尾張名古屋の夢をみる

神尾 宥人

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終幕

(一)

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 大御所家康は二条城へと凱旋すると、膨大な戦後処理に取り掛かった。そしてすべてを終えて駿府へ戻ると、すべきことはやり切ったと思ったか、隠居先として沼津泉頭城の改修を命じた。されどその普請に取り掛かるのを待たず、翌元和二年一月、鷹狩に出た先で倒れた。一説には鯛の天麩羅による食中毒とも言われたが、現在では胃癌であったとするのが定説となっている。
 高齢であったことや、また長年の激務による疲労が蓄積していたのであろう、病状は恢復するどころか急速に悪化し、医師も手の施しようがなかったという。そして四月十七日、乱世の覇者にして稀代の英傑・徳川家康は、七十五年の生涯を閉じた。亡骸はその夜のうちに久能山へと納められ、のちに日光東照宮へと分葬された。
 
 
 父の死を駿府にて看取った義利は、喪の明けた七月、ようやく正室お春の方の待つ名古屋城へと入った。大御所家康の死という凶事はありながらも、きっと今度こそ静謐が訪れると確信したのであろう、民たちは婚儀のとき以上の歓喜をもってそれを迎えた。芸妓たちは笛太鼓を鳴らしながら練り歩き、大店の商人は菓子酒肴や銭を撒き、ほとんど祭りのような熱狂が連日続いたという。
 その夕氏勝は、義利を天守閣の望楼へと招いた。先だって婚礼の儀の際にも上がらないかと誘ったのだが、そのときは頑強に固辞されていたのだ。「我はまだ、正しくこの城の主ではないからな」というのがその理由であった。おそらくこの若き当主は、この日のためにそれを取って置いたということであろう。
 そうして義利は、はじめて遷府が成った名古屋の街を見渡した。若者は端正な顔をわずかに火照らせながら、目を奪われてしばし言葉も失ったようであった。やがて長い沈黙ののちに、感極まったようにぽつりと言った。
「これが……大和の築いた都なのだな」
 氏勝は苦笑しながら、「さようなことは……」と首を振る。
「某が築いたわけではございませぬ。数多の者が力を合わせ、あるいは亡き大御所さま、紀伊守さま、肥後守さまなど……皆々方のお力を借りて、築かれたものにございます」
 されどその言葉に、義利は珍しく悪戯っぽい顔で笑った。そうして氏勝を下から覗き込むように見つめながら、声を落として尋ねてくる。
「本心を申せ。おのれが築いたと思っておろう?」
 どうやら本音はお見通しであったようだ。氏勝は参りましたと肩をすくめて、答える。
「さようですな……某が築いた、殿のための都にございます」
 そうであろう、とばかりに満足げに頷き、義利はまた眼下に広がる城下へと向き直った。その横顔を見て、氏勝もまた安堵する。どうやら贈り物は気に入っていただけたようだ。
 大手門から先に広がるのは、碁盤目状の道と整然とした甍の波。その向こうにひときわ大きな伽藍を構えている万松寺。熱田へ向かって真っすぐに伸びる堀川。すべての移転・普請も完了し、ほぼ思い描いていた通りの街並みが広がっている。
 されど決して、これで終わりではない。町というのは生き物だ。これからも、ここに人がいる限り、永劫広がり変化してゆく。
「ここからは、殿のお役目にございます。この名古屋の町を、いったいどのように育んでゆかれるか」
「……わかっておる」と、義利は力強く答えた。「皆の力を借りて、であろう。大和も頼むぞ」
「はい……ただし」
 と、氏勝はそこで言葉を濁した。されど、言わねばならぬことである。胸に広がる苦々しさを堪えながら、意を決して再び口を開いた。
「某の、尾張における役目はここまでにございます。あとのことは殿と竹腰どの、成瀬どのにお任せいたしたく」
 義利がさっと顔色を変えた。何やら信じられぬ言葉を聞いたとばかりに、小さく首を振りながら詰め寄ってくる。
「それは……いかなる謂だ?」
「言葉の通りにございますよ。いかに殿の御為とはいえ、某はいささか無理を通し過ぎ申した。これ以上この地に留まるは、むしろご迷惑にしかならぬかと」
 義利も思い当たることがあったのか、むっとしたような顔で言った。「それは……隼人とのことか?」
 氏勝と隼人正正成との関係が悪化していることは、すでにこの主の耳にも届いているようであった。以前から浅野家との関係についても意見が対立していた両者の確執は、義利の名古屋入りを前にしていよいよ表面化していた。
 それが決定的となったのは、先の戦の論功行賞においてであった。将軍の身内ということもあって、義利や頼将の家中にはほとんど恩賞が与えられなかった中で、氏勝のみが五百石の加増を受けた。むろんそれは決してあの、独断専行であった幸村との一騎打ちに与えられたものではなく、陣立ての際の巧みな差配に対してのものだったのだが、隼人正正成はそれを不服とした。そして戦場で配下の者たちを正信らに預け、単独で行動したことを問題視し、むしろ減封に処すべしと主張したのである。
「隼人には、我よりしっかりと言い聞かせておく。だいたいあの者には犬山城を与え、主計の遺臣たちも預けることとしたのだ。それで三万七千石をも領することとなったのに、どうして五百石程度の加増で目くじらを立てるのか……」
「さようなことではないのですよ、殿」
 いつの間にか、義利の手が氏勝の袖のあたりをしっかりと掴んでいた。おそらく意識してのことではないであろう。それに気付いて、また胸が詰まる。
「ここで某にできることは、もう何もないというだけのことです。殿も立派なご当主となられた。傅役の務めも、これにて終わりにございます」
「さようなことはない。許さぬぞ、我の傍からいなくなろうなどとは……!」
 今にも泣き出しそうに顔を歪める義利に、氏勝は宥めるように言った。
「某は決して、殿の元から去ろうというわけではございません。実は、江戸へ赴こうと思っておるのです」
「江戸……だと?」
「はい。先頃上さまより賜った、尾張藩江戸屋敷に」
 江戸に幕府が開かれるとともに、諸大名にはそれぞれ城周辺に土地が割り当てられていた。ただし義利は将軍の身内ということで、江戸城半蔵門内の吹上にあった鼠穴屋敷を拝領し、江戸逗留のために改築が進められていた。その普請もいよいよ終わり、常住する藩士たちをまとめる者が必要となっていたのである。
「尾張のことは竹腰どのと成瀬どのにお任せして、某は江戸にて殿のお越しをお待ちしたく思うのです」
「そ……そうか、江戸に……」
「幕府との折衝に、諸藩との交流。それもまた、大事なお役目と心得ます。どうか、この大和守にお任せくだされ」
 最大のうしろ盾であった大御所家康もこの世を去り、これからはいよいよ義利も独力で、この新たな世を泳ぎ渡っていかなければならない。依然としてこの尾張徳川家が、将軍秀忠にとって強力な譜代であると同時に、脅威と見られていることも変わりない。今後も幕府と良好な関係を維持するには、いっそう難しい舵取りが必要となろう。江戸屋敷はいわば、そのための砦とも言える場所であった。
 義利もようやく得心してくれたらしく、ほっと息をついた。そうして再び目を城下へと戻したが、手は相変わらず氏勝の袖を掴んだままだった。
 見下ろした城下では依然として芸妓が歌い踊り、見物人たちで路地はごった返している。京や大坂ではいまだ豊臣方の残党が跋扈し、商家や米倉を襲うなどの狼藉に明け暮れているとも聞くが、ここ名古屋ではそうした話も聞かない。ここから見ている限りでは、まるでかような日々が百年続いてきたかにさえ思える。
 これで、まことに乱世は終わったのであろうか。新しき世がやってくるのであろうか。あの男が蒔いた次なる戦の種は、このまま芽吹くことなく眠りにつくのか。それはまだわからなかった。
 世にはいまだ、不穏な燠火はいくつも燻っている。伊達や上杉・前田といった外様の大大名たちも、なおも隠然とした勢力を保っていた。あるいは身内である松平越前守忠直も、先の戦で大きな武功を挙げたにもかかわらず恩賞が少なかったことに、あからさまに不満を募らせていると聞く。それらの難題を、将軍秀忠はおのが力で抑え込んでゆけるのか。まずはお手並み拝見と言うしかなかった。
「のう……大和」
 ややあって、義利はどこか自信なさげな声音で言った。
「我は、そなたの目に適うだけの当主となれたであろうか?」
「何を申されますか」と、氏勝は強い口調で答える。「殿はご立派になられました。先の戦での振る舞いも申し分ありません。もはや押しも押されぬ、尾張の大将にございます。それゆえ、某の役目も終わったと信じられるのです」
 されどその言葉にも、義利は安堵したようには見えなかった。こちらの袖を掴む手が、緩んではきつく締まり、それを繰り返す。何かを言おうか言うまいか、迷っているかのようであった。それでもやがて意を決したように目を上げると、しっかりとした口調で言った。
「大和。そなたは常に、我を誰かと重ね見ておったであろう?」
「殿、そのようなことは……」
 氏勝は内心の奥深くを見透かされた思いで、反射的にそう言ったきり言葉を失う。されど義利は穏やかに首を振り、口元には笑みも浮かべて続けた。
「わかるものなのだ、そういうことは……母上も同じよ。決して口には出されぬが、亡き兄上をいつだって我と重ね見ておる」
 やはり、あの女性もそうであったのか。また、義利がそれに気付いていたことにも驚いていた。義利を身籠ったとき、この子はこの子だと口にした言葉は、あれはそう思わねばとみずからに言い聞かせていたのか。
「むろん、それは構わぬのだ。我はこれから、尾張の万とも十万ともする民たちに、それぞれ誰かと重ね見られる立場……母上やそなたの思いだって、きっと背負ってみせるつもりだ」
 なおも力強く、若者は言い放った。それでも、目だけはどこか心許なげに揺れている。
「されどな、ときおり不安になるのだ。何しろ、もういない誰かと重ね見られているのだ。我の知らぬ誰かと重ね見られているのだ。不安にもなろう……我は母上やそなたを、失望させてはいないかと」
「そのようなことは……」と、氏勝はようやく声に出した。「そのようなことは、決してございませぬ」
 つい語気が強くなって、義利も驚いたように顔を振り向けてきた。されど構わなかった。その目を真っ直ぐに見返して、氏勝は続ける。
「殿はどうか変わらずに、そのままお進みくだされ。殿の傅役であったことは、某の誇りにございまする」
 その言葉に、義利はようやくほっとしたように「……さようか」と小さく笑った。
 それきりふたりは何も言葉を交わさぬまま、階下より小姓が呼び出しに来るまでの間、じっと眼下に広がる光景を並んで眺め見ていた。
 
 
「そうですか……右兵衛がそのようなことを」
 義利の言葉を伝えると、法衣の女性は目を閉じてわずかに肩を落とす。その様子から、図星であったことが窺えた。
 家康の死をもって髪を下ろし、出家して相応院と号したお亀の方である。かの女性もまた義利とともに、駿府より名古屋へと居を移すことになった。その入れ違いに江戸へと向かうことを報告するため、氏勝は城下の高岳院にてお亀と対面していた。
 高岳院は元は甲府城下に、仙千代の菩提を弔うために建てられた寺であったが、主計頭親吉によって清洲へと移され、その後名古屋へと移築されてきた。それでお亀もようやく、ここでわが子に手を合わせることもできるようになったというわけだ。
「されど、決してあの子と仙千代を比べていたりなどはしていないのですよ。ただあの子が立派になってゆくのを見るにつれ、ここに仙千代がいたらどうなっていたであろうと……考えずにはいられなかっただけです」
「無理もないことです」と、氏勝も頷く。もちろん、我らが主は実に堂々たる将となった。周りの者が望む以上の成長ぶりを見せていると言っていい。されどその小さな身体に、どれほどの重圧がかかっているかを想像するに、痛ましくさえ思えてしまうのだ。
 もしも夭折した仙千代が存命であれば、義利ももう少し伸び伸びと生きられたのではないか。もちろん正信も兄として、また附家老としてよく支えている。頼将や頼房といった弟たちもいる。それでもかの者らでは、支えきれぬ部分もあるであろう。
 もうひとりの兄である将軍秀忠とは二十以上も齢が離れており、情を通わせるような機会も持てなかった。それゆえ事実上長兄のような覚悟で、常に気を張ってきたはずである。それを思うとせめてひとり、義利にも頼れる存在があればと思わなくもなかった。
「されどそれも、考えても詮なきこと。右兵衛は十分、立派に育ってくれました。そのことを、心より喜ぶばかりにございます」
 まことに、と氏勝も頷く。そして先ほどのお亀の言葉は聞かなかったことにして、墓場まで持ってゆくことにしようと決めた。
「もちろんそれも、そなたの尽力あってのことです。感謝しておりますよ、大和守」
「お方さまにそう言っていただけると、某も報われる思いにございます」
「それならもう少し、報われたような顔をしたらいかがでしょう……まあ、そなたらしいと言えばその通りですが」
 そう言って、お亀はくすくすと笑った。さも可笑しげに、そして少しだけ寂しげに。
「某は……お方さまには信じていただけていないと思っておりますゆえ。表向きはともかく、心の奥底では」
 何しろ、最初が最初である。面と向かって鬼とも呼ばれた。たとえそれから長いときが経ったといえども、決して忘れてはいまい。氏勝はそう思っていた。されどそれにも、お亀はさらりと笑って答える。
「私はそなたのことを、心から信じておりますよ……そなたの、あの子を思う心に嘘はないと。何度もそう申したではありませぬか。でなければ、大切な我が子を託したりはいたしませぬ」
「慥かはじめに、鬼の子に育てて欲しいとも仰せでしたが?」
「ああ……そのようなことも申しましたね」まるで今まで忘れていたかのように、お亀は小首を傾げた。「あれはあれで、本心でもあったのですが……ですがそのあと、そなたを見る目を改めました」
 そのあとに、おのれは何かしたであろうか。氏勝はそう、記憶を遡ってみる。されど何も思い当たる節はなかった。
「まだ五郎太丸と名乗っていたあの子と、はじめて会った折のことを覚えていますか?」
「はっ、それはもちろんのこと」
「そう。目の前で転びそうになったあの子を抱きとめたとき……あの子が、おのれの袖をしっかりと握っているのを見たとき、そなたは笑いましたね。私がそなたの笑みを見たのは、後にも先にもそれきりでございます」
「笑っていた……某が?」
 氏勝にはまったく覚えがなかった。驚きに思わず、目の前の尼御前をまじまじと見つめてしまう。
「はい、慥かに笑っておりました。それは穏やかに、また愛おしげに。笑って、そして泣いたのです。あの笑みを見て、私はそなたを信じようと思ったのですよ」
 そうしてまだ言葉をなくしたままの氏勝に、「……では、達者で過ごされませ」と続けて、お亀は静かに首を垂れた。
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