47 / 66
第二夜
年代記『五公国記 盆地の王と獅子の歌姫』
しおりを挟む
パリスの明かりが遠くに見えている。ロマとシーラの顔が焚火で怪しく照らされ、二人の顔や服にはおびただしい返り血がへばりついていた。チョルノはすぐそばでしゃがみ肩で息をしている。薄暗い闇夜に血の匂いが漂い。その場の凄惨さが際立っていた。
シーラは大鉈を肩に担ぎ、少し太り気味の男を見下ろしていた。男の前歯はなくなっている。口や鼻から血が出てそれが喉の奥に流れ込み男は小刻みに息をしていた。
シーラは男の口に踵を捻じ込む。耳障りの悪い水分を吐き出すような音が喉の奥から絞り出され下顎が外れた。ロマはつまらなそうに虫の息になった男の顔面を踏み力を籠める。頭蓋が軋み男が身体を痙攣させている。
五人の若いチンピラは生きているのが不思議なほどボロボロにされている。
「駄目だな。どいつもこいつも糞弱え」
ロマの機嫌は悪い。パリスの下層にはロマとまともにやりあえるものがいなくなってきていたことが理由であろう。シーラは笑いながらチンピラの口の中を踵でぐちゃぐちゃにしている。目元は全く笑っていない上に焚火の明かりで悪魔のように見えていた。
「タナってチンピラはどこに隠れてんだ?」
シーラは踵を口から離した。粘度のある血液が口から溢れジラの革靴を汚し糸を引いている。男は下顎が外れてしまい上手く話すことができない。泣きながら何かを喋ろうとするがその顔が気に入らなかったのかシーラは男のコメカミを思いきり蹴りあげた。若いチンピラは昏倒して意識を失う。
チョルノは前歯の無くなった男の首を抑え、両手を後ろにさせた状態でうつ伏せにし背中に乗っていた。
「小僧、ああはなりたくないだろ? うちの兄貴たちは手加減ができないからな」
チンピラは涙を流していた。タナに言いくるめられ麻脂を売って小銭を稼いでいたまではよかった。しかしその小銭で派手に女遊びをしたためにダルダ一家に目を付けられたのである。
男たちはパリス市内に拠点がなかった。そのためパリスの外にある廃墟に居ついていた。下層民で根無し草、素行の悪い若者たちはおおむねこういった廃墟を塒にしている場合が多い。サウル・ローハン盆地には大小さまざまな都市や邑がいくつもあるが、その周辺には元々人の営みがあった廃墟が点在してるものなのである。
男たちはその塒にしている廃墟にもどったとき、ダルダ一家に襲われたのであった。元受けのタナが同じような生活をしていると踏んだローハンのやくざ者たちは、とりあえず虱潰しに廃墟を調べるという手段にでたのであった。
「麻脂の受け取りはどこだったんだ? ちゃんと教えたら命は助けてやるよ」
チョルノの声は脅しの色が濃い。目の前でロマが男の耳の下あたりを踏み抜き骨が砕ける音が聞こえる。あまりの恐怖に男は激しく首を縦にふった。
歯は無くなり、鼻も潰され口の中が血まみれであったが何とか声をだす。
「受けしょりは、みゃいかいちぎゃいみゃしゅ」
「聞き取りづれぇな」
チョルノは男の指を無造作に折り曲げる。激痛に耐えれず涙声の叫びをあげた。折れ曲がった人差し指をさらにグルグルとまわす。
「タにゃしゃんたしは、おにゃしところにはいみゃしぇ」
男は鳴きながら激痛に耐える。
「んんんん!…」
「どうでもいいんだわ。次の受け取りはどこだ?言えばこのまま返してやるって」
「しょれも!…ひぃ! あっぢかられんりゃくがないと…」
「使えねぇな。やっぱり死んどくか?」
「きょきょで! きょきょでみゃっていれびゃ! しゅぐに!」
みっともない上に血液が鼻から喉の奥に流れ込んでしまい。やはり聞き取りにくい。どうやらタナは点在する廃墟に売人を待機させそこへ麻脂を配っているようであった。激痛に耐えれず顔を紅くしながら涙を流す男の指はすでに両手の薬指と人差し指をへし折られ、中指を持たれている。
チョルノが中指を逆方向へ曲げようと力を込めると、シーラが近づいてきた。
「吐いた?」
「ええ。ここで待ってばくるみたいですね」
シーラは指を折られた男の後頭部を踏む。
「どうせタナとかいうジャリは来ないんだろ?」
「そうでしょうね。使いっ走り一匹捕まえてもどうしようもないですね」
シーラが下で鳴き声を出している男の脛に足を乗せ無造作にへし折った。地面に顔面をうずめているため叫び声は小さく響くだけである。
「兄貴、どうします? 俺だけでも残って使いっ走りの後つけましょうか」
シーラは少し酸っぱい顔をした。そういう細やかな仕事が一番苦手なのがチョルノなのである。思わずシーラはチョルノの頭を小突いた
「ズダの野郎を呼んどけ。お前になんかさせたら仕事が増えるわ!」
理不尽な目にあいチョルノは少し不満そうな顔になったが、すぐに表情を消した。二人のやり取りを聞き最初に気を失っていた男が上半身を起こす。他のものよりも幾分かましだが、目元が青黒く腫れあがっていた。
「もうしまいだ。こんな目に合うなんて聞いてねぇよ」
ロマとシーラがその男の前に立つ。二人とも表情が消えていた。
「なんだ? お前なんか知ってんのか?」
「ああ。知ってるとも。話したら全員見逃してくれんのか?」
ロマがしゃがみ男の髪をわしづかみにする。
「何でお前の要件きかにゃならんのじゃ?」
男はロマに唾を吐きかけた。
「なら殺せよ。約束しねぇなら喋らねぇよ」
ロマは頬に付いた唾液を袖口でぬぐう。
「お前バカだけどいい根性してるな。話の内容次第なら約束してやるよ」
「クッソ髪離せよ。タナの野郎の使いっ走りしてるガキはタナの弟なんだよ。人手が足りなくなって呼び寄せやがったんだ。下の毛も生えてなさそうなガキだけどあいつら捕まえればいくらでもタナを釣りだせる。それにタナを使ってるノア一家のエルヴィには女がいる。ユシナって堅気の女だ。ただ危なくなってからはユシナのとこにエルヴィは顔出しちゃいねぇ」
ロマは髪を離す。エルヴィの情報はかなり大きかった。女がいることは知っていたがズダもガレも結局つかめず仕舞いだったのである。
「堅気か。パリスのやつらの保護うけてるんか?」
「あぁ。ユシナはパリスの工員だな。俺たちだってもう半年以上もエルヴィ本人の姿はみちゃいねぇよ」
ロマは男の顔面を殴りつける。鼻がへし折れおびただしい血が流れてくる。すでにロマの拳は何人もの返り血で赤くなっていた。しかし男は仰向けになりながら笑っている。
「ユシナに手を出してみろ。おっさんらだって無事じゃすまねぇことになる」
シーラが男に跨った。鉈を男の顔の横に突きたてた。
「どういうこった?」
「おっさんらやり過ぎたってことさ。知ってんだろ?幽鬼のことは。もうあいつらあんたらに目を付けてる。もちろんタナだって目を付けられちまってる。俺たちゃちんけな売り子だから許しちゃもらえるかもしれねぇが、あんたらはパリスの流儀を無視し過ぎたのさ。どいつもこいつもとっくの昔に詰んでるだよ」
シーラは男の胸を踏みつけ、踵で肋骨を踏み折る。加虐的な笑顔が張り付いていた。
「そうかそうか。お前面白いこと言うな」
次の瞬間男の首筋にタナの大鉈が滑り込み、男の視界が暗くなった。
エルヴィは空になった果実酒の入った水袋に何度も口を付けていた。
目は血走り、顔色は表現のしようがないような紫のような色に変色している。ほとんど眠ることもできず現実から逃げようと浴びるように酒を飲んでいた。パリス中の目が自分を探していると思うと恐怖と憤りで両手と身体が震えてくる。
どん詰まりになり家族の元へ逃げかえることも考えられなくなっている。身に覚えのない禁忌物の元締めとされ、やくざ者だけでなくパリス市民からも追手がかかり、何度も死のうと考えたがそんな根性もないためこうして酒をあおっているのであった。
秘密の地下通路から夜中にパリスに入りイルノへ便りを出してからすでに四日立っている。イルノだけがエルヴィと落ち合うことができる状況にあり、エルヴィはその待ち合わせ場所が見える廃墟の隠れ家に身を潜めていた。
どこで間違ったのかすらもエルヴィはわかっていない。ほとんど自分では気が付かないままことが進んでしまっていた。かろうじてわかることは、外からきた顔も見たことないようなチンピラが、元締めはエルヴィであると風潮していることである。身に覚えのない噂が独り歩きし、そして既成事実となりつつあった。
危険が及ぶことを恐れ女とも別れ、いよいよ頼るところがなくなりパリスの外で当てもなく廃墟を転々とした生活であったが、それもだんだんとできなくなってきている。ねぐらにしていた廃墟のいくつかに外から来ているチンピラ共が入り込んでいたからであった。人目を避けていたこともありエルヴィは、誰が自分を狙っているのかすらも判断できなくなってきていた。
炯々と光る瞳は瞬きもしていない。薄暗くなってきた廃墟の真ん中に昨日まで火がついていた形跡のある焚火の後が残っている。ヴェスは崖崩れに飲まれた二階建ての屋敷の上から廃墟全体を警戒していた。極限まで高まった精神は廃墟に近づく複数の人影をかなり遠くから視認している。
近づいてくる人数は三人、暗がりで顔は認識できなかった。エルヴィは息を止め焚火に近づく三人を見ている。二番目の男が肩をいからせて焚火に近づく、苛立ったように焚火の後を踏みつぶしているのが分かった。男のシルエットにエルヴィはも覚えがあった。決して高くない背、足が短く肩幅が広い。それはノア一家のイルノであった。
「おーい! いるんだろうが!?」
イルノが暗い廃墟に声を張り上げた。イルノについてきている人が誰かわからずエルヴィは出ていくこともできずにいる。
誰も信用など出来ない状況。エルヴィはイルノですら自分を売るのではないか、他にパリスの市民兵が控えているのではないかと疑心にかられていた。
イルノは面倒臭そうに焚火に顎をしゃくった。ついてきたのはノア一家で使っている若衆であった。若衆は小さく頷くと焚火に火をつける。焚火に照らされた顔はエルヴィよりもさらに若くほとんど少年と言っていい。
ほとんど全滅と言っていい状態でガーシの跡目を形式だけはゴモトが継いだ。そんなノア一家にいまだに残っているところを見るとこの少年は行く当てがないのか、それとも本当に何も考えてないかのどちらかであろう。もう一人いるがそちらは暗闇で顔が見えない。エルヴィはシルエットで誰か見当がついた。状況が悪くなってから雇われた用心棒のツガであろう。
ツガがイルノの横に立つ。イルノよりも頭一つ大きくかなりがっしりとしていた。顔は傷だらけで腕が太い。見えている部分も切り傷だらけであった。
「旦那いないな」
「いや、どっかにいる。隠れてやがるのさ」
イルノの顔が下から焚火に当てられ薄気味悪く笑っていた。もう一度イルノが声を張り上げた。
「聞こえてるのはわかってんだ。今度は二人で会おう。三日以内に東の廃村にいろ! わかったな」
イルノの声にエルヴィは汗をぬぐいながら聞き入っていた。罠なのかどうなのか一人では判断できずにいる。この時エルヴィはパリスのノア一家の動向もよくわからぬままであった。
三人は焚火を消すことなくその場を後にした。エルヴィがここにいれば必ずどこかに移るはずである。しばらく隠れて火が消えたのであれば、エルヴィを探せばよいし、つけたままであれば血眼になって探し回っているパリスのやくざ者が火が付いた焚火の周りを探すため、どうしてもエルヴィは場所を変えないといけなくなる。
エルヴィは消されない焚火を睨んで小さく舌打ちをする。イルノは常にこういう小賢しい嫌がらせをするのであった。しかし今エルヴィが頼るところはイルノの他にいない。完全に人の気配がなくなるのを確かめ用心しながら建物からでる。土砂がそのままになっている面を登り山のほうへエルヴィは向かった。
パリスの周りには森らしい森はない。しかしその先には崖にできた洞穴があった。古い時代に誰かが何かの理由で掘ったのであろう。そこにエルヴィは隠れていた。まだ緑の月であり凍死の心配はなかったが、流石に何日もなると体に応えてきていた。
「なんで俺が…なんで俺だけがこんな目に…」
エルヴィの瞳からは涙が垂れていた。鼻をすすり暗い洞窟の中にあるボロキレの中にくるまった。あの土砂の裏にこんな洞窟が隠れているとは誰も気づかないであろう。実際ここ三日数人の廃墟に来ていたがここまでは気づいていなかった。
何もわからぬまま不幸な少年は神経をすり減らしたまま眠りについていた。
その日、パリスはあまりの快晴で陽の光が瞼を焦がすほどであった。黒い神殿とセリウィス家の館の中では太陽の光よりも鋭利な言葉のやり取りが繰り広げられている。
「なぜ?カシアスの相続を認めないのですか? トーメスは次男。宗家を継ぐのはカシアスのほうが相応しいでしょう」
金切声に近い。シュザンナは冷静を装い自分の主張だけをダルダンに向かって吐き散らかしていた。ダルダンはカシアスの宗家相続を認めていないわけではなかった。条件を付けているだけなのである。
「奥方、何度も言っているがカシアス様を認めておらぬわけではない。ただ二年、いや半年でもよい兵役につきパリスに義務を果たせねば宗主の立場を軽くみられることになるといっているのだ」
「なぜ? カシアスは宗主になるのです。戦争では宗主が全軍を率いるのがパリスの宗法でございましょ? だったらわざわざ兵役などに付かなくてもよいではありませんか」
ダルダンとシュザンナの話は平行線であった。シュザンナは現実を見ていない、見ようとしていない。カシアスの生母ということでこの場にいるわけであるが、本来は世継ぎを決める場にいるべき人物ではなかった。
ダルダンは数回の怒りに耐え、今はあきれ果てている。これほどまでに自我が強いとは思いもよらなかった。マルシアは付きっ切りの看病が堪えたのか、今はコルピン家に戻り休んでいた。マルシアの献身とは対照的にシュザンナはほとんど看病などせず、四家の当主に対しカシアスの相続の正当性を訴え続けているのである。
四家の当主は全員揃っている。ダルダンをはじめコルピン家のゴルヴィが隣に座り、シュザンナの左にレイヴンが腕を組んで黙っている。
眉を上げ脅しすかすような言葉を発しづつけるシュザンナの横で、癖のあるブラウンの髪と貧相で気弱そうな面長の顔をした男がマッシュハガ家の当主代理コスゲンである。
コスゲンはシュザンナの従兄弟でバータの大叔父あたる。分家にあたり本来であれば本家筋のバータがマッシュハガ家の跡取りなのであるが、兵役に付いていないこととまだ若年であることを理由に当主代理という立場でこの場にいた。マッシュハガ家の当主でバータの父であるヴリンは病があり半分隠居してしまっていた。
シュザンナの言い分をまんじりともせず聞いていたレイヴンがようやく声をだす。
「どうしてもカシアス殿をパリスから出したくないと見えますな」
シュザンナがレイヴンを睨みつける。世継ぎの段になりシュザンナの本性があらわになったことにレイブンは憤りがあった。反論されること自体が不愉快なシュザンナは四家の当主に対する敬意を完全に失っている。
「レイブン殿? アケドナ家がどれだけテリデス様の恩を受けたのか忘れたのではあるまいな? 幼少より其方を引き立ててくださったテリデス様に対する忠義は忘れたと見える。正当なパリスの宗主になるべきはカシアスでしょう? 其方はテリデス様のご恩に報いるためにもカシアスを盛り立てなければなりません」
レイブンは深くため息を吐き出した。彼の忠誠は確かにセリウィス家とパリスにある。それを勝手に拡大解釈されたことに諦めに似た感情が沸き起こっていた。
ゴルヴィが剣呑な空気の中ふいに立ち上がった。
「少々煮詰まりすぎだな。マルシアのことも気になるでわしは少し休ませてもらう。シュザンナの言い分はようわかったし、我らとてカシアス殿の相続を拒否する気はないでな」
「あら? コルピン家はカシアスを支持してくださるのですね?」
「お主しだいだなシュザンナ。よう考えてみるがよい。パリスに大事が起きたとき、今のカシアス様が宗主として恥ずかしくない行いができるかどうかという事を皆が心配しとるのだ」
シュザンナの顔色が変わり出ようとするゴルヴィに何か声を掛けようとすると、レイヴンとダルダンが同時に立ち上がった。二人ともシュザンナの暴言に精神がすり減ってきていたこともあり、ゴルヴィの動きをこれ幸いと考え席を立ったのであった。
残されたシュザンナは声もなくただ机の中央を睨みつけている。
「コスゲン殿、カシアスはどこにいるの?」
毒気が強い声色をだす。
シュザンナの顔は怒りで腫れあがっているように見えた。肥大化した自己顕示欲と権力への強い欲求が女の美しい顔を醜悪な物へと変えてしまっている。コスゲンは悪鬼を見たような恐怖心に思わず身震いしていた。
薄暗い倉庫に埃と黴の匂いが満ちている。フードを深くかぶった小男が日の光を避けるように目線を左右に動かしている。禿げあがり脂ぎった頭部からは汗が滲み、狭い倉庫の中に油臭い加年臭を放っている。
小男は忙しなく視線を動かしあたりをうかがいときおり目を見開いて何かを見ていた。小汚い小男はモズロであった。明らかに様子はおかしく目が血走っている。そこはパリス下層にあるサイロの横にある納屋であった。外では軍馬が放し飼いにされていた。
納屋の扉が軋み深いな音を立てて光が差しこんでくる。その光が陰になり男がモズロの前に立った。
「待たせました」
作ったようなニヤケ笑顔を張り付けた男、イルノがモズロの待つ納屋へ姿を現したのである。
「誰にも見つからなかったか? あの男が戻ってきおった。時間がない」
焦りを隠せないモズロは喉が渇き、張り付いたような声を出している。イルノは形の良いガラス細工の小瓶を手渡わたした。中には件の赤い結晶が詰まっている。かなりの量で目方もあった。
モズロは小瓶をひったくるように奪った。モズロは瓶を抱え込むようにしてイルノを振り返る。
「注文したブツはどうした?」
イルノは竹の筒を渡す。モズロはパリス金貨の詰まった麻袋を手渡した。中身を見てイルノは満足そうに頷いた。
「確かに頂きました。赤いやつとそれは一緒に使ったらダメでっせ。体か持ちませんから」
「わかっとる」
モズロは禿げあがった頭に汗がにじんでいた。
「しかし旦那もいい歳してお盛んですね?」
「わしが使うわけじゃない。お前もいらぬ詮索はするな」
「へいへい。わかりました」
イルノは金貨を抱えると納屋を後にした。残ったモズロはしばらくその場から動かない。どれくらい時が過ぎたかわからなかったが、しばらくすると納屋の扉がもう一度開いた。
フードを深くかぶり、顔が見えない。背が高く体格も良かった。動作から若い男ということがわかる。男がモズロに冷えた声をかけた。
「首尾は?」
モズロは竹筒とガラス瓶を見せると必死で作った笑みを見せた。
「ここに」
フードの男は小さく頷く。モズロは男に竹筒とガラス瓶を手渡す。
「これで約束を果たしていただけるますか?」
「よくやってくれた。しかしまだお主の願いを聞くためには時期ではないだろう?」
「…それは」
「しばし待つがいい。ことが上手くいけばお主のことを悪い様にはせぬ」
阿りとも諂いとも言えぬ顔をして、モズロはフードの男にかしずかんばかりであった。
「必ず、あの男に…あの男に受けた恥辱を晴らさねばなりませぬ。なにとぞ約定をお忘れなさいますな」
「わかっておる。こちらも彼奴のことが目障りなのだ。だからこうしてお主にこれを仕入れさせたのではないか」
愛想笑いがモズロに浮かんだ。卑屈で己の利益だけを望んだその笑みをフードの男は自分に対する忠誠と服従の表れであると捉え満足そうに口角をあげる。
受け取ったものは今パリスの裏社会では欲しがるものが絶えず価値が高騰していた。これほど広まった精力剤を怪しむ者など今のパリスには存在しないであろう。
竹筒の中身は金雀枝の生薬から作られた利尿剤である。かなり強力な薬であり、出産時の子宮からの出血を止めるために使われることすらあるほどのものなのだが、青の歌い手たちであればこのように薬にすることができる。毒素を尿として出すときなどに使われ一般的ではないがよく見かけるものではあった。
フードをかぶった若い男は赤い結晶と金雀枝の薬を麻袋にいれる。どちらもそれ単体では人体に強い影響があるようなものではなかった。
「モズロ殿、お主はいったんファーロ村へ戻るがよい。計画が上手くいけば呼び寄せるのでな」
「わかりました。しかし彼奴の処分が決まれば必ずこの手で…」
「そう焦るな」
若い男に諭されモズロは目を左右に動かす。瞼が痙攣し瞳孔も開いたままなのはおそらく心身の負担に耐えれず麻脂に手を出しているからなのであろう。モズロは異様に汗を掻いている。男は懐から綿の手拭いをわたした。どこにでもある藍染された手拭い。モズロはそれを受け取ると顔を拭く。じっとりと湿った手拭いをモズロは小さくたたみ返した。男は手拭いを受け取らなかった。
「パリスを離れて少し休まれよ。もうすぐお主の望みもかなうだろう」
そう告げるとフードの男は納屋を出ていく。
男が去るとモズロは震える手で懐から手巻き煙草を取り出す。埃っぽい机に植物の鞣し皮を広げそこへ煙草の葉を
入れる。さらにモズロは麻脂を取り出すと油っぽい樹脂をそこへ混ぜた。手が震えて上手くいかず、煙草の葉が幾分かこぼれて床に落ちた。
どうにか巻ききると、モズロは煙草の匂いを嗅ぐ。火種がないため吸うことが出来ない。落ち着くまでゆっくりと嗅ぐと手の震えは止まっていた。汗も引き目元のクスミが一段濃くなったように感じられる。目を開くとやはり血走ってはいるが、焦点ははっきりとしていた。モズロがひざに手をかけ勢いよく立ち上がる。納屋に差し込む陽は少し傾きモズロの影を大きく伸ばしていた。
シーラは大鉈を肩に担ぎ、少し太り気味の男を見下ろしていた。男の前歯はなくなっている。口や鼻から血が出てそれが喉の奥に流れ込み男は小刻みに息をしていた。
シーラは男の口に踵を捻じ込む。耳障りの悪い水分を吐き出すような音が喉の奥から絞り出され下顎が外れた。ロマはつまらなそうに虫の息になった男の顔面を踏み力を籠める。頭蓋が軋み男が身体を痙攣させている。
五人の若いチンピラは生きているのが不思議なほどボロボロにされている。
「駄目だな。どいつもこいつも糞弱え」
ロマの機嫌は悪い。パリスの下層にはロマとまともにやりあえるものがいなくなってきていたことが理由であろう。シーラは笑いながらチンピラの口の中を踵でぐちゃぐちゃにしている。目元は全く笑っていない上に焚火の明かりで悪魔のように見えていた。
「タナってチンピラはどこに隠れてんだ?」
シーラは踵を口から離した。粘度のある血液が口から溢れジラの革靴を汚し糸を引いている。男は下顎が外れてしまい上手く話すことができない。泣きながら何かを喋ろうとするがその顔が気に入らなかったのかシーラは男のコメカミを思いきり蹴りあげた。若いチンピラは昏倒して意識を失う。
チョルノは前歯の無くなった男の首を抑え、両手を後ろにさせた状態でうつ伏せにし背中に乗っていた。
「小僧、ああはなりたくないだろ? うちの兄貴たちは手加減ができないからな」
チンピラは涙を流していた。タナに言いくるめられ麻脂を売って小銭を稼いでいたまではよかった。しかしその小銭で派手に女遊びをしたためにダルダ一家に目を付けられたのである。
男たちはパリス市内に拠点がなかった。そのためパリスの外にある廃墟に居ついていた。下層民で根無し草、素行の悪い若者たちはおおむねこういった廃墟を塒にしている場合が多い。サウル・ローハン盆地には大小さまざまな都市や邑がいくつもあるが、その周辺には元々人の営みがあった廃墟が点在してるものなのである。
男たちはその塒にしている廃墟にもどったとき、ダルダ一家に襲われたのであった。元受けのタナが同じような生活をしていると踏んだローハンのやくざ者たちは、とりあえず虱潰しに廃墟を調べるという手段にでたのであった。
「麻脂の受け取りはどこだったんだ? ちゃんと教えたら命は助けてやるよ」
チョルノの声は脅しの色が濃い。目の前でロマが男の耳の下あたりを踏み抜き骨が砕ける音が聞こえる。あまりの恐怖に男は激しく首を縦にふった。
歯は無くなり、鼻も潰され口の中が血まみれであったが何とか声をだす。
「受けしょりは、みゃいかいちぎゃいみゃしゅ」
「聞き取りづれぇな」
チョルノは男の指を無造作に折り曲げる。激痛に耐えれず涙声の叫びをあげた。折れ曲がった人差し指をさらにグルグルとまわす。
「タにゃしゃんたしは、おにゃしところにはいみゃしぇ」
男は鳴きながら激痛に耐える。
「んんんん!…」
「どうでもいいんだわ。次の受け取りはどこだ?言えばこのまま返してやるって」
「しょれも!…ひぃ! あっぢかられんりゃくがないと…」
「使えねぇな。やっぱり死んどくか?」
「きょきょで! きょきょでみゃっていれびゃ! しゅぐに!」
みっともない上に血液が鼻から喉の奥に流れ込んでしまい。やはり聞き取りにくい。どうやらタナは点在する廃墟に売人を待機させそこへ麻脂を配っているようであった。激痛に耐えれず顔を紅くしながら涙を流す男の指はすでに両手の薬指と人差し指をへし折られ、中指を持たれている。
チョルノが中指を逆方向へ曲げようと力を込めると、シーラが近づいてきた。
「吐いた?」
「ええ。ここで待ってばくるみたいですね」
シーラは指を折られた男の後頭部を踏む。
「どうせタナとかいうジャリは来ないんだろ?」
「そうでしょうね。使いっ走り一匹捕まえてもどうしようもないですね」
シーラが下で鳴き声を出している男の脛に足を乗せ無造作にへし折った。地面に顔面をうずめているため叫び声は小さく響くだけである。
「兄貴、どうします? 俺だけでも残って使いっ走りの後つけましょうか」
シーラは少し酸っぱい顔をした。そういう細やかな仕事が一番苦手なのがチョルノなのである。思わずシーラはチョルノの頭を小突いた
「ズダの野郎を呼んどけ。お前になんかさせたら仕事が増えるわ!」
理不尽な目にあいチョルノは少し不満そうな顔になったが、すぐに表情を消した。二人のやり取りを聞き最初に気を失っていた男が上半身を起こす。他のものよりも幾分かましだが、目元が青黒く腫れあがっていた。
「もうしまいだ。こんな目に合うなんて聞いてねぇよ」
ロマとシーラがその男の前に立つ。二人とも表情が消えていた。
「なんだ? お前なんか知ってんのか?」
「ああ。知ってるとも。話したら全員見逃してくれんのか?」
ロマがしゃがみ男の髪をわしづかみにする。
「何でお前の要件きかにゃならんのじゃ?」
男はロマに唾を吐きかけた。
「なら殺せよ。約束しねぇなら喋らねぇよ」
ロマは頬に付いた唾液を袖口でぬぐう。
「お前バカだけどいい根性してるな。話の内容次第なら約束してやるよ」
「クッソ髪離せよ。タナの野郎の使いっ走りしてるガキはタナの弟なんだよ。人手が足りなくなって呼び寄せやがったんだ。下の毛も生えてなさそうなガキだけどあいつら捕まえればいくらでもタナを釣りだせる。それにタナを使ってるノア一家のエルヴィには女がいる。ユシナって堅気の女だ。ただ危なくなってからはユシナのとこにエルヴィは顔出しちゃいねぇ」
ロマは髪を離す。エルヴィの情報はかなり大きかった。女がいることは知っていたがズダもガレも結局つかめず仕舞いだったのである。
「堅気か。パリスのやつらの保護うけてるんか?」
「あぁ。ユシナはパリスの工員だな。俺たちだってもう半年以上もエルヴィ本人の姿はみちゃいねぇよ」
ロマは男の顔面を殴りつける。鼻がへし折れおびただしい血が流れてくる。すでにロマの拳は何人もの返り血で赤くなっていた。しかし男は仰向けになりながら笑っている。
「ユシナに手を出してみろ。おっさんらだって無事じゃすまねぇことになる」
シーラが男に跨った。鉈を男の顔の横に突きたてた。
「どういうこった?」
「おっさんらやり過ぎたってことさ。知ってんだろ?幽鬼のことは。もうあいつらあんたらに目を付けてる。もちろんタナだって目を付けられちまってる。俺たちゃちんけな売り子だから許しちゃもらえるかもしれねぇが、あんたらはパリスの流儀を無視し過ぎたのさ。どいつもこいつもとっくの昔に詰んでるだよ」
シーラは男の胸を踏みつけ、踵で肋骨を踏み折る。加虐的な笑顔が張り付いていた。
「そうかそうか。お前面白いこと言うな」
次の瞬間男の首筋にタナの大鉈が滑り込み、男の視界が暗くなった。
エルヴィは空になった果実酒の入った水袋に何度も口を付けていた。
目は血走り、顔色は表現のしようがないような紫のような色に変色している。ほとんど眠ることもできず現実から逃げようと浴びるように酒を飲んでいた。パリス中の目が自分を探していると思うと恐怖と憤りで両手と身体が震えてくる。
どん詰まりになり家族の元へ逃げかえることも考えられなくなっている。身に覚えのない禁忌物の元締めとされ、やくざ者だけでなくパリス市民からも追手がかかり、何度も死のうと考えたがそんな根性もないためこうして酒をあおっているのであった。
秘密の地下通路から夜中にパリスに入りイルノへ便りを出してからすでに四日立っている。イルノだけがエルヴィと落ち合うことができる状況にあり、エルヴィはその待ち合わせ場所が見える廃墟の隠れ家に身を潜めていた。
どこで間違ったのかすらもエルヴィはわかっていない。ほとんど自分では気が付かないままことが進んでしまっていた。かろうじてわかることは、外からきた顔も見たことないようなチンピラが、元締めはエルヴィであると風潮していることである。身に覚えのない噂が独り歩きし、そして既成事実となりつつあった。
危険が及ぶことを恐れ女とも別れ、いよいよ頼るところがなくなりパリスの外で当てもなく廃墟を転々とした生活であったが、それもだんだんとできなくなってきている。ねぐらにしていた廃墟のいくつかに外から来ているチンピラ共が入り込んでいたからであった。人目を避けていたこともありエルヴィは、誰が自分を狙っているのかすらも判断できなくなってきていた。
炯々と光る瞳は瞬きもしていない。薄暗くなってきた廃墟の真ん中に昨日まで火がついていた形跡のある焚火の後が残っている。ヴェスは崖崩れに飲まれた二階建ての屋敷の上から廃墟全体を警戒していた。極限まで高まった精神は廃墟に近づく複数の人影をかなり遠くから視認している。
近づいてくる人数は三人、暗がりで顔は認識できなかった。エルヴィは息を止め焚火に近づく三人を見ている。二番目の男が肩をいからせて焚火に近づく、苛立ったように焚火の後を踏みつぶしているのが分かった。男のシルエットにエルヴィはも覚えがあった。決して高くない背、足が短く肩幅が広い。それはノア一家のイルノであった。
「おーい! いるんだろうが!?」
イルノが暗い廃墟に声を張り上げた。イルノについてきている人が誰かわからずエルヴィは出ていくこともできずにいる。
誰も信用など出来ない状況。エルヴィはイルノですら自分を売るのではないか、他にパリスの市民兵が控えているのではないかと疑心にかられていた。
イルノは面倒臭そうに焚火に顎をしゃくった。ついてきたのはノア一家で使っている若衆であった。若衆は小さく頷くと焚火に火をつける。焚火に照らされた顔はエルヴィよりもさらに若くほとんど少年と言っていい。
ほとんど全滅と言っていい状態でガーシの跡目を形式だけはゴモトが継いだ。そんなノア一家にいまだに残っているところを見るとこの少年は行く当てがないのか、それとも本当に何も考えてないかのどちらかであろう。もう一人いるがそちらは暗闇で顔が見えない。エルヴィはシルエットで誰か見当がついた。状況が悪くなってから雇われた用心棒のツガであろう。
ツガがイルノの横に立つ。イルノよりも頭一つ大きくかなりがっしりとしていた。顔は傷だらけで腕が太い。見えている部分も切り傷だらけであった。
「旦那いないな」
「いや、どっかにいる。隠れてやがるのさ」
イルノの顔が下から焚火に当てられ薄気味悪く笑っていた。もう一度イルノが声を張り上げた。
「聞こえてるのはわかってんだ。今度は二人で会おう。三日以内に東の廃村にいろ! わかったな」
イルノの声にエルヴィは汗をぬぐいながら聞き入っていた。罠なのかどうなのか一人では判断できずにいる。この時エルヴィはパリスのノア一家の動向もよくわからぬままであった。
三人は焚火を消すことなくその場を後にした。エルヴィがここにいれば必ずどこかに移るはずである。しばらく隠れて火が消えたのであれば、エルヴィを探せばよいし、つけたままであれば血眼になって探し回っているパリスのやくざ者が火が付いた焚火の周りを探すため、どうしてもエルヴィは場所を変えないといけなくなる。
エルヴィは消されない焚火を睨んで小さく舌打ちをする。イルノは常にこういう小賢しい嫌がらせをするのであった。しかし今エルヴィが頼るところはイルノの他にいない。完全に人の気配がなくなるのを確かめ用心しながら建物からでる。土砂がそのままになっている面を登り山のほうへエルヴィは向かった。
パリスの周りには森らしい森はない。しかしその先には崖にできた洞穴があった。古い時代に誰かが何かの理由で掘ったのであろう。そこにエルヴィは隠れていた。まだ緑の月であり凍死の心配はなかったが、流石に何日もなると体に応えてきていた。
「なんで俺が…なんで俺だけがこんな目に…」
エルヴィの瞳からは涙が垂れていた。鼻をすすり暗い洞窟の中にあるボロキレの中にくるまった。あの土砂の裏にこんな洞窟が隠れているとは誰も気づかないであろう。実際ここ三日数人の廃墟に来ていたがここまでは気づいていなかった。
何もわからぬまま不幸な少年は神経をすり減らしたまま眠りについていた。
その日、パリスはあまりの快晴で陽の光が瞼を焦がすほどであった。黒い神殿とセリウィス家の館の中では太陽の光よりも鋭利な言葉のやり取りが繰り広げられている。
「なぜ?カシアスの相続を認めないのですか? トーメスは次男。宗家を継ぐのはカシアスのほうが相応しいでしょう」
金切声に近い。シュザンナは冷静を装い自分の主張だけをダルダンに向かって吐き散らかしていた。ダルダンはカシアスの宗家相続を認めていないわけではなかった。条件を付けているだけなのである。
「奥方、何度も言っているがカシアス様を認めておらぬわけではない。ただ二年、いや半年でもよい兵役につきパリスに義務を果たせねば宗主の立場を軽くみられることになるといっているのだ」
「なぜ? カシアスは宗主になるのです。戦争では宗主が全軍を率いるのがパリスの宗法でございましょ? だったらわざわざ兵役などに付かなくてもよいではありませんか」
ダルダンとシュザンナの話は平行線であった。シュザンナは現実を見ていない、見ようとしていない。カシアスの生母ということでこの場にいるわけであるが、本来は世継ぎを決める場にいるべき人物ではなかった。
ダルダンは数回の怒りに耐え、今はあきれ果てている。これほどまでに自我が強いとは思いもよらなかった。マルシアは付きっ切りの看病が堪えたのか、今はコルピン家に戻り休んでいた。マルシアの献身とは対照的にシュザンナはほとんど看病などせず、四家の当主に対しカシアスの相続の正当性を訴え続けているのである。
四家の当主は全員揃っている。ダルダンをはじめコルピン家のゴルヴィが隣に座り、シュザンナの左にレイヴンが腕を組んで黙っている。
眉を上げ脅しすかすような言葉を発しづつけるシュザンナの横で、癖のあるブラウンの髪と貧相で気弱そうな面長の顔をした男がマッシュハガ家の当主代理コスゲンである。
コスゲンはシュザンナの従兄弟でバータの大叔父あたる。分家にあたり本来であれば本家筋のバータがマッシュハガ家の跡取りなのであるが、兵役に付いていないこととまだ若年であることを理由に当主代理という立場でこの場にいた。マッシュハガ家の当主でバータの父であるヴリンは病があり半分隠居してしまっていた。
シュザンナの言い分をまんじりともせず聞いていたレイヴンがようやく声をだす。
「どうしてもカシアス殿をパリスから出したくないと見えますな」
シュザンナがレイヴンを睨みつける。世継ぎの段になりシュザンナの本性があらわになったことにレイブンは憤りがあった。反論されること自体が不愉快なシュザンナは四家の当主に対する敬意を完全に失っている。
「レイブン殿? アケドナ家がどれだけテリデス様の恩を受けたのか忘れたのではあるまいな? 幼少より其方を引き立ててくださったテリデス様に対する忠義は忘れたと見える。正当なパリスの宗主になるべきはカシアスでしょう? 其方はテリデス様のご恩に報いるためにもカシアスを盛り立てなければなりません」
レイブンは深くため息を吐き出した。彼の忠誠は確かにセリウィス家とパリスにある。それを勝手に拡大解釈されたことに諦めに似た感情が沸き起こっていた。
ゴルヴィが剣呑な空気の中ふいに立ち上がった。
「少々煮詰まりすぎだな。マルシアのことも気になるでわしは少し休ませてもらう。シュザンナの言い分はようわかったし、我らとてカシアス殿の相続を拒否する気はないでな」
「あら? コルピン家はカシアスを支持してくださるのですね?」
「お主しだいだなシュザンナ。よう考えてみるがよい。パリスに大事が起きたとき、今のカシアス様が宗主として恥ずかしくない行いができるかどうかという事を皆が心配しとるのだ」
シュザンナの顔色が変わり出ようとするゴルヴィに何か声を掛けようとすると、レイヴンとダルダンが同時に立ち上がった。二人ともシュザンナの暴言に精神がすり減ってきていたこともあり、ゴルヴィの動きをこれ幸いと考え席を立ったのであった。
残されたシュザンナは声もなくただ机の中央を睨みつけている。
「コスゲン殿、カシアスはどこにいるの?」
毒気が強い声色をだす。
シュザンナの顔は怒りで腫れあがっているように見えた。肥大化した自己顕示欲と権力への強い欲求が女の美しい顔を醜悪な物へと変えてしまっている。コスゲンは悪鬼を見たような恐怖心に思わず身震いしていた。
薄暗い倉庫に埃と黴の匂いが満ちている。フードを深くかぶった小男が日の光を避けるように目線を左右に動かしている。禿げあがり脂ぎった頭部からは汗が滲み、狭い倉庫の中に油臭い加年臭を放っている。
小男は忙しなく視線を動かしあたりをうかがいときおり目を見開いて何かを見ていた。小汚い小男はモズロであった。明らかに様子はおかしく目が血走っている。そこはパリス下層にあるサイロの横にある納屋であった。外では軍馬が放し飼いにされていた。
納屋の扉が軋み深いな音を立てて光が差しこんでくる。その光が陰になり男がモズロの前に立った。
「待たせました」
作ったようなニヤケ笑顔を張り付けた男、イルノがモズロの待つ納屋へ姿を現したのである。
「誰にも見つからなかったか? あの男が戻ってきおった。時間がない」
焦りを隠せないモズロは喉が渇き、張り付いたような声を出している。イルノは形の良いガラス細工の小瓶を手渡わたした。中には件の赤い結晶が詰まっている。かなりの量で目方もあった。
モズロは小瓶をひったくるように奪った。モズロは瓶を抱え込むようにしてイルノを振り返る。
「注文したブツはどうした?」
イルノは竹の筒を渡す。モズロはパリス金貨の詰まった麻袋を手渡した。中身を見てイルノは満足そうに頷いた。
「確かに頂きました。赤いやつとそれは一緒に使ったらダメでっせ。体か持ちませんから」
「わかっとる」
モズロは禿げあがった頭に汗がにじんでいた。
「しかし旦那もいい歳してお盛んですね?」
「わしが使うわけじゃない。お前もいらぬ詮索はするな」
「へいへい。わかりました」
イルノは金貨を抱えると納屋を後にした。残ったモズロはしばらくその場から動かない。どれくらい時が過ぎたかわからなかったが、しばらくすると納屋の扉がもう一度開いた。
フードを深くかぶり、顔が見えない。背が高く体格も良かった。動作から若い男ということがわかる。男がモズロに冷えた声をかけた。
「首尾は?」
モズロは竹筒とガラス瓶を見せると必死で作った笑みを見せた。
「ここに」
フードの男は小さく頷く。モズロは男に竹筒とガラス瓶を手渡す。
「これで約束を果たしていただけるますか?」
「よくやってくれた。しかしまだお主の願いを聞くためには時期ではないだろう?」
「…それは」
「しばし待つがいい。ことが上手くいけばお主のことを悪い様にはせぬ」
阿りとも諂いとも言えぬ顔をして、モズロはフードの男にかしずかんばかりであった。
「必ず、あの男に…あの男に受けた恥辱を晴らさねばなりませぬ。なにとぞ約定をお忘れなさいますな」
「わかっておる。こちらも彼奴のことが目障りなのだ。だからこうしてお主にこれを仕入れさせたのではないか」
愛想笑いがモズロに浮かんだ。卑屈で己の利益だけを望んだその笑みをフードの男は自分に対する忠誠と服従の表れであると捉え満足そうに口角をあげる。
受け取ったものは今パリスの裏社会では欲しがるものが絶えず価値が高騰していた。これほど広まった精力剤を怪しむ者など今のパリスには存在しないであろう。
竹筒の中身は金雀枝の生薬から作られた利尿剤である。かなり強力な薬であり、出産時の子宮からの出血を止めるために使われることすらあるほどのものなのだが、青の歌い手たちであればこのように薬にすることができる。毒素を尿として出すときなどに使われ一般的ではないがよく見かけるものではあった。
フードをかぶった若い男は赤い結晶と金雀枝の薬を麻袋にいれる。どちらもそれ単体では人体に強い影響があるようなものではなかった。
「モズロ殿、お主はいったんファーロ村へ戻るがよい。計画が上手くいけば呼び寄せるのでな」
「わかりました。しかし彼奴の処分が決まれば必ずこの手で…」
「そう焦るな」
若い男に諭されモズロは目を左右に動かす。瞼が痙攣し瞳孔も開いたままなのはおそらく心身の負担に耐えれず麻脂に手を出しているからなのであろう。モズロは異様に汗を掻いている。男は懐から綿の手拭いをわたした。どこにでもある藍染された手拭い。モズロはそれを受け取ると顔を拭く。じっとりと湿った手拭いをモズロは小さくたたみ返した。男は手拭いを受け取らなかった。
「パリスを離れて少し休まれよ。もうすぐお主の望みもかなうだろう」
そう告げるとフードの男は納屋を出ていく。
男が去るとモズロは震える手で懐から手巻き煙草を取り出す。埃っぽい机に植物の鞣し皮を広げそこへ煙草の葉を
入れる。さらにモズロは麻脂を取り出すと油っぽい樹脂をそこへ混ぜた。手が震えて上手くいかず、煙草の葉が幾分かこぼれて床に落ちた。
どうにか巻ききると、モズロは煙草の匂いを嗅ぐ。火種がないため吸うことが出来ない。落ち着くまでゆっくりと嗅ぐと手の震えは止まっていた。汗も引き目元のクスミが一段濃くなったように感じられる。目を開くとやはり血走ってはいるが、焦点ははっきりとしていた。モズロがひざに手をかけ勢いよく立ち上がる。納屋に差し込む陽は少し傾きモズロの影を大きく伸ばしていた。
0
あなたにおすすめの小説
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~
ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。
王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。
15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。
国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。
これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します
namisan
ファンタジー
バーンズ伯爵家の長男マイルズは、完璧な容姿と神童と噂される知性を持っていた。だが彼には、誰にも言えない秘密があった。――前世が日本の「医師」だったという記憶だ。
マイルズが10歳となった「洗礼式」の日。
その儀式の最中、領地で謎の疫病が発生したとの凶報が届く。
「呪いだ」「悪霊の仕業だ」と混乱する大人たち。
しかしマイルズだけは、元医師の知識から即座に「病」の正体と、放置すれば領地を崩壊させる「災害」であることを看破していた。
「父上、お待ちください。それは呪いではありませぬ。……対処法がわかります」
公衆衛生の確立を皮切りに、マイルズは領地に潜む様々な「病巣」――非効率な農業、停滞する経済、旧態依然としたインフラ――に気づいていく。
前世の知識を総動員し、10歳の少年が領地を豊かに変えていく。
これは、一人の転生貴族が挑む、本格・異世界領地改革(内政)ファンタジー。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
異世界で神の元カノのゴミ屋敷を片付けたら世界の秘密が出てきました
小豆缶
ファンタジー
父の遺したゴミ屋敷を片付けていたはずが、気づけば異世界に転移していた私・飛鳥。
しかも、神の元カノと顔がそっくりという理由で、いきなり死刑寸前!?
助けてくれた太陽神ソラリクスから頼まれた仕事は、
「500年前に別れた元恋人のゴミ屋敷を片付けてほしい」というとんでもない依頼だった。
幽霊になった元神、罠だらけの屋敷、歪んだ世界のシステム。
ポンコツだけど諦めの悪い主人公が、ゴミ屋敷を片付けながら異世界の謎を暴いていく!
ほのぼのお仕事×異世界コメディ×世界の秘密解明ファンタジー
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
毎日19時に更新予定です。
おいでよ!死にゲーの森~異世界転生したら地獄のような死にゲーファンタジー世界だったが俺のステータスとスキルだけがスローライフゲーム仕様
あけちともあき
ファンタジー
上澄タマルは過労死した。
死に際にスローライフを夢見た彼が目覚めた時、そこはファンタジー世界だった。
「異世界転生……!? 俺のスローライフの夢が叶うのか!」
だが、その世界はダークファンタジーばりばり。
人々が争い、魔が跳梁跋扈し、天はかき曇り地は荒れ果て、死と滅びがすぐ隣りにあるような地獄だった。
こんな世界でタマルが手にしたスキルは、スローライフ。
あらゆる環境でスローライフを敢行するためのスキルである。
ダンジョンを採掘して素材を得、毒沼を干拓して畑にし、モンスターを捕獲して飼いならす。
死にゲー世界よ、これがほんわかスローライフの力だ!
タマルを異世界に呼び込んだ謎の神ヌキチータ。
様々な道具を売ってくれ、何でも買い取ってくれる怪しい双子の魔人が経営する店。
世界の異形をコレクションし、タマルのゲットしたモンスターやアイテムたちを寄付できる博物館。
地獄のような世界をスローライフで侵食しながら、タマルのドキドキワクワクの日常が始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる