なくたって生きていけるモノ

佳樹

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地方紙の記者である松本は、営業開始前の閑散としたライブバーで男を待っていた。
 松本にとって、ライブバーなるものを訪れたのは、これが初めての経験である。音楽に無関心では無いのだが、松本が好むのは落ち着いた曲調の洋楽である。だからと言って特段好きな歌手がいる訳でも無く、皆が映画やCMで一度は耳にしたであろう曲しか知らない。邦楽の知識はこれに輪を掛けて乏しく、昭和中期で止まっているといった有様だ。
 所在無く周囲を見回す。カウンター席が五つに、四人掛けのテーブル席が二つ。ステージと呼ぶには余りにも粗末な六畳程の小ぢんまりした板張りの空間が設けられている。こんな狭い空間で歌って楽しいものかと思ってみたが、直ぐに、趣味で歌うミュージシャンにとっては十分過ぎるステージだと思い直した。
 このライブバーを指定したのは、今回の取材対象である男の方である。今、店内に居るのは、総髪の厳めしい顔のマスターと松本の二人だけ。記者であるにも関わらず、極度の人見知りである松本にとって、知らぬ男と二人きりの空間と言うのは、何とも居心地が悪い。
 どうせ、世間から注目されていない、無名の歌手の取材なのだから、事前に通知している質問さえこなしておけば、早目に切り上げた所で、誰からも咎められない。
 そもそもこの取材が実現じたのは、男が自分を取材をしてくれと、繰り返し、しつこく本社に談判に来て、無報酬でも構わない、記事にするかどうかも確約出来なくても構わないと言った事に端を発している。こうして会社としても渋々合意に至ったのだ。当然、社内でこの取材に期待を寄せる者は一人も居らず、若手の連中ですら、言葉には出さないが難色を示している。そんな訳あって、四十絡みの窓際族の松本に白羽の矢が立ったのだ。紙面に載るかどうかも怪しいのだから気楽に構えていて問題ない。それよりも、今日はこの仕事が終われば直帰して構わないと言われているのだが、妻は友人と泊まり掛けの旅行に行っている。どこで夕飯を摂るのか、そちらの方が大問題である。
 腕時計に目を走らせる。指定された待ち合わせの時間まで十五分少々ある。
 鞄を開き一昨日前に男から一方的に送られて来た、A四用紙三枚から成る手書きのプロフィールを取り出す。事前のアポイントも入れず、受付係の静止を押し切り、社長室の戸を叩こうとした、豪胆とも礼儀知らずとも取れる、何をしでかすか分からない不気味な男なのだから、松本は自然と、粗暴なチンピラの姿をイメージしていた。しかし、用紙に書かれた文字は、独特の字体ではあるが、墨痕鮮やかである。出自が良く、学殖のある男なのかもしれない。
 斎藤智樹。年齢は五十三歳。松本より十近くの年長である。生まれは北海道。
 その時、入口の扉が僅かに開き、隙間からひょっこりと浅黒い顔を覗かせた。
 「おう!まっちゃん、待たせたかい?」
 店に響き渡る大きな声だった。それはまるで、十年来の友に向けた親しみの籠った言い方だっので、松本はマスターの渾名がまっちゃんであるのだと想像した。しかし、よく見ると男の視線が捉えているのは、マスターでは無く、テーブル席に座る松本である。まっちゃんとは自分に対して言ったのだろうか?しかし幾ら歳が離れているとはいえ、いい歳の大人が初対面の相手を第一声から渾名で呼ぶなどあるだろうか。いや待てよ、それは自分の中に根を張った凝り固まった常識であって、そんな人種も少なからず居るのかも知れない。そんな事を考えていたから、立ち上がるタイミングが僅かに遅れた。
 「いえ、私も先程参りましたもので」
 松本は躊躇いがちに言った。
 「そうかい。外は暑かったろう」
 智樹は目を細め、眩しそうな表情を作って言った。
 松本の元へと歩みを進める智樹はギターケースを背負い、手には麻のトートバッグを持っている。くすんだ金髪に柔和な笑顔を湛え、上は半袖のアロハシャツ、下はベルボトムのジーンズ、足下には雪駄を突っ掛けている。このコーディネートは智樹の人となりを見事に象徴している。
 「改めまして、松本です。本日は宜しくお願い致します」
 松本は慇懃に頭を下げ、名刺を手渡した。
 「おう、よろしく!悪いが俺は名刺がねえんだわ。これは名刺代わりに・・・」
 智樹はトートバッグの中をもぞもぞと漁り始めたかと思うと、そこからオレンジ色のTシャツを一枚取り出した。Tシャツのど真ん中には、にこやかに親指を立てて笑う智樹の似顔絵がプリントされている。
 「これ、まっちゃんに似合うと思うぜ。そうだ!ちょいと着てみないか?」
 智樹は松本の返事を待たずに彼のクールビズのボタンに手を掛けた。松本は我が身に何が起こっているのか理解出来ず、智樹の成すがままだ。開襟シャツを脱がされ、ランニングシャツを上に捲られる。ズボンの上にどっしりと乗った下っ腹が露わになった所で、乙女の如く赤面する。
 「自分で着ますから止めて下さい」
 松本の大きな声に、智樹は一瞬怯んだかの様に見えたので、松本は声を荒げた事を詫びようかと思ったが、直ぐに松本の顔色がパッと明るくなるのを見て安堵した。
 松本はふと思った。こんなに声を荒げたのは初めてかもしれない。子供の頃でさえ、何か嫌な事をされても、涙は流しても決して声は上げずにグッと堪えていた。
 成程。智樹という人そのものに、良くも悪くも他人の感情を波立たせる何かがあるのだろう。
 「おう、そうかい」
 智樹は目尻に皺を作り満面の笑顔で言った。怒鳴り声を張り上げた松本に対して、微塵も怒りは感じていないらしい。それどころか松本がオリジナルTシャツを着るのが余程嬉しいのだろうか、子供の様な純粋な笑顔を見せた。五十歳を過ぎて、そんな顔で笑える人間は果たしてどれだけいるのだろう。少なくとも智樹は見た事が無い。そもそも、元来根暗の松本の前では、誰もそんな顔は見せないのだ。年長者であれば、松本に対して傲岸な態度を取り、年少者であれば侮蔑の態度を取る。ここへ来て言葉を少し交わしただけではあるが、智樹は人を見下す人間では無いのだと感じた。人から騙される事はあっても、謀り事は決してしない人間なのだろう。
 松本がシャツを着たのを見て、智樹は徐にアロハのボタンを外した。アロハの下から、松本とお揃いのオリジナルTシャツが顔を出した。
 「いえ~い」
 口角を上げ、白い歯を見せながら、似顔絵と同じポーズで親指を立てて笑った。
 松本はきょとんとしている。
 「いえ~い。ほら、まっちゃんも一緒に」
 「えっ?私もですか・・・」
 「いいから早く」
 「い、・・・いえ~い」
 松本も智樹に倣ってニッと笑って言った。我ながら、ぎこちない笑顔だった。
 松本は何とも言い難い不思議な気分だった。智樹はきっと学生時分はクラスでも人気者の部類だったのだろう。そんな人気者と、昔から変わらず影が薄く根暗気質の自分とが、向かい合って子供みたいな事をしている。少年時代の松本からは全く想像出来ない光景だったから、それが何とも可笑しくなった。昔、流行した言葉で、男女問わず人を惹きつける力のある人物がカリスマと呼ばれていたのだが、智樹はそのカリスマ性とやらを持ち合わせているのではなかろうか。現に松本はこの短時間で智樹という人物に惚れてしまったのだから。
 二人はテーブルを挟んで差し向かいに座った。
 松本は鞄から事前に送っていた質問用紙とメモ帳、ボイスレコーダーを取り出した。
 「遠慮せずに何でも聞いてくれ。何でも答えちゃるから」
 「宜しくお願いします」
 松本はボイスレコーダーの録音ボタンを押した。
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