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第五章
(一)
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その事件が起きたのは、明けて慶長十九年の夏のことであった。
江戸開府とともにはじまった天下普請は、主に西国の諸侯に対して費用と人員の供出を命じられていたが、その中に豊臣家は入っていなかった。当初名古屋城の普請助役に加わるようにと打診もしたのだが、淀の方が強硬に反発下のである。家康も豊臣との摩擦を避けるために、それ以上無理強いしようとはしなかった。ただその引き換えにというわけでもないが、秀頼は父である太閤秀吉の追善供養として多くの寺社の修繕・新造に取り掛かっていた。主なものでは東寺の金堂、延暦寺中堂や北野天満宮の他、尾張の熱田神宮や石清水八幡宮など義利にも縁のある名刹も含まれていた。
そのうちのひとつに、文禄五年の慶長伏見地震によって倒壊した京の方広寺があった。この寺は天正十四年に焼損した東大寺に代わる大仏殿を持つ寺として、父秀吉によって創建されたものだけに、その再建には秀頼もひときわ力を入れていた。そしてその春には普請もほぼ終わり、あとは大仏の開眼供養を待つばかりとなっていた。
その経緯は惣奉行である片桐市正且元によって幕府へも逐一報告されており、その順調ぶりは家康をも大いに満足させていた。されどいよいよ大詰めとなったところで、どうしても看過できぬ問題が発生した。それは鐘堂の大鐘に刻まれることになっている銘文にある、「君臣豊楽」「国家安康」の二箇所であった。幕府はそこに大御所の諱である「家康」の二文字を見出して、激怒したのである。
この、のちに「方広寺鍾銘事件」と呼ばれることとなる一件は、現在では豊臣を戦で滅ぼしたがっていた徳川による言い掛かりという見方が一般的である。「家康」の二文字をふたつに分かちたことが、大御所の死を願う呪詛であると解釈したことが、いかにも強引な印象を受けるというのがその理由であろう。されどその印象はあくまでも、現代の価値観によるものであることは考慮しなくてはならない。
このとき幕府側がもっとも問題としたのは、ふたつに分かつ以前にまず、「家康」という諱を公に犯したことであった。見解を求められた東福寺・南禅寺など五山の僧侶たちも、何よりそのことを前代未聞の暴挙と回答している。「諱」というのはまさしく「忌み名」である。仏教における戒名のようなものといえばわかるだろうか。当時の武家社会では、あくまでも死後の呼称とされるべきもので、相手が生きているうちは他者が妄りに口にしてはならぬものとされていた。それを寺の鍾銘に刻み付けるなどということは、まさしく広く世に向けて大御所を死者として扱ったも同然なのである。つまりは、すでにそのこと自体が呪詛にも等しい行為であると言えるのだ。その上それがふたつに分かたれているとあれば、いかにとんでもないことか想像がつくであろう。
もちろんこれが意図的でなく、たまたま紛れ込んだ文言である可能性もあるだろう。ただそのすぐ近くに「君臣豊楽」という「豊臣」を織り込んだ文言が並んでいることを考えるに、その可能性は低いと言わざるを得ない。しかもこちらはあくまでも姓であり、「秀頼」という諱は犯されていないのだ。その扱いの差を鑑みても、やはり徳川方としてはどうあっても問題にせざるを得なかった。
とはいえ家康としては、この件をさほどの大事にするつもりはなかった。これが挑発であるのは明らかで、過剰に反応することはその思う壺に嵌ることに他ならなかったからだ。ただし鍾銘はそのままにするわけにもいかなかったので、惣奉行である市正且元を厳しく叱責し、ただちに文言の修正し、銘文を作った禅僧・文英清韓の背後に誰がいるのかを調べるよう命じた。
その一方で弁明のために駿府を訪れた淀の方の侍女・大蔵卿は丁重にもてなし、ことを荒立てぬよう細心の注意を払いながら、鐘銘の文言さえ改めてくれれば何の問題もない、すぐにでも開眼供養を行えばよいと伝えた。されど結局はそのことが裏目に出た。大蔵卿の報告を受けた豊臣方は、下手に出た徳川を侮ってか、鍾銘をそのままに開眼供養を強行しようとしたのである。そして異を唱えた且元を、あまりに徳川の顔色を窺い過ぎると疎んじ、ついには放逐してしまった。
これには家康も頭を抱えるしかなかった。駿府にて傍に仕える本多上野介正純も、半分呆れつつも憤りを隠さなかった。
「いったい大坂方は何を考えておるのだ……大御所さまの温情をどこまで蔑ろにすれば気が済むのか!」
正純はといえばかなり早い段階から、豊臣は武をもって滅ぼすべしと主張していた。おそらくは此度のことで、その思いをいっそう強くしたことであろう。そして同じように考えている者は決して少なくなかった。
「もはや我らの我慢も限界にございます。かくなる上は諸将に号令を発し、大坂へと兵を差し向けましょうぞ。それで豊臣が屈すれば良し、なお歯向かうのであればいっそ……」
言も勇ましく詰め寄ってくる正純を、家康は鬱陶しそうに手を払って遮った。この者は十分に有能ではあるが、父である佐渡守正信に比べるといささか短慮なところがある。
「そういきり立つでない、上野よ。ここで短気を起こせば、仕掛けてきた者の思う壺ぞ」
「仕掛けてきた……というと、右府にございますか?」
「まさか。右府も茶々も、所詮は手もなく踊らされておるだけよ。その陰におる者の気配が感じ取れぬか?」
家康はあっさりとそう言って、怒りを噛み殺すように薄く笑った。
「陰におる者とは……福島にございますか。あるいは毛利……」
正純が挙げたのは、加藤肥後守・浅野紀伊守亡き今となっては、西国では最有力とも言えるふたりの大名であった。慥かにそのどちらからも、万一戦になっても徳川に付く旨の誓書を受け取っているが、どこまで信用できたものかわからない。されど家康が言っているのは、そのどちらでもなかった。
「この、やることなすことすべてに先回りされ、嫌なところを逆撫でされるような感じ。こちらが追い詰めているのか、それとも追い詰められているのか、まるでわからぬ。慥かに覚えがあるのう……いっそ懐かしくさえある。このやり口は間違いない、真田安房守よ」
「……殿」と、正純は不安げに眉を顰めた。どうやら老いた主が耄碌したとでも思ったか。「安房守は、とっくに死んでおりまする」
「もちろん知っておるわ。されそその子がおったであろう……信濃の伊豆守の他に、もうひとり」
「子というと、もしや左衛門佐にございますか?」
その言葉に、正純は苦笑しながら首を振った。安房守の息子、真田伊豆守信之のことはこの男もよく知っていた。かの者は関ヶ原の大乱の折、西軍に付いた父と決別して徳川に残り、上田城攻めにも参加した。そして現在では沼田城を拠点として、安房守の旧領を治めている。稀代の梟雄と呼ばれた父とは似つかぬ実直な男で、幕府からの信も厚かった。そしてその信之には、父とともに西軍に寝返り、戦後ともに高野山麓で蟄居に処された弟がいた。それが、真田左衛門佐幸村である。
「されどかの者は父にも、また兄にも遠く及ばぬ凡愚と聞いておりまする」
「だとしても、ひとつ処に蟄居すること十余年ぞ。薫陶を授け、武略を叩き込み、おのが分身に仕立て上げるには十分であろう」
そうとでも思わねば、今感じている薄気味悪さは説明がつかなかった。上杉、北条、徳川といった大国の狭間にあって追い詰められていたように見えて、結局はそれらすべてをいいように翻弄し、北条に至っては巧みに挑発に乗せられ滅亡へと追いやられた。そうやっていいように手玉に取られ、手痛い敗北も舐めさせられたのは、家康も同じである。
家康は慎重に、再度書状によって開眼供養の延期と鍾銘の修正を求めた。そうして豊臣方は供養の延期のみは受け入れたものの、鍾銘の文言については頑なに変更を拒んだ。返書はこれまでの言い分を繰り返すばかりのもので、どうもおのれらのしていることの何が問題なのかもわかっていない節が見て取れた。
そのことが様々な憶測を呼び、京や大坂の民たちは口々に風説を交わし合った。大御所家康はこの言い掛かりを口実に、ついに兵を動かすつもりだ。いよいよ豊臣を滅ぼしにかかる。大軍が、江戸より押し寄せてくる。そう交わす者たちの目は、迫りくる大戦の恐怖に震えると同時に、わずかな期待も覗かせていた。かの者たちもまた、日の本の中心が江戸に取って代わられたことに対する不満と屈辱を、ひそかに胸の裡に溜め込んでいたのである。
そしてその空気に背を押されるように、秀頼の側近たちは大坂や堺の商人に命じて、大量の兵糧や武具・玉薬等を城に運び込みはじめた。これは明らかな開戦準備であり、断じて見過ごせるものではなかった。さらに秀頼は豊臣恩顧の諸将に対して、徳川に対して兵を挙げるよう呼びかけた。そして大坂城には、全国から呼びかけに応じた牢人たちが全国より続々と集まってくる。その数はたちまち五万を超え、なおも増え続けていた。
家康はまたしても、どうしてこうなると呆れ返っていた。徳川としては徹頭徹尾、常識的な対応しかしていない。最初から別に戦などするつもりはないし、そうならぬよう細心の注意を払ってきたはずである。あるいはその対応も、何者かの絵図の通りであったのか。それともこの流れは、最初から避けようがないものだったのか、それさえも、もうわからなくなりつつあった。
そうしてついには大坂に忍ばせていた伊賀者たちより、大坂方がかき集めた兵たちによって、伏見や近江・伊勢への出兵を計画しているという知らせが入って来た。そこまで至れば、家康としてもいよいよ軍勢を動かさざるを得なかった。
されどこの時点でも、家康はまだこれが大戦にまで発展するとは思っていなかった。豊臣方が檄を飛ばした福島・毛利・浅野といった諸将たちに、呼応する様子は見られない。ならば徳川が兵を動かしさえずれば、簡単に折れるであろうと見込んでいたのだ。
※
そんな中、紀州は高野山麓の小さな村で蟄居していたひとりの男が、浅野家の監視の目をいとも簡単にすり抜けて、煙のように行方をくらませた。そして数日後、十数人のわずかな郎党を連れて、渦中の大坂城に姿を現す。その体躯は骨と皮ばかりに痩せこけ、蓬髪はすっかり白くなっていた。されど両の目だけは、長き蟄居を強いられた怨念を漲らせるように赤々と光り、まさしく悪鬼と呼ぶに相応しき風貌であったという。
男は二の丸御殿の中庭にふらりと足を踏み入れると、屋内に入り切れずに屯している牢人たちを目だけで見渡した。ここにいる者たちは牢人の中でも最下層の食い詰め者ばかりのためか、身に着けている鎧兜も粗末なもので、中には戦場で傷付きひび割れたままであったりもする。どの顔も貧相に痩せこけ、目はぶつけどころのない怒りでぎらついていた。さながら、飢えた獣のように。
男はそれをぐるりと睨め回すと、傍らの男にぽつりと言った。
「悪くない……そうは思わぬか、六郎」
六郎と呼ばれた男は、低い声で「……はっ」とだけ答えた。内心でなるほどと得心しながら。かの者にも、おのが主の満足はよくわかった。
ここに居並ぶ者たちの中には、元はひとかどの将であった者、かつての大名家や領主の血を引く者も少なくない。世が世であれば、今でも城のひとつでも構えていておかしくなかった者さえいる。ゆえにいずれの目も、物言わずとも語っている。何ゆえおのれが、かくも身を窶さねばならぬ、何ゆえかような辛酸を舐めねばならぬ、と。ひとりひとりは小さな力でも、その不満、鬱屈が万と集まり、今この大坂には巨大な負の渦が巻いているようにも思えた。これならもしかしたら主の言う通り、忌々しい静謐をひっくり返す力に変えることもできてしまうのかもしれない。
そのとき庭の隅で蹲っていた巨漢が立ち上がり、身を揺らしながら歩み寄ってきた。髭で覆われた顔の中に、ぎょろりと見開かれた三白眼は、やはり暗い情念で鈍く光っている。
「駿州牢人、御宿勘兵衛じゃ」巨漢は低い声でそう名乗った。「……御身は?」
白髪の男は薄く笑い、勘兵衛と名乗った男を見上げた。そして低くひび割れ、それでも奇妙によく通る声で答える。
「真田左衛門佐じゃ。おぬしらの命、しばし預からせてもらうぞ」
江戸開府とともにはじまった天下普請は、主に西国の諸侯に対して費用と人員の供出を命じられていたが、その中に豊臣家は入っていなかった。当初名古屋城の普請助役に加わるようにと打診もしたのだが、淀の方が強硬に反発下のである。家康も豊臣との摩擦を避けるために、それ以上無理強いしようとはしなかった。ただその引き換えにというわけでもないが、秀頼は父である太閤秀吉の追善供養として多くの寺社の修繕・新造に取り掛かっていた。主なものでは東寺の金堂、延暦寺中堂や北野天満宮の他、尾張の熱田神宮や石清水八幡宮など義利にも縁のある名刹も含まれていた。
そのうちのひとつに、文禄五年の慶長伏見地震によって倒壊した京の方広寺があった。この寺は天正十四年に焼損した東大寺に代わる大仏殿を持つ寺として、父秀吉によって創建されたものだけに、その再建には秀頼もひときわ力を入れていた。そしてその春には普請もほぼ終わり、あとは大仏の開眼供養を待つばかりとなっていた。
その経緯は惣奉行である片桐市正且元によって幕府へも逐一報告されており、その順調ぶりは家康をも大いに満足させていた。されどいよいよ大詰めとなったところで、どうしても看過できぬ問題が発生した。それは鐘堂の大鐘に刻まれることになっている銘文にある、「君臣豊楽」「国家安康」の二箇所であった。幕府はそこに大御所の諱である「家康」の二文字を見出して、激怒したのである。
この、のちに「方広寺鍾銘事件」と呼ばれることとなる一件は、現在では豊臣を戦で滅ぼしたがっていた徳川による言い掛かりという見方が一般的である。「家康」の二文字をふたつに分かちたことが、大御所の死を願う呪詛であると解釈したことが、いかにも強引な印象を受けるというのがその理由であろう。されどその印象はあくまでも、現代の価値観によるものであることは考慮しなくてはならない。
このとき幕府側がもっとも問題としたのは、ふたつに分かつ以前にまず、「家康」という諱を公に犯したことであった。見解を求められた東福寺・南禅寺など五山の僧侶たちも、何よりそのことを前代未聞の暴挙と回答している。「諱」というのはまさしく「忌み名」である。仏教における戒名のようなものといえばわかるだろうか。当時の武家社会では、あくまでも死後の呼称とされるべきもので、相手が生きているうちは他者が妄りに口にしてはならぬものとされていた。それを寺の鍾銘に刻み付けるなどということは、まさしく広く世に向けて大御所を死者として扱ったも同然なのである。つまりは、すでにそのこと自体が呪詛にも等しい行為であると言えるのだ。その上それがふたつに分かたれているとあれば、いかにとんでもないことか想像がつくであろう。
もちろんこれが意図的でなく、たまたま紛れ込んだ文言である可能性もあるだろう。ただそのすぐ近くに「君臣豊楽」という「豊臣」を織り込んだ文言が並んでいることを考えるに、その可能性は低いと言わざるを得ない。しかもこちらはあくまでも姓であり、「秀頼」という諱は犯されていないのだ。その扱いの差を鑑みても、やはり徳川方としてはどうあっても問題にせざるを得なかった。
とはいえ家康としては、この件をさほどの大事にするつもりはなかった。これが挑発であるのは明らかで、過剰に反応することはその思う壺に嵌ることに他ならなかったからだ。ただし鍾銘はそのままにするわけにもいかなかったので、惣奉行である市正且元を厳しく叱責し、ただちに文言の修正し、銘文を作った禅僧・文英清韓の背後に誰がいるのかを調べるよう命じた。
その一方で弁明のために駿府を訪れた淀の方の侍女・大蔵卿は丁重にもてなし、ことを荒立てぬよう細心の注意を払いながら、鐘銘の文言さえ改めてくれれば何の問題もない、すぐにでも開眼供養を行えばよいと伝えた。されど結局はそのことが裏目に出た。大蔵卿の報告を受けた豊臣方は、下手に出た徳川を侮ってか、鍾銘をそのままに開眼供養を強行しようとしたのである。そして異を唱えた且元を、あまりに徳川の顔色を窺い過ぎると疎んじ、ついには放逐してしまった。
これには家康も頭を抱えるしかなかった。駿府にて傍に仕える本多上野介正純も、半分呆れつつも憤りを隠さなかった。
「いったい大坂方は何を考えておるのだ……大御所さまの温情をどこまで蔑ろにすれば気が済むのか!」
正純はといえばかなり早い段階から、豊臣は武をもって滅ぼすべしと主張していた。おそらくは此度のことで、その思いをいっそう強くしたことであろう。そして同じように考えている者は決して少なくなかった。
「もはや我らの我慢も限界にございます。かくなる上は諸将に号令を発し、大坂へと兵を差し向けましょうぞ。それで豊臣が屈すれば良し、なお歯向かうのであればいっそ……」
言も勇ましく詰め寄ってくる正純を、家康は鬱陶しそうに手を払って遮った。この者は十分に有能ではあるが、父である佐渡守正信に比べるといささか短慮なところがある。
「そういきり立つでない、上野よ。ここで短気を起こせば、仕掛けてきた者の思う壺ぞ」
「仕掛けてきた……というと、右府にございますか?」
「まさか。右府も茶々も、所詮は手もなく踊らされておるだけよ。その陰におる者の気配が感じ取れぬか?」
家康はあっさりとそう言って、怒りを噛み殺すように薄く笑った。
「陰におる者とは……福島にございますか。あるいは毛利……」
正純が挙げたのは、加藤肥後守・浅野紀伊守亡き今となっては、西国では最有力とも言えるふたりの大名であった。慥かにそのどちらからも、万一戦になっても徳川に付く旨の誓書を受け取っているが、どこまで信用できたものかわからない。されど家康が言っているのは、そのどちらでもなかった。
「この、やることなすことすべてに先回りされ、嫌なところを逆撫でされるような感じ。こちらが追い詰めているのか、それとも追い詰められているのか、まるでわからぬ。慥かに覚えがあるのう……いっそ懐かしくさえある。このやり口は間違いない、真田安房守よ」
「……殿」と、正純は不安げに眉を顰めた。どうやら老いた主が耄碌したとでも思ったか。「安房守は、とっくに死んでおりまする」
「もちろん知っておるわ。されそその子がおったであろう……信濃の伊豆守の他に、もうひとり」
「子というと、もしや左衛門佐にございますか?」
その言葉に、正純は苦笑しながら首を振った。安房守の息子、真田伊豆守信之のことはこの男もよく知っていた。かの者は関ヶ原の大乱の折、西軍に付いた父と決別して徳川に残り、上田城攻めにも参加した。そして現在では沼田城を拠点として、安房守の旧領を治めている。稀代の梟雄と呼ばれた父とは似つかぬ実直な男で、幕府からの信も厚かった。そしてその信之には、父とともに西軍に寝返り、戦後ともに高野山麓で蟄居に処された弟がいた。それが、真田左衛門佐幸村である。
「されどかの者は父にも、また兄にも遠く及ばぬ凡愚と聞いておりまする」
「だとしても、ひとつ処に蟄居すること十余年ぞ。薫陶を授け、武略を叩き込み、おのが分身に仕立て上げるには十分であろう」
そうとでも思わねば、今感じている薄気味悪さは説明がつかなかった。上杉、北条、徳川といった大国の狭間にあって追い詰められていたように見えて、結局はそれらすべてをいいように翻弄し、北条に至っては巧みに挑発に乗せられ滅亡へと追いやられた。そうやっていいように手玉に取られ、手痛い敗北も舐めさせられたのは、家康も同じである。
家康は慎重に、再度書状によって開眼供養の延期と鍾銘の修正を求めた。そうして豊臣方は供養の延期のみは受け入れたものの、鍾銘の文言については頑なに変更を拒んだ。返書はこれまでの言い分を繰り返すばかりのもので、どうもおのれらのしていることの何が問題なのかもわかっていない節が見て取れた。
そのことが様々な憶測を呼び、京や大坂の民たちは口々に風説を交わし合った。大御所家康はこの言い掛かりを口実に、ついに兵を動かすつもりだ。いよいよ豊臣を滅ぼしにかかる。大軍が、江戸より押し寄せてくる。そう交わす者たちの目は、迫りくる大戦の恐怖に震えると同時に、わずかな期待も覗かせていた。かの者たちもまた、日の本の中心が江戸に取って代わられたことに対する不満と屈辱を、ひそかに胸の裡に溜め込んでいたのである。
そしてその空気に背を押されるように、秀頼の側近たちは大坂や堺の商人に命じて、大量の兵糧や武具・玉薬等を城に運び込みはじめた。これは明らかな開戦準備であり、断じて見過ごせるものではなかった。さらに秀頼は豊臣恩顧の諸将に対して、徳川に対して兵を挙げるよう呼びかけた。そして大坂城には、全国から呼びかけに応じた牢人たちが全国より続々と集まってくる。その数はたちまち五万を超え、なおも増え続けていた。
家康はまたしても、どうしてこうなると呆れ返っていた。徳川としては徹頭徹尾、常識的な対応しかしていない。最初から別に戦などするつもりはないし、そうならぬよう細心の注意を払ってきたはずである。あるいはその対応も、何者かの絵図の通りであったのか。それともこの流れは、最初から避けようがないものだったのか、それさえも、もうわからなくなりつつあった。
そうしてついには大坂に忍ばせていた伊賀者たちより、大坂方がかき集めた兵たちによって、伏見や近江・伊勢への出兵を計画しているという知らせが入って来た。そこまで至れば、家康としてもいよいよ軍勢を動かさざるを得なかった。
されどこの時点でも、家康はまだこれが大戦にまで発展するとは思っていなかった。豊臣方が檄を飛ばした福島・毛利・浅野といった諸将たちに、呼応する様子は見られない。ならば徳川が兵を動かしさえずれば、簡単に折れるであろうと見込んでいたのだ。
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そんな中、紀州は高野山麓の小さな村で蟄居していたひとりの男が、浅野家の監視の目をいとも簡単にすり抜けて、煙のように行方をくらませた。そして数日後、十数人のわずかな郎党を連れて、渦中の大坂城に姿を現す。その体躯は骨と皮ばかりに痩せこけ、蓬髪はすっかり白くなっていた。されど両の目だけは、長き蟄居を強いられた怨念を漲らせるように赤々と光り、まさしく悪鬼と呼ぶに相応しき風貌であったという。
男は二の丸御殿の中庭にふらりと足を踏み入れると、屋内に入り切れずに屯している牢人たちを目だけで見渡した。ここにいる者たちは牢人の中でも最下層の食い詰め者ばかりのためか、身に着けている鎧兜も粗末なもので、中には戦場で傷付きひび割れたままであったりもする。どの顔も貧相に痩せこけ、目はぶつけどころのない怒りでぎらついていた。さながら、飢えた獣のように。
男はそれをぐるりと睨め回すと、傍らの男にぽつりと言った。
「悪くない……そうは思わぬか、六郎」
六郎と呼ばれた男は、低い声で「……はっ」とだけ答えた。内心でなるほどと得心しながら。かの者にも、おのが主の満足はよくわかった。
ここに居並ぶ者たちの中には、元はひとかどの将であった者、かつての大名家や領主の血を引く者も少なくない。世が世であれば、今でも城のひとつでも構えていておかしくなかった者さえいる。ゆえにいずれの目も、物言わずとも語っている。何ゆえおのれが、かくも身を窶さねばならぬ、何ゆえかような辛酸を舐めねばならぬ、と。ひとりひとりは小さな力でも、その不満、鬱屈が万と集まり、今この大坂には巨大な負の渦が巻いているようにも思えた。これならもしかしたら主の言う通り、忌々しい静謐をひっくり返す力に変えることもできてしまうのかもしれない。
そのとき庭の隅で蹲っていた巨漢が立ち上がり、身を揺らしながら歩み寄ってきた。髭で覆われた顔の中に、ぎょろりと見開かれた三白眼は、やはり暗い情念で鈍く光っている。
「駿州牢人、御宿勘兵衛じゃ」巨漢は低い声でそう名乗った。「……御身は?」
白髪の男は薄く笑い、勘兵衛と名乗った男を見上げた。そして低くひび割れ、それでも奇妙によく通る声で答える。
「真田左衛門佐じゃ。おぬしらの命、しばし預からせてもらうぞ」
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