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~生物部的食品考察~
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短い冬休みが明けてあっという間に三学期。生物部のメンバーはいつもと変わらず始業式の後、生物室に顔を出していた。
「お年始のお茶会だから、梅昆布茶とかお抹茶がいいかしら?」
お茶会の準備をしようとしていた香奈子が準備室で悩んでいた。
「お抹茶は茶碗が足りないんじゃない?」
「…そうよねぇ、どんぶり鉢でみんなで回し飲みってのもあれだし」
優子に指摘に香奈子が苦笑いしていると、順子が紙袋を香奈子に差し出した。
「香奈子先輩、これうちの田舎のお土産なんで、みんなで…」
「順ちゃん、お正月、田舎に帰ってたのね」そう言って紙袋を受け取った香奈子は中に入っていた菓子箱を取り出して見る。
「萩の月…?」
小首を傾げる香奈子に順子は仙台名物だと言う。
「順ちゃんの田舎って仙台なんだ」
「父の出身が宮城県なんで…」
「…へぇ」
そう答えながら香奈子は馴染みのないお菓子を興味深げに観察する。そんな香奈子に順子は「萩の月はカステラ生地の中にカスタードクリームが入っているんで、お茶は紅茶やコーヒーの方が合うかも」と笑う。
「あ、洋菓子なんだ…名前が和風っぽいから和菓子かと思ったわ」
「宮城県の名物和菓子だと、ずんだ餅とか柚餅子なんかがあります」
「ずんだ?」
初めて聞く名前に香奈子が首を傾げる。
「すんだは枝豆の餡子で、緑色をしていて食べるとちゃんと枝豆の風味がするんです」
「そんなのがあるんだ」
香奈子の中で緑色の餡と言えば鶯餡だったので、驚きの表情を浮かべた。
「日本って小さな国だけど、まだまだ知らない物がたくさんあるわね…」と優子は棚から紅茶とコーヒー豆が入った缶を取り出しながら笑った。
「うちは田舎が無いから、分かんない事だらけよ」
香奈子はそう言いながらカップを棚から出して並べ始めた。それを見ていた順子が「先輩たち、打ち合わせをした訳でもないのに、連携がすごいですよね」と感心顔になる。
「お茶会の準備をしようとしてたんだもん――お茶菓子が洋菓子で、優子ちゃんが紅茶とコーヒー缶を手にしたって事は、今日のお茶会は紅茶かコーヒーで頂きましょうって流れじゃない?」
付き合いも長いしと笑う香奈子に「先輩たちがいなくなったらお茶会どうなるんでしょう?」と順子が呟いた。
「好きにすればいいんじゃない? 私たちはお茶会が好きだからやっているだけなんだし」
順ちゃんがお茶会を続けたければ、すればいいだけの話と香奈子に言われ、順子は困惑の表情を浮かべる。
「コーヒーや紅茶はインスタントとかティーパックのなら入れられますけど、豆だけのとか、葉っぱだけのとかって、入れ方よく分からなくって…」
「え⁈」
順子の言葉を聞いて香奈子と優子は顔を見合わせる。
「本格的なコーヒーや紅茶を飲むのって、お店でないと飲めないってずっと思ってたし…」
コンビニなどでも手軽に缶やペットボトルなどの飲み物が手に入るので、実は生物部のお茶会に参加するようになってかなり衝撃を受けたのだと順子。
「ええ…っと、順ちゃんのお母さんとか、家でコーヒーや紅茶入れて飲まないの?」
「うち、父子世帯だし、パパはそういうの家で飲まないから…」
「あ、ごめん」
順子の家庭事情を知って香奈子は謝った。
「あ、大丈夫です。先輩が悪い訳じゃないんで」と順子が笑顔を浮かべる。
「そっかー、うちは母子家庭だし、おばさん――ママの妹が昼間うちで喫茶店をやってるから、自然にそういうの覚えたけど、身近にお手本がいないとそりゃ覚えられないわよね」
「そうなんです」
頷く順子に香奈子が「私で良かったら、お茶を入れる基本を教えようか?」と提案した。
「…え、でも先輩、三年生だし忙しいんじゃ」
「それは大丈夫。もう専門学校に進学決まってるし、基本的な事ぐらいなら教えるのはそんなに大変じゃないし」
戸惑う順子に香奈子はそう言って笑う。
「コーヒーやお茶を美味しく飲む為の温度とかは、知っていて損はないと思うよ」「最初はお茶会の準備の手伝いから始めればいいと」優子。
「…じゃあ、お願いします」
成り行きではあったが、そうして順子のお茶会修行が始まった。
「へぇ…このコーヒー、順ちゃんが淹れたんだ」
お茶会が始まり、事情を聞いた渉は自分が手にしたカップの中身をしげしげと見た後、香りを嗅いでそっとコーヒーに口をつけた。
「…うん、普通に美味しいよ」
「よかった」
緊張した面持ちでいた順子の表情がホッとしたものに変わる。
「順ちゃん頑張ったもんね」と優子に褒められ、順子ははにかんだ笑顔を見せた。
「俺もたまに自分で入れたコーヒーを飲む事あるけど、よくぬるかったりして美味しくない事があって、ああいうの飲むと悲しくなるんだ」と言う渉に香奈子が笑う。
「それ先にカップにお湯を入れて温めるとかしてないでしょ?」
「え? そんな事するんですか?」
驚く渉に優子が「熱交換の原理よ――熱エネルギーや流体は高い所から低い所へ熱が移動して、最終的に温度差が無くなるって性質があるから、器を先に温めておかないと、冷たい器に熱が奪われて飲み物や食べ物が冷めちゃうのは自明の理」と解説をする。
「説明が科学的ですね」
そう言って苦笑いをする渉に、優子は料理って科学だって前にも言ったと思うけど…と笑った。
「料理が下手な人の特徴は量を計らない、レシピ通りの手順を守らないのが原因――レシピってのは実験の教本と同じだから、同じ条件で実験しななければ、同じ結果にはならないってのは当たり前。神様じゃないんだから物理法則を変えるなんて私達人間には出来ない事だもん」と香奈子も笑う。
「中学校とかで生物の授業で大まかな事を習った事が、高校の物理の授業でどういう理屈なのかだとか、その現象を具体的な方程式を使って計算するようになって、ようやく先輩たちが言っていた意味がちょっとずつ理解できるようになってきましたけど、難解すぎっす」と渉は肩を竦める。
「理論を理解できた方が応用が出来るようになるけれど、理論が理解できなくても教本…レシピ通り、教えられた通りにやってりゃ失敗はしないけどね」
優子は笑った。そんな優子の話を聞いていた香奈子が口を開く。
「コーヒーや紅茶を美味しく淹れる推奨抽出温度は95℃前後って言われているのに対して、緑茶の推奨抽出温度は煎茶とか玉露なんかで違うけれど、大体60~70℃って言われてるから、それを守っていれば、そんなにマズいお茶にはならないって言われてるわね」
それを聞いた順子が不思議そうに「緑茶って熱湯で入れちゃダメだったんですか?」と疑問を口にした。
緑茶も紅茶も葉っぱなので同じだと思っていたという順子に、苦くて渋いお茶が好きなら熱湯でも構わないと香奈子は笑う。
「番茶や玄米茶、ほうじ茶なんかだと90℃ぐらいのお湯の方が美味しくいただけるんだけど、その80℃から90℃くらいの温度域で抽出されやすいのは渋み成分のカテキンだったり、苦み成分のカフェインなのね」
それを聞いた渉が「だから苦みを楽しむコーヒーとかは95℃ぐらいの熱湯なんだ」と納得顔になる。
「そういう事。それに対してうまみ成分が多いアミノ酸が抽出されやすい温度は50℃ぐらいだから、旨味を楽しむ玉露茶なんかは低い温度のお湯で入れた方が美味しいって言われているのはそのせい」
「そんな科学的な理由があったんだ…」
推奨されている事柄一つ一つに科学的な理由があった事に驚いた様子の順子に優子が「料理上手になりたければ、お茶以上に様々な物質の性質の知識が重要になってきたりするけどね」と言う。
「様々な物質?」
怪訝そうな順子と渉に優子は頷いた。
「たとえばお肉を構成する主成分はたんぱく質よね――そのたんぱく質の性質を知っておくと、美味しく調理する為のコツがどういう理屈なのかを深く理解する事が出来るの」
「…」
後輩たちが黙って話を聞いるのを確認して、優子は話を続ける。
「筋繊維のたんぱく質は45℃から50℃で凝固し始めるのね――だから人間でも風邪を引いたりした時に42℃以上の高熱が出ると死んだり障害が残るって言われているのは、筋繊維だけじゃなく、血液も水分の次に多い成分がたんぱく質だから、その血液内のたんぱく質が熱によって変質するっていう理由も加わるからなのよ」
「そういう理由だったのか…」
小さい頃から酷い高熱だと死ぬと聞かされてきた理由を理解したのか、渉が小さく呟く。
「次に56℃~62℃付近になると、筋形質たんぱく質が凝固を始めて、65℃付近でコラーゲンがいったん収縮するの。さらに過熱を続けて75℃付近になるとコラーゲンは分解されてゼラチン化ってするっていう熱によって肉を構成する三種類のたんぱく質に変化がみられるから、コラーゲンが少ない肉はいくら煮込んでも柔らかくならないってのはそういう理由」
そう言うと、優子は「コラーゲンが少ない魚介類も同じ理由だから、加熱時間は短時間でないと固くなるって言われてる」と補足を加えた。
「たんぱく質って一つだとばかり…」
茫然とする順子に優子が自分たちの髪の毛や皮膚、爪なんかもたんぱく質で構成されているけれど、特徴が全部違うでしょ? と笑う。
「爪ってカルシウムで出来てるんじゃないんですか?」
「残念。爪はたんぱく質の一種であるケラチンが主成分で表皮が角質化したものよ」
「そうだったんだ…」
自分の爪を見ながら順子が呟きを漏らす。
「化学と料理、生物って全く違う分野のモノだと思っていたかもしれないけれど、視点が違うだけで実は同じ性質のものを扱っている――って、私が言ってた意味を理解してもらえたかしら?」
笑いを含んだ目で優子は順子の顔を覗き込む。
「そんな事考えた事なかったから、びっくりしてます…」
「この世の中、みんな複雑に考えすぎだから難しいとか、覚えきれないとか思うのよ」と優子は微笑む。
「基本の科学を理解していれば、物質に関しては組成構成を知ればその本質が理解出来るから、変な新商品に騙されなくなるわよ」と悪戯っ子のような表情を浮かべた。
科学的な話から、いきなり新商品などという世間一般の話の飛躍に、順子と渉は戸惑いの表情を浮かべて思わず「変な新商品?」という疑問を口にする。
「健康とか美容に良さそうなイメージを謳う商品って多いじゃない?」
それを聞いた香奈子が「あ~、乳酸菌が入ってるから腸にいいとか?」と訊く。
「乳酸菌自体は別に悪いものではないけれど、実は乳酸菌っていう生物学的な菌種は無いって知ってた?」
「え⁈」
優子の言葉に香奈子も順子や渉と共に驚きの声を上げた。
「乳酸菌ってのは代謝によって乳酸を産生する細菌の総称…多糖類、アミノ酸、ビタミンB群、ミネラルのマグネシウムや鉄なんかの金属を取り込んで、大量の乳酸と腐敗物質を作り出さない細菌の事なのよ」
「知らなかった…」
そんな呟きを漏らす香奈子に、優子は「よく動物性とか植物性乳酸菌配合とかいう商品あるじゃない?」と言う。
「ヨーグルトとか乳酸飲料とかに書いてあるの見た事あるわね」
「その違いは細菌の生育場所の違いでそう呼ばれていて、動物性乳酸菌はチーズやヨーグルトなんかで生育して、植物性乳酸菌は味噌や醤油、漬物なんかで生育する細菌」
それ以外には腸管性や海洋性の乳酸菌もいるのだという。
「よく便秘解消の腸活にヨーグルトが良い、乳酸菌の餌になるオリゴ糖も摂れば乳酸菌が増えるからとか言われてるけど、人間の腸の中では定着しにくいから、便として出て行っちゃうんで、毎日摂取しないと効果はあまり期待できないの」
「え~‼」
衝撃的な話に一同声を上げる。
「それに毎日乳酸菌を摂取したとしても、さっきも言ったけど、乳酸を作り出すには多糖類だけじゃなくビタミンやアミノ酸、ミネラルも必要だから、バランスの良い食事を同時にしないと乳酸を作るに材料不足になっちゃう」
「バランスのいい食事…が一番難しいかも」
普段の食事を考えたのか、香奈子が困り顔で「うちはフルーツやお野菜が好きだからビタミンは大丈夫だと思うけど、アミノ酸とミネラルが怪しいかも…」と呟く。
「うちはスーパーやコンビニのお惣菜かお弁当、あとはレトルト食品、カップ麺が多いんですけど、ダメですか?」
栄養についてよく分からないのか順子が不安そうに優子と香奈子に尋ねた。
「ん~、ビタミン、ミネラル、アミノ酸…全部足り無さそう」
「でも、フルーツはゼリーでよく食べますし、生野菜のサラダとかはよく買いますよ?」
香奈子たちの表情が曇ったので順子が慌てて補足するが、それを聞いた香奈子たちの表情がさらに曇る。
「…ダメなんですか?」
「んとね、市販の生野菜サラダとかカット野菜って、変色防止や傷みにくくする為に防腐剤なんかが入った水に浸けるし、水に浸けると水溶性のビタミンが出ちゃうから、見た目は生野菜でも栄養価的にはスカスカなのよ。しかも葉野菜って繊維質もごぼうなんかの根野菜に比べてめちゃくちゃ少ないし」
「そ…そうなんですか⁈」
ショックを隠せない様子の順子の横で渉が「じゃあ、野菜やフルーツのジュースは?」と訊く。
「ジュースは液体になっちゃってるから、体内での通過スピードが速くてビタミンなんかの成分が吸収される前にほとんど体外に出ちゃうし、果糖ブドウが入っている場合は、身体に吸収されやすいから糖分だけ体に吸収されちゃうって事になるらしいわ」
「マジか…糖分だけ吸収されるって事は…」
「砂糖水を飲んでるのと一緒」
「がーん」
渉と順子がショックを隠せない様子で顔を見合わせる。
「その辺は栄養学の話になるんだけど、食品添加物なんかの話は調べるほどに怖い話がわんさか出てくるし、それを意識しすぎると、全く飲み食いできなくなっちゃうけどね」と香奈子がケラケラと笑う。
「怖い話がわんさかって…」
言葉を失う渉に「知らぬが仏って言葉もあるけど、気になるなら自分で調べてみれば?」と意味ありげに優子はそう言うと微笑む。
そんな優子の表情を見て渉は悟る。
――優子先輩がこういう顔をする時は、大概なにかあるんだよな…。
優子が何を隠しているのか気にもなるが、それを知るのも怖いと、悩む渉であった。
「お年始のお茶会だから、梅昆布茶とかお抹茶がいいかしら?」
お茶会の準備をしようとしていた香奈子が準備室で悩んでいた。
「お抹茶は茶碗が足りないんじゃない?」
「…そうよねぇ、どんぶり鉢でみんなで回し飲みってのもあれだし」
優子に指摘に香奈子が苦笑いしていると、順子が紙袋を香奈子に差し出した。
「香奈子先輩、これうちの田舎のお土産なんで、みんなで…」
「順ちゃん、お正月、田舎に帰ってたのね」そう言って紙袋を受け取った香奈子は中に入っていた菓子箱を取り出して見る。
「萩の月…?」
小首を傾げる香奈子に順子は仙台名物だと言う。
「順ちゃんの田舎って仙台なんだ」
「父の出身が宮城県なんで…」
「…へぇ」
そう答えながら香奈子は馴染みのないお菓子を興味深げに観察する。そんな香奈子に順子は「萩の月はカステラ生地の中にカスタードクリームが入っているんで、お茶は紅茶やコーヒーの方が合うかも」と笑う。
「あ、洋菓子なんだ…名前が和風っぽいから和菓子かと思ったわ」
「宮城県の名物和菓子だと、ずんだ餅とか柚餅子なんかがあります」
「ずんだ?」
初めて聞く名前に香奈子が首を傾げる。
「すんだは枝豆の餡子で、緑色をしていて食べるとちゃんと枝豆の風味がするんです」
「そんなのがあるんだ」
香奈子の中で緑色の餡と言えば鶯餡だったので、驚きの表情を浮かべた。
「日本って小さな国だけど、まだまだ知らない物がたくさんあるわね…」と優子は棚から紅茶とコーヒー豆が入った缶を取り出しながら笑った。
「うちは田舎が無いから、分かんない事だらけよ」
香奈子はそう言いながらカップを棚から出して並べ始めた。それを見ていた順子が「先輩たち、打ち合わせをした訳でもないのに、連携がすごいですよね」と感心顔になる。
「お茶会の準備をしようとしてたんだもん――お茶菓子が洋菓子で、優子ちゃんが紅茶とコーヒー缶を手にしたって事は、今日のお茶会は紅茶かコーヒーで頂きましょうって流れじゃない?」
付き合いも長いしと笑う香奈子に「先輩たちがいなくなったらお茶会どうなるんでしょう?」と順子が呟いた。
「好きにすればいいんじゃない? 私たちはお茶会が好きだからやっているだけなんだし」
順ちゃんがお茶会を続けたければ、すればいいだけの話と香奈子に言われ、順子は困惑の表情を浮かべる。
「コーヒーや紅茶はインスタントとかティーパックのなら入れられますけど、豆だけのとか、葉っぱだけのとかって、入れ方よく分からなくって…」
「え⁈」
順子の言葉を聞いて香奈子と優子は顔を見合わせる。
「本格的なコーヒーや紅茶を飲むのって、お店でないと飲めないってずっと思ってたし…」
コンビニなどでも手軽に缶やペットボトルなどの飲み物が手に入るので、実は生物部のお茶会に参加するようになってかなり衝撃を受けたのだと順子。
「ええ…っと、順ちゃんのお母さんとか、家でコーヒーや紅茶入れて飲まないの?」
「うち、父子世帯だし、パパはそういうの家で飲まないから…」
「あ、ごめん」
順子の家庭事情を知って香奈子は謝った。
「あ、大丈夫です。先輩が悪い訳じゃないんで」と順子が笑顔を浮かべる。
「そっかー、うちは母子家庭だし、おばさん――ママの妹が昼間うちで喫茶店をやってるから、自然にそういうの覚えたけど、身近にお手本がいないとそりゃ覚えられないわよね」
「そうなんです」
頷く順子に香奈子が「私で良かったら、お茶を入れる基本を教えようか?」と提案した。
「…え、でも先輩、三年生だし忙しいんじゃ」
「それは大丈夫。もう専門学校に進学決まってるし、基本的な事ぐらいなら教えるのはそんなに大変じゃないし」
戸惑う順子に香奈子はそう言って笑う。
「コーヒーやお茶を美味しく飲む為の温度とかは、知っていて損はないと思うよ」「最初はお茶会の準備の手伝いから始めればいいと」優子。
「…じゃあ、お願いします」
成り行きではあったが、そうして順子のお茶会修行が始まった。
「へぇ…このコーヒー、順ちゃんが淹れたんだ」
お茶会が始まり、事情を聞いた渉は自分が手にしたカップの中身をしげしげと見た後、香りを嗅いでそっとコーヒーに口をつけた。
「…うん、普通に美味しいよ」
「よかった」
緊張した面持ちでいた順子の表情がホッとしたものに変わる。
「順ちゃん頑張ったもんね」と優子に褒められ、順子ははにかんだ笑顔を見せた。
「俺もたまに自分で入れたコーヒーを飲む事あるけど、よくぬるかったりして美味しくない事があって、ああいうの飲むと悲しくなるんだ」と言う渉に香奈子が笑う。
「それ先にカップにお湯を入れて温めるとかしてないでしょ?」
「え? そんな事するんですか?」
驚く渉に優子が「熱交換の原理よ――熱エネルギーや流体は高い所から低い所へ熱が移動して、最終的に温度差が無くなるって性質があるから、器を先に温めておかないと、冷たい器に熱が奪われて飲み物や食べ物が冷めちゃうのは自明の理」と解説をする。
「説明が科学的ですね」
そう言って苦笑いをする渉に、優子は料理って科学だって前にも言ったと思うけど…と笑った。
「料理が下手な人の特徴は量を計らない、レシピ通りの手順を守らないのが原因――レシピってのは実験の教本と同じだから、同じ条件で実験しななければ、同じ結果にはならないってのは当たり前。神様じゃないんだから物理法則を変えるなんて私達人間には出来ない事だもん」と香奈子も笑う。
「中学校とかで生物の授業で大まかな事を習った事が、高校の物理の授業でどういう理屈なのかだとか、その現象を具体的な方程式を使って計算するようになって、ようやく先輩たちが言っていた意味がちょっとずつ理解できるようになってきましたけど、難解すぎっす」と渉は肩を竦める。
「理論を理解できた方が応用が出来るようになるけれど、理論が理解できなくても教本…レシピ通り、教えられた通りにやってりゃ失敗はしないけどね」
優子は笑った。そんな優子の話を聞いていた香奈子が口を開く。
「コーヒーや紅茶を美味しく淹れる推奨抽出温度は95℃前後って言われているのに対して、緑茶の推奨抽出温度は煎茶とか玉露なんかで違うけれど、大体60~70℃って言われてるから、それを守っていれば、そんなにマズいお茶にはならないって言われてるわね」
それを聞いた順子が不思議そうに「緑茶って熱湯で入れちゃダメだったんですか?」と疑問を口にした。
緑茶も紅茶も葉っぱなので同じだと思っていたという順子に、苦くて渋いお茶が好きなら熱湯でも構わないと香奈子は笑う。
「番茶や玄米茶、ほうじ茶なんかだと90℃ぐらいのお湯の方が美味しくいただけるんだけど、その80℃から90℃くらいの温度域で抽出されやすいのは渋み成分のカテキンだったり、苦み成分のカフェインなのね」
それを聞いた渉が「だから苦みを楽しむコーヒーとかは95℃ぐらいの熱湯なんだ」と納得顔になる。
「そういう事。それに対してうまみ成分が多いアミノ酸が抽出されやすい温度は50℃ぐらいだから、旨味を楽しむ玉露茶なんかは低い温度のお湯で入れた方が美味しいって言われているのはそのせい」
「そんな科学的な理由があったんだ…」
推奨されている事柄一つ一つに科学的な理由があった事に驚いた様子の順子に優子が「料理上手になりたければ、お茶以上に様々な物質の性質の知識が重要になってきたりするけどね」と言う。
「様々な物質?」
怪訝そうな順子と渉に優子は頷いた。
「たとえばお肉を構成する主成分はたんぱく質よね――そのたんぱく質の性質を知っておくと、美味しく調理する為のコツがどういう理屈なのかを深く理解する事が出来るの」
「…」
後輩たちが黙って話を聞いるのを確認して、優子は話を続ける。
「筋繊維のたんぱく質は45℃から50℃で凝固し始めるのね――だから人間でも風邪を引いたりした時に42℃以上の高熱が出ると死んだり障害が残るって言われているのは、筋繊維だけじゃなく、血液も水分の次に多い成分がたんぱく質だから、その血液内のたんぱく質が熱によって変質するっていう理由も加わるからなのよ」
「そういう理由だったのか…」
小さい頃から酷い高熱だと死ぬと聞かされてきた理由を理解したのか、渉が小さく呟く。
「次に56℃~62℃付近になると、筋形質たんぱく質が凝固を始めて、65℃付近でコラーゲンがいったん収縮するの。さらに過熱を続けて75℃付近になるとコラーゲンは分解されてゼラチン化ってするっていう熱によって肉を構成する三種類のたんぱく質に変化がみられるから、コラーゲンが少ない肉はいくら煮込んでも柔らかくならないってのはそういう理由」
そう言うと、優子は「コラーゲンが少ない魚介類も同じ理由だから、加熱時間は短時間でないと固くなるって言われてる」と補足を加えた。
「たんぱく質って一つだとばかり…」
茫然とする順子に優子が自分たちの髪の毛や皮膚、爪なんかもたんぱく質で構成されているけれど、特徴が全部違うでしょ? と笑う。
「爪ってカルシウムで出来てるんじゃないんですか?」
「残念。爪はたんぱく質の一種であるケラチンが主成分で表皮が角質化したものよ」
「そうだったんだ…」
自分の爪を見ながら順子が呟きを漏らす。
「化学と料理、生物って全く違う分野のモノだと思っていたかもしれないけれど、視点が違うだけで実は同じ性質のものを扱っている――って、私が言ってた意味を理解してもらえたかしら?」
笑いを含んだ目で優子は順子の顔を覗き込む。
「そんな事考えた事なかったから、びっくりしてます…」
「この世の中、みんな複雑に考えすぎだから難しいとか、覚えきれないとか思うのよ」と優子は微笑む。
「基本の科学を理解していれば、物質に関しては組成構成を知ればその本質が理解出来るから、変な新商品に騙されなくなるわよ」と悪戯っ子のような表情を浮かべた。
科学的な話から、いきなり新商品などという世間一般の話の飛躍に、順子と渉は戸惑いの表情を浮かべて思わず「変な新商品?」という疑問を口にする。
「健康とか美容に良さそうなイメージを謳う商品って多いじゃない?」
それを聞いた香奈子が「あ~、乳酸菌が入ってるから腸にいいとか?」と訊く。
「乳酸菌自体は別に悪いものではないけれど、実は乳酸菌っていう生物学的な菌種は無いって知ってた?」
「え⁈」
優子の言葉に香奈子も順子や渉と共に驚きの声を上げた。
「乳酸菌ってのは代謝によって乳酸を産生する細菌の総称…多糖類、アミノ酸、ビタミンB群、ミネラルのマグネシウムや鉄なんかの金属を取り込んで、大量の乳酸と腐敗物質を作り出さない細菌の事なのよ」
「知らなかった…」
そんな呟きを漏らす香奈子に、優子は「よく動物性とか植物性乳酸菌配合とかいう商品あるじゃない?」と言う。
「ヨーグルトとか乳酸飲料とかに書いてあるの見た事あるわね」
「その違いは細菌の生育場所の違いでそう呼ばれていて、動物性乳酸菌はチーズやヨーグルトなんかで生育して、植物性乳酸菌は味噌や醤油、漬物なんかで生育する細菌」
それ以外には腸管性や海洋性の乳酸菌もいるのだという。
「よく便秘解消の腸活にヨーグルトが良い、乳酸菌の餌になるオリゴ糖も摂れば乳酸菌が増えるからとか言われてるけど、人間の腸の中では定着しにくいから、便として出て行っちゃうんで、毎日摂取しないと効果はあまり期待できないの」
「え~‼」
衝撃的な話に一同声を上げる。
「それに毎日乳酸菌を摂取したとしても、さっきも言ったけど、乳酸を作り出すには多糖類だけじゃなくビタミンやアミノ酸、ミネラルも必要だから、バランスの良い食事を同時にしないと乳酸を作るに材料不足になっちゃう」
「バランスのいい食事…が一番難しいかも」
普段の食事を考えたのか、香奈子が困り顔で「うちはフルーツやお野菜が好きだからビタミンは大丈夫だと思うけど、アミノ酸とミネラルが怪しいかも…」と呟く。
「うちはスーパーやコンビニのお惣菜かお弁当、あとはレトルト食品、カップ麺が多いんですけど、ダメですか?」
栄養についてよく分からないのか順子が不安そうに優子と香奈子に尋ねた。
「ん~、ビタミン、ミネラル、アミノ酸…全部足り無さそう」
「でも、フルーツはゼリーでよく食べますし、生野菜のサラダとかはよく買いますよ?」
香奈子たちの表情が曇ったので順子が慌てて補足するが、それを聞いた香奈子たちの表情がさらに曇る。
「…ダメなんですか?」
「んとね、市販の生野菜サラダとかカット野菜って、変色防止や傷みにくくする為に防腐剤なんかが入った水に浸けるし、水に浸けると水溶性のビタミンが出ちゃうから、見た目は生野菜でも栄養価的にはスカスカなのよ。しかも葉野菜って繊維質もごぼうなんかの根野菜に比べてめちゃくちゃ少ないし」
「そ…そうなんですか⁈」
ショックを隠せない様子の順子の横で渉が「じゃあ、野菜やフルーツのジュースは?」と訊く。
「ジュースは液体になっちゃってるから、体内での通過スピードが速くてビタミンなんかの成分が吸収される前にほとんど体外に出ちゃうし、果糖ブドウが入っている場合は、身体に吸収されやすいから糖分だけ体に吸収されちゃうって事になるらしいわ」
「マジか…糖分だけ吸収されるって事は…」
「砂糖水を飲んでるのと一緒」
「がーん」
渉と順子がショックを隠せない様子で顔を見合わせる。
「その辺は栄養学の話になるんだけど、食品添加物なんかの話は調べるほどに怖い話がわんさか出てくるし、それを意識しすぎると、全く飲み食いできなくなっちゃうけどね」と香奈子がケラケラと笑う。
「怖い話がわんさかって…」
言葉を失う渉に「知らぬが仏って言葉もあるけど、気になるなら自分で調べてみれば?」と意味ありげに優子はそう言うと微笑む。
そんな優子の表情を見て渉は悟る。
――優子先輩がこういう顔をする時は、大概なにかあるんだよな…。
優子が何を隠しているのか気にもなるが、それを知るのも怖いと、悩む渉であった。
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母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
『お兄ちゃんのオタクを卒業させてみせるんだからね❤ ~ブラコン妹と幼馴染オタク姫の果てしなき戦い~』
本能寺から始める常陸之介寛浩
青春
「大好きなはずなのに……! 兄の『推し活』が止まらない!?」
かつて、私は信じていた。
優しくて、頼もしくて、ちょっと恥ずかしがり屋な──
そんな普通のお兄ちゃんを。
でも──
中学卒業の春、
帰ってきた幼馴染みの“オタク姫”に染められて、
私のお兄ちゃんは**「推し活命」**な存在になってしまった!
家では「戦利品だー!」と絶叫し、
年末には「聖戦(コミケ)」に旅立ち、
さらには幼馴染みと「同人誌合宿」まで!?
……ちがう。
こんなの、私の知ってるお兄ちゃんじゃない!
たとえ、世界中がオタクを称えたって、
私は、絶対に──
お兄ちゃんを“元に戻して”みせる!
これは、
ブラコン妹と
中二病オタク姫が、
一人の「兄」をめぐって
全力でぶつかり合う、果てしなき戦いの物語──!
そしていつしか、
誰も予想できなかった
本当の「大好き」のカタチを探す、
壮大な青春ストーリーへと変わっていく──。
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