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仙人になった男1
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雪の積もった山道を登れば、滝の落ちる音が聞こえてくる。四丈はあろうかという滝は、それはもう見事なものであるが、その地に辿り着いた男女数人からなる一行が目的としているのは滝の傍に佇む小さな庵であった。
枯草を踏みしめる音が響く中、竹を組んだだけの庵から一人の男が出てくる。
坊主頭に傷だらけの体を隠しもしない、質素な灰色の着物に黒い帯をした齢三十幾つに見える男。その男こそ一行が目的としている物だった。
「お前が空空か」
尊大な物言いに男の――空空の眉が跳ね上がる。
「そうだが、あんたは……いや、皆まで言うな。要件は概ね把握した」
そう言って空空は少しばかり眉をひそめた。一行の中にいた女の腕に抱えられた上質な着物を纏った少年に気づいたのだ。少年は褐色の肌を上気させ、はふはふと熱のこもった息を吐いている。空空は無言で歩み寄り、少年の頬に触れた。熱い。酷い熱だ。次に脈を診てみるが、早く、また不規則で、素人目にはこれは助からぬだろうと思われた。
素人目というように、空空は医者ではない。ただ万病に効くらしいという薬を持っている、というだけの、それだけの男だ。
「いつから?」
「三日前だ」
「効くかね」
「効いてくれねば困るのだ。頼む、空空よ」
その子供の余命短いことはなんとなく察していたが、今それを言ったところで薬を飲ませれば治るのだという確信を発するばかりだろう。男の土下座しそうな勢いで頭を下げる姿に空空は仕方なしに着物の袖をまくった。
「ひっ……」
「…………」
女のか細い悲鳴を気にもせず、空空は腕を日の下に晒した。
びっしりと刻まれた、治ったものから治りきっていないものまである切り傷の痕。まるで定規の目盛である。これには周りの男たち女たちも眉をしかめて、数歩あとずさりした。
これが目当てで来ているくせに、なんて奴らだ、なんて思うはずがない。そんな思いは呆れるほどしてきたのだ。今更そんなことを思うわけもなく、腰に差していた短刀をためらいもなく引き抜き、無表情で腕の手首から少し下の筋の張っていない箇所を切り裂いた。
「っ……。そら、薬だ、飲め」
滴り落ちる赤が茶色い枯草を濡らしていくのを気にも留めず、傷口から滴る血を少年の口元に寄せる。
万病に効く薬とは空空の血のことであった。
俗に言う同物同治、というわけではないが、どうも空空の体はその身の全てが薬になるのだ。
空空がそれに気づいたのは、今は遠く離れた地で暮らしている妹が血の病にかかったらしいと知った時である。転んで血が出たその傷跡を、妹がぺろりと舐めたら立ちどころに調子が良くなったのだ。これが真かどうか知るために、幾人もの人に血を分け与えたところ、皆全快し、なんなら病気になる前よりも調子が良くなったのである。
それに目を付けたのが母であった。血が薬になるならば、髪もまた薬になるのではと、空空の髪を毟り、その髪を『髪が生えてくる薬』として売り出したのである。最初こそ皆気味悪がって買わなかったが、ものは試しと買った老人がその髪を口にしたところ、あっという間に髪が生えてきたのだ。
これは笑い話として空空がよく使っているが、実際に毟られた側としては酷い話もあったもんじゃないという思いであった。
そういうわけで、空空の体は何かしらの薬になると周辺の村々で持ち切りになり、齢八の頃からこの歳になるまで、空空は人のためにその身を捧げてきたのであった。
「俺の血だ。薬になる。飲め」
そう言って空空は流れる血を掬い取って少年の唇にねじ込んだ。舌の上に広がる血の味に眉をしかめるが、ゆっくりとだが確実にその血を口にしている。
ところが、触れてもその熱は下がった様子がない。むしろ呼吸はより荒く、顔の赤みも増していたびくびくと体が痙攣する様子から、悪化していることは明白であった。
これは俺の手には負えねえ。
そう覚った空空は男を振り向いた。
「俺の血じゃ駄目だ。いい医者を探せ」
「なんだと」
「与えたがこの通り悪化している。俺の血じゃ逆効果になるから、早く医者を探せ。手遅れになる」
「お、お前がいい薬になると聞いてきたからここまで来たのだぞ! 医者にはもう頼った! もうお前しかおらんのだ!」
「そうは言うが……」
とにかく自分ではもう無理だ、他を当たれと言いおいて、空空はその場を立ち去ることにした。こういう場合は言っても聞かないから素早く立ち去って、ほとぼりが冷めるのを待つしかないのである。それを経験から空空はよくよく知っていた。
「このっ……!」
ふらりと一歩踏み出し、その場から逃げるように立ち去ろうとした空空を横から抑え込む手があった。見れば付き添いで来たらしい若い男で、それを皮切りに次々と空空に飛びかかってくる。
「ちょ、おい!」
「お前自体が薬になると言うならば」
地の底から響くような声がして、空空はぎくりと体を強張らせた。振り返ることもできないが、その声が先ほどの頼み込んできた男であることはなんとなく分かっていた。
「お前が薬になると言うならば、お前を殺し、その身全てで試せばいいだけのことよ……!」
「おい、馬鹿、よせっ」
鈍い音。それから灼熱が腹を貫いた。ゆっくりと腹を見下ろせば、腹からぬらりと赤に塗れた鋼が突き出ているのが見える。
刺されたと気づくのに、時間はかからなかった。
それから、横なぎに腹が捌かれて、激痛と共に、空空の意識は暗転した。
枯草を踏みしめる音が響く中、竹を組んだだけの庵から一人の男が出てくる。
坊主頭に傷だらけの体を隠しもしない、質素な灰色の着物に黒い帯をした齢三十幾つに見える男。その男こそ一行が目的としている物だった。
「お前が空空か」
尊大な物言いに男の――空空の眉が跳ね上がる。
「そうだが、あんたは……いや、皆まで言うな。要件は概ね把握した」
そう言って空空は少しばかり眉をひそめた。一行の中にいた女の腕に抱えられた上質な着物を纏った少年に気づいたのだ。少年は褐色の肌を上気させ、はふはふと熱のこもった息を吐いている。空空は無言で歩み寄り、少年の頬に触れた。熱い。酷い熱だ。次に脈を診てみるが、早く、また不規則で、素人目にはこれは助からぬだろうと思われた。
素人目というように、空空は医者ではない。ただ万病に効くらしいという薬を持っている、というだけの、それだけの男だ。
「いつから?」
「三日前だ」
「効くかね」
「効いてくれねば困るのだ。頼む、空空よ」
その子供の余命短いことはなんとなく察していたが、今それを言ったところで薬を飲ませれば治るのだという確信を発するばかりだろう。男の土下座しそうな勢いで頭を下げる姿に空空は仕方なしに着物の袖をまくった。
「ひっ……」
「…………」
女のか細い悲鳴を気にもせず、空空は腕を日の下に晒した。
びっしりと刻まれた、治ったものから治りきっていないものまである切り傷の痕。まるで定規の目盛である。これには周りの男たち女たちも眉をしかめて、数歩あとずさりした。
これが目当てで来ているくせに、なんて奴らだ、なんて思うはずがない。そんな思いは呆れるほどしてきたのだ。今更そんなことを思うわけもなく、腰に差していた短刀をためらいもなく引き抜き、無表情で腕の手首から少し下の筋の張っていない箇所を切り裂いた。
「っ……。そら、薬だ、飲め」
滴り落ちる赤が茶色い枯草を濡らしていくのを気にも留めず、傷口から滴る血を少年の口元に寄せる。
万病に効く薬とは空空の血のことであった。
俗に言う同物同治、というわけではないが、どうも空空の体はその身の全てが薬になるのだ。
空空がそれに気づいたのは、今は遠く離れた地で暮らしている妹が血の病にかかったらしいと知った時である。転んで血が出たその傷跡を、妹がぺろりと舐めたら立ちどころに調子が良くなったのだ。これが真かどうか知るために、幾人もの人に血を分け与えたところ、皆全快し、なんなら病気になる前よりも調子が良くなったのである。
それに目を付けたのが母であった。血が薬になるならば、髪もまた薬になるのではと、空空の髪を毟り、その髪を『髪が生えてくる薬』として売り出したのである。最初こそ皆気味悪がって買わなかったが、ものは試しと買った老人がその髪を口にしたところ、あっという間に髪が生えてきたのだ。
これは笑い話として空空がよく使っているが、実際に毟られた側としては酷い話もあったもんじゃないという思いであった。
そういうわけで、空空の体は何かしらの薬になると周辺の村々で持ち切りになり、齢八の頃からこの歳になるまで、空空は人のためにその身を捧げてきたのであった。
「俺の血だ。薬になる。飲め」
そう言って空空は流れる血を掬い取って少年の唇にねじ込んだ。舌の上に広がる血の味に眉をしかめるが、ゆっくりとだが確実にその血を口にしている。
ところが、触れてもその熱は下がった様子がない。むしろ呼吸はより荒く、顔の赤みも増していたびくびくと体が痙攣する様子から、悪化していることは明白であった。
これは俺の手には負えねえ。
そう覚った空空は男を振り向いた。
「俺の血じゃ駄目だ。いい医者を探せ」
「なんだと」
「与えたがこの通り悪化している。俺の血じゃ逆効果になるから、早く医者を探せ。手遅れになる」
「お、お前がいい薬になると聞いてきたからここまで来たのだぞ! 医者にはもう頼った! もうお前しかおらんのだ!」
「そうは言うが……」
とにかく自分ではもう無理だ、他を当たれと言いおいて、空空はその場を立ち去ることにした。こういう場合は言っても聞かないから素早く立ち去って、ほとぼりが冷めるのを待つしかないのである。それを経験から空空はよくよく知っていた。
「このっ……!」
ふらりと一歩踏み出し、その場から逃げるように立ち去ろうとした空空を横から抑え込む手があった。見れば付き添いで来たらしい若い男で、それを皮切りに次々と空空に飛びかかってくる。
「ちょ、おい!」
「お前自体が薬になると言うならば」
地の底から響くような声がして、空空はぎくりと体を強張らせた。振り返ることもできないが、その声が先ほどの頼み込んできた男であることはなんとなく分かっていた。
「お前が薬になると言うならば、お前を殺し、その身全てで試せばいいだけのことよ……!」
「おい、馬鹿、よせっ」
鈍い音。それから灼熱が腹を貫いた。ゆっくりと腹を見下ろせば、腹からぬらりと赤に塗れた鋼が突き出ているのが見える。
刺されたと気づくのに、時間はかからなかった。
それから、横なぎに腹が捌かれて、激痛と共に、空空の意識は暗転した。
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