『私本大江山』~酒呑童子異聞~

天愚巽五

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鬼の巻 下

商人の娘、嫉むること

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 女の匂い。
 酒を含んだ呼気。

 帳を閉じた部屋の中には、人を惑わす空気が満ち満ちていた。

 女であった。
 歳は菰子と変わりはない。田舎臭い百姓娘などではなく。仕草からは雅な都の空気をそこはかとなく漂わせている。その雅さの中に、女の持つ高飛車な雰囲気が滲み出ている。

 女は月明かりの指す縁側に立った。
 切れ長で鋭い瞳、やや面長だが男好きしそうな顔つきで、わずかに口元が大きい。公家の女とはまた別の美しさをしていたが、その風体は、都の華やかなものを無理にでも身に着けようとしている。

「よう来た」

 庭先に女の声が響いた。月明かりの中に人影がある。
 
 薄汚れた草色の水干姿、顔つきは若いが無精髭がそのままになっていた。火に焼かれたその顔は赤黒く、水干も煤に汚れている。

「炭売り、それであのお方のご様子はどうであった?」

 女の声は思いのほか低い。威圧する癖が自然と身についているのであろう。炭売りの男は背中に冷たいものを感じている。
 
 炭売りの男、名は螻丸という。菰子の昔馴染みであり、水尾村に住む貧しくとも慎ましく暮らす平凡な炭売りであった。
 
 螻丸には、菰子に対する慕情はあった。
 もちろんそんなものは身分の差があり、大っぴらにすることもできない。ただ思う事しか出来ぬまま、されとて身の丈に合った良い女子がいるかといえば、そんなこともなく、螻丸は若さを持て余したまま日々を過ごしていた。

 若い身体に募る慕情を日々耐え忍んでいた螻丸にあれやこれやと世話を焼き始めたのが、都より下って来たという烏丸長者である。
 長者は螻丸を懇意にし、炭を買うだけでなく、小間使いとして使い始めた。

 烏丸長者の娘、橋子が螻丸を用いるようになったのは必然であった。

「水尾のお嬢様の所へ通っておいででございます」

 橋子の目元が細くなる。目は笑っていないが、芝居がかった笑い声を出した。

「菰でしたか? 下賤な百姓の娘」
「下賤かどうかは…」
「爪の間まで土と肥しの匂いがしそうな百姓でしょう? 卑しい生まれに決まっています。それともお前は私に何か物を言うの?」

 驕慢な物言い。橋子という女の性根の悪さが滲み出て、螻丸の神経を疲弊させる。

「噂では惟丸様だけではなく、何人も屋敷に上げているそうね?節操のない淫奔なことが雅な色恋とでも思っているのでしょう」

 螻丸は知らぬ素振りを決め込んだ。話たところで橋子の考えが変わるとは思えない。

「惟丸様にはわたくしのような本当の雅を知る者こそ相応しい。炭売りそう思いませんか? 下賤な淫奔女には汚らしい下男で充分」

 自己愛の強さ。橋子という女は、自分の言葉に酔うところがある。
 事実との乖離すらも自らに言い聞かせることで事実であると認識し解釈を広げ、それを他者に押し付ける。橋子と付き合うということは、橋子の求めるものを用意し、橋子の望むままに事が行われることが全てであった。それが出来ないのであれば、価値を認められない。

 螻丸は橋子の性分に諦めに近いものを抱いている。

「左様ですね」
「炭売り、お前もそう思うでしょう」
「しかし、その旦那様のほうは菰子殿のほうに心を寄せておいでなのでございましょう」

 螻丸の言葉は、橋子の自尊心を刺激した。

「それはどうかしら? あの女の本性を知ればあのお方もわたくしのほうに心を寄せるはずでしょう?」

 螻丸は菰子を慕う心がある。雇用主の娘とはいえ橋子の言葉は、いちいち螻丸の反骨を刺激する。

「あの女、あの女の家。全てが汚らわしい」

 怒りの声色のわりに、橋子の顔は笑っていた。

「炭売り、お前もそう思うでしょう?」

 螻丸は背中に冷たいものを感じた。貪欲が橋子の顔に浮かび上がっている。

「炭売り、その家にこれを埋めて来ておいで」

 橋子は漆の箱を螻丸の前に置いた。

 螻丸はわずかに橋子を見上げる。箱と交互に橋子の表情を見比べた。

「なにも恐ろしいものではない。まぁ橋子からかの娘に贈り物じゃ」
「開けてもよろしゅうございますか?」
「ええ、もちろん」

 橋子の声色が高くなる。楽しそうに笑っている橋子は確かに美しかった。

 螻丸は箱を開ける。中には四つ閉じた蛤の貝殻が入っていた。

「これは?」
「野暮なことを聞ききますな炭売り、贈り物というたであろう」
「これを菰子殿に届ければよろしいか?」

 蛤の色合いがどうにも禍々しく感じられなくもない。あまり素手では触れたくないと蝉丸は考えていた。

「いいえ。それをかの女の屋敷。東西南北の柱の下に埋めて来てもらえばよい」
「はぁ…」

 螻丸はどうにも気分が乗らなかった。どこか呪いの気を敏感に感じ取る。さりとて螻丸は断れるわけもなかった。

「埋めてくればよろしいか」
「そう。埋めてくればよい。あとは時がたてば…」

 橋子の声の最後のほうは、螻丸にも聞こえなかった。すでにその場に居らぬかのように橋子は振舞っている。おのれの欲が満たされることにしか興味を抱かない橋子の性根が、隠されもせず螻丸の前に現れていた。

 螻丸は一つ溜息をついた。橋子はブツブツと何かを言いながらときおり一人で笑い始めている。
 どうやら要件は終わったようだと螻丸は屋敷を後にした。


 ◇
 

 年が明け半年ほど過ぎた。

 都より広まった咳逆は、近畿圏に猛威を振るっていた。水尾村も例外なく被害は広がり、冬の間人々は外に出る事さえも恐れている始末である。

 菰子の家はこの半年で随分と陰っていた。咳逆を何処からか貰って来た父親があっけなく死んでから、母親はどこか狂信的に神仏にすがるようになっている。
 雇人たちにも暇を出し、屋敷は荒れたところが目立つようになっている。

 父が死んでから屋敷に通うものも目に見えて減ってきている。
 複雑に絡み合った農地管理。それは父親の才幹で支えられていたのであろう。またたく間に、菰子の家から農地や山野は離れて行った。
 
 荘園領主から地域農民への委託。そしてその委託された豪農は、流民を抱え込み彼らを搾取することで財を成していく。
 平安時代を通し、頂点だけはほとんど揺るぐことのない利権構造ではあったが、ときおり起こる自然災害や疫病は、百姓たちの運命をひっくり返してきたのであった。

 貯えもあったが、母親が神仏に縋り随分と浄財した。冬の薪を買うこともままならない中、菰子は箱入り娘では居られなくなったのである。
 菰子は望まぬ嫁入りを決めた。相手は随分と歳が上で、都の商家という。父親の荘園経営を公家から命じられ引き継ぎ、都から水尾村へと下ってくるのだと噂されていた。

 惟丸は菰子の元に、夜は通わなくなった。菰子が嫁ぐことが決まったのち、身を引いたのである。しかしそのことが余計に情を募らせていた。
 父親が亡くなってから菰子は急速に大人びて、快活さは無くなったが、幸薄さが奇妙な色香を漂わせるようになっている。

 夜に通うことはしなくなったが、昼間には機嫌伺に幾度か顔を見せた。
 菰子の母は、人が寄り付かなくなった屋敷に珍しい客が来たと喜んでくれたが、惟丸には屋敷の灯が消えたように感じられた。

 その日、惟丸は菰子の屋敷にいた。
 手入れの届いていない庭先の縁側に座り、ぼんやりと庭を見つめている菰子を見つけると近づいていく。

「息災か?」

 疲れが見える菰子の顔は、幼さが消え少しやつれていた。

「ええ。今日は天気も良いから」

 惟丸は縁側に座る。冬の最中ではあったが、陽が差し込み心地よかった。

「良かったな。家の始末も何とかなりそうだと聞いたぞ」
「そうね」

 菰子の声に張りはない。どこか具合が悪そうにすら見えた。

「惟丸…」

 菰子は以前のような快活さがない。何かを諦めた女の悲哀しか残っていない。抜け殻になっていないだけで、おのれを悲観しているのが隠しきれていない。

 絞り出したように惟丸の名を呼んだ声に、菰子の悲哀があった。

「どうした?」
「うち、嫁ぎとうない」
「そういうわけにはいかぬだろう。決まったことだ」

 惟丸は優しく諭す。惟丸の優しさに同情を感じ取り、菰子は悔しそうに唇を噛んだ。

「惟丸だけ、他の人はみんないなくなった…」
「そうだな」
「どうしてうちの家だけがこんな目にあうん?」

 決して菰子の家だけが不幸なわけではない。水尾村は年をまたいだ流行病で、身内を失ったものが数多くいた。

「わしのとこの下人も随分身内を失ったよ。童が死ぬのは応えるな」

 菰子には惟丸の声は届いていないようであった。確かに菰子の家の落ちぶりは、他の家と比べても酷い。経済的に見れば困窮していると言える。

 情に負けて菰子を助けてようと考えても、惟丸の家もまた同じように問題を抱えっている。商家であり、雇人たちの生活の面倒をみなければ惟丸の家も後がない。百姓と比べればまだ余裕はあったが、それでも判断を間違えれば、すぐにでも一家全員野垂れ死にが待っているであろう。

「また来てくれる?」
「ああ。菰子が嫁ぐまで来るよ」
「嬉しい…」

 二人の間には、切れぬ糸が結ばれていた。それが余計に現実を残酷にしている。惟丸は大きく息を吐くと、縁側から立ち上がった。

 寂れた菰子の屋敷を、螻丸は覗いていた。通う男も相手にする者もめっきり減った寂れた屋敷。螻丸はそこにまだ足を運ぶ惟丸を乾いた目で見ている。
 隠し切れない嫉妬が螻丸の両眼を燃え上らせていた。二人の間柄は随分と前から知っている。他の男たちと同様、家が寂れれば足が遠のくと思っていた螻丸は、それでもやってくる惟丸と菰子の間柄に、みぞおち辺りを掻きまわされるような苦しみを抱きながら見つめていた。

 執着がある。
 恋慕が募る。

 菰子が嫁ぐと聞いたときも激しい動揺に包まれ、寂しさに体を震わせ、自ら命を絶とうと思うほどであった。幾分立ち直ったが、それでもときおり波のように死にたくなる時がある。

 一度は諦めた菰子、それが一度は取り戻せると思い込んでいた。それが今度は確実に手の届かない所へいき、そして誰かの子を産む。
 螻丸はそのことに耐えることが出来なくなっていた。

 冷たい目は嫉妬に乾ききっている。そして心臓には菰子に対する執着がヘドロのようにへばりついて螻丸を捕えていた。
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