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~ある夏休みの生物部~

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 府立珠河高等学校も付近の公立高校と同じように試験休みも含めれば約2カ月の夏季休暇があった。
 とは言っても体育会系のクラブは夏休み中にも練習やら試合の為に学校に来ていたし、成績不振の者に対しては補習授業があったりするので、校内が全くの無人になる日はない。
 生物部でもグリーンイグアナのラッキーやアフリカツメガエル、プラナリアなどの世話があるので、当番シフトを組んで誰かは必ず登校してきていた。
「今日もほんと暑いですよね…」
 今日のお世話係として登校した渉がアフリカツメガエルの水槽を覗き込んでいた優子に話しかけた。
「そりゃ夏だからね――暑いのは当然なんだけど、本校舎は風通しが悪いから全然涼しくないのよね」
 恒温室のエアコンで涼む手もあるが、2畳ほどの狭い部屋だし入ってしまうと何もできないので結局暑さに耐えるしかなかった。
「ラッキーは暖かい方が調子いいみたいだから、この暑さは何ともないみたいですけど」
「爬虫類は変温動物だから、寒かったら活動が鈍って、最終的には冬眠しちゃうもんね」
 そう言って優子は何を思ったかいきなり水槽の中に手を突っ込んだ。
「…⁈ 先輩何をしてるんですか?」
「ん? 暑いから涼もうと思って」
 そう言いながら優子は水槽からアフリカツメガエルを一匹取り出し、それを迷わず頬に当てた。
「せ…先輩⁈」
 優子がアフリカツメガエルに頬ずりする様子に驚いて渉が戸惑いの声を上げる。
「この子達冷たくて気持ちいいわよ――渉君もどう?」
「…け、結構です」
 カエルを保冷剤代わりにして涼むなんて事を考えた事もなかった渉は、激しく首を振って優子の勧めを拒否する。
 この部室にいるアフリカツメガエルは生体で胴体だけでも10cm以上ある。手足も含めれば20㎝近い巨大カエルを鷲掴みにして女子高生が頬ずりする姿はシュールかつ猟奇的とも言えた。
「…はい、交替」
 そう言いながら優子が手にしていたカエルを水槽に戻し、他の個体を取り出すと再び頬ずりを始めた。
「先輩…大丈夫なんですか?」
「ん? 私が? それともカエルちゃんたちが?」
「…両方です」
 頭痛の様なものを覚えて指でこめかみを抑えながら渉が言う。
「アフリカツメガエルは完全水棲カエルで毒は持ってないわよ――水槽の水質はキレイに保ってるから臭くないし、大きな水槽で常に循環させているから水温も水道水よりは低めだから、その中にいるこの子達、ひんやり冷たくていい感じ」
「…」
 そう言う問題ではないような気もするのだが、渉は黙って優子の話を聞いている。
「長時間の保定はストレスを与えるから一個体の拘束時間は1分以内なら大丈夫な感じ」
「人間が頬ずりしているだけで、かなりのストレスになると思いますが…」
 渉の意見に優子は「ちょっとしたスキンシップよ」と笑い飛ばす。
「カエルとスキンシップ…」
 想像を絶する発想に渉は絶句した。
 そんな渉を気にすることなく、優子がカエルに頬ずりを続けていると、生物準備室の扉を開ける者がいた。
「お、来てたのか」
 入ってきたのは藤木だった。
「私たちはこの子達のお世話ですけど、先輩は?」
 三年生の夏休みとなれば忙しいはずなので、優子が疑問をぶつけると藤木は「進路相談」と言って笑った。
「夏休みにですか?」
 疑問に思った渉が藤木に訊くと、新卒予定者の求人情報を集めに来たのだと言う。
「このご時世だから情報収集は極めて重要なんだ」
「——てっきり先輩は自衛隊に入るのかと思ってたんですけど…」
 渉の言葉に珍しく藤木の表情が曇る。
「俺もそのつもりだったんだが、親が猛反対で今大もめしてるんだ」
「猛反対?」
 優子の質問に藤木は頷く。
「最近、近くの国からミサイルが飛んできたり、南の島での領土問題とかでごちゃごちゃしているだろ? いつ戦争になってもおかしくない情勢だし、戦争になったら真っ先に自衛隊が行く事になるからダメなんだそうだ」
「先輩は祖国の為なら望むところだ…って意見ですよね?」
「よく分かったな。愛する祖国、大切なみんなを護るための崇高な任務じゃないか!」
「…でしょうね」
 普段の藤木を知っていれば、彼の考えそうな事は安易に想像がつくので特に驚く事でもなかったが、彼の両親が猛反対しているというのはちょっと意外であった。それは渉も同じ事を思ったらしく「先輩のミリタリー趣味について今まで何も言わなかったんですか?」と尋ねた。
「趣味は趣味。仕事とは別の話なんだと」
 苛立つように藤木はそう言うと「来年度新卒の入隊試験の申込みはしたけれど、夏休みの間、就職活動の素振りを見せておかないといろいろうるさいからな」とため息をついた。
「…って事は」
「勘当は承知だ。俺は自衛隊に入るつもりだが、それまでは新卒求人情報の収集という偽装工作をする作戦だ」
それを聞いた渉は心の中で――うわぁ…この人ガチだ と密かに声を上げる。
「先輩の人生だから、先輩がそうしたいと思うなら構わないと思いますけどね――」
 優子はそこでいったん言葉を切り「夏休み、家に居辛くて学校に来るなら、先輩も当番をやってくださいね」と言って当番表を取り出した。
「それは構わないけど…三年生が夏休みにクラブ活動ってのもなぁ」とブツブツ言いだした藤木に優子が「じゃあ、隠居としてお茶でも飲んでりゃいいじゃないですか」と笑った。
「隠居って…」
 そう言いながら藤木が苦笑いを浮かべる。
「隠居が嫌なら若年寄でもいいですよ…あ、先輩、渉君、麦茶飲みます?」
 冷蔵庫の中に作り置きの麦茶があった事を思い出した優子が訊く。
「おう、ちょうど喉が渇いてたんだ」
 そう言って藤木は渉に「ちょっと休憩しようぜ」と声をかけた。
「渉君、こっちのグラス3個、運んで」
「今日はビーカーじゃなく、グラスでいいんですね?」
 念を押す渉に優子が「ビーカーで飲みたいならそれでもいいわよ」と笑う。
「…いえ、普通のグラスでいいです」
 そう言いながら渉が食器棚代わりの薬品棚からグラスを取り出していると、冷蔵庫から取り出した麦茶ポットを手にした優子が首を傾げる。
「…これ、いつ作った奴だっけ?」
 何か恐ろしい事を聞いたような気がして渉が立ち止まる。
「昨日の当番は静香と古谷くんで、一昨日が香奈子さんとあおいだったから…一昨日作った奴の可能性が高いなぁ」
「どうした?」
 藤木に訊かれ優子が麦茶が少し古いかもと告げた。
「冷蔵庫に入れていたんだし、一昨日ぐらいなら大丈夫じゃないか? 飲んでみりゃわかるって」
「そうですね。変な臭いはしないし、飲めばわかりますね」
 そう言って優子は実験台の上に置かれたグラスに麦茶を注ぎ入れると、藤木はそのグラスを手に取り一気に麦茶を飲み干す。
「うまい!」
「…迷いが無いなぁ」
 躊躇なく怪しい麦茶を飲んだ藤木に渉が半分呆れた様な声を出す。
「ん? 何がだ?」
「大丈夫ですか? 普通、少し舐めて味を確かめません?」
「主原料が動物性たんぱく質の腐敗は怖いが、麦茶の原料は大麦。植物性なら多少腐っていたところで害はないから大丈夫。最悪、腹を下す程度だ」
 と言って、藤木は渉の心配を笑い飛ばした。
 豪快なんだか、いい加減なんだかよく分からない意見を聞きながら渉は優子の方を見ると、優子は麦茶をチビチビ舐めるように飲みながら何かを考えているようだった。
「やっぱり傷んでました?」
 そんな渉の問いに優子は笑いながら首を振る。
「この麦茶、ちょっと煮出し時間が長かったからか濃いなぁ…って」
 そう言った後、不意に立ち上がって冷蔵庫から炭酸水を取り出し、ステックシュガーを手に戻って来た。
「炭酸水と砂糖? 何をする気だ?」
 怪訝そうに藤木が訊く。
「ん、メッコール作れるなぁと思って」
「メッコール何ですかそれ?」
 初めて聞く名前に渉が訊く。
「韓国のコーラ。主原料が大麦で、世界一クソマズいコーラって言われてたやつ」
「そんなのがあるんですか?」
「日本でも統一教会系の会社が販売してたらしいわ…笑い話の種になるんで飲んでみる?」
「…え」
 興味はあるが怖くもあり、どうしたものかと渉が答えに躊躇していると、藤木が「俺はアルコール入り炭酸麦茶の方がいい」と笑う。
「アルコール入り炭酸麦茶?」
 聞きなれない組み合わせに渉は首を傾げていると優子が「それビールじゃない」と笑い出した。
「ああ、なるほど」
 言いかえだと理解した渉はポンと手を打つ。
「さすがに校内じゃマズいか…」
「バレたら停学喰らって自衛隊どころじゃなくなりますよ」
 優子に突っ込まれて藤木は頭を掻く。
「コーラなら校内で飲んでも問題ないから、クラフトコーラを作るってのもありなのよね…」
「クラフトコーラって何だ?」
 藤木もクラフトコーラを知らないらしく優子に尋ねると、クラフトコーラは家庭なんかでも作れるコーラだという説明だった。
「え? コーラって家で作れるんですか?」
「作れるわよ。コーラって元々薬局で売られていた薬…今でいうユ○ケルやリポ○タンDみたいな栄養ドリンクみたいなもので、今の清涼飲料とは全くの別物だったのよ」
「薬局で⁈」
 藤木と渉は顔を見合わせる。
「スパイスやハーブは漢方薬にも使われているぐらい薬効成分が含まれてるのよ…ええっと、クラフトコーラの基本の材料はシナモン、クローブ、カルダモン、バニラエッセンス、コーラナッツ、レモンやライム果汁、お砂糖、水ぐらいかしらねぇ」
 指を折りながら優子が材料の名前を上げる。
「お好みでブラックペッパーやスターアニスを入れたり、ミントなんかのハーブなんかを加えても個性的な風味になって面白いけどね」
「なんか知らない名前がいっぱいあるな」
 聞きなれない名前の羅列に藤木がお手上げといった仕草をしてみせる。
「あ、料理が趣味じゃない男子にはわからないかぁ」
 優子が言う通り、藤木も渉も料理は食べる専門なので、スパイスやハーブの名前と言われてもちんぷんかんぷんだった。
「…でも、何故コーラを作るって話に?」
 元をたどれば、麦茶を飲んで休憩するだけだったはずである。
「二学期の文化祭の出し物、そろそろ考えないといけないと思って…」
「あ、文化祭か!」
 文化祭の事などすっかり忘れていた藤木が声を上げる。
「二学期に入ったら実力テストがあって、その後中間テスト、それが終わったら体育祭と文化祭だからあっという間よ」
「忘れてた~」
 そう言いながら藤木は頭を抱える。
「どういうことですか?」
 中学生の頃の文化祭と言ったら、クラスで合唱や合奏の発表をするか、走れメロスなどの小説を元にした劇をするぐらいだったので、藤木が頭を抱える意味が解らない渉である。
「高校ではクラスの出し物以外にもクラブでもやるのよ。運動部は食べ物屋さんの模擬店とか、ゲームイベントなんかが多いし、文化系は発表系が多いわね――演劇部はもちろん劇だし、音楽系はミニライブとか演奏会、落研なら落語会、美術部や写真部は展覧会、漫研はミニ同人誌即売会とかね」
「ああ、なるほど」
 随分、中学の文化祭とは違って高校の文化祭は娯楽要素が強いようである。
「ちなみにクラスなんかだと、例年お化け屋敷とかクラブ、喫茶店なんかをするところが多いわよ」
「へぇ…」
 渉はまだ一年生であるし、実際に高校の文化祭を体験したことが無いのもあっていまいち実感が伴わない。
「…で、うちの部も毎年出し物をするんだけど、去年は準備が大変だった割に閑古鳥が鳴いていたのよね」
 そう言いながら優子が藤木をちらりと見る。
「…去年は何をやったんですか?」
「核分裂反応の図解説明の展示とアクセサリー風マイクロピペットの加工実演販売会」
「…展示はなんか小難しくて地味だし、マイクロピペットって?」
 今日は知らない単語ばかり耳にしているような気がしながら渉は訊く。
「ピペットは知ってるわよね?」
「細い長いガラスのスポイトみたいなやつですよね? 端っこにゴムみたいなキャップがついてるやつ」
「そそ」
 優子の説明によるとマイクロピペットはその普通のピペットよりも極細で、1㎖以下の微量の液体を吸い出す為に使うのだという。
「理系の大学なんかだと既製品を実験に使うんだけど、私達レベルの実験に使用するにはそこまで精度要求しないから、ガラス管をバーナーで炙って自作するのよ」
「…はぁ」
 説明を聞いているだけではよく分からないので、渉の返事もあいまいになる。
「マイクロピペットって言うのはだな、うちの部ではミドリムシの捕獲に使うんだ」
「は? ミドリムシ?」
 理科の教科書でおなじみの微生物の名前ではあったが、それとマイクロピペットと言う謎の器具との関連が判らす渉は訊き返した。
「ミドリムシは説明するより見せた方が早いわね…」
 そう言って優子は生物準備室から緑色の液体が入っている三角フラスコを持ってきた。
「これがミドリムシ。よく見たら小さな緑色の点みたいなのが動いているのが見えるから」
 優子にそう言われ、渉は三角フラスコに顔を近付けて緑色の液体を凝視する。
「あ! 緑の小さい点が小さく震えるみたいに動いてる!」
 緑色の液体だと思っていたら、優子の言う通り小さな粒々が透明の液体の中にたくさんいるので緑色に見えた事を渉は知る。
「ここまで小さいと実験の際に抽出したいと思っても、マイクロピペットじゃないと単数での捕獲が難しいってのは理解できる?」
「ああ、普通のピペットじゃ吸い込むと、少しの量でも数百とか数千匹になっちゃうんですね」
 実際の大きさを自分の目で確かめてようやく渉はマイクロピペットの必要性が理解出来てきた。
「そう言う事——でね、マイクロピペットを作ったガラス管って中途半端な長さになっちゃうし実験には使えないんだけど、ただ捨てるのも勿体ないじゃない?」
 それで廃棄予定のガラス管をバーナーの熱で片側を溶かして塞ぎ、反対側の細い部分から色水をサイフォンの原理を利用してガラスの中に吸い込ませ吸い口を閉じてカラフルなガラスのアクセサリーに加工したのだと言う。
「リボンで飾りつけをしたら可愛いストラップになったし物珍しいから、そっちは大人気だったんだけど…」
 そう言って優子は再び藤木を見る。
「…はいはい、あれは俺の考えが甘かった。ごめんなさい」
 叫ぶように藤木が優子に謝る。
「何があったんですか?」
「核分裂反応の図解展示よ――この国は原爆投下の憂き目にもあったし原発事故も体験したのに、みんな核分裂反応に関しての知識が無さすぎだ! 知らないから不安なだけなので、正しい知識を身に付ければむやみに怖がることは無い! 必要なのはわかりやすい図解説明なんだ! ってこの人が主張…というか、ごり押しでね…」
 いつもなら暴走する藤木にストップをかける華がいるので、藤木に押し切られる事は無かったのだが、文化祭の企画準備をはじめた頃、華は生徒会会長だった事もあり、生物部にはほとんど顔を出す事が出来なかったのだと言う。
「…なるほど」
 状況はだいたい理解できたので、渉は苦笑いを浮かべる。
「エンターテインメント性があるものをやらなきゃウケないこのご時世に、解りやすい図解といっても模造紙に書いて張っただけのものじゃ、興味の無い人間が足を止める事なんてまず無いのよね」
 優子の言葉がチクチクと刺さるのか、藤木は居心地悪そうにしている。
「まあ、本人も反省しているみたいだし、終わったことをいつまでも言っても仕方がないからもう言わないけど――そのかわり、先輩には今年は去年の償いをしてもらうつもりだから」
 そう言って優子はにやりと笑みを浮かべる。
「償いって…?」
 不安そうに藤木が優子を見る。
「今はまだ内緒——藤木先輩、敵前逃亡は銃殺ですからね」
「…はい」
 こういう不敵な笑みを浮かべている時の優子には逆らわない方がいいと知っているのか、藤木は反論する事無く素直に返事をする。
――やっぱ、優子先輩最強じゃないか?
 確信に近いものを感じる渉であった。

 このエピソードは、暑いはずなのに渉の背中に寒いものを感じる事がいろいろあった、ある夏休みの生物部出来事…。
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