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~プールは宝の山~
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梅雨明け間近となり、夏本番を前にプール掃除が行われる事となった。
プール掃除は例年水泳部の担当であったが、今年はそこに生物部の部員たちが加わる事となったのである。
「なんで私たちがプール掃除なんてしなきゃいけないのよ」
Tシャツ短パン姿の静香が不機嫌な様子で不満を口にしていた。
「半年放置されたプールって生物の宝庫だからね…どんな生き物が自然に住み着いたのかの生息調査の為よ」
優子が静香にしていると、緑色の水が満ちているプールを覗き込んでいた順子が、水中を泳いでいると小さな何かがいると嫌そうに報告した。
「プール掃除のときにたくさん見つかるのはヤゴですよね…いっぱいいたらいいなぁ」
「ヤゴって?」
楽しみで仕方がないといったあおいの言葉を聞いて順子が首を傾げる。
「ヤゴはトンボの幼体で、トンボになるまでは水中で暮らしてるんですよ~」
「トンボって…秋になったら空を飛んでる奴ですよね?」
「そうだよ」
「…⁇」
トンボをはじめ、セミや蝶の存在は知識として知っていたが、今まで遠目で見るだけで興味を持つことなく、ましてや触る事などした事がなかった順子にすれば、空を飛ぶトンボと水中を泳ぎ回っている何かが結びつくはずも無く、想像する事すら出来ない様であった。
「アメンボもたくさんいるけど、こいつら何処からプールに住み着いたんでしょうね?」
プールの水面を滑る様に移動している複数のアメンボを眺めていた丸山は不思議でたまらないといった様子であった。それを聞いた優子が「アメンボは飛んできて、水草なんかに卵を産み付けるのよ」と説明をする。
「アメンボが飛ぶ⁈」
「そう。アメンボってカメムシの仲間で四枚の羽を持っているから飛ぶ事が出来るのよ――飛んで餌がいそうな場所に住み着くらしいわ」
「カメムシ⁈」
優子の話を聞いて丸山と高橋は驚いたように聞き返した。
「昆虫網半翅目(はんしもく)…半翅目ってのはカメムシの事で、タガメやセミ、アブラムシやウンカなんかもこの仲間になるの。この種類の食事は、口先から管を刺して体液などを吸い取って栄養を吸収するってのが特徴ね」
「あ~、なるほど…」
セミの餌は木の樹液なのを知っていたのか、丸山が納得顔になった。
「まあ、カメムシの仲間と言ってもアメンボの場合は臭くなくて、臭腺から飴みたいな香りがするのと、体が長いって意味で「棒」——その「飴棒」がなまってアメンボって名前になったらしいわ」
「へぇ…」
飴のようなにおいがすると聞いた丸山が興味をそそられたのか、捕まえて確認できそうなアメンボがいないかと水面に視線を走らせる。そんな丸山を見た高橋が「丸ちゃん…わかっているとは思うけど、アメンボは食べられないからね」と釘を刺す。
「食べやしないけど、においを嗅いでみたいじゃないか」
「…言うと思った」
そんな会話をしているうちにもプールの水位がどんどん下がっていく。
「渉君、水位が膝くらいになったら、プール掃除を始めるから、プールに入ったら真っ先に水の採取をしてね」
「了解っす」
優子の指示に渉が元気よく返事を返した。
「ミドリムシがいっぱいいそうね」
「ミドリムシ以外にもいろんな藻類が見つかりそうだけどね」
「楽しみ♪」
ミドリムシ大好きな香奈子がワクワクした様子で藻類に覆われたプールの床や壁をじっと見つめていた。
「そろそろ始めましょうか?」
生物部の面々から少し離れた所にいた水泳部の部長が声をかけてくる。
「そうね…ぼちぼち始めましょうか」
優子はそう言うと、プールサイドにある手すりに掴まって、そろそろとひざ下まで水位が下がったプールの中に入った。それに続いて他のメンバーもプールの中に入る。
「気持ち悪っ」
床の感触を確認して静香が不快そうに声を上げる。
「掃除をすればきれいになって気持ち悪くなくなるんだから…はい、ブラシ」
苦笑いしながら優子が静香にデッキブラシを手渡した。
「ヤゴ確保しました!」
虫取り網を手にした高橋がさっそくヤゴを捕まえたらしく、バケツを軽く掲げる。それを聞いた順子が興味津々といった様子でバケツの中身を見ようとして、足を滑らせた。
「きゃっ」
小さい悲鳴を上げて順子はまだ水が残るプールに派手に倒れ込み、頭から緑色のプールの水を被った。
「あちゃ~、やりよった」
古谷が天を仰ぎ見た後、順子に助けの手を差し出す。
「いや~ん、池臭い~」
古谷の手に掴まって立ち上がった順子は半泣きであった。
「プールの床は滑るからみんな気をつけて」
順子の惨状を見て優子は苦笑いしながら、他のメンバーに声をかける。そんな優子の注意を気に留める事無く、あおいはデッキブラシ片手に「アイスホッケーみたいですぅ」とはしゃぐように床の上を滑る様に移動してまわっていた。
「よくあんなに動き回れるわね…」
「私には無理だわ」
香奈子と静香がデッキブラシでプールの壁をこすり洗いしながら、自在に動き回るあおいを見て呆れ顔を浮かべる。
プールの水の採取を終え、プールサイドからホースを持ってきた渉が順子に声をかける。
「順子ちゃん、軽く水を被る?」
「はい、お願いします…」
順子は小さく頷くと、渉はホースの水を順子に浴びせかけた。
「においとれたかな?」
水でプールの水を流してもらった順子は、ずぶ濡れになった髪の毛やTシャツを軽く絞って確かめるように臭いを嗅ぐ。
「…さっきよりはマシかな?」
小首を傾げている順子に「すっかりメイク流れちゃったわね」と静香が言った。それを聞いた順子は「臭いより、すっぴんの方がまだマシです」と肩を竦めながら答えた。
「確かにね」
静香が苦笑いしていると、初めてすっぴんの順子の顔を見た古谷が「すっぴんの方が可愛いと僕は思うけどな~」と呟いた。
「え~、そんなジロジロ見ないでください~」
恥ずかしそうに順子が抗議の声を上げていると、優子と香奈子も化粧で隠すなんてもったいないと言い出した。
「マジ勘弁してください」
複雑な表情を浮かべながら順子は話題を変えようとバケツを覗き込んだ。
「…これがヤゴ?」
バケツの底を歩き回っている見た事がない形状をした昆虫を見て順子は首を傾げた。
それはトンボとは似ても似つかない姿形で、バッタのような三角形の細長い体をしており、背中に小さな羽の様なものはあるが、トンボに見られる左右対称の大きな羽は見当たらないので、これが空を軽やかに飛び回るトンボになるとは思えなかった。
「不完全変態だから、身体の構造は成体のトンボと機能的にはさほど変わらないのだけど、ぱっと見た目、同じ生き物とは思えないわよね」という優子の説明に順子は小さく頷いた。
「先輩。不完全変態って?」
馴染みのない単語の意味が気になったのか、高橋が訊ねる。
「蝶なんかは完全変態の生き物だから、最初は卵、幼体は芋虫、さなぎの状態から成体になると蝶…成長の工程で形が全く変わっちゃうのが完全変態と言うのね、それに対して不完全変態はさなぎの状態にならないものの事を言うの」
それを聞いた高橋は納得したように頷いた。
「完全変態のさなぎの中ってどうなっているか知ってる?」
優子の質問に高橋、丸山、順子の三人は首を振る。
「さなぎの中はドロドロのたんぱく質で、その状態から徐々に成体としての体が再構成されるのよ」
「さなぎの中ってそうなっているんだ…」
さなぎの中がどうなっているのかなど、考えた事もなかった高橋が感心した様に呟いた。
「昆虫も不思議な生き物よね――昆虫が人間サイズだったら最強なんて話もあるぐらいだしね」
「人間サイズのゴキブリ…うわぁ」
自分で言った後、想像してしまったのか、丸山が大きな体を震わせる。
「人間が最強なんて思っているかもしれないけれど、生命体としては人間ってものすごく弱い生き物なのよね」
「…確かに。道具を使う事が出来なかったなら、ここまで人間が繁栄する事はなかったのかも――自分たちが一番強くて賢いって思っているのは、ただの傲慢でしかありませんね」
そう言って自嘲気味に笑う高橋であった。
「予想通りプールにはアメンボ、ヤゴがかなりいましたね」
プール掃除の翌日、生物室でお茶会をしながら昨日プールで捕獲した生き物たちの話題になっていた。
「水カマキリとゲンゴロウもいたのには驚いたけど」
メモを手に渉が意外な生き物が住んでいたことに驚きを隠せないでいた。
「水カマキリやゲンゴロウも餌を求めて水のあるところに飛んできて、プールに住み着いてるの」
「ゲンゴロウも飛ぶんですか⁈」
ゲンゴロウは水中を泳ぎ回るといったイメージを持っていたので、優子の説明に渉が驚きの表情を浮かべる。
「ゲンゴロウも飛ぶわよ――ずっと水中に住んでいるような印象があるけど、定期的に陸に上がって水カビ防止の為に甲羅干しをする習性があるし」
「へぇ…」
感心している渉の横に座って居た高橋が、捕獲したゲンゴロウやヤゴをどうするのかと尋ねた。
「とりあえずゲンゴロウとヤゴは別の水槽に分けたわ――ゲンゴロウがヤゴを襲っちゃうからね」
そう言って優子がウインクをする。
「ゲンゴロウの餌は熱帯魚用の餌のオキアミや赤虫とか、ミルワームなんかで大丈夫だから、上手く飼育すれば2~3年、長かったら7年ぐらいは生きるって話よ」
「虫なのにそんなに長生きするんですか⁈」
順子の目が丸くなる。
「昆虫がみんな短命って訳ではないからね」
そう言ってから優子は、長生きするはずのゲンゴロウも今や絶滅危惧種に指定されているのよと言う。
「そんなに長生きならいっぱい増えそうなのに…」
「原因は乱獲や環境破壊って言われているけど、一番の問題は農薬じゃないかと私は思うの」
「農薬?」
首を傾げる丸山に優子は「自然界ではゲンゴロウはヤゴやメダカなんかを餌にしているのだけど、メダカは農薬なんかの化学薬品に対して非常に弱いし、ヤゴもメダカを餌にしていて、メダカ以外の微生物たちも化学薬品に弱いの」という。
「ああ、エサになる生き物がいなければ、当然、ゲンゴロウも生きていけませんね」
「そう言う事」
農薬や化学肥料が大量に使われる前は、日本の里山の田んぼや水辺は非常に豊かな生態系を保っていたのであるが、農業の効率化の名の元、化学薬品が田畑に撒かれるようになってその生態系が大きく崩れる事になったのである。
化学薬品に弱い微生物が死滅する事によってそれを餌にしていた昆虫や小魚がいなくなり、その昆虫や小魚を餌にしていた鳥たちも姿を消すことになったのである。
「日本のコウノトリが絶滅してしまったのは、水銀農薬のが原因といわれているし…人間の都合で絶滅させてしまった種や絶滅危惧種がどれだけ多いか調べたらめまいがしてくるわよ」
そういう優子の表情は苦い。
環境破壊が叫ばれるようになり、有機栽培無農薬の農業が見直されるようになった農村や里山では、少しずつではあるが失われた生態系が戻りつつあるのだというが、壊すのは簡単であるが、再生させるには手間もかかるし時間もかかる根気がいる作業となっているのだという。
「今回ゲンゴロウを飼育しようと思ったのは、ささやかではあるけれど絶滅危惧種の命を繋ぐお手伝いが出来たらな…って思ったからなの」
出来れば校庭に小さくていいので田んぼや池といったビオトープが欲しい所ではあるが、とりあえずは水槽で簡易型のビオトープでの飼育で妥協するしかなかったけれど…と優子は苦笑いを浮かべた。
「タガメに比べたら繁殖が難しいみたいだけど、ゲンゴロウの繁殖も出来たらいいなって思ってるし」
「今回ゲンゴロウ、数匹捕獲出来ましたもんね」
髙橋の言葉に優子頷く。
「ゲンゴロウの飼育かぁ…うまく繁殖させれればいいんですけど」
渉の言葉に丸山が増えすぎた時はどうするのか? と疑問を口にした。
「増えすぎた時は…責任をもって食べちゃう?」
「え⁈」
悪戯っぽく笑う優子の返答に丸山の目が点になる。
「信州とかの昆虫食文化がある地域では昔、ゲンゴロウは貴重なたんぱく源や珍味として炒めて食べていたのは聞いた事あるわよ」と、黙ってお茶を飲んでいた香奈子がそう言って笑った。
「昆虫食はちょっと…」
さすがの丸山もゲンゴロウを食べる気にはならないのか、露骨に嫌そうな表情を浮かべる。
「冗談よ、冗談。まだ繁殖させられるかなんてわかんないんだから」
後輩たちの困惑した表情がおかしいのか、優子がそう言って否定するのを聞きながら、——この人たち、本当にやりそうだから笑えねぇ… と思う渉であった。
プール掃除は例年水泳部の担当であったが、今年はそこに生物部の部員たちが加わる事となったのである。
「なんで私たちがプール掃除なんてしなきゃいけないのよ」
Tシャツ短パン姿の静香が不機嫌な様子で不満を口にしていた。
「半年放置されたプールって生物の宝庫だからね…どんな生き物が自然に住み着いたのかの生息調査の為よ」
優子が静香にしていると、緑色の水が満ちているプールを覗き込んでいた順子が、水中を泳いでいると小さな何かがいると嫌そうに報告した。
「プール掃除のときにたくさん見つかるのはヤゴですよね…いっぱいいたらいいなぁ」
「ヤゴって?」
楽しみで仕方がないといったあおいの言葉を聞いて順子が首を傾げる。
「ヤゴはトンボの幼体で、トンボになるまでは水中で暮らしてるんですよ~」
「トンボって…秋になったら空を飛んでる奴ですよね?」
「そうだよ」
「…⁇」
トンボをはじめ、セミや蝶の存在は知識として知っていたが、今まで遠目で見るだけで興味を持つことなく、ましてや触る事などした事がなかった順子にすれば、空を飛ぶトンボと水中を泳ぎ回っている何かが結びつくはずも無く、想像する事すら出来ない様であった。
「アメンボもたくさんいるけど、こいつら何処からプールに住み着いたんでしょうね?」
プールの水面を滑る様に移動している複数のアメンボを眺めていた丸山は不思議でたまらないといった様子であった。それを聞いた優子が「アメンボは飛んできて、水草なんかに卵を産み付けるのよ」と説明をする。
「アメンボが飛ぶ⁈」
「そう。アメンボってカメムシの仲間で四枚の羽を持っているから飛ぶ事が出来るのよ――飛んで餌がいそうな場所に住み着くらしいわ」
「カメムシ⁈」
優子の話を聞いて丸山と高橋は驚いたように聞き返した。
「昆虫網半翅目(はんしもく)…半翅目ってのはカメムシの事で、タガメやセミ、アブラムシやウンカなんかもこの仲間になるの。この種類の食事は、口先から管を刺して体液などを吸い取って栄養を吸収するってのが特徴ね」
「あ~、なるほど…」
セミの餌は木の樹液なのを知っていたのか、丸山が納得顔になった。
「まあ、カメムシの仲間と言ってもアメンボの場合は臭くなくて、臭腺から飴みたいな香りがするのと、体が長いって意味で「棒」——その「飴棒」がなまってアメンボって名前になったらしいわ」
「へぇ…」
飴のようなにおいがすると聞いた丸山が興味をそそられたのか、捕まえて確認できそうなアメンボがいないかと水面に視線を走らせる。そんな丸山を見た高橋が「丸ちゃん…わかっているとは思うけど、アメンボは食べられないからね」と釘を刺す。
「食べやしないけど、においを嗅いでみたいじゃないか」
「…言うと思った」
そんな会話をしているうちにもプールの水位がどんどん下がっていく。
「渉君、水位が膝くらいになったら、プール掃除を始めるから、プールに入ったら真っ先に水の採取をしてね」
「了解っす」
優子の指示に渉が元気よく返事を返した。
「ミドリムシがいっぱいいそうね」
「ミドリムシ以外にもいろんな藻類が見つかりそうだけどね」
「楽しみ♪」
ミドリムシ大好きな香奈子がワクワクした様子で藻類に覆われたプールの床や壁をじっと見つめていた。
「そろそろ始めましょうか?」
生物部の面々から少し離れた所にいた水泳部の部長が声をかけてくる。
「そうね…ぼちぼち始めましょうか」
優子はそう言うと、プールサイドにある手すりに掴まって、そろそろとひざ下まで水位が下がったプールの中に入った。それに続いて他のメンバーもプールの中に入る。
「気持ち悪っ」
床の感触を確認して静香が不快そうに声を上げる。
「掃除をすればきれいになって気持ち悪くなくなるんだから…はい、ブラシ」
苦笑いしながら優子が静香にデッキブラシを手渡した。
「ヤゴ確保しました!」
虫取り網を手にした高橋がさっそくヤゴを捕まえたらしく、バケツを軽く掲げる。それを聞いた順子が興味津々といった様子でバケツの中身を見ようとして、足を滑らせた。
「きゃっ」
小さい悲鳴を上げて順子はまだ水が残るプールに派手に倒れ込み、頭から緑色のプールの水を被った。
「あちゃ~、やりよった」
古谷が天を仰ぎ見た後、順子に助けの手を差し出す。
「いや~ん、池臭い~」
古谷の手に掴まって立ち上がった順子は半泣きであった。
「プールの床は滑るからみんな気をつけて」
順子の惨状を見て優子は苦笑いしながら、他のメンバーに声をかける。そんな優子の注意を気に留める事無く、あおいはデッキブラシ片手に「アイスホッケーみたいですぅ」とはしゃぐように床の上を滑る様に移動してまわっていた。
「よくあんなに動き回れるわね…」
「私には無理だわ」
香奈子と静香がデッキブラシでプールの壁をこすり洗いしながら、自在に動き回るあおいを見て呆れ顔を浮かべる。
プールの水の採取を終え、プールサイドからホースを持ってきた渉が順子に声をかける。
「順子ちゃん、軽く水を被る?」
「はい、お願いします…」
順子は小さく頷くと、渉はホースの水を順子に浴びせかけた。
「においとれたかな?」
水でプールの水を流してもらった順子は、ずぶ濡れになった髪の毛やTシャツを軽く絞って確かめるように臭いを嗅ぐ。
「…さっきよりはマシかな?」
小首を傾げている順子に「すっかりメイク流れちゃったわね」と静香が言った。それを聞いた順子は「臭いより、すっぴんの方がまだマシです」と肩を竦めながら答えた。
「確かにね」
静香が苦笑いしていると、初めてすっぴんの順子の顔を見た古谷が「すっぴんの方が可愛いと僕は思うけどな~」と呟いた。
「え~、そんなジロジロ見ないでください~」
恥ずかしそうに順子が抗議の声を上げていると、優子と香奈子も化粧で隠すなんてもったいないと言い出した。
「マジ勘弁してください」
複雑な表情を浮かべながら順子は話題を変えようとバケツを覗き込んだ。
「…これがヤゴ?」
バケツの底を歩き回っている見た事がない形状をした昆虫を見て順子は首を傾げた。
それはトンボとは似ても似つかない姿形で、バッタのような三角形の細長い体をしており、背中に小さな羽の様なものはあるが、トンボに見られる左右対称の大きな羽は見当たらないので、これが空を軽やかに飛び回るトンボになるとは思えなかった。
「不完全変態だから、身体の構造は成体のトンボと機能的にはさほど変わらないのだけど、ぱっと見た目、同じ生き物とは思えないわよね」という優子の説明に順子は小さく頷いた。
「先輩。不完全変態って?」
馴染みのない単語の意味が気になったのか、高橋が訊ねる。
「蝶なんかは完全変態の生き物だから、最初は卵、幼体は芋虫、さなぎの状態から成体になると蝶…成長の工程で形が全く変わっちゃうのが完全変態と言うのね、それに対して不完全変態はさなぎの状態にならないものの事を言うの」
それを聞いた高橋は納得したように頷いた。
「完全変態のさなぎの中ってどうなっているか知ってる?」
優子の質問に高橋、丸山、順子の三人は首を振る。
「さなぎの中はドロドロのたんぱく質で、その状態から徐々に成体としての体が再構成されるのよ」
「さなぎの中ってそうなっているんだ…」
さなぎの中がどうなっているのかなど、考えた事もなかった高橋が感心した様に呟いた。
「昆虫も不思議な生き物よね――昆虫が人間サイズだったら最強なんて話もあるぐらいだしね」
「人間サイズのゴキブリ…うわぁ」
自分で言った後、想像してしまったのか、丸山が大きな体を震わせる。
「人間が最強なんて思っているかもしれないけれど、生命体としては人間ってものすごく弱い生き物なのよね」
「…確かに。道具を使う事が出来なかったなら、ここまで人間が繁栄する事はなかったのかも――自分たちが一番強くて賢いって思っているのは、ただの傲慢でしかありませんね」
そう言って自嘲気味に笑う高橋であった。
「予想通りプールにはアメンボ、ヤゴがかなりいましたね」
プール掃除の翌日、生物室でお茶会をしながら昨日プールで捕獲した生き物たちの話題になっていた。
「水カマキリとゲンゴロウもいたのには驚いたけど」
メモを手に渉が意外な生き物が住んでいたことに驚きを隠せないでいた。
「水カマキリやゲンゴロウも餌を求めて水のあるところに飛んできて、プールに住み着いてるの」
「ゲンゴロウも飛ぶんですか⁈」
ゲンゴロウは水中を泳ぎ回るといったイメージを持っていたので、優子の説明に渉が驚きの表情を浮かべる。
「ゲンゴロウも飛ぶわよ――ずっと水中に住んでいるような印象があるけど、定期的に陸に上がって水カビ防止の為に甲羅干しをする習性があるし」
「へぇ…」
感心している渉の横に座って居た高橋が、捕獲したゲンゴロウやヤゴをどうするのかと尋ねた。
「とりあえずゲンゴロウとヤゴは別の水槽に分けたわ――ゲンゴロウがヤゴを襲っちゃうからね」
そう言って優子がウインクをする。
「ゲンゴロウの餌は熱帯魚用の餌のオキアミや赤虫とか、ミルワームなんかで大丈夫だから、上手く飼育すれば2~3年、長かったら7年ぐらいは生きるって話よ」
「虫なのにそんなに長生きするんですか⁈」
順子の目が丸くなる。
「昆虫がみんな短命って訳ではないからね」
そう言ってから優子は、長生きするはずのゲンゴロウも今や絶滅危惧種に指定されているのよと言う。
「そんなに長生きならいっぱい増えそうなのに…」
「原因は乱獲や環境破壊って言われているけど、一番の問題は農薬じゃないかと私は思うの」
「農薬?」
首を傾げる丸山に優子は「自然界ではゲンゴロウはヤゴやメダカなんかを餌にしているのだけど、メダカは農薬なんかの化学薬品に対して非常に弱いし、ヤゴもメダカを餌にしていて、メダカ以外の微生物たちも化学薬品に弱いの」という。
「ああ、エサになる生き物がいなければ、当然、ゲンゴロウも生きていけませんね」
「そう言う事」
農薬や化学肥料が大量に使われる前は、日本の里山の田んぼや水辺は非常に豊かな生態系を保っていたのであるが、農業の効率化の名の元、化学薬品が田畑に撒かれるようになってその生態系が大きく崩れる事になったのである。
化学薬品に弱い微生物が死滅する事によってそれを餌にしていた昆虫や小魚がいなくなり、その昆虫や小魚を餌にしていた鳥たちも姿を消すことになったのである。
「日本のコウノトリが絶滅してしまったのは、水銀農薬のが原因といわれているし…人間の都合で絶滅させてしまった種や絶滅危惧種がどれだけ多いか調べたらめまいがしてくるわよ」
そういう優子の表情は苦い。
環境破壊が叫ばれるようになり、有機栽培無農薬の農業が見直されるようになった農村や里山では、少しずつではあるが失われた生態系が戻りつつあるのだというが、壊すのは簡単であるが、再生させるには手間もかかるし時間もかかる根気がいる作業となっているのだという。
「今回ゲンゴロウを飼育しようと思ったのは、ささやかではあるけれど絶滅危惧種の命を繋ぐお手伝いが出来たらな…って思ったからなの」
出来れば校庭に小さくていいので田んぼや池といったビオトープが欲しい所ではあるが、とりあえずは水槽で簡易型のビオトープでの飼育で妥協するしかなかったけれど…と優子は苦笑いを浮かべた。
「タガメに比べたら繁殖が難しいみたいだけど、ゲンゴロウの繁殖も出来たらいいなって思ってるし」
「今回ゲンゴロウ、数匹捕獲出来ましたもんね」
髙橋の言葉に優子頷く。
「ゲンゴロウの飼育かぁ…うまく繁殖させれればいいんですけど」
渉の言葉に丸山が増えすぎた時はどうするのか? と疑問を口にした。
「増えすぎた時は…責任をもって食べちゃう?」
「え⁈」
悪戯っぽく笑う優子の返答に丸山の目が点になる。
「信州とかの昆虫食文化がある地域では昔、ゲンゴロウは貴重なたんぱく源や珍味として炒めて食べていたのは聞いた事あるわよ」と、黙ってお茶を飲んでいた香奈子がそう言って笑った。
「昆虫食はちょっと…」
さすがの丸山もゲンゴロウを食べる気にはならないのか、露骨に嫌そうな表情を浮かべる。
「冗談よ、冗談。まだ繁殖させられるかなんてわかんないんだから」
後輩たちの困惑した表情がおかしいのか、優子がそう言って否定するのを聞きながら、——この人たち、本当にやりそうだから笑えねぇ… と思う渉であった。
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年末には「聖戦(コミケ)」に旅立ち、
さらには幼馴染みと「同人誌合宿」まで!?
……ちがう。
こんなの、私の知ってるお兄ちゃんじゃない!
たとえ、世界中がオタクを称えたって、
私は、絶対に──
お兄ちゃんを“元に戻して”みせる!
これは、
ブラコン妹と
中二病オタク姫が、
一人の「兄」をめぐって
全力でぶつかり合う、果てしなき戦いの物語──!
そしていつしか、
誰も予想できなかった
本当の「大好き」のカタチを探す、
壮大な青春ストーリーへと変わっていく──。
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