三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで

狛犬

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第38話

茜音はピアノのバイトに出かけた。 今日で三日目になる。

レストランの奥、ホールの隅に置かれたグランドピアノ。

照明は落とされ、スポットも当たらない。

黒に近い紺のワンピースに身を包んだ茜音は、空間の一部のように溶け込んでいた。

それが、ちょうどよかった。

誰かに見せるためではなく、

誰かに評価されるためでもなく。

ただ音を置いていくように、弾ける。

鍵盤に指を置き、静かに息を整える。

(ねえ、聞こえる?)

そっと意識を落とす。

(お母さんね、こんなふうにピアノを弾ける日が来るなんて、思ってなかった)

選曲は任されている。

客層や時間帯を見ながら、その場に合う曲を選ぶ。

今日は、落ち着いた年配の客が多い。

――今日は、あの曲が弾きたい。

昔から好きだったクラシック。

旋律も構成も好きなのに、なぜか同じ箇所で必ずつまずく。

(今日は、どうかな)

指を落とす。

音が、静かに広がっていく。

そのころ。

同じレストランで、陸翔は取引先との会食に同席していた。

グラスを持ち上げたまま、不意に耳に入ったフレーズに、動きが止まる。

――この曲。

胸の奥が、わずかに揺れた。

「牧田社長、どうされました?」

「……いえ。少し、懐かしい曲が流れてきたもので」

そう答えながらも、意識は戻らない。

……この曲、茜音が好きだった。

静かな夜に、何度も聞かされた。

――このあと。

自然と、先の展開が浮かぶ。

同じ場所で、必ずつまずく。

次の瞬間、音がわずかに乱れた。

陸翔は、思わず立ち上がる。

「……社長?」

――まさか。

ここにいるはずがない。

そう言い聞かせ、ゆっくりと席に戻る。

それでも、心臓の音だけが大きく響いていた。

その頃、茜音は小さく息を吐いていた。

「……やっぱり、だめだな」

小さく笑う。

(でも、いいよね)

そっと手を当てる。

(生まれてきたら、たくさん弾いてあげる)

次の曲へ。

音は、また穏やかに流れ始める。

陸翔は、その演奏を聞きながら考えていた。

このところ、時間を見つけては茜音の実家に足を運んでいる。

だが、一度も会えていない。

部屋の明かりはつかず、母の態度も距離を取ったままだった。

――どこにいる。

焦りが、胸の奥で広がる。

同じ空間にいるとは、思いもしないまま。

音だけが、静かに流れていた。

同じ時間を過ごしているのに。

二人の距離は、もう交わらない場所にあった。

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