が痛む筈の台詞を、からりと笑って伝えられた。
痛まないわけではない。けれどもうそんな痛みにはすっかり慣れてしまうほどに、物心ついた時からずっと周囲が自分を見る目は忌み子に向けるそれだった。
「ほら、私、鬼の子だから」
「ふん。そういえば、村の者もそのようなことを言っておったの。おまえのどこが鬼子だというのじゃ」
「違うの?」
「おまえごときが鬼子なものか。人間ふぜいが図々しい」
「だって」
「なんじゃ?」
「これは、このアザは鬼の印でしょう?」
「その蝶のことか? そんなものが鬼子の印だなど、聞いたこともないわ」
「本当に? だったら。……だったらなんで父さまと母さまだけ連れて行かれたの? 一緒に流されたのに、私だけ……なんで川の神様は、私だけ連れて行かなかったの?」
降りやまぬ雨は、あの日みおの村の川を溢れさせ、その濁流は多くの家を押し流した。
流された者は皆命を落としたが、少女だけは木の梢に帯がひっかかり流されることなく生き延びた。そうして難を逃れた村人は『やはり』と気味悪そうに言ったのだ。『鬼子は殺しても死なぬようだ』と。
鼻の奥がツンとする。喉の奥にせりあがってくる熱いものを必死で堪えながら絞り出した問いに、けれど童は答えなかった。
こんなことを訊かれても困るだろう。鬼の子の印でないと妖である童が言ってくれるなら、きっと間違いないのだ。自分はちゃんと人の子だ。それがわかっただけよかった。
そんな風に俯いたまま必死で己を宥めていると、そっと頭が撫でられた。
「そのようなこと、知るわけなかろう」
優しく撫でる感触に反して、童の台詞はひどく素っ気ない。
「みおはまだ寿命があったのじゃろ。そうでなければ、水神の気まぐれじゃ」
「気まぐれ?」
神様とはいえ、そんないい加減なもので人の命は左右されるのだろうか。気まぐれで、父も母も命を奪われたのだろうか。
納得がいかず顔をあげると、瞳に溜まっていた涙が零れたがそんなものには構う気にもなれなかった。
「気まぐれで父さまも母さまも死んだの? 村の人もいっぱい死んで、全部ぜんぶ流されて、そんなのってない!」
「……。みお、夏は暑いの」
「今はそんな話をしてるんじゃないよっ!」
「夏は暑い。冬は寒い。日が照れば渇き、雨が降れば潤う。それだけのことじゃ」
「そんなのわからないよっ!」
涙の余韻に震える声で、何が言いたいのかと童を見ても、その表情からは何も読み取ることが出来ない。
藍色の目はちらとみおを見た後、梢の向こうの空へと投げられた。
「おまえは夏が暑いと言った。では涼やかな夏がいいか?」
「そりゃ……」
夏が涼しければ快適に決まっている。そう思いかけて、でも、と考える。冷たい夏は作物を育てない。雨が降りすぎるのと同じく、それは人を悲しませるだろう。
「匙加減は気まぐれでの。まあそれもまた理の内なのだろうが」
「……」
「天帝は人の子らだけの為に物事を司っているわけではない。その声を聞く道筋は残してはあるが、結局万象は理の中にある。人の生き死にも同じことじゃ」
「ぜんぶ……全部決まってたことだから仕方ないってこと?」
てんていというのはきっととても偉い神様で、彼の気まぐれひとつで季節すら決まる。そういうことだろうか。
今、彼が伝えてくれていることは、きっと物事の本質的な話で、とても大切なことなのだろうということは漠然と感じる。けれど、やはりみおには童の言わんとすることがよくわからなかった。
自分が『人の子』だからわからないのか、それとも学がないからわからないのかはわからないけれど、ただそう答えたみおに向けられる眼差しが、少し哀しそうで、なのに慈愛に満ちていることだけはわかった。
同時に、目の前の存在は姿こそ自分とそう年の変わらない少年だが、やはりひどく隔たれた存在なのだということを感じて、とても寂しくなった。
「川が溢れたのは理の内じゃ。けれどみおが生きているのはきっと、父御と母御が守ったのじゃ。愛おしいそなたの命だけでもと願うたから、水神がおまえに情けをかけたのじゃ」
「本当?」
「……知らん。でも、きっとそうじゃ。そう思っておけばよい」
「うん」
今度は素直に頷いた。
「私がこんなだから、神様も連れていくのがヤだったんだって、ずっと思ってた」
「こんな、とは、そのアザのことか?」
こくりと頷けば、「人とはほんに不可思議なことを考える」と眉間に皺を寄せた童は、みおのアザを掌でそっと包んだ。
「これがなくなればよいのか?」
「え?」
「このアザがなくなれば、おまえは……」
「……?」
頬に感じるひんやりとした感触が徐々に熱を帯びていくのに気付き、少女は不思議な心地でその掌に自身の手を重ねて窺うように童を見つめる。
そこには、尊大さもやんちゃさもない、ただ真剣な眼差しがあった。
みおの胸は、なぜかせわしく動きだす。駆けった後のようなその鼓動の意味もわからないまま、少女はただ添えられた熱を感じていた。
ふいに熱が離れ、童の掌に重ねていた手の所在を考える間もなく、みおはそれに気づいて目を瞠る。
真っ白だった彼の掌に、蝶のアザがあった。
「──っ、それっ!?」
「面白い形をしておるものを。我は前々からこれが気に入っておった。人の世では疎ましいもののようじゃからな」
呆然としながらも、両手で己の顔を撫でてみる。なめらかな感触はいつも通りで、アザの有無などわかるはずもない。それでも、彼の掌の蝶は、ほんの先ほどまでここに留まっていたものだというのは、すとんと心に落ちて理解できた。
幾度も己の顔を撫で回す少女の頬をからかうようにひと撫でした童はひょいと身を離して岩に飛び乗り、「これは今日から我のものだ」と自身の掌を目の前にかざし、得意げに宣言した。
この村に来てから、2度目の夏だ。
着ている麻の着物は所々擦り切れて、少女が着るには少々小さくなってはきたが、居候の身の上で新しい着物をねだれるはずもない。けれども今は、その丈や裄の短さが有り難く思えた。
畑の手伝いを終えて、いつものように古びた社にやって来たみおは、己の顔を手で仰ぎながら泉の近くの大きな岩に寄りかかって腰を下ろす。
背に伝わる岩の冷たさは心地よかったが、炎天下のなか丘を上がってくる間に吹き出た汗はぽたりぽたりと地面に落ちる。木立のなかの水辺とくれば畑などより遙かに涼しいけれど、それでも止まらない汗を袖で拭ったみおは、再び「暑い」と口にした。
「暑いの寒いのと、人の子はほんにうるさい。夏が暑くなくてどうする」
突然目の前に童男が涌いて出た。深い水底のように青い瞳をこちらに向ける姿に驚くこともなく、みおは「だって暑いものは暑いんだもん」と唇を尖らせる。
彼に出会ったのは、去年の夏。村に来てすぐの頃だった。
両親を亡くしたみおは、生まれ育った村を離れ、母方の縁を頼ってこの村に来た。親類である子のない夫婦は、みおの醜い姿に眉を顰めながらも身を寄せることを許してくれた。
少女は顔立ちだけいえば、けして醜女ではない。目はくりりと丸く愛嬌があったし、ふっくらとした薄紅色の唇は童を抜け出しつつある娘らしい愛らしさがあった。けれど、右目の周り、顔の半分を覆うほどの大きな紫のアザが蝶の姿で張り付いていた。
人々はそのアザを薄気味がって『鬼子の印』とひそやかに、けれど少女の耳にも入るほどの無遠慮さで囁きあっていた。
『本当は鬼の子に違いない』
『いつか妖が迎えにくる印だ』
心ない言葉に傷ついて泣くたびに、抱き締めて頭を撫でてくれた両親はもういない。
まだひとりで生きていくことが出来ない以上、誰かの庇護の下に入るしかないのだということは幼心にも理解はできた。醜いアザはどうしようもないが、少しでも役にたたなくては、いつ夫婦の気が変わり追い出されるか知れない。
(役にたたなくちゃ)
その一心で、村に着いて早々手伝いを申し出たみおは、水汲みを言いつかった。
小さな村のたったひとつの井戸は、前年に枯れてしまったのだという。田畑には川から水路をひいているが、日常使う水は川か社の泉で汲むと教えられたみおは、家にほど近い川を避け、小さな丘の上にある社を訪れた。
今は神主もいないという社は、鳥居と小さなお堂があるだけの小じんまりとしたもので、朽ちかけた縁がいかにも落ちぶれた風情だ。参る人の姿もないそこは、ただうるさいほどに鳴き立てる蝉の声が響いていた。
その小さな社の奥。泉のそばに、彼がいた。
左隣に腰を下ろした童男の手を取り、そっと握って引き寄せ、己の頬にあてがう。
「冷たくて気持ちいい」と笑えば、彼の口からはただ呆れたような溜息だけがこぼれた。
袖の中にのぞく虹色の鱗を見つめるみおに、「そこまで暑いなら、泉にでもつかればよい」と言いながら童はやんわりと少女の手をほどいた。
「確かに暑いけど、底なしの泉なんておっかなくて入れないよ」
「ならば、村の子らと川の浅瀬で遊べばよい」
「川は、嫌い」
「嫌い、か。みおはいつ見てもひとりでおるの。川でなくとも、皆と遊んでいるところを見たことがない」
「……? いつも見てるの?」
童とは2日とあけず会ってはいるが、それはみおがここにやって来るからだ。ここ以外では姿を見たことなどなかったから、てっきり彼はここ以外には出歩けないものだと思っていたみおは、意外な気持ちでその横顔を見つめた。
「た、たまたまじゃ! 我が村を散歩していたらたまたまよく見かけるのじゃ」
「ここ以外で会ったことないよ?」
「見えないようにしておるのじゃ!」
「なんで? 見かけたなら声をかけてくれればいいのに」
「考えてもみよ。おまえが我と話をしているのを見られても、村の者には我の姿は見えぬ。気味悪く思われようが」
どういうワケか、童の姿はみおにしか見えない。
見えてよかったと心から思う。1年を経て、いまだ村に親しく話す者もいない少女にとって、この童は本当に貴重な話し相手なのだ。
「そんなの……話しかけてくれていいのに」
「だからそれではお前が気味悪く──」
「もう、気味悪がられてるよ」
胸が痛む筈の台詞を、からりと笑って伝えられた。
痛まないわけではない。けれどもうそんな痛みにはすっかり慣れてしまうほどに、物心ついた時からずっと周囲が自分を見る目は忌み子に向けるそれだった。
「ほら、私、鬼の子だから」
「ふん。そういえば、村の者もそのようなことを言っておったの。おまえのどこが鬼子だというのじゃ」
「違うの?」
「おまえごときが鬼子なものか。人間ふぜいが図々しい」
「だって」
「なんじゃ?」
「これは、このアザは鬼の印でしょう?」
「その蝶のことか? そんなものが鬼子の印だなど、聞いたこともないわ」
「本当に? だったら。……だったらなんで父さまと母さまだけ連れて行かれたの? 一緒に流されたのに、私だけ……なんで川の神様は、私だけ連れて行かなかったの?」
降りやまぬ雨は、あの日みおの村の川を溢れさせ、その濁流は多くの家を押し流した。
流された者は皆命を落としたが、少女だけは木の梢に帯がひっかかり流されることなく生き延びた。そうして難を逃れた村人は『やはり』と気味悪そうに言ったのだ。『鬼子は殺しても死なぬようだ』と。
鼻の奥がツンとする。喉の奥にせりあがってくる熱いものを必死で堪えながら絞り出した問いに、けれど童は答えなかった。
こんなことを訊かれても困るだろう。鬼の子の印でないと妖である童が言ってくれるなら、きっと間違いないのだ。自分はちゃんと人の子だ。それがわかっただけよかった。
そんな風に俯いたまま必死で己を宥めていると、そっと頭が撫でられた。
「そのようなこと、知るわけなかろう」
優しく撫でる感触に反して、童の台詞はひどく素っ気ない。
「みおはまだ寿命があったのじゃろ。そうでなければ、水神の気まぐれじゃ」
「気まぐれ?」
神様とはいえ、そんないい加減なもので人の命は左右されるのだろうか。気まぐれで、父も母も命を奪われたのだろうか。
納得がいかず顔をあげると、瞳に溜まっていた涙が零れたがそんなものには構う気にもなれなかった。
「気まぐれで父さまも母さまも死んだの? 村の人もいっぱい死んで、全部ぜんぶ流されて、そんなのってない!」
「……。みお、夏は暑いの」
「今はそんな話をしてるんじゃないよっ!」
「夏は暑い。冬は寒い。日が照れば渇き、雨が降れば潤う。それだけのことじゃ」
「そんなのわからないよっ!」
涙の余韻に震える声で、何が言いたいのかと童を見ても、その表情からは何も読み取ることが出来ない。
藍色の目はちらとみおを見た後、梢の向こうの空へと投げられた。
「おまえは夏が暑いと言った。では涼やかな夏がいいか?」
「そりゃ……」
夏が涼しければ快適に決まっている。そう思いかけて、でも、と考える。冷たい夏は作物を育てない。雨が降りすぎるのと同じく、それは人を悲しませるだろう。
「匙加減は気まぐれでの。まあそれもまた理の内なのだろうが」
「……」
「天帝は人の子らだけの為に物事を司っているわけではない。その声を聞く道筋は残してはあるが、結局万象は理の中にある。人の生き死にも同じことじゃ」
「ぜんぶ……全部決まってたことだから仕方ないってこと?」
てんていというのはきっととても偉い神様で、彼の気まぐれひとつで季節すら決まる。そういうことだろうか。
今、彼が伝えてくれていることは、きっと物事の本質的な話で、とても大切なことなのだろうということは漠然と感じる。けれど、やはりみおには童の言わんとすることがよくわからなかった。
自分が『人の子』だからわからないのか、それとも学がないからわからないのかはわからないけれど、ただそう答えたみおに向けられる眼差しが、少し哀しそうで、なのに慈愛に満ちていることだけはわかった。
同時に、目の前の存在は姿こそ自分とそう年の変わらない少年だが、やはりひどく隔たれた存在なのだということを感じて、とても寂しくなった。
「川が溢れたのは理の内じゃ。けれどみおが生きているのはきっと、父御と母御が守ったのじゃ。愛おしいそなたの命だけでもと願うたから、水神がおまえに情けをかけたのじゃ」
「本当?」
「……知らん。でも、きっとそうじゃ。そう思っておけばよい」
「うん」
今度は素直に頷いた。
「私がこんなだから、神様も連れていくのがヤだったんだって、ずっと思ってた」
「こんな、とは、そのアザのことか?」
こくりと頷けば、「人とはほんに不可思議なことを考える」と眉間に皺を寄せた童は、みおのアザを掌でそっと包んだ。
「これがなくなればよいのか?」
「え?」
「このアザがなくなれば、おまえは……」
「……?」
頬に感じるひんやりとした感触が徐々に熱を帯びていくのに気付き、少女は不思議な心地でその掌に自身の手を重ねて窺うように童を見つめる。
そこには、尊大さもやんちゃさもない、ただ真剣な眼差しがあった。
みおの胸は、なぜかせわしく動きだす。駆けった後のようなその鼓動の意味もわからないまま、少女はただ添えられた熱を感じていた。
ふいに熱が離れ、童の掌に重ねていた手の所在を考える間もなく、みおはそれに気づいて目を瞠る。
真っ白だった彼の掌に、蝶のアザがあった。
「──っ、それっ!?」
「面白い形をしておるものを。我は前々からこれが気に入っておった。人の世では疎ましいもののようじゃからな」
呆然としながらも、両手で己の顔を撫でてみる。なめらかな感触はいつも通りで、アザの有無などわかるはずもない。それでも、彼の掌の蝶は、ほんの先ほどまでここに留まっていたものだというのは、すとんと心に落ちて理解できた。
幾度も己の顔を撫で回す少女の頬をからかうようにひと撫でした童はひょいと身を離して岩に飛び乗り、「これは今日から我のものだ」と自身の掌を目の前にかざし、得意げに宣言した。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
【完結】婚約破棄はお受けいたしましょう~踏みにじられた恋を抱えて
ゆうぎり
恋愛
「この子がクラーラの婚約者になるんだよ」
お父様に連れられたお茶会で私は一つ年上のナディオ様に恋をした。
綺麗なお顔のナディオ様。優しく笑うナディオ様。
今はもう、私に微笑みかける事はありません。
貴方の笑顔は別の方のもの。
私には忌々しげな顔で、視線を向けても貰えません。
私は厭われ者の婚約者。社交界では評判ですよね。
ねぇナディオ様、恋は花と同じだと思いませんか?
―――水をやらなければ枯れてしまうのですよ。
※ゆるゆる設定です。
※名前変更しました。元「踏みにじられた恋ならば、婚約破棄はお受けいたしましょう」
※多分誰かの視点から見たらハッピーエンド
あなたへの愛を捨てた日
柴田はつみ
恋愛
公爵夫人エステルは、冷徹な夫レオニスを心から愛していた。彼の好みを調べ、帰宅を待ちわび、献身的に尽くす毎日。
しかし、ある夜会の回廊で、エステルは残酷な真実を知る。
レオニスが、未亡人クラリスの手を取り囁いていたのだ。
「君のような(自立した)女性が、私の隣にいるべきだった」
エステルは悟る。自分の愛は彼にとって「重荷」であり、自分という人間は彼にとって「不足」だったのだと。その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて砕け散る。
冷徹公爵の誤解された花嫁
柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。
冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。
一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。
白椿の咲く日~ひそかな恋、遠い日の思いは
紫さゆり
恋愛
結婚を控えた真由子は、久しぶりに異母姉の稚子(わかこ)と会う。
真由子の母の雪江は、大学教授であり著名な歌人の水上実之(みなかみさねゆき)の後添いとして水上家に嫁いだ。
婚約者の諒人(りょうと)のことなど、真由子は稚子と色々語り合ううち、庭の白椿の木は真由子がなついていた異母兄、靖之が植えたものだと知る。
白椿の木をめぐっての、ひそかな大人の恋物語です。
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
『話さない王妃と冷たい王 ―すれ違いの宮廷愛
柴田はつみ
恋愛
王国随一の名門に生まれたリディア王妃と、若き国王アレクシス。
二人は幼なじみで、三年前の政略結婚から穏やかな日々を過ごしてきた。
だが王の帰還は途絶え、宮廷に「王が隣国の姫と夜を共にした」との噂が流れる。
信じたいのに、確信に変わる光景を見てしまった夜。
王妃の孤独が始まり、沈黙の愛がゆっくりと崩れていく――。
誤解と嫉妬の果てに、愛を取り戻せるのか。
王宮を舞台に描く、切なく美しい愛の再生物語。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる