尾張名古屋の夢をみる

神尾 宥人

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第五章

(十一)

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 いかな駿馬とはいえ疲れが出はじめたのか、あるいは矢が尽きつつあるのか。こちらが隙を見せるたびに射掛けてきていた矢が、先ほどから途絶えていた。大きく円を描く足取りも、ずいぶんゆっくりとしてきている。幸村ほうも様子を窺おうと、何度か距離を詰める振りをしてみたのだが、それに対する反応もなかった。
 されど、決してまだ油断はできなかった。おそらくこのままでは埒が明かぬと考えて、誘いをかけてきているのであろう。ぴりぴりとした殺気は依然として消えていない。迂闊に距離を詰めていけば、こちらの間合いに入る前に迎え討たれる。
 ただし、埒が明かぬのはこちらも同じであった。その上馬の息も、だいぶ苦しげなものに変わりつつある。右府秀頼を半ば脅すような形で、城中でも一番の駿馬を貸し出させたのだが、そろそろ限界らしい。たとえ誘いであっても、それに乗るしかないのが正直なところであった。
 行くしかないのか。そう心を決めると、またぞくぞくと総毛立つような感覚が襲ってくる。こちらの決意を感じ取りでもしたのか、名も知らぬ敵手から伝わってくる気の質も変わった。ぴんと静かに張り詰め、細く鋭く研ぎ澄まされてゆく。
 ああそうだ、幸村はやっと気付く。おのれはきっと、こうならざるを得なくなるのを待っていたのだ。どうしようもなく追い詰められて、乗るか反るか、生きるか死ぬかの階に立たされるこのときを。まるでおのれはこの一瞬のために、世に生を受け過ごしてきたのだと思えるような。
 幸村は大きく息を吐き、兜を突き出すようにして馬上で身を低く構えた。手綱を掴んだ左手は、しっかりと胸に抱え込む。頭。首。心の臓。それさえ守れればいい。あとはくれてやる。元よりこの化け物相手に、無傷で勝ちを収められるとは思っていない。ただ一瞬で命を貫かれさえしなければ、次の瞬間に必ずこの弾丸を撃ち込んでやれる。
 少しずつ馬の脚を落としてゆくと、円の向こう側で敵も同じように進みを緩める。また鎧の上にすっくと立ち、大弓を握り直すのが見て取れた。ここで勝負をつける。互いにその意は一致しているらしかった。
 やけに静かだ、と幸村は奇妙に思った。これが無心の境地というものなのか。あるいはこの戦場にある者すべてが、息を詰めてこの成り行きを見つめているのか。そのどちらなのかはわからない。慥かめている暇などなかった。もはや互いの姿から、ひとときでも目を逸らすことはできない。
 そして永劫とも刹那とも思える沈黙ののち、空高くで鳶がぴいっと鳴いた。まるでその声が合図だったかのように、幸村と対手の男は同時に馬の腹を蹴っていた。これまでふたりで描いてきた円の中心に向かって、わずかに回り込みながら突進してゆく。
 三、四町ほどはあった距離もみるみる縮まり、ほぼ二町ほどまでに迫った。幸村は馬上筒の銃口を持ち上げたが、まだ引き金は引かない。弓も放たれない。向こうも一度放てば、次に矢を番えている間はないことがわかっているのだろう。
 まだ遠過ぎる。あと少し。もう少し。いよいよ一町を切って、相手の表情までが見て取れる距離まで迫ってくる。心を見抜け。息を感じろ。その瞬間を読んで、後の先を取るのだ。
 音はもう、何も聞こえなかった。されど目に見えるものは何もかもが鮮やかで、舞い上がる土煙のひと粒ひと粒までもが見て取れる気がした。まるでここだけ時が歪んでいるかのごとく、すべてがゆっくりと動いている。その瞬間が近付くにつれて、さらにゆっくりと。おそらくは気が限界近くまで集まり、凝縮し、弾けようとしているからであろう。
 愉しい、と幸村は心から思った。やはり、戦はいいものだ。おぬしもそう思うであろう、化け物よ。
 筒音が響いた。それとほぼ同時に、燃えるような何かが右肩を貫いた。次の瞬間、二頭の馬は触れ合う寸前のところをすれ違って行った。
 
 
 幸村は衝撃に上体をのけ反らせつつも、鞍から転がり落ちるのをどうにか堪えた。されど右腕の感覚はなく、馬上筒も取り落としてしまっていた。ただし、手応えはあった。そう確信して、左腕一本で手綱を操り馬首を返す。弓の敵手はそのまま一町ほど走り過ぎ、やがて止まった。
 手傷を与えたようには見えなかった。されど馬上の男はゆっくりと、手にしていた弓を軽く掲げて見せる。それは持ち手のやや上あたりで砕けたように折れ、半分ほどの長さになっていた。どうやら幸村が放った弾丸は、得物を破壊したのみに終わったようだ。
 照準は慥かに正中を捉えていたはずなのだが、手にしていた弓に当たって弾道が逸れたのであろう。さすがにそれは、意図してやったこととも思えない。とどのつまり、運もまたかの者に味方したというわけだ。
 では手傷を負った分、こちらの負けとするしかないか。そうは思ったが、どういうわけか口惜しさはなかった。それに唯一の得物がその始末では、止めを刺すこともできまい。ならばここは、痛み分けとでも言うべきであろう。
 名も知らぬ男は折れた弓を、それでも大事そうに背に負うと、無言のまま再び馬の腹を蹴った。そして何ごともなかったかのように、軽やかに走り去ってゆく。
 味方の兵たちが我に返ったように矢を射掛けたが、そんなものが当たるとも思えなかった。案の定、矢はすべて自ずからその男を避けるように外れてゆく。その矢の雨の中を悠然と去ってゆくうしろ姿を、幸村はさばさばとした気分で見送っていた。名くらいは訊いておくべきであったかとも考えたが、それも無粋な気がした。
「……殿!」
 と駆け寄ってきた真田輿左衛門信国は、幸村の肩に刺さった矢を見て目を瞠った。されど幸村は平然と「……大事ない」と首を振る。そしてようやく思い出したように、家康の本陣のある天王寺口へと向き直る。
 そのときおおっという怒号が響き渡り、敵陣深く攻め入った海野六郎兵衛たちの勢に、ひと塊になった大軍が押し寄せてゆくのが見えた。
「何事じゃ、あれは……」
 信国が顔色を変えて絶句した。攻め寄せる軍勢の旗印は三つ葉葵、尾張徳川家のものだった。ひとたびは崩れ掛けながらも、よくぞ立て直したものよ。幸村は素直に感心する。あれでは六郎兵衛もひとたまりもあるまい。
 右兵衛督義利、やはりもっとも警戒すべき軍勢であったか。そして尾張勢が健在ということは。
「しくじったか、才蔵……おぬしにしては珍しきことよ」
 ここへ来て、思いもかけぬことが続いているらしい。なるほど、これも戦というものなのだろう。結局は人のすること、すべて机上の算段通りとはならぬ。
 ややあって、泥塗れになった使番が息を切らしながら駆け寄ってきて、海野六郎兵衛の討死を伝えてきた。ともに攻め入っていた先駆け衆も総崩れとなり、勢いに乗った徳川勢はいよいよこちらへと押し出してきているとのことである。
「家康をかように追い詰めて……あと少しであったというのに」
 信国が悲痛な顔で唇を噛み締めた。されど幸村はその肩を叩き、ゆっくりと首を振る。そして徒士が差し出してきた十字槍を、まだ動く左手でしっかりと受け取った。
「何を辛気臭い顔をしておる。ようやく、戦らしくなってきたではないか」
「……殿、されど……」
「まだまだ終わってはおらぬ。むしろ、ここからが華というものよ……おぬしらも今しばらく、戦を味わうがよいぞ」
 そう言って、おのが軍勢の右翼へと馬首を向ける。眠りから覚めた尾張勢に触発されたか、越前勢も混乱から持ち直し、反攻に掛かろうとしているようであった。逃散した兵も少なくないのであろうが、それでもまだこちらに倍する数は残っている。ならば十分、愉しませてくれることであろう。
 

 
 戦場のざわめきを遠くに聞きながら、籐七はよろよろと体を起こした。そうして足元に横たわる骸に目を落とし、無感動につぶやく。
「最後の最後に、命を惜しみましたね……鹿右衛門さま」
 ならば畢竟、身を捨てた側が勝つのが道理。その代わり、こちらにも十を超える暗器があちこち身を破り食い込んでいた。いずれも急所は外れていたが、当然すべてに毒が塗り込められていることであろう。その毒に頼って一撃必殺を狙わなかったことも、この男の敗因であった。
 とはいえ、こちらも耐えられるのも限度がある。そろそろ意識も朦朧としてきて、立っているのでやっとであった。それでもまだ、倒れるわけにはいかない。
「へへっ……そいつが、忍びの矜持ってやつでさぁね」
 誰に言うでもなくつぶやいて、籐七は小さく笑う。そして胴丸を肩から外し、草摺も脱いで、素足で歩き出す。獣がおのれの骸を隠すようなもの。こうして人知れず、誰のものともわからぬ骨になるのが、忍びの死にざまというものだった。
 激しい筒音はまだ聞こえてくる。戦はどうなったのか。徳川は勝ったのか。それを慥かめることは、どうやらできそうになかった。結局長いこと仕えることになってしまったあの御仁も、その御仁が我がこと以上に入れ込んでいた若君も、はたして無事でいるであろうか。
 無事であるならば、今後もその行く末を見届けたい思いもないではなかった。そんな情が移るくらいには、長いときを共に過ごしてきたのだ。されど、それは忍び風情には過ぎた望みなのであろう。
「では山下さま、然らば……然らばでございます」
 苦しげに、されど心の底から満ち足りた顔で藤七は言った。そして重い足を引きずりながら、ゆっくりと歩き続ける。戦場に背を向けて、さらに遠くへ。
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