『私本大江山』~酒呑童子異聞~

天愚巽五

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人の巻 鄙のこと

呪言師と仏僧、吽を求むること

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 揉み上げに白い物がまじり、顎髭も初老の兆しを隠していない。しかし顔には皺やシミが少なく若さも感じさせた。
 
 男の名は斑目という。もちろん本当の名ではない。
 本当の名はとうの昔に隠していた。名を知られることが、生死にかかわる仕事をしている。

 斑目は呪言師である。
 勘違いされがちであるが、陰陽師は本来暦を管理する都の役人であり、占卜や呪事を主にしているわけではない。しかし呪言師という者どもは、怪しげな呪事を専らにし、人の精神の闇の部分に踏み込み、糊口をしのいでいる輩である。

 その呪言師、斑目は目の前にある首のない牝牛の死骸をまんじりともせず見つめていた。

 死骸は急速に腐敗が進んでいる。斑目に二つの影が近づいてきた。

「死んだ牛はおらぬそうです」
「やはり数は合いませんか」

 声を発した小柄な男は首を振った。小汚い袈裟を着ていたため、辛うじて仏僧とわかる。

「環御坊、斑目殿。牛飼いの話は聞いて参った。この首なしの牛…」

 環が表情を変えずに荒太郎の言葉を取った。

「女の首が乗っていたのでしょう?そして何事か呟いていた」
「御坊。やはり何かの呪でござろうか」
「拙僧はそちらの話は門外でございますよ。斑目殿のほうが御詳しい」

 斑目が難しい顔のまま二人向きなおった。

「妖か…怪か…」

 口の中で放った言葉を二人は聞き取った。
 斑目は立ち上がり二人に顔を向ける。斑目の顔色は少し青ざめて見えた。

「天命漏らしですな」

 荒太郎は聞きなれない言葉であった。

「何でございますかその…」
「これが妖や物ノ怪の仕業ならば、心配はないのですが、やつらは自然じねんの存在。善悪の意思はなくこのような事を起こすことがある」

 荒太郎は話に付いて行けなかった。環は頷いている。

「あ、すみません。荒太郎殿にはとっつきにくい話であったな。天命漏らしとは、天が定めた命を事象が起こるよりも早く、世に広める妖のことです。奴らには寿命がありませんゆえ、時としてこうして天命を盗み聞きするのでございますよ」
「天命とは?」

 環は腕を組みながら牛の死骸に近づいた。

「天の定めた命です。いうなれば後の世におこる事象」
「後の世に起こりえることを知るということですか?それはなんというか…」
「恐ろしい事でございます。神仏を恐れず、寿命を持たぬ妖どもが、時として悪戯にこのような真似をすることがあるのですよ」

 斑目は腐敗し、骨だけになった牛を気味悪そうに見下ろしていた。

「これは阿ですな」

 環の問いに斑目は頷いた。

「さよう。阿でございます。何処かで天命を知り、兼言を広める口の形の妖です」

 荒太郎は斑目のいう妖の名を繰り返す。

「阿…」
「阿は兼言を残す妖です。後世に起こる事象を告げると、この世に存在できなくなる」

 環が骨すら大地に溶けて行こうとする牛の死骸に向かい手を合わせた。
 経を唱え、ここに在ってはならなかったそれを弔う。仏法は妖であろうが、鬼であろうが平等に弔うものであった。

 朽ち果て土塊のようになり、風に流される骨を斑目は感情の無い目で見る。

「世の中には、天命漏らしを神仏の啓示であると敬う者どももあると言います」

 環の経が終わる。
 立ち上がるとすでに牛の死骸は大地に返えっていた。後は草が禿げ、黒土が剥き出しになっている。

「終わりました」

 斑目が大きく息を吐いた。

「荒太郎殿、牛飼いたちはどうでしょう?詳しく話を聞ける者はおりますでしょうか」

 荒太郎は小さく頷いた。

「幾人か遠目に見ておったものがいます。そして松丸という牛飼いに怪異があったと」
「そうですか。ではその見ていたという牛飼いと話はできますでしょうか」

 斑目と環が立ち上がり、荒太郎に問いかけた。荒太郎は二人を先に促す。牛飼いたちは牛小屋にあるあばら屋に集まっているという。

「幾人かは話すことも怖がっております。ただ当の本人が正気をもどしておりますので」

 斑目の目が見開いた。顔色が急速に青ざめていく。

「生きておるのか?その牛飼い…」

 環が斑目の顔を覗き込む。明らかな恐怖の色が斑目の顔に広がっていた。

「斑目殿…いかがした?」

 斑目は足早になる。

「どうしました斑目殿」

 二人が斑目を追う。
 斑目には焦りがありありと浮かんでいた。

「兼事を聞かされた人は、命が持ちませぬ。その場で阿と共に朽ち果てる」

 斑目は歩きながら二人に聞かせる。想定外のことが起きているようであった。

「異変を受けた牛飼いは生きておりますぞ」
「だから問題なのです。後の世に起こる事象をその牛飼いが漏らせばどうなりましょう」
「世情にいらぬ不安が広がりまするな」

 環が冷静に答えた。

「さよう。そしてもっと問題があります。元来、阿の口から出る兼言は、吽が神仏より聞いたことなのでございます。
 二体の妖は対であり、阿が産まれたのであれば、必ず吽が何処かに存在する。天命漏らしは、人の命運を代償に天命を聞こうとする妖のことですが…」

 斑目の話は奇妙な部分が多い。荒太郎は理解が出来ていなかった。

「あの牛の妖とは別の妖が?」

「少々説明するのが面倒ですが、阿と吽は妖によって産み出される妖です。奴らは自然じねんの存在、いつどこで何をしでかすかは予測がつかいない。
 人の命運を奪うというのは、人が神仏に最も似せて作られた存在であり、それだけに神仏に近いからだといわれます」

 斑目は早口になっている。環はその話を興味深そうに聞いていた。仏法にはない考え。陰陽師にもそのような世界観は無いであろう。

「妖が産み出す阿と吽は、必ず一対となる。我々に理由はわかりませぬが、永久の命を持つ妖は、悪戯に神仏の兼言を聞きたがるのです。そこで人の命運を用いる」
「人の命を対価にするということですか?」

 環は仏法から逸脱した事象に戸惑いがあった。

「神隠し。あれも時に天命を聞き出すために妖が人を攫っておるのでしょう。しかし妖がする天命漏らしは、人一人を対価にするだけでございます」
「つまりそれは…」
「必ず天命を聞かされた者、そして間違って阿が吐く兼言を聞いてしまった者。これらは命運を奪われ、存在が消える」

 荒太郎は斑目の言わんとすることに気が付く。

「それはおかしい。斑目殿の話であれば、牛飼いは助からぬはず」

 斑目が足を止める。

「この天命漏らしの真似事。おそらく人の所業でありましょう。牛飼いが生き残っているということは、術が不完全なため」

 環と荒太郎は、斑目の顔を見た。
 怒り。斑目には怒りがあった。

 いずれの呪言師か術師かわからなかったが、人の命を悪戯に弄び、天命を聞き出そうとしている。そのおぞましさを斑目の話から荒太郎も環も理解していた。

「人の所業とは思えませぬ…」
「命を朝餉の汁くらいにしか考えておらぬような外道です。質の悪いことに、術が不完全だということは、まだ阿が産まれるやもしれません」

 三人が、牛飼いのいるというあばら屋の前に立った。
 
 斑目の考察に反吐が出そうなほどの不快感を荒太郎は覚えた。いずれの外道が仕込んでいるかはわからなかったが、相容れることができないことだけは確かであった。


 ◇



 荒太郎があばら屋の戸を開く。中には 数人の牛飼いが一人の老爺を看病していた。その老爺は、随分しょぼくれていたが、意識はしっかりとしていそうであった。
 
「松丸という牛飼いはどこか?」

 荒太郎はその場にいた牛飼いを見渡す。

「わたくしにございます…」

 看病されていた老爺がしわがれた声で答えた。
 真っ白になった頭髪、シミと皺に覆われ頬がわずかに垂れた顔。聞いていた男とは想像もつかないほど年老いた老爺が、荒太郎たちの前に進み出た。

「やはり…」

 荒太郎の後ろから斑目が声を出した。

「そのままでよいです。松丸殿ですな?」

 松丸は斑目に顔を向けた。少し怯えがあるように見て取れる。

「はい。わたくしが松丸でございます」
「牝牛を見ましたね?」

 松丸の顔に恐怖の色が浮かび上がる。

「大丈夫、無理に思い出す必要はありません。松丸殿の他に牝牛を見た者は?」

 松丸は必死になっていた。恐怖に打ち勝つ気力がこの牛飼いにはあった。

「二郎丸の娘が見ておりますが、気を失ってしまいました。今は気が付き家へもどっておるはず」

 斑目は小さく頷く。

「その娘だけですね。松丸殿は牝牛を…」

 松丸が目を見開いた。血走り隈が浮き出てくる。

「聞きました。わしに聞かせてきました」
「言わなくてよいです。ただ全てを聞きましたか?」

 斑目は松丸のそばに座った。
 
 環は奇妙な感覚に襲われる。
 あばら屋全体に薄紫の霧のようなものがかかっているのを覚えた。

「斑目殿、少しお待ちを」

 環が襤褸から香炉を取り出す。土塊を取り出すと、香炉の中で焚き始めた。煙が土間へ広がる。奇妙なことに踝より上に煙が昇っていかない。

 環が入口に向かって印を結ぶ。

「気休めにはなりましょう」

 斑目が口元から鼻先に人差し指を立てた。煙がゆっくりと天井まで上がり、あばら屋に満ちていく。

「よろしかろう。松丸殿、聞いたのですか?牝牛の吐く兼言を」

 松丸は首を左右に振った。

「すべては聞こえませなんだ。声が途切れておりましたゆえ」
「さようか。他に何か気になることは?いや牝牛が告げたことは他言せぬように、誰ぞに告げれば、おそらく松丸殿の命は、短くなりまする」

 斑目の声色には、充分な脅しが混じっていた。

「申しませぬ!絶対に申しませぬ」
「それがよろしい。それで松丸殿、このところ怪しげな輩が、牛に何かいたしたせなんだか?」

 松丸は恐怖に青ざめた顔を下に向け、思い出していた。老け込んだ見た目だが、どこか所作に若さがあることに、荒太郎は違和感を覚える。

「女の首のついた牝牛、あれを見る前に牧草に赤黒いものが落ちているのを見ました」
「肉のようなものでしょうか?それとも血痕?」

 斑目は安心させるように松丸の目を見て話さない。両肩を掴んでいた。

「血であったと思います」
「なるほど、それがあった場所は?」

 松丸は顔を上げた。

「牛小屋の前、あの牝牛が朽ちた所に周りに行けば今も残っておると思います。わしは最初、糞を踏んだと勘違いしました。それくらい近くにありました…」

 斑目は松丸の肩を数回叩き、背中に印を描く。さらに背中を強く叩くと立ち上がった。

「しばらくは牛に近づかぬほうがよいでしょう」

 踵を返すと、二人を促しあばら屋を出た。真直ぐに牛小屋へと向かっていく。

「松丸殿はもう手遅れでございますな…」

 環が呟く。あばら屋を囲んだ妖の気配は隠しようもなかった。斑目は肯定も否定もしない。

 天命を聞いた人の末路は消えるしかない。人の生命は、肉と精神の殻に守られている。松丸はそれが極端に薄くなっているような状態であった。
 目に見えぬ妖は薄く弱々しくなった松丸の生命を貪るために探し回っている。陽が高いうちはまだよいが、陽が沈んでしまえば、手の施しようはない。

「急ぎましょう。松丸殿の命を無駄にするわけにはいかない」

 荒太郎は二人の会話に割って入ろうとは思わなかった。松丸の姿を見て、ますます嫌悪感が募っている。
 環が斑目に問うた。

「妖の痕跡がありましょうか?」
「人の所業でございます。必ず何か残しておるはず。呪言の類であれば、もう一度同じところに同じような術を仕掛けるはず。阿を封じるには吽を探し出し、殺さなければなりませぬ」

 斑目は確信があった。
 天命を知ろうとする外道は、同じ仕掛けをもう一度牛小屋に仕掛けると、それが術者の性であると、斑目は知っていた。
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