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稀葉(きよ)

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File.02 うさぎはしっぽをつかませない

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「信じられるか? 鍋だぞ? よりによって! よく知りもしない男と!」

 戻って来るなり不機嫌全開で言い放ったのは、直属の上司だ。

「しかもあの女、自分の箸を鍋に入れようとしやがった」

 そもそも、随分ベタな手で誘うのだなと思っていた。
 いくら店に通い、顔見知り程度になっていたとはいえ、そんな男の誘いに応じて女の子が車に乗ってくるだろうか。そんな懸念はすぐに打ち消され、イケメンのアドバンテージをイヤホン超しにひしひしと感じていた。
 その彼女は、男に食事のリクエスト訊かれ、「鍋が食べたいです」と物怖じせずに言い放った。
 これは、内心穏やかではないだろう、得意の口先で他の料理へと誘導するかと思いきや、彼女は男が口を開く前に寒い日の鍋がいかにおいしいかを語り出した。
 この上司に口を挟ませなかっただけでも見事だが、プレゼンの中身もなかなかのもので、豆乳鍋のくだりでは、胡麻風味の豆乳スープ、その味の染みた白菜や豆腐のおいしさについて力説し、聞いているだけで腹の虫が鳴った。
 
 可愛らしくもおいしそうな主張に押し切られたのか、それともターゲットの機嫌を損ねないことを優先したのか定かではないが、ふたりは鍋料理を堪能するに至った。

 気心知れた仲間内で呑む時ですら人が箸をつけたものは絶対に口にしない彼が、誰かと同じ鍋をつつくなど有り得ない。どうするのだろうと耳を傾けていたが、甲斐甲斐しく相手の皿を気に掛けて給仕し続けることで、己の口にする物には触れさせなかったらしい。

 そう。書類を片付けながら、ふたりのやり取りを、ずっと盗聴し記録していた。

 我々が属するのは警察庁警備局警備企画課。いわゆる公安警察と呼ばれる組織だ。
 公安警察とは、国家体制を脅かすような、例えばテロ事件や、大規模な密輸出入、武器の取引、またそれらを取り仕切る犯罪組織を相手にする。選りすぐりの人員により構成される組織の中でも、この上司は実力を高く買われ、評価されている。

「ろくに話したこともない男の車に乗ってふたりきりで食事に行くのもどうかと思うのに、自宅まで教えるなんて防犯意識がないにもほどがある」

 帰りに車で送って行った時のことを思い返しているのだろう。
 誘いかけ、そのように仕向けておいて随分な言い草ではあるが、「ちゃんと家の鍵はかけたんだろうな」などとひとりごちる辺り、対象の女を慮ってのことなのだから、冷血漢というわけでもない。
 
 顔がいい。仕事が出来る。他者への気遣いは十分だし、女の扱いだって手慣れている。そんな男がもてないはずがない。だがしかし、あずまが知るこの二年、上司に恋人が居たことはない。

 公安の中でも、この上司のように部下の仕事を管理しつつ、自身も潜入捜査などをこなせば、その業務は二十四時間態勢、労働基準法どころか人間として、生物としての限界に挑戦するようなサイクルで忙殺されることも珍しくはない。
 プライベートな時間どころか、生きる上で必要な睡眠時間すらもギリギリ以下の極限で、真っ当な人間関係、ましてや恋人関係など保つのは至難の業だ。
 しかし、彼に恋人が出来ない理由は、そこだけではないだろうと東は思っている。

 彼は少しだけ。いや、恐らくはかなり。綺麗好き過ぎるのだ。おかげで我が班に与えられた部屋は、男ばかりの割には掃除は行き届き、積み上げた書類がどこに紛れたかなどと見失うこともない。何日も泊まり込みで詰める羽目になろうとも、身だしなみが大幅に劣化することもない。

 三日ほど徹夜が続いた上司が突然虚空を見つめながら、某消臭除菌スプレーを散布しだしたのを初めて目にした時には驚いたが、今となっては日常の光景だ。今も脱いだコートをハンガーにかけて軽くスプレーをし、椅子を除菌ウエットシートで手早く拭いてから、ようやくどかりと腰をかけた。

「なんというか、いたって普通の女性でしたね」

「まあ、そうだな。普通よりはよく食べる女だとは思ったが」

 やれやれとでも言いたげに息を吐く男──狗塚いぬづかの目に嫌悪はない。
 
 瀬谷透子については、これまでの経歴、交友関係を洗ってみても、まったくもって不審なところはなかった。
 中学三年時に両親を亡くし、その影響か卒業後に高校に進学することなく一年ほど引きこもっていたらしい。その後、従兄宅に引き取られ、インターネット配信の授業を中心とした通信高校に進んだ。
 卒業してからは、就職することなく在学中に始めたコーヒーチェーン店でのアルバイトを続けている。
 
 一般的な二十代前半の女性と比較すると交友関係がほとんどないのが少々気に掛かるものの、インターネットの通信記録を調べてみても、特段不審な素行も見られない。真面目に働いては家に帰ることを日々繰り返す、いたって善良な一般市民であり、どちらかといえばそういう一般人を守る為にこそ警察はある。

 それならばなぜ、こうして近づき、踏み込んだ捜査に入ったかといえば、現状彼女だけが手がかりだからだ。

 脱兎──今は三月ウサギと名乗るハッカーがいる。

 ウサギは電脳世界を駆け回り、鮮やかに情報だけを抜き去っていた。
 最初は情報を抜かれたことすら気付かないのだが、後からご丁寧にセキュリティーの穴などを指摘してくる。ただそれだけで、情報をばら撒くことも、何かを要求することもない。害意のないホワイトハッカーと見做され、一部界隈で『脱兎』と呼ばれるようになった。

 どこのサーバーにもするりと入り込む実力的に要注意対象と見做されてはいたものの、やっていることを考慮すればそこまで捜査の優先度が高いとはされていなかった。

 しかし、ある事件以降、様相が一変する。

 脱兎の仕組んだプログラムにより、宗教施設が壊滅、多数の死者を出す結果となった。それが今から二年前のこと。
 ちょうどその施設に潜入していた狗塚が巻き込まれ、辛くもそこから逃げおおせたとは聞いているが、詳細は知らされていない。

 今、狗塚が上に立つこの班は、その事件の後に出来たものだ。
 
 あれ以来、脱兎は堂々と『三月ウサギ』と名乗り、様々な企業や省庁にサイバー攻撃を仕掛けてくるようになった。
 研究開発中の製薬会社のデータが他国に渡り、甚大な損失を出したのを封切りに、大小様々な犯罪を繰り返したウサギにより国賓の警備情報がネット公開されるに至って、いよいよ公安も本腰を入れる流れとなった。

 サイバー犯罪は、本来サイバー犯罪対策課が請け負うべきものだ。実際これまでウサギを追っていたのはそこの特別チームだった。しかし、その捜査線上にひとりの女が浮上し、上層部の判断でこちらに主導権が渡されることとなった。

 ウサギはとにかく痕跡を残さない。らしい。門外漢の自分ではさっぱりわからないが、とにかく追いかけようがなかったようだ。それでも、特別チームが威信をかけて追い続け、宗教施設を壊滅に追い込んだプログラムの発動元が割り出された。それが瀬谷透子宅だ。
 もちろん、だから彼女がウサギだ、と言えるはずもなく、彼女のパソコンが単なる経由地点に過ぎない可能性も高い。ここで瀬谷を取り押さえてしまうことで、脱兎の名の通り、本命に逃げられたら元も子もない。

 それに加えて、警察ではかつて別の犯罪捜査において、サーバーの経由地点のひとつに過ぎなかったパソコンユーザーを誤認逮捕し、世間から大きなバッシングを受けたことが既に二度もある。
 誤認逮捕自体あってはならないことだが、三度目ともなれば警察の信用問題に大きく響く。

「二度あることは三度ある、なんてありそうですよね」

 などと言ってへらりと笑った同僚が、狗塚にどんな目を向けられていたか。あの瞬間、間違いなく室内の体感温度はマイナス以下となり、一同喉元に刃を突きつけられた心地を味わった。

「普通、か……。だが、仕事帰りにも休みにも、誰とも会っている形跡もない。そのくせ対人面に問題があるかといえば接客業をこなし、親しくもない男ともそれなりにそつなく食事の時間を過ごす。あれを普通と呼ぶにはやはり違和感がある」

「おひとりさまが好きってやつじゃないですか? イマドキ引きこもりに片足つっこんだような生活してる若者なんて多そうじゃないですか。俺だって仕事後は直帰するし、休みの日には家で寝て終わることもザラですよ」

「ふっ、確かにな。だが、彼女は残業が多いわけでもなければ休日出勤が常態化しているわけでもない。シフトはいつも朝の七時半から夕方四時までの固定。休みも週に二日。同年代の同じ状況の人間の平均的生活パターンと比較して考えれば、もう少しくらいは……」

 腕を組んで椅子の背もたれに寄りかかった狗塚は、何かを逡巡するように軽く目を閉じた。

「とりあえず彼女のスマホに例のアプリは仕込んできた。当分はそれで様子を見る。瀬谷透子がシロだとしても、ウサギが接触してくる可能性は充分ある」

 例のアプリ、とは、平たく言えば監視システムだ。周囲の音声と、カメラを通して様子を探ることも可能だが、アプリ自体は画面上に一切表示されることもない為、それをユーザーに認知されることはない。せいぜい少しバッテリーのもちが悪くなったと思われる程度だ。

 実のところ彼女の部屋には狗塚が接触する一ヶ月前から、盗聴器を仕掛けていた。もちろん違法である。が、バレさえしなければ違法は違法ではない。まるで浮気男の言い分のようではあるが、捜査のためという大義名分のもと、必要と判断されれば躊躇なく行われている。
 
 盗聴器を仕掛ける際に、彼女の自宅のパソコンもデータを写し取って持ち帰り解析したが、問題と思われるものは何も見つからなかった。
 そこでいよいよ直接彼女に接触し、本人から探るという作戦に踏み切ったのだ。
 
 アプリでは、盗聴だけでなく、GPSによって移動経路を追跡し、そのスマートフォンで閲覧するネットサイトやアプリ、メール、通話などを共有することが出来る。
 同様のシステムは彼女の自宅にあったパソコンにも仕込み済みだが、そちらでも今のところ目立った動きはなかった。

「それにしても、狗塚さんがフラれるとは思いませんでした」

 彼女には今付き合っている男はいないようだったから、告白すれば付き合うくらいはすんなりいくんじゃないかと思っていたのだ。だから、「ありがとうございます」と少し硬く冷静な声が聞こえてきた時には意外に感じた。

「友人から始めるだけだ」

 じろりと睨まれて、愛想笑いで「そうですね」と返す。この様子では、狗塚自身もまさか友達からなんてことになるとは思わなかったのかもしれない。

「まあ友人だろうが恋人だろうが、必要なネタが得られるならそれでいいさ」

 そう口にした上司は、わずか二週間あまりで浮気とも取られかねない現場を見られ、付き合ってもいない『友人』相手に釈明に行く羽目になるとは思ってもみなかったに違いない。

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