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鬼の巻 上
牛売りども乱暴を働くこと
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その翁は、青白さを通り越し土気色でのっぺりとした顔をしている。顔の皺はあまりなく、肌は奇妙な艶すらある。その代わり頬の豊齢皺が大きく、頬が垂れて見えた。
青豆翁と呼ばれた商人。欲深げな笑みを浮かべている。
「それで、恵比寿丸。どう我らの損を補ってもらうのだ?」
老商人は若い水干姿の男を睨む。
美味い話と信じ、都から阿波まで品を運んだのは青豆翁であり、責任は商人のほうにあるのだが、そこは他責にすることに長けた商人たちであった。
「はて? 何故我らが損を補わねばなりませぬのか?」
侮りが恵比須丸にはある。老人の言い分に無理があるのは明白で、恵比須丸の話を信じ利益を求めたのは、商人たちであった。
「お主に責はないと?」
「左様でございますなぁ。品を奪われるような間抜けな話、我らは知らぬことでございますよ」
恵比須丸の言葉の中にある毒を老人は理解した。
「そうよなぁ。たしかにお主の話を信じたのはわしらであったわ」
野盗に襲われ商売品を奪われた責は、忌部の侍にあると老商人は勝手に解釈した。老人の顔は笑っている。
青豆翁の顔は確かに笑っていた。嗤わずに入られなかった。しかしその欲深い瞳は薄紫に鈍い光が灯り、異様な生気を放っている。
「恵比須丸殿。すまぬ物言いをいたしたな。まぁまだ牛は全て来ておらん。人もいるであろう。少々目先のことに捕らわれておったわ」
「左様でございますか」
立ち上がろうとする恵比須丸を青豆翁が制した。
「はて、忌部のお侍。なんといったかのう」
顎に手を当て、わざとらしく考えたようなそぶりをみせる恵比須丸。
「たしか兎追殿と申しましたかな」
「いや。あの者ではない。ほれ忌部様の屋敷に侍っておる」
「馬之助殿でございまするかな?」
青豆翁の表情が変わる。
瞳が炯々として、まるで肉を貪る鬼のように薄紫に濁っていた。
「左様、左様。馬之助様であったな。彼の御仁どちらに?」
「私にはわかりかねますよ。黒麻呂様のお屋敷ではございませんか。馬之助殿は侍の頭。二十人ほどの家人を司っておられるご身分。忙しいと存ずるが」
恵比須丸の話にいちいち頷く老商人の顔は、加虐的な物が隠し切れなくなっていた。
「では忌部様に伺いをいたそう」
話は終わったと恵比須丸は振り返る。商売の差配まで責任を取る気はない。阿波での利益を出せるかは商人たちの商才次第である。品を野盗に奪われるなど笑い物にしかなりはしない。
立ち去ろうとする恵比須丸に青豆翁が声をかけた。冷たく感情が感じられない声色。
「恵比須丸。お主、我らを裏切るなよ」
恵比須丸は一度立ち止まった。脅しとも言えぬ老人の言葉に恵比須丸は恐ろし気な笑みを浮かべたが、振り返ることなく老商人の前から立ち去った。
◇
黒麻呂は苛立っていた。
理由もなく屋敷の縁側を右へ左へと歩いている。呼び出された馬之助の姿を認めると、自ら庭先はと降りてくるほどであった。
「待ちわびたぞ!」
黒麻呂にしては声が大きい。焦りの色が見て取れる。
「いかがしました。件の野盗の被害は聞き及んでおりませぬが」
乾ききった喉を鳴らし、黒麻呂は馬之助に詰め寄る。
「野盗ではない。今度は恵比須丸のよこした商人どもだ。品を奪われたのは牛市の差配をしたこちらに責があるなどと言いだしよった」
馬之助の目が座る。麻植にガラの悪い人夫を雇い、人を集めだしたあたりから、そろそろ何か言い出すと読んではいたが、侍を通り越し忌部の一族に捻じ込んでくるとは思いもよらなかった。
馬之助は頭を掻いた。侍の不始末を黒麻呂たちに引き受けさせるわけにはいかない。
「我らの責を問うてはおりませぬか」
黒麻呂は黙って頷く。忌部氏のほうでも想定していなかったのであろう。
「口惜しや。奴ら銭を要求してきおった。本家に知られたらわしはお咎めよ」
「銭を求めたのですか?随分と乱暴な商人もいたものだ」
「誠意を見せろと言ってきおった。流石にそこまで露骨に求めてはきておらぬ」
馬之助は天を仰いだ。
忌部の侍の不始末である。金で解決できるのであればそれに越したことはなかった。
「誠意でござるか…嫌な言い回しでございますな」
「奴らの品など、もう何処かへと売られておろう。件の野盗を捕まえてみたところで何も変わらぬ」
黒麻呂は良く状況を理解していた。
盗まれた品など戻っては来ないであろう。青豆翁たち商人が何を求めているかが問題であった。
「憤懣のやりどころといったところでしょうな。我らに求めるしかないのでしょうが」
黒麻呂の顔にどす黒い影が差したように見えた。
「奴らの居所に目途は?」
黒麻呂を睨み返し馬之助は黙っている。剣呑なものが二人の間に流れた。
馬之助は黒麻呂を信用し切れていないところがあった。
なぜ恵比須丸を招き入れたのか?そこのところに疑義がある。何か馬之助たち侍に隠し事があるのではと疑いが晴れない。
このとき言葉には出さなかったが、馬之助はその不満を漂わせていた。
「まだわかりませぬ」
馬之助は事実を隠した。
品が出回っていることを兎追いが掴んでいる。商人たちの持ち込んだ品を売っていた露天商を幾人か捕まえ、品の流れを追っていた。
黒麻呂は深く息を吐いた。
「早うなんとかいたせ。盗人を捕えれば奴らも少しは静かになるであろう」
諦めたような黒麻呂の表情。
馬之助は終始隠し事をし続けた黒麻呂をどこか信用できずにいたが、小さく頷き理解を示した。
「商人どもよりも先に必ず捕縛いたします」
「我らの沽券にもかかわる。馬之助、そなたがたよりだ。よろしく頼む」
損な役回りだと馬之助は黒麻呂に同情していた。
侍に話を全てしていないのは、黒麻呂の意志ではないのであろう。心苦しさが滲んでいる。忌部氏の総意として何か企みがあるに違いなかった。
馬之助は居住まいを正すと、一つ礼をする。馬之助とて、他所の商人に勝手をされることには我慢がならない。
兎追がすでに調べを付けている宿場へと足を向けていた。
◇◆
田吉は夢見心地であった。
あの日、天女かと見間違うほど美しい女に声をかけられ、その女が本当のところは都より来た商人が女装していたということに驚かされ、さらに彼らの客人としてもてなされるとは、外道丸たちと離れたときからは想像もつかなかった。
田吉の横には美しく着飾った三が瓶子をもって構えていた。
「ささ、ご遠慮なく」
白濁した酒を注がれ、唇を着ける。いくらでも飲めそうなほど柔らかく甘い。杯が無くなると三は間を入れず継いでくる。
二人の前には童のような水干を着た恵比須丸が対峙していた。
男の姿であればそれはそれで美しい顔をした男であった。
「左様でございますが。石殿は摂津からこちらへ」
名を名乗るわけにはいかなかった。田吉はいつものように偽名を名乗り、摂津の出などという嘘をついている。
「沼ばかりの地でございますよ。あまり長くはいませんでしたなぁ。子供の頃には河内や南都へ流れました。田畑捨て都へ流れ、今はこうして阿波まで来ております」
田吉は残った酒を一息に飲み干した。その姿を背筋か氷そうなほど色気のある笑みで恵比須丸が見ている。
「恵比須丸様は、都の出で?」
田吉の何気ない問いに恵比須丸は頷く。吐き出された声色は人を酔わせる。
「ええ。京のかぐわしい雅な風香が懐かしゅうございますよ」
「牛市が終われば都へ戻られるので?」
「左様でございますね。我らは商人様とは違いますし、こちらの女は本来旅芸人の一座でございます。私も彼らについてまた別の地に人を寄越す算段をせねばなりませぬ」
恵比須丸は赤黒く変色した唐物を口に運ぶ、見た目には硬そうなのだが、恵比須丸は意に介した様子もなく噛み千切った。
わずかに鋭くとがった犬歯が見えた気がした。田吉は奇妙な感覚を覚えた。
「はてさて、長居をいたした。恵比須丸様よい酒を頂き誠にありがとうございました」
三の手がとまる。恵比須丸は姿勢を崩した。
「あの時、石殿と出会ったあの通りで狂人を見ておいででございましたな」
恵比須丸の声色は奇妙な色気を持っていた。田吉の背筋が少し伸びる。
「さて、そのような者おりましたでしょうか?」
田吉は惚ける。恵比須丸の笑み。その口元にはっきりと尖った犬歯が見える。
微笑みかけながら恵比須丸が瓶子を手に取り田吉に突き出した。しかし恵比須丸の手が止まった。何かに刺されたかのように恵比須丸は瓶子を取り落としてしまった。
倒れた瓶子から酒が零れる。白濁した酒のはずだが、わずかに赤みが混じっていた。しかしそれはすぐに床板に吸い込まれて染みとなる。
「はてさて。麻には魔除けの力があるとか。しかもここは阿波。古来より阿波の物は帝への納め物になると言われる」
痺れたように人差し指と親指か硬直している。その指を恵比須丸は嘗めた。
田吉の背にぞくりと冷たいものが流れた。
人の気配。田吉にもはっきりとそれが分かった。
「石殿、金丸殿、もしくは鹿丸殿でございましたかなぁ。本当の名はまぁわかりませぬ。我らはそなたに少々お聞きしたきことがあります。もう一晩ほど付きおうて貰いましょう」
田吉が振り向くよりもはやく、背中の簾が勢いよく開いた。
田吉の周りを商人とは思えぬ人相の男衆が囲んでいる。その中に身なりの良い老人が進み出た。
青豆翁、外道丸に品を奪われた老商人が冷たい瞳のまま田吉を見下ろしている。
「恵比須丸。こやつがわしの荷を奪いおった愚か者か!」
老商人の口から人とは思えぬような怨みの怒声が放たれる。田吉は勢いに負け腰を抜かしていた。
「さて、どうでしょうな。そのあたりは翁殿が見分なさればよろしかろう」
明らかに恵比須丸はこの修羅場を楽しんでいるようであった。痺れの取り切れていない右手をわずかに振っている。
青豆翁のわきを抜け、男どもが進み出た。汚れた水干姿で、誰も髪をすいてもいない。人相の悪い男たちに田吉は囲まれた。
「ま、待て!一寸待て」
田吉の声にせせら笑いが返ってきた。
「待ってどうする。貴様はわしらに盗んだ以上の益を寄越せるのか?」
「品はもうない」
「それ見たことか。その長い舌を引き抜いて犬に食わせてやろう」
青豆翁はその本性を隠しもしなかった。
「品はもう流してしもうたのだ。わしの分はもうなくなっておる。無い物はどうしようもない」
商人とその取り巻きは、田吉の勝手な言い分に身を乗り出した。
「ならば貴様を売り飛ばしてやろうぞ」
「最後まで話を聞け!わしの物はもうないと言っておるのだ。他のやつらの物はまだ残っている。全てを捌けたわけではない」
青豆翁の顔がほころんだ。
「ほう。ではそれはどこにある?貴様の仲間は何処か?」
田吉に迷いはなかった。
周りに立ちはだかる強面の荷卸し人夫の前では、いつもの頭のキレも失われてしまう。
「荷の場所はここより東に三里の廃村だ。まだ残っているが、外…いや、やつらはそこへ向かっている。おそらく今からでは遅い」
「それでは意味がない。やはり貴様一人でも奴として売り払ろうてやろう」
田吉の顔が変わる。恵比須丸と三が嬉しそうにその顔を伺っていた。人の不幸が至高の楽しみといった表情で、心底修羅場を楽しんでいる。
「まて、最後まで話を聞け。奴らはああ見えて家族を養っているのだ。妻だけでなく子も抱えている。何処から流れて来たかは知らないが、十人ほどで方々旅をしながらここまで流れ着いたのだ」
青豆翁の顔から表情が消えた。頭の中で瞬時に思案を纏めている。
「だからなんじゃ?」
「そいつらの居場所を教えてやるというのだ。荷も残りは返す。奴らの家族を好きにすればよい」
田吉はおのれの可愛さにあっさりと外道丸たちを売り払った。班田を捨ててからそうして生きてきた田吉である。保身のために他人を売ることに慣れきっていた。
「こいつ中々の下衆だな」
誰となく田吉を評する声が聞こえる。何といわれようと田吉はかまわなかった。
「よかろう。貴様の命わしが買うてやる。話が真であれ…」
勝手に話を勧めようとする青豆翁を恵比須丸が制した。
「そうはいきますまい。荷を奪い返し、件の野盗どもの集落は好きにすればよろしいが」
老商人とその取り巻きたちが、恵比須丸を怖い顔で睨んだ。男たちの視線で怯んだ様子は恵比須丸にはない。涼し気な笑みを浮かべている。
「用が済んだらこちらの御仁、私がいただくことに致しましょう」
うっすらと、人を酔わせるような笑顔を恵比須丸は浮かべ、田吉の前にかがみこみその瞳をジッと見つめる。
美しい顔ではある。その顔に見つめられた田吉の心臓は恐怖に掴まれ握りつぶされそうになっていた。
青豆翁と呼ばれた商人。欲深げな笑みを浮かべている。
「それで、恵比寿丸。どう我らの損を補ってもらうのだ?」
老商人は若い水干姿の男を睨む。
美味い話と信じ、都から阿波まで品を運んだのは青豆翁であり、責任は商人のほうにあるのだが、そこは他責にすることに長けた商人たちであった。
「はて? 何故我らが損を補わねばなりませぬのか?」
侮りが恵比須丸にはある。老人の言い分に無理があるのは明白で、恵比須丸の話を信じ利益を求めたのは、商人たちであった。
「お主に責はないと?」
「左様でございますなぁ。品を奪われるような間抜けな話、我らは知らぬことでございますよ」
恵比須丸の言葉の中にある毒を老人は理解した。
「そうよなぁ。たしかにお主の話を信じたのはわしらであったわ」
野盗に襲われ商売品を奪われた責は、忌部の侍にあると老商人は勝手に解釈した。老人の顔は笑っている。
青豆翁の顔は確かに笑っていた。嗤わずに入られなかった。しかしその欲深い瞳は薄紫に鈍い光が灯り、異様な生気を放っている。
「恵比須丸殿。すまぬ物言いをいたしたな。まぁまだ牛は全て来ておらん。人もいるであろう。少々目先のことに捕らわれておったわ」
「左様でございますか」
立ち上がろうとする恵比須丸を青豆翁が制した。
「はて、忌部のお侍。なんといったかのう」
顎に手を当て、わざとらしく考えたようなそぶりをみせる恵比須丸。
「たしか兎追殿と申しましたかな」
「いや。あの者ではない。ほれ忌部様の屋敷に侍っておる」
「馬之助殿でございまするかな?」
青豆翁の表情が変わる。
瞳が炯々として、まるで肉を貪る鬼のように薄紫に濁っていた。
「左様、左様。馬之助様であったな。彼の御仁どちらに?」
「私にはわかりかねますよ。黒麻呂様のお屋敷ではございませんか。馬之助殿は侍の頭。二十人ほどの家人を司っておられるご身分。忙しいと存ずるが」
恵比須丸の話にいちいち頷く老商人の顔は、加虐的な物が隠し切れなくなっていた。
「では忌部様に伺いをいたそう」
話は終わったと恵比須丸は振り返る。商売の差配まで責任を取る気はない。阿波での利益を出せるかは商人たちの商才次第である。品を野盗に奪われるなど笑い物にしかなりはしない。
立ち去ろうとする恵比須丸に青豆翁が声をかけた。冷たく感情が感じられない声色。
「恵比須丸。お主、我らを裏切るなよ」
恵比須丸は一度立ち止まった。脅しとも言えぬ老人の言葉に恵比須丸は恐ろし気な笑みを浮かべたが、振り返ることなく老商人の前から立ち去った。
◇
黒麻呂は苛立っていた。
理由もなく屋敷の縁側を右へ左へと歩いている。呼び出された馬之助の姿を認めると、自ら庭先はと降りてくるほどであった。
「待ちわびたぞ!」
黒麻呂にしては声が大きい。焦りの色が見て取れる。
「いかがしました。件の野盗の被害は聞き及んでおりませぬが」
乾ききった喉を鳴らし、黒麻呂は馬之助に詰め寄る。
「野盗ではない。今度は恵比須丸のよこした商人どもだ。品を奪われたのは牛市の差配をしたこちらに責があるなどと言いだしよった」
馬之助の目が座る。麻植にガラの悪い人夫を雇い、人を集めだしたあたりから、そろそろ何か言い出すと読んではいたが、侍を通り越し忌部の一族に捻じ込んでくるとは思いもよらなかった。
馬之助は頭を掻いた。侍の不始末を黒麻呂たちに引き受けさせるわけにはいかない。
「我らの責を問うてはおりませぬか」
黒麻呂は黙って頷く。忌部氏のほうでも想定していなかったのであろう。
「口惜しや。奴ら銭を要求してきおった。本家に知られたらわしはお咎めよ」
「銭を求めたのですか?随分と乱暴な商人もいたものだ」
「誠意を見せろと言ってきおった。流石にそこまで露骨に求めてはきておらぬ」
馬之助は天を仰いだ。
忌部の侍の不始末である。金で解決できるのであればそれに越したことはなかった。
「誠意でござるか…嫌な言い回しでございますな」
「奴らの品など、もう何処かへと売られておろう。件の野盗を捕まえてみたところで何も変わらぬ」
黒麻呂は良く状況を理解していた。
盗まれた品など戻っては来ないであろう。青豆翁たち商人が何を求めているかが問題であった。
「憤懣のやりどころといったところでしょうな。我らに求めるしかないのでしょうが」
黒麻呂の顔にどす黒い影が差したように見えた。
「奴らの居所に目途は?」
黒麻呂を睨み返し馬之助は黙っている。剣呑なものが二人の間に流れた。
馬之助は黒麻呂を信用し切れていないところがあった。
なぜ恵比須丸を招き入れたのか?そこのところに疑義がある。何か馬之助たち侍に隠し事があるのではと疑いが晴れない。
このとき言葉には出さなかったが、馬之助はその不満を漂わせていた。
「まだわかりませぬ」
馬之助は事実を隠した。
品が出回っていることを兎追いが掴んでいる。商人たちの持ち込んだ品を売っていた露天商を幾人か捕まえ、品の流れを追っていた。
黒麻呂は深く息を吐いた。
「早うなんとかいたせ。盗人を捕えれば奴らも少しは静かになるであろう」
諦めたような黒麻呂の表情。
馬之助は終始隠し事をし続けた黒麻呂をどこか信用できずにいたが、小さく頷き理解を示した。
「商人どもよりも先に必ず捕縛いたします」
「我らの沽券にもかかわる。馬之助、そなたがたよりだ。よろしく頼む」
損な役回りだと馬之助は黒麻呂に同情していた。
侍に話を全てしていないのは、黒麻呂の意志ではないのであろう。心苦しさが滲んでいる。忌部氏の総意として何か企みがあるに違いなかった。
馬之助は居住まいを正すと、一つ礼をする。馬之助とて、他所の商人に勝手をされることには我慢がならない。
兎追がすでに調べを付けている宿場へと足を向けていた。
◇◆
田吉は夢見心地であった。
あの日、天女かと見間違うほど美しい女に声をかけられ、その女が本当のところは都より来た商人が女装していたということに驚かされ、さらに彼らの客人としてもてなされるとは、外道丸たちと離れたときからは想像もつかなかった。
田吉の横には美しく着飾った三が瓶子をもって構えていた。
「ささ、ご遠慮なく」
白濁した酒を注がれ、唇を着ける。いくらでも飲めそうなほど柔らかく甘い。杯が無くなると三は間を入れず継いでくる。
二人の前には童のような水干を着た恵比須丸が対峙していた。
男の姿であればそれはそれで美しい顔をした男であった。
「左様でございますが。石殿は摂津からこちらへ」
名を名乗るわけにはいかなかった。田吉はいつものように偽名を名乗り、摂津の出などという嘘をついている。
「沼ばかりの地でございますよ。あまり長くはいませんでしたなぁ。子供の頃には河内や南都へ流れました。田畑捨て都へ流れ、今はこうして阿波まで来ております」
田吉は残った酒を一息に飲み干した。その姿を背筋か氷そうなほど色気のある笑みで恵比須丸が見ている。
「恵比須丸様は、都の出で?」
田吉の何気ない問いに恵比須丸は頷く。吐き出された声色は人を酔わせる。
「ええ。京のかぐわしい雅な風香が懐かしゅうございますよ」
「牛市が終われば都へ戻られるので?」
「左様でございますね。我らは商人様とは違いますし、こちらの女は本来旅芸人の一座でございます。私も彼らについてまた別の地に人を寄越す算段をせねばなりませぬ」
恵比須丸は赤黒く変色した唐物を口に運ぶ、見た目には硬そうなのだが、恵比須丸は意に介した様子もなく噛み千切った。
わずかに鋭くとがった犬歯が見えた気がした。田吉は奇妙な感覚を覚えた。
「はてさて、長居をいたした。恵比須丸様よい酒を頂き誠にありがとうございました」
三の手がとまる。恵比須丸は姿勢を崩した。
「あの時、石殿と出会ったあの通りで狂人を見ておいででございましたな」
恵比須丸の声色は奇妙な色気を持っていた。田吉の背筋が少し伸びる。
「さて、そのような者おりましたでしょうか?」
田吉は惚ける。恵比須丸の笑み。その口元にはっきりと尖った犬歯が見える。
微笑みかけながら恵比須丸が瓶子を手に取り田吉に突き出した。しかし恵比須丸の手が止まった。何かに刺されたかのように恵比須丸は瓶子を取り落としてしまった。
倒れた瓶子から酒が零れる。白濁した酒のはずだが、わずかに赤みが混じっていた。しかしそれはすぐに床板に吸い込まれて染みとなる。
「はてさて。麻には魔除けの力があるとか。しかもここは阿波。古来より阿波の物は帝への納め物になると言われる」
痺れたように人差し指と親指か硬直している。その指を恵比須丸は嘗めた。
田吉の背にぞくりと冷たいものが流れた。
人の気配。田吉にもはっきりとそれが分かった。
「石殿、金丸殿、もしくは鹿丸殿でございましたかなぁ。本当の名はまぁわかりませぬ。我らはそなたに少々お聞きしたきことがあります。もう一晩ほど付きおうて貰いましょう」
田吉が振り向くよりもはやく、背中の簾が勢いよく開いた。
田吉の周りを商人とは思えぬ人相の男衆が囲んでいる。その中に身なりの良い老人が進み出た。
青豆翁、外道丸に品を奪われた老商人が冷たい瞳のまま田吉を見下ろしている。
「恵比須丸。こやつがわしの荷を奪いおった愚か者か!」
老商人の口から人とは思えぬような怨みの怒声が放たれる。田吉は勢いに負け腰を抜かしていた。
「さて、どうでしょうな。そのあたりは翁殿が見分なさればよろしかろう」
明らかに恵比須丸はこの修羅場を楽しんでいるようであった。痺れの取り切れていない右手をわずかに振っている。
青豆翁のわきを抜け、男どもが進み出た。汚れた水干姿で、誰も髪をすいてもいない。人相の悪い男たちに田吉は囲まれた。
「ま、待て!一寸待て」
田吉の声にせせら笑いが返ってきた。
「待ってどうする。貴様はわしらに盗んだ以上の益を寄越せるのか?」
「品はもうない」
「それ見たことか。その長い舌を引き抜いて犬に食わせてやろう」
青豆翁はその本性を隠しもしなかった。
「品はもう流してしもうたのだ。わしの分はもうなくなっておる。無い物はどうしようもない」
商人とその取り巻きは、田吉の勝手な言い分に身を乗り出した。
「ならば貴様を売り飛ばしてやろうぞ」
「最後まで話を聞け!わしの物はもうないと言っておるのだ。他のやつらの物はまだ残っている。全てを捌けたわけではない」
青豆翁の顔がほころんだ。
「ほう。ではそれはどこにある?貴様の仲間は何処か?」
田吉に迷いはなかった。
周りに立ちはだかる強面の荷卸し人夫の前では、いつもの頭のキレも失われてしまう。
「荷の場所はここより東に三里の廃村だ。まだ残っているが、外…いや、やつらはそこへ向かっている。おそらく今からでは遅い」
「それでは意味がない。やはり貴様一人でも奴として売り払ろうてやろう」
田吉の顔が変わる。恵比須丸と三が嬉しそうにその顔を伺っていた。人の不幸が至高の楽しみといった表情で、心底修羅場を楽しんでいる。
「まて、最後まで話を聞け。奴らはああ見えて家族を養っているのだ。妻だけでなく子も抱えている。何処から流れて来たかは知らないが、十人ほどで方々旅をしながらここまで流れ着いたのだ」
青豆翁の顔から表情が消えた。頭の中で瞬時に思案を纏めている。
「だからなんじゃ?」
「そいつらの居場所を教えてやるというのだ。荷も残りは返す。奴らの家族を好きにすればよい」
田吉はおのれの可愛さにあっさりと外道丸たちを売り払った。班田を捨ててからそうして生きてきた田吉である。保身のために他人を売ることに慣れきっていた。
「こいつ中々の下衆だな」
誰となく田吉を評する声が聞こえる。何といわれようと田吉はかまわなかった。
「よかろう。貴様の命わしが買うてやる。話が真であれ…」
勝手に話を勧めようとする青豆翁を恵比須丸が制した。
「そうはいきますまい。荷を奪い返し、件の野盗どもの集落は好きにすればよろしいが」
老商人とその取り巻きたちが、恵比須丸を怖い顔で睨んだ。男たちの視線で怯んだ様子は恵比須丸にはない。涼し気な笑みを浮かべている。
「用が済んだらこちらの御仁、私がいただくことに致しましょう」
うっすらと、人を酔わせるような笑顔を恵比須丸は浮かべ、田吉の前にかがみこみその瞳をジッと見つめる。
美しい顔ではある。その顔に見つめられた田吉の心臓は恐怖に掴まれ握りつぶされそうになっていた。
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この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
無明の彼方
MIROKU
歴史・時代
人知を越えた魔性を討つ―― 慶安の変を経た江戸。女盗賊団が夜の中で出会ったのは、般若面で顔を隠した黒装束の男だった…… 隻眼隻腕の男、七郎は夜の闇に蠢く者たちと戦う。己が使命に死すために(※先に掲載した「柳生の剣士」の続編です)。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
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