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第二夜
年代記『五公国記 盆地の王と獅子の歌姫』
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昼間の喧騒が嘘のようにセリウィス家の館は静まり返っている。黒造りの館は夜の闇に溶け込み、周辺の篝火に照らし出され異様な威圧感があった。
テリデス・セリウィスが倒れ、その跡継ぎの話し合いは当人たちを差し置いて、正妻であるシュザンナ・セリウィス・マッシュハガの独演会となっていた。誰も納得も承服もすることが出来ない彼女のスピーチの後、空気の冷え切ったセリウィス家の館に兄弟は顔を突き合わせていた。
カシアスとトーメスは周りが考えているほど兄弟仲は悪くない。トーメスが保守的な思考の持ち主だあったことも理由であろうが、兄が宗家を継ぐものと信じて疑わなかった。むしろただパリス市民として宗家の直系男子として義務を果たしているだけの自分が評価されていることが過大なことと捉えていた。
カシアスがトーメスの木製ジョッキにぬるい葡萄の酒を注いだ。ウル・アリーシャ高地以北では葡萄が育たない、これらは全てローハン盆地よりも南で作られたものであった。酸味が強い酒をトーメスはあまり好まなかったが、こうして兄に注がれると断れるものでもない。
「いつぶりだ? 二人で食事するのは」
カシアスはこの年23になる。トーメスは二十歳でオグナルたちと同年代であった。カシアスが怠惰な生活をしているとは思わなかったが、その取り巻きたちには一抹の不満を持っていた。母親がマッシュハガ家の出自であることも理由なのだが、カシアスが付き合っている同世代のパリス市民はバータたちマッシュハガ家の若人ばかりなのである。
バータは人間性はともかく若いものの中では優秀とされていた。トーメスは少し距離を置かれていると感じていたが、マッシュハガ家がシュザンナの意向を受けてのことと承知している。
トーメスは慣れない酒を口に含んだ。酸味が口に広がり思わず顔をしかめた。喉に流れ落ちる液体は温く位に流れ込むと瞬間にアルコールの違和感が食道を刺激する。
「兵役に出る前ですから。もう一年近くになりますか」
「軍なんか行って、なんかいいことあったのか?」
カシアスには悪びれたところはない。自分の価値観から外れた物事に関心が薄く想像が働かないのである。軍役につくことに価値を見出せないカシアスには、トーメスの行動がまったく理解できなかった。
パリス市民の評価も戦場の血が沸騰するような緊張感にもカシアスには現実感が感じられない。彼にとっては華やかな夜のどぶ板通りと、そこにいる女たちの香り。男女の営みの後にある鈍い倦怠感。快楽に溺れることがカシアスの価値観であった。
カシアスは自分の人間性を分かっていた。わかっているつもりであった。宗主の椅子などあまり興味もない。むしろいらぬ負担になるのであれば、そんなものに労力を費やすことすらバカバカしいと考えていた。,
彼にとって重要なのはこの世の楽しみを堪能することである。責任も立場もいらない。宗家の跡取りなどという生まれは便利ではあったが出来る事ならば他人に押し付け、良いところだけをいただいておきたいというのが本音なのである。
隠した本音を悟られぬようにカシアスは過ごしていた。責任や義務をなるべく負わず、しかし宗家の跡取りという立場を上手く利用し、評判を下げぬよう振舞う。古いパリスの市民にはその本質を見抜いている者もいたが、若いパリス市民の評価は悪くない。カシアスにしてみれば老人の支持など今更いらなかった。
そんな考えが心根の底に沈殿しているカシアスの理解では、兵役で得るものなど何もないということに決着するのであった。弟の前で本音の一部が漏れ出てしまっていた。
トーメスはそんな兄の性根をよくわかっていた。弟のほうは兄とは悪い意味で真逆である。保守的で考え方が凝り固まり、あるべきパリスの姿とはという命題を追ってしまう。それでも戦場に出て行ったことで、世の中のことをわずかばかり広くとらえることが出来るようになっていた。
「そうですね…何か得たものがあったといえば」
カシアスはグラスの葡萄酒を一気にあおる。酒を飲み美味いものを食らい。女を抱くことが彼の価値を決定する全てであった。そしてこの楽しみを誰かと共有することがカシアスの望みなのである。
カシアスはトーメスのジョッキに葡萄酒を注ぎ足した。トーメスは注がれたものに口を付け少量喉の奥に流す。もうずいぶんと飲んでる。
「世の中には自分の思い通りにならないことがあるのが、案外面白いということでしょうか」
「なんだそれ? 思い通りにならないことが楽しいのか?」
「ええ。戦ばかりではないですがね。パリスの外は我々の思いどおりなどにならぬことが沢山ありますから」
カシアスはつまらなそうに干し肉を食いちぎる。どこか悟ったようなことを言う弟の考えを理解することが出来ずにいた。
「俺は自分の思い通りにならないことは嫌いだ」
「しかしいつまでもそうしておるわけにはいかないのでは? 兄上が宗主となるのは決定しているとはいえ。戦に出ていないことは後々侮られる元になりますよ」
「お前も四家のうるさい爺どもと同じことを言うのだな」
カシアスは鼻で笑った。兵役を引き延ばさせて数年たつが自分が赴かなくてもパリスは一度も領土を侵されたことはない。それはカシアスの取り巻きも一緒で彼らが戦場に立とうが立つまいがパリスは安泰なのである。その平和はカシアスにとって当たり前に享受するべきものなのである。パリス市民の誇りを押し付けられ戦場などに立たされるなどということはまっぴらであった。
トーメスはカシアスの性格をよく知っている。あからさまに不機嫌になっている兄をみて空気を変えようと話題をすり替えた。
麻袋を取り出し中から油まみれの植物の樹脂を取り出す。それを見たカシアスは息を大きく吸い込んだ。
「どうしたんだ? 禁制だぞ」
「これがどこで作られているか知っておりますか?」
カシアスは首を横に振る。どぶ板通りに入り浸っているときからかなり大掛かりな取引が行われていることは噂で聞いていたが、流石にパリス宗主の跡取りという立場もあり手を出すような真似はしていなかった。遊郭の女郎だけでなくその店のやり手婆にまで麻脂に手を出している者がいるのをカシアスは何度も見ている。
「これらの出所はジロンでとれた麻をパリス領内に運びモッサリア周辺の小さな部落で加工しておるのですよ」
「そこまでわかってるのなら何とかならないものなのか?」
「はい。製造元はほとんど取り締まっていますが、その部族がパリス領内のものではないのですよ。旧ユリシア領からの移民たちに作らせた部族が殆どでした」
旧ユリシア領移民。ユリシア家が滅んだあと移民と奴隷の問題は根強く残り続けている。ユリシア宗家に仕えていた都市は各々が勝手に独立し宗主を名乗り始めて久しい。ユリシアの棄民は血縁関係の氏族を頼りに散っている。その由緒のある氏族は都市に居つき細々と生きながらえている。
問題はユリシア宗家とは関係性が薄い非都市民や領民たちであった。奴隷の草刈り場になってしまっているために旧ユリシア領内にいるのは命取りとなっていた。彼らは守護する都市民たちがいなくなってしまい安全確保のために終わることのない闘争の日々を送るか、ユリシア領内から逃げ出しパリスやジロンに逃げ込んでいるのである。
縁も所縁もない土地で移民が生きていくため、彼らは麻脂のようなものを作らされていたのである。移民の不幸の上に金儲けをしている下衆が、モッサリア周辺で暗躍しているということをトーメスはカシアスに気づいてもらいたかった。
「これもまた己の思い通りにならぬことの一つですよ兄上。毎日彼奴等を捕まえ尋問していてもパリスへ流れる麻脂の量は減らない。これが禁制の物であろうがなかろうが、人が欲すれば誰かが用意するものなのです」
トーメスの冷たい言葉にもカシアスは興味なさそうに頷くだけであった。トーメスは戦場に立ち外からパリスを見てしまったことで、パリスという都市の影の部分を見出している。ほんの数カ月の時間が二人の価値観に大きな隔たりを生み出している。
はっきりとトーメスはカシアスの当事者意識の低さに幻滅していた。兵役の前であればカシアスの態度に寛容になれていたであろう。しかし今のトーメスには受け付けがたいほど当事者意識も見識もない男が、目の前に座り何の疑問も持たず酒と肴をたしなんでいる。
カシアスは目の前の弟が纏う空気感の変化を敏感に感じ取る。カシアスは人の感情を察することに長けた男であった。傍若無人で我儘な母親の影響である。顔色を伺うことだけに長けている。そしてカシアスは決して暗愚ではなかった。
「お前も気苦労が多いな。メルシゴナとコルピンの裁量に任せればよかろう。何のための四家だ。宗家のものがいちいち顔を出してはやつらの顔がたたなくなるだろうに」
「それは!…」
「俺とてマッシュハガの出自とういうだけで他の四家には気遣っておるのだ。お前がしゃしゃり出ればコルピン家がいらぬ嫉妬受けることになりはしないか?お前も子供ではないのだそれくらいわかるだろ?」
トーメスは愚直に過ぎた。まだ二十歳にならぬこの男にはカシアスの言い分をはねつけるだけの知恵も経験も持ち合わせてはいない。言葉に窮したトーメスにカシアスは目線を合わせることなく酒を足す。
「どうした?飲むがいい。父上の意識が戻れられればお前の懸念など一瞬のうちに解決してしまわれるであろうよ。小さいことで難しい顔をするのはやめにしろ」
やり込められ、はぐらかされたと思わないでもないが、トーメスは注がれた葡萄酒に口をつけた。それほど飲んではいないが、飲みなれていないトーメスにはいささか量が多かった。この時代の葡萄酒は発酵技術があまりよくないそのため渋みが随分と強く水で薄めて飲むことが多いものであった。そのままでも飲むのではあるが、どうしても味が濃ゆい肉料理などと一緒にたしなむことになる。
パリスはローハンほど物流が交差する都市ではない。しかし宗家の食卓ともなれば珍しいものがそれなりに並ぶものであった。特に香辛料や香草の類は食卓を彩り味を飽きさせないために種類が増えるのであった。
二人の間には夕食で残った干し肉や鹿肉があった。カシアスは無造作に鹿肉を切り取り自分の皿へ移す。机の上にある赤みのある粉が入った器を手に取った。白と赤色がまざり見た目には桃色に見えている。何かの鉱物のようにも見えた。
「北から仕入れた岩塩だ。どうだ?お前も」
トーメスは黙ったまま頷き鹿肉の残りを切り分けた。少量自分の皿に乗せた。
「岩塩?こんな色のものは見たことないですね。珍しい」
「塩といえばローハンの専売みたいになってるがな。ハルゼロンのほうだと塩湖とは違う岩の塩が取れるのさ。それをこうやって細かくすれば塩になる」
「綺麗な色してますね」
「見た目は桃色が混じった石だからな」
トーメスは少量の塩を嘗めてみる。兵士の給金として配られる塩に比べると随分と味がまろやかであった。純粋な塩気よりも味わいがあった。そのまま鹿肉にふりかけ小さく切り取った塊を口に入れる。肉汁と塩がまじり口の中に味わいが広がっていく。
「これはなかなか…」
「ローハンから来る塩だとこうはいかないな。肉料理にはこちらのほうがあってる」
トーメスは鹿肉を一切れ食べきる。かなりの岩塩をかけてしまっていた。塩だけの鹿肉に葡萄酒が奇妙にマッチしてグラスを進めてしまう。
ほろ酔い気味になったトーメスが水の入った器に手を伸ばした。しかし中身が入っていない。酒に手を付ける気にもならず器から手を離す。それまで二人の他に誰もいなかったが、不意に人影が入ってきた。カシアスのお手付きになっている館の飯炊き女で手には新しい水の入った器が握られている。背はそれほど高くなく。栗色の髪と大きな瞳をした美しい女。アケドナ氏族の出自であるということをトーメスは聞かされていた。
彼女の名はドーナ・コルエという。アケドナ家の家人筋の娘で身分は高くない。美しい顔と控えめな性格がカシアスに気に入られ、テリデスが倒れたときにカシアスと共に屋敷に入っているのであった。何かと気が回る女で元からいた屋敷の女たちにも評判は悪くなかった。
「ドーナなんのようだ?」
「これをお持ちしろと」
ドーナは少し色味の付いた液体が入った器を掲げる。
「アケドナ様の差し入れだそうですよ? 何の匂いでしょうか、良い匂いがします」
「ポスカ水かなにかか?」
「ええそうみたい。どうですトーメス様?」
トーメスは塩とアルコールで口の中の水分が随分と無くなっていた。黙って頷き葡萄酒が入っていたジョッキをドーナのほうへ渡す。ドーナは少しはにかみながらポスカ水をジョッキに注いだ。
ジョッキに勢いよく注がれる液体はほんのりと黄緑がかり、柑橘類の香りがわずかにしている。トーメスは思わず喉を鳴らしてしまう。塩分と油が口の中にこびりつき水分を欲していた。
ジョッキが一杯になると当時にトーメスはポスカ水を一息にあおる。喉を鳴らし飲み込んでいく。口の中にわずかに広がる柑橘類の香りが鼻を通り抜け、それ以上に青臭いく苦味のある植物の味覚が水分と共に口の中を支配していく…
トーメスはほぼすべてのポスカ水を飲み込んだ。ジョッキを机に置こうとしたが、左の肩甲骨が異常に収縮するような感覚に襲われる。
痛み…鋭い痛みが左の後輩部に広がっていく。痛みは背中から胸に広がる。トーメスは思わずジョッキを倒してしまう。
「グぅ…ウゥ」
顔色が青ざめていく。トーメスは椅子から滑り落ちるように床へ倒れる視界が狭まっていく感覚とともに胸と喉に焼けるような痛みを感じていた。胸元を自ら鷲掴みにし呼吸を保とうとする。やがてトーメスの喉から高い呼吸音が漏れはじめる。
「トーメス!」
カシアスが叫ぶ。ドーナは思わずポスカ水が入った器を落としそうになった。目の前に机があり、ポスカ水の器は割れずに横になり液体が机に広がる。
「誰か! 誰かおらぬか!? ドーナすぐに医者を」
カシアスがトーメスの頭を抱え上げた。トーメスの呼吸音が小さくなり体は冷たくなり始めていた。顔色は青を通り越し紫色に変色して少し腫れている。
「トーメス! 呼吸をしろ!」
カシアスの叫び声もむなしい。すでに弟の心臓は動きを止めていた。トーメスの目の焦点はどこにもあわず。瞳孔が広がり光を失っていく。
カシアスの両手にトーメスだったものの重さが一気にかかってきた。
「トーメス! しっかり気を保て! トーメス!」
放心状態になっていたドーナの後ろから慌ただしく人の足音が聞こえてきた。カシアスの叫び声を聞きつけ屋敷の誰かが駆け付けたのであろう。扉が勢いよく開き宗家に入っている家人が数人顔をのぞかせる。
「医者を! はやくロゴラス殿を呼んで来い」
家人の一人がはっと表情を変え踵を返す。男はマッシュハガ家から宗家の手伝いに出ていた家人であった。時間が時間である。ロゴラスも自分の屋敷に戻っていることであろう。今から迎えに行き戻っても間に合いそうもないなどと考えながら家人は走り始めていた。
ロゴラスが宗主の館に付いたときにはやはりトーメスはこと切れており、手遅れになっていた。そのときにはマッシュハガ家のシュザンナが屋敷の家人を外に出ることを禁じていた。宗家次男のトーメスの死はパリスに混乱を巻き起こすこととなる。
乾いた空気と暑さが連日続いている。いったん秋の気配が漂ったことがあったが、テリデスが倒れたころから季節が幾分か巻き戻っているようであった。夜が更けると流石の暑さも和らいでいる。虫の鳴き声とどこからとこなく動物の鳴き声が聞こえている。
エルヴィはフラフラと一人廃墟を歩いている。人影は全くなく明かりもつけていない。パリスの東側で元はかなり大きな邑であったのであろう。いたるところに半壊した人家が並んでいる。崩れて間もない家もあったが、まだそのほとんどが原型をとどめ埃をかぶっている。
約束の日までエルヴィは待ち合わせ場所であるこの東の廃墟で身を潜めるつもりであった。幾組かの無法者たちが廃墟に立ちよっていたが大きな邑だったことが幸いし、エルヴィの存在は気づかれていない。おそらく麻脂を売っているであろう男たちの姿も何度か見ている。大広場が見える半壊した二階建てに居座り往来する者たちを観察して過ごしていた。流石に食い物がつきかけていたが、研ぎ澄まされた感覚が空腹感を紛らわせている。
蒸し暑い廃墟でエルヴィは体中に冷や汗をかいている。暗闇の中とは言え目線の先に十人ほどの男がたむろし始めていたからであった。人数としては今までにないほどである。男たちは広場の近くにある明らかに人の手が入った建物の中にぞろぞろと入っていった。崩れかかった壁の補強にどこからか持ってきた板戸を貼り付け、強度を上げている。樽やテーブルが隣接する広場に並べられているのを見て、エルヴィは大きな無法者たちの根城であるとすぐに気づいていた。
(何でこんなとこで待ち合わせたんだ…)
表に出ることもできなくなる。イルノがなぜこの場所を選んだのかを考え始めると考えたくもない考えが頭の中を何度も浮かび上がってしまう。信じたくはない、しかしエルヴィはイルノが自分を見限ったということを思わずにはいれなかった。
口惜しさもあり、やくざ者などを信用した自分の迂闊さを呪わずにはいられない。このまま辛抱して無法者たちがどこかへ移るのを待つしかエルヴィにはできそうになかった。喉はカラカラに乾ききっていたが、エルヴィは喉を鳴らした。広場に比較的近い場所にあるのも気づかれる危険性を高めている。
延べ人数で数十人出入りしていた。やはり麻脂の元売りなのであろう、ほとんど子供のような手合いまで廃墟に出入りしている。どうやら常駐しているのは6人で、体格も良く歳の頃はエルヴィよりも少し上に見える。派手ないで立ちをしているのが遠目にもわかった。
イルノとの約束の日の前日、六人全員が一度に廃墟から何処かへと立ち去る。どうやら彼らの本拠地のようでまさかここにエルヴィが隠れているとは、彼らにも思いもよらなかったようであった。
エルヴィは疲れ切っていた。すでに三日この廃墟で過ごしている。
パリスを離れての逃亡生活に疲れ果て、自分の愚かさを身に染みてわからされていた。ヴィスのように真面目に父親の仕事を学んでいれば、派手な生活などに憧れなければと後悔してもしきれなかった。
大きなため息を吐き出し膝を抱えるように座込む。空腹感は無くならなかった。心労と肉体の疲労に打ち負かされている。目を閉じて少し休もうなどという甘い考えが浮かんだ時、無法者たちのねぐらのほうから怒声が響き。思わずびくりとすると顔を上げた。
月明かりが乏しい三日月の下で、タナとその一党はその日の上りを別けている。六人で根城の外に出たのには理由があった。パリスからかなり東にはずれているこの廃墟で居座り始めてしばらくたつが、最近近くに親子3人暮らしの家を見つけたのである。どうやらパリスの下層にいたようだが。なじめず一家で廃墟の後を直して住みだしたようであった。小さな畑を作り貧相な家に住むその一家をタナ達は脅しに向かった。流石に殺しまではしない。少しばかり食料を奪い取ればそれでよかった。
タナの横を歩く肥えた男が一家から奪った食料を手に取る。それほど量が多いわけではない。タナ達も全てを奪ったわけではなかった。
「どうして全部いただかないんで?」
タナは間抜けを絵にかいたようなデブ男を憐みの顔で見る。
「チーノ。俺たちゃお尋ね者だぞ?派手にやらかしたらまたねぐらを変えなきゃなんねーだろ」
得心が言ったようにチーノと呼ばれたデブ男は間抜けな顔を驚かせた。
「なるほどそりゃ気づかなかった。やっぱタナさんは頭がいいですね」
廃墟の一つにパリスや他の廃墟から持ち込んだ生活用品が乱雑に置かれている。女でも呼べるほど中は物が揃っていた。金だけは不自由なく持っているため酒も食料もふんだんに持ち込める。パリスとの距離も丁度良い塩梅で離れているため腰を据えるには良い場所なのである。
六人は良すぎるくらい良い実入りを得てパリスに入れないことも苦にならなかった。パリスに関係ない流民が小さな集落をつくっていることも多くあり、そこを遊び半分で襲うことも少なからず行っている。奪うだけでなく若い身体から発せられる欲望を満たすことはほどよいスリルを得るために必要なことであった。
タナ一味に知らず知らずゆるみが生まれている。見張り役をパリスからついてきた少年たちに任せているのも油断の表れだった。六人とパリスからついてきた小間使いに使っている少年が二人ならんで夜道を歩いていく。少し丘を越えるとねぐらにしている廃墟の屋根が見えてきていた。
タナが一瞬立ち止まる。他の一味のものがつられて止まる。タナのすぐ後ろを歩いていた男が声をかける。喉が潰れたような声をして、タナと同年代のはずであるが随分と老けて見えた。腹がでっぷりと出て顎もたるみ切っている足は短いのであるが、タナと身長がそれほど変わらない。腕周りや足回りは随分と見た目は立派である。
貫録だけはある男の名はツヌという。
「どうした?」
「なんかおかしくねぇか?」
ねぐらのほうへと近づく。廃屋の入り口前にある広場は樽やどこからか集めた木材、テーブルなどが散乱していた。焚火の灯が消え人の気配がないのである。タナについてきている弟二人と、勝手についてきたパリスの浮浪児が数人残っていたはずであった。
全く人の気配が無くなったねぐらへタナ達は不用意に近づいていく。廃屋の入り口から人影がゆっくりと姿をあらわした。
明らかに残した少年たちではない。いかつく威圧的な風貌をした男…。
「よう。探したぞガキども」
夜空に突き抜けるような大声の主は、ダルダ一家のまとめを仰せつかった男。ガレであった。
その日パリスの下層は静寂に包まれていた。黄金の牡牛の刻をまわりどぶ板通りの華やかな店も篝火を消している。弱い月明かりだけがどぶ板通りを照らし夏の終わりの空気を色濃くしていく。
人の影がどぶ板通りから一つずれたくたびれた民家に映し出され伸びている。どこからか犬の鳴き声が聞こえ物寂しげな夜の町に溶けていった。
影の主が小道に姿を現す。全身を黒地の麻布で包み闇に同化している。目だけが闇に浮かぶように見えていた。細身の影が呼吸音もさせずに動く。場所はノア一家の屋敷であった。ガーシ・ノアが死んでからはイルノとゴモトが勝手に使い始め、それまでノア一家に出入りしていたものとは明らかに様子が違うものたちの出入りが増えていた。イルノの姿はあまり見かけなくなり、どうやらゴモトが身の危険を感じたためなのか護衛を増やしているようである。
陰に溶け込んだ男、ヴェスは歩く音を立てずに屋敷へと近づいていく。
すでに調べは付いていた。ゴモトの護衛は8人。いずれも他所からパリスへ来た渡世崩れのつまはじき者である。金に釣られてゴモトの下についているが、命までかけるような輩ではなさそうであった。
屋敷には明かりがついている。この時間まで明かりをつけていること自体が迷惑なことであった。まともなパリス住民であれば、明日の朝市のためにすでに休みに入っていることであろう。ヴェスは屋敷を遠目に塀の陰に身を隠している。
(さてどうしたものかな)
ノアの屋敷は門の周りに篝火をたいていた。これでは黒一色のヴェスは逆に目立ってしまう。屋敷の塀沿いに侵入経路を探すためヴェスは動く。裏手に回ると勝手口のためなのか小さな入口と扉が目に入った。流石に裏口のためなのか明かりは消えている。どうやら屋敷の裏庭へと続いているようであった。
ヴェスは躊躇なく勝手口を音をさせずに開くと身をかがめて中へと侵入した。庭木の陰に隠れながら塀沿いを素早く進んでいく。しかしヴェスは屋敷に漂う違和感に気づき動きを止めた。
ヴェスが裏庭から屋敷の裏手を睨む。そこには3人の男が転がっている。どうやら死んではいないようであるが、完全に意識を失っていた。庭への上がり口に人間を椅子にして人影が一つ、そしてその横に立った姿の人影がヴェスのほうを見ているのがわかった。
「来たか。案外遅かったじゃねーか」
声の主をヴェスは目を見開いて見つめ返した。その声の主を見知っていた。意外過ぎる人物。あまりにも場違いで現実味がない。男の尻に座られているのはゴモトで低い嗚咽が漏れている。
ヴェスは気づかれているのがわかっていがら、いったんは逃げようと身を構えたがすぐに諦めた。どうやら自分は待ち伏せをされていたようである。ヴェスは姿を現し顔の布地を取って顔を晒す。
「どうして…あんたなんで」
月明かりが顔を映す。ヴェスを待ち構えていたのはユーラ・アボットであった。緊張感のかけらもない笑顔でヴェスのほうを見ている。
「どうして? そりゃこっちの台詞だなヴェス」
ヴェスは思わず身構える。特徴的な短刀を顔の前に構え身を少し屈めた。普段から見知ったユーラであるが、けっして喧嘩が強いという印象を持ったことがない。それがヴェスの警戒心を余計にひりつかせた。
じりじりと間を詰めるが、ユーラは微動だにしない。ヴェスが牽制するように短刀を横に薙ぐ。当てるつもりはないが、ユーラが動けば下にされているゴモトを奪えるかもしれなかった。
目の前を短刀が通過するのをユーラは何事もなかったかのように右手の親指と人差し指でヴェスの繰り出した短刀の刃をつまんでいた。ビタリと止まり一毛も動かない。ヴェスは驚いたようにユーラの顔を見る。力いっぱい短刀を引こうとするが、まったく動かなかった。
恐ろしいまでの握力と動体視力を見せつけられる。ユーラが無造作に指を離すとわずかに身体が流された。昼間のおっとりとしたユーラからは想像もつかない姿。ヴェスは短刀を地面に落としてしまう。
「やめとけ。やめとけ。ヴェスお前にゴモト狙わせたのはお前らの元締めじゃねーよ」
意外な言葉にヴェスはたじろぐ。
「な…どうして元締めのことまで」
「そりゃ墓守のおっさんから直々におめぇのこと頼まれたもんでな。まさかおめぇさんが噂の殺し屋とはおもわなかったよ」
ユーラの緊張感のかけらもない口調…。それがかえってヴェスの精神を逆撫でた。
「元締めから!? ふざけるな! この仕事は元締めの依頼…」
ヴェスの言葉をユーラが遮る。
「本人から直接聞いたわけじゃねぇだろ? 仲間内から繋がれた話のはずだ。いや墓守のおっさんは実際に依頼があったようだがな。まぁお前のことよりも兄ちゃんのほうを心配してたがね」
ヴェスははっきりと悟った。確かに話は花壇の男から聞かされただけである。
「ボルの野郎騙しやがったのか!」
「ゴモトにお前を襲わせてる間に何かしようとしてるらしいな。残念なことにまったく話がわからんまま頼まれたんでね。ところで…」
ユーラはどこをどう力を入れたのかわからないが、椅子にされているゴモトの口から情けない悲鳴があがった。
「やめろ! やめてくれ! わしは何も知らん。イルノが勝手にやってることなんだ」
「つっても何となくはわかってんだろ?」
ユーラが腰を離す。ゴモトは振り向き後退った。逃げれるわけがないのであるが、どうしても防衛本能が働いてしまう。
「赤い結晶。あれだあれを広めるためにイルノが画策して、いやあいつの考えじゃない。モッサリアのほうであいつにもうけ話を持ってきたやつらがいるんだ。本当は俺も乗る気だったがどうもきな臭くなってきやがったから手を引いた。本当だ! 信じてくれ」
「わかった、わかった。おっさんに涙目でお願いされても気色がが悪いだけだ。赤い結晶ってあれか? かなりきつい精力剤だろ?」
「そうだ。あれをパリスに広めるのがイルノの狙ってることだ。ハサシンや麻脂は隠れ蓑のはずだ」
ヴェスが思わず声を荒げた。
「隠れ蓑!? どういうことだよそれ」
「そこまではわからん。俺も親父を殺されて…いや親父が」
ゴモトはつい口を滑らしてしまう。ガーシ・ノアの死はやはり人の手によるものだったのだ。ユーラは目ざとくその言葉をついた。
「やっぱりか。どうもおかしいと思ってたんだ。ノア一家の崩壊明らかに自滅していってるようにしか思えなかったんだよな」
「ノア一家の親分が殺された?何故だ!?」
ノア一家をまとめるカシラになっていたゴモトが、まるでガーシのことを見限っていたかのような口ぶりにヴェスは違和感があった。ガーシが死んだことによってゴモトはノア一家の後を形だけは継いでいる。一番利益を得ている男と言えた。
ゴモトは疲れたように大きく息を吐き出した。月明かりに照らされた顔は想像以上に老け込んでいる。
「やったのは俺じゃねぇ。ローハンのやつらに好き放題やられて泥船になっちまってた一家なんか継いだってなんの得にもなりゃしねぇよ。反対に普段の恨み返されるのが関の山だ」
ユーラの動きにいちいちゴモトはびくりと反応する。
「わしは金儲けできればなんでもよかったんだ。信じてくれ。イルノが全部筋書き書いたんだよ。いやイルノ一人じゃ無理だ。ローハン者が来て押され始めたあたりからイルノの周りにゃジロンのやつらが集まって来てやがった。おそらくあいつらの中に絵を描いてるやつがいるはずなんだ」
どうにも話が見えてこない。おそらくゴモトもこの一見に関して全てを知っているわけでないのであろう。イルノが取り仕切っていることだけは確実といえる。
「で?どうするヴェス。まだこのおっさんの命狙うか?」
ヴェスは首を横に振った。過去に何がユーラとあったかはわからないが、わざわざ元締めのジョダが依頼するということはジョダが把握しきれていないことがパリスの下層に起こっているといことなのであろう。それよりも自分を騙してまで花屋のボルは何をしているのかが気がかりであった。
ヴェスはもう一度ユーラの姿を観察する。どこから見ても隙だらけのこの男に遅れを取ったことがどうにも気に入らなかった。強さのかけらも感じれないだらしないパリス市民はその視線を受け流す。
二人の若者の間に奇妙な緊張感が漂う。圧迫に耐えれずゴモトは冷や汗をかき始めていた。しかしその沈黙をけたたましい足音がかき消した。深夜もはるかに過ぎたこの時、パリスは誰もが予想だにしないことが起きようとしている。
テリデス・セリウィスが倒れ、その跡継ぎの話し合いは当人たちを差し置いて、正妻であるシュザンナ・セリウィス・マッシュハガの独演会となっていた。誰も納得も承服もすることが出来ない彼女のスピーチの後、空気の冷え切ったセリウィス家の館に兄弟は顔を突き合わせていた。
カシアスとトーメスは周りが考えているほど兄弟仲は悪くない。トーメスが保守的な思考の持ち主だあったことも理由であろうが、兄が宗家を継ぐものと信じて疑わなかった。むしろただパリス市民として宗家の直系男子として義務を果たしているだけの自分が評価されていることが過大なことと捉えていた。
カシアスがトーメスの木製ジョッキにぬるい葡萄の酒を注いだ。ウル・アリーシャ高地以北では葡萄が育たない、これらは全てローハン盆地よりも南で作られたものであった。酸味が強い酒をトーメスはあまり好まなかったが、こうして兄に注がれると断れるものでもない。
「いつぶりだ? 二人で食事するのは」
カシアスはこの年23になる。トーメスは二十歳でオグナルたちと同年代であった。カシアスが怠惰な生活をしているとは思わなかったが、その取り巻きたちには一抹の不満を持っていた。母親がマッシュハガ家の出自であることも理由なのだが、カシアスが付き合っている同世代のパリス市民はバータたちマッシュハガ家の若人ばかりなのである。
バータは人間性はともかく若いものの中では優秀とされていた。トーメスは少し距離を置かれていると感じていたが、マッシュハガ家がシュザンナの意向を受けてのことと承知している。
トーメスは慣れない酒を口に含んだ。酸味が口に広がり思わず顔をしかめた。喉に流れ落ちる液体は温く位に流れ込むと瞬間にアルコールの違和感が食道を刺激する。
「兵役に出る前ですから。もう一年近くになりますか」
「軍なんか行って、なんかいいことあったのか?」
カシアスには悪びれたところはない。自分の価値観から外れた物事に関心が薄く想像が働かないのである。軍役につくことに価値を見出せないカシアスには、トーメスの行動がまったく理解できなかった。
パリス市民の評価も戦場の血が沸騰するような緊張感にもカシアスには現実感が感じられない。彼にとっては華やかな夜のどぶ板通りと、そこにいる女たちの香り。男女の営みの後にある鈍い倦怠感。快楽に溺れることがカシアスの価値観であった。
カシアスは自分の人間性を分かっていた。わかっているつもりであった。宗主の椅子などあまり興味もない。むしろいらぬ負担になるのであれば、そんなものに労力を費やすことすらバカバカしいと考えていた。,
彼にとって重要なのはこの世の楽しみを堪能することである。責任も立場もいらない。宗家の跡取りなどという生まれは便利ではあったが出来る事ならば他人に押し付け、良いところだけをいただいておきたいというのが本音なのである。
隠した本音を悟られぬようにカシアスは過ごしていた。責任や義務をなるべく負わず、しかし宗家の跡取りという立場を上手く利用し、評判を下げぬよう振舞う。古いパリスの市民にはその本質を見抜いている者もいたが、若いパリス市民の評価は悪くない。カシアスにしてみれば老人の支持など今更いらなかった。
そんな考えが心根の底に沈殿しているカシアスの理解では、兵役で得るものなど何もないということに決着するのであった。弟の前で本音の一部が漏れ出てしまっていた。
トーメスはそんな兄の性根をよくわかっていた。弟のほうは兄とは悪い意味で真逆である。保守的で考え方が凝り固まり、あるべきパリスの姿とはという命題を追ってしまう。それでも戦場に出て行ったことで、世の中のことをわずかばかり広くとらえることが出来るようになっていた。
「そうですね…何か得たものがあったといえば」
カシアスはグラスの葡萄酒を一気にあおる。酒を飲み美味いものを食らい。女を抱くことが彼の価値を決定する全てであった。そしてこの楽しみを誰かと共有することがカシアスの望みなのである。
カシアスはトーメスのジョッキに葡萄酒を注ぎ足した。トーメスは注がれたものに口を付け少量喉の奥に流す。もうずいぶんと飲んでる。
「世の中には自分の思い通りにならないことがあるのが、案外面白いということでしょうか」
「なんだそれ? 思い通りにならないことが楽しいのか?」
「ええ。戦ばかりではないですがね。パリスの外は我々の思いどおりなどにならぬことが沢山ありますから」
カシアスはつまらなそうに干し肉を食いちぎる。どこか悟ったようなことを言う弟の考えを理解することが出来ずにいた。
「俺は自分の思い通りにならないことは嫌いだ」
「しかしいつまでもそうしておるわけにはいかないのでは? 兄上が宗主となるのは決定しているとはいえ。戦に出ていないことは後々侮られる元になりますよ」
「お前も四家のうるさい爺どもと同じことを言うのだな」
カシアスは鼻で笑った。兵役を引き延ばさせて数年たつが自分が赴かなくてもパリスは一度も領土を侵されたことはない。それはカシアスの取り巻きも一緒で彼らが戦場に立とうが立つまいがパリスは安泰なのである。その平和はカシアスにとって当たり前に享受するべきものなのである。パリス市民の誇りを押し付けられ戦場などに立たされるなどということはまっぴらであった。
トーメスはカシアスの性格をよく知っている。あからさまに不機嫌になっている兄をみて空気を変えようと話題をすり替えた。
麻袋を取り出し中から油まみれの植物の樹脂を取り出す。それを見たカシアスは息を大きく吸い込んだ。
「どうしたんだ? 禁制だぞ」
「これがどこで作られているか知っておりますか?」
カシアスは首を横に振る。どぶ板通りに入り浸っているときからかなり大掛かりな取引が行われていることは噂で聞いていたが、流石にパリス宗主の跡取りという立場もあり手を出すような真似はしていなかった。遊郭の女郎だけでなくその店のやり手婆にまで麻脂に手を出している者がいるのをカシアスは何度も見ている。
「これらの出所はジロンでとれた麻をパリス領内に運びモッサリア周辺の小さな部落で加工しておるのですよ」
「そこまでわかってるのなら何とかならないものなのか?」
「はい。製造元はほとんど取り締まっていますが、その部族がパリス領内のものではないのですよ。旧ユリシア領からの移民たちに作らせた部族が殆どでした」
旧ユリシア領移民。ユリシア家が滅んだあと移民と奴隷の問題は根強く残り続けている。ユリシア宗家に仕えていた都市は各々が勝手に独立し宗主を名乗り始めて久しい。ユリシアの棄民は血縁関係の氏族を頼りに散っている。その由緒のある氏族は都市に居つき細々と生きながらえている。
問題はユリシア宗家とは関係性が薄い非都市民や領民たちであった。奴隷の草刈り場になってしまっているために旧ユリシア領内にいるのは命取りとなっていた。彼らは守護する都市民たちがいなくなってしまい安全確保のために終わることのない闘争の日々を送るか、ユリシア領内から逃げ出しパリスやジロンに逃げ込んでいるのである。
縁も所縁もない土地で移民が生きていくため、彼らは麻脂のようなものを作らされていたのである。移民の不幸の上に金儲けをしている下衆が、モッサリア周辺で暗躍しているということをトーメスはカシアスに気づいてもらいたかった。
「これもまた己の思い通りにならぬことの一つですよ兄上。毎日彼奴等を捕まえ尋問していてもパリスへ流れる麻脂の量は減らない。これが禁制の物であろうがなかろうが、人が欲すれば誰かが用意するものなのです」
トーメスの冷たい言葉にもカシアスは興味なさそうに頷くだけであった。トーメスは戦場に立ち外からパリスを見てしまったことで、パリスという都市の影の部分を見出している。ほんの数カ月の時間が二人の価値観に大きな隔たりを生み出している。
はっきりとトーメスはカシアスの当事者意識の低さに幻滅していた。兵役の前であればカシアスの態度に寛容になれていたであろう。しかし今のトーメスには受け付けがたいほど当事者意識も見識もない男が、目の前に座り何の疑問も持たず酒と肴をたしなんでいる。
カシアスは目の前の弟が纏う空気感の変化を敏感に感じ取る。カシアスは人の感情を察することに長けた男であった。傍若無人で我儘な母親の影響である。顔色を伺うことだけに長けている。そしてカシアスは決して暗愚ではなかった。
「お前も気苦労が多いな。メルシゴナとコルピンの裁量に任せればよかろう。何のための四家だ。宗家のものがいちいち顔を出してはやつらの顔がたたなくなるだろうに」
「それは!…」
「俺とてマッシュハガの出自とういうだけで他の四家には気遣っておるのだ。お前がしゃしゃり出ればコルピン家がいらぬ嫉妬受けることになりはしないか?お前も子供ではないのだそれくらいわかるだろ?」
トーメスは愚直に過ぎた。まだ二十歳にならぬこの男にはカシアスの言い分をはねつけるだけの知恵も経験も持ち合わせてはいない。言葉に窮したトーメスにカシアスは目線を合わせることなく酒を足す。
「どうした?飲むがいい。父上の意識が戻れられればお前の懸念など一瞬のうちに解決してしまわれるであろうよ。小さいことで難しい顔をするのはやめにしろ」
やり込められ、はぐらかされたと思わないでもないが、トーメスは注がれた葡萄酒に口をつけた。それほど飲んではいないが、飲みなれていないトーメスにはいささか量が多かった。この時代の葡萄酒は発酵技術があまりよくないそのため渋みが随分と強く水で薄めて飲むことが多いものであった。そのままでも飲むのではあるが、どうしても味が濃ゆい肉料理などと一緒にたしなむことになる。
パリスはローハンほど物流が交差する都市ではない。しかし宗家の食卓ともなれば珍しいものがそれなりに並ぶものであった。特に香辛料や香草の類は食卓を彩り味を飽きさせないために種類が増えるのであった。
二人の間には夕食で残った干し肉や鹿肉があった。カシアスは無造作に鹿肉を切り取り自分の皿へ移す。机の上にある赤みのある粉が入った器を手に取った。白と赤色がまざり見た目には桃色に見えている。何かの鉱物のようにも見えた。
「北から仕入れた岩塩だ。どうだ?お前も」
トーメスは黙ったまま頷き鹿肉の残りを切り分けた。少量自分の皿に乗せた。
「岩塩?こんな色のものは見たことないですね。珍しい」
「塩といえばローハンの専売みたいになってるがな。ハルゼロンのほうだと塩湖とは違う岩の塩が取れるのさ。それをこうやって細かくすれば塩になる」
「綺麗な色してますね」
「見た目は桃色が混じった石だからな」
トーメスは少量の塩を嘗めてみる。兵士の給金として配られる塩に比べると随分と味がまろやかであった。純粋な塩気よりも味わいがあった。そのまま鹿肉にふりかけ小さく切り取った塊を口に入れる。肉汁と塩がまじり口の中に味わいが広がっていく。
「これはなかなか…」
「ローハンから来る塩だとこうはいかないな。肉料理にはこちらのほうがあってる」
トーメスは鹿肉を一切れ食べきる。かなりの岩塩をかけてしまっていた。塩だけの鹿肉に葡萄酒が奇妙にマッチしてグラスを進めてしまう。
ほろ酔い気味になったトーメスが水の入った器に手を伸ばした。しかし中身が入っていない。酒に手を付ける気にもならず器から手を離す。それまで二人の他に誰もいなかったが、不意に人影が入ってきた。カシアスのお手付きになっている館の飯炊き女で手には新しい水の入った器が握られている。背はそれほど高くなく。栗色の髪と大きな瞳をした美しい女。アケドナ氏族の出自であるということをトーメスは聞かされていた。
彼女の名はドーナ・コルエという。アケドナ家の家人筋の娘で身分は高くない。美しい顔と控えめな性格がカシアスに気に入られ、テリデスが倒れたときにカシアスと共に屋敷に入っているのであった。何かと気が回る女で元からいた屋敷の女たちにも評判は悪くなかった。
「ドーナなんのようだ?」
「これをお持ちしろと」
ドーナは少し色味の付いた液体が入った器を掲げる。
「アケドナ様の差し入れだそうですよ? 何の匂いでしょうか、良い匂いがします」
「ポスカ水かなにかか?」
「ええそうみたい。どうですトーメス様?」
トーメスは塩とアルコールで口の中の水分が随分と無くなっていた。黙って頷き葡萄酒が入っていたジョッキをドーナのほうへ渡す。ドーナは少しはにかみながらポスカ水をジョッキに注いだ。
ジョッキに勢いよく注がれる液体はほんのりと黄緑がかり、柑橘類の香りがわずかにしている。トーメスは思わず喉を鳴らしてしまう。塩分と油が口の中にこびりつき水分を欲していた。
ジョッキが一杯になると当時にトーメスはポスカ水を一息にあおる。喉を鳴らし飲み込んでいく。口の中にわずかに広がる柑橘類の香りが鼻を通り抜け、それ以上に青臭いく苦味のある植物の味覚が水分と共に口の中を支配していく…
トーメスはほぼすべてのポスカ水を飲み込んだ。ジョッキを机に置こうとしたが、左の肩甲骨が異常に収縮するような感覚に襲われる。
痛み…鋭い痛みが左の後輩部に広がっていく。痛みは背中から胸に広がる。トーメスは思わずジョッキを倒してしまう。
「グぅ…ウゥ」
顔色が青ざめていく。トーメスは椅子から滑り落ちるように床へ倒れる視界が狭まっていく感覚とともに胸と喉に焼けるような痛みを感じていた。胸元を自ら鷲掴みにし呼吸を保とうとする。やがてトーメスの喉から高い呼吸音が漏れはじめる。
「トーメス!」
カシアスが叫ぶ。ドーナは思わずポスカ水が入った器を落としそうになった。目の前に机があり、ポスカ水の器は割れずに横になり液体が机に広がる。
「誰か! 誰かおらぬか!? ドーナすぐに医者を」
カシアスがトーメスの頭を抱え上げた。トーメスの呼吸音が小さくなり体は冷たくなり始めていた。顔色は青を通り越し紫色に変色して少し腫れている。
「トーメス! 呼吸をしろ!」
カシアスの叫び声もむなしい。すでに弟の心臓は動きを止めていた。トーメスの目の焦点はどこにもあわず。瞳孔が広がり光を失っていく。
カシアスの両手にトーメスだったものの重さが一気にかかってきた。
「トーメス! しっかり気を保て! トーメス!」
放心状態になっていたドーナの後ろから慌ただしく人の足音が聞こえてきた。カシアスの叫び声を聞きつけ屋敷の誰かが駆け付けたのであろう。扉が勢いよく開き宗家に入っている家人が数人顔をのぞかせる。
「医者を! はやくロゴラス殿を呼んで来い」
家人の一人がはっと表情を変え踵を返す。男はマッシュハガ家から宗家の手伝いに出ていた家人であった。時間が時間である。ロゴラスも自分の屋敷に戻っていることであろう。今から迎えに行き戻っても間に合いそうもないなどと考えながら家人は走り始めていた。
ロゴラスが宗主の館に付いたときにはやはりトーメスはこと切れており、手遅れになっていた。そのときにはマッシュハガ家のシュザンナが屋敷の家人を外に出ることを禁じていた。宗家次男のトーメスの死はパリスに混乱を巻き起こすこととなる。
乾いた空気と暑さが連日続いている。いったん秋の気配が漂ったことがあったが、テリデスが倒れたころから季節が幾分か巻き戻っているようであった。夜が更けると流石の暑さも和らいでいる。虫の鳴き声とどこからとこなく動物の鳴き声が聞こえている。
エルヴィはフラフラと一人廃墟を歩いている。人影は全くなく明かりもつけていない。パリスの東側で元はかなり大きな邑であったのであろう。いたるところに半壊した人家が並んでいる。崩れて間もない家もあったが、まだそのほとんどが原型をとどめ埃をかぶっている。
約束の日までエルヴィは待ち合わせ場所であるこの東の廃墟で身を潜めるつもりであった。幾組かの無法者たちが廃墟に立ちよっていたが大きな邑だったことが幸いし、エルヴィの存在は気づかれていない。おそらく麻脂を売っているであろう男たちの姿も何度か見ている。大広場が見える半壊した二階建てに居座り往来する者たちを観察して過ごしていた。流石に食い物がつきかけていたが、研ぎ澄まされた感覚が空腹感を紛らわせている。
蒸し暑い廃墟でエルヴィは体中に冷や汗をかいている。暗闇の中とは言え目線の先に十人ほどの男がたむろし始めていたからであった。人数としては今までにないほどである。男たちは広場の近くにある明らかに人の手が入った建物の中にぞろぞろと入っていった。崩れかかった壁の補強にどこからか持ってきた板戸を貼り付け、強度を上げている。樽やテーブルが隣接する広場に並べられているのを見て、エルヴィは大きな無法者たちの根城であるとすぐに気づいていた。
(何でこんなとこで待ち合わせたんだ…)
表に出ることもできなくなる。イルノがなぜこの場所を選んだのかを考え始めると考えたくもない考えが頭の中を何度も浮かび上がってしまう。信じたくはない、しかしエルヴィはイルノが自分を見限ったということを思わずにはいれなかった。
口惜しさもあり、やくざ者などを信用した自分の迂闊さを呪わずにはいられない。このまま辛抱して無法者たちがどこかへ移るのを待つしかエルヴィにはできそうになかった。喉はカラカラに乾ききっていたが、エルヴィは喉を鳴らした。広場に比較的近い場所にあるのも気づかれる危険性を高めている。
延べ人数で数十人出入りしていた。やはり麻脂の元売りなのであろう、ほとんど子供のような手合いまで廃墟に出入りしている。どうやら常駐しているのは6人で、体格も良く歳の頃はエルヴィよりも少し上に見える。派手ないで立ちをしているのが遠目にもわかった。
イルノとの約束の日の前日、六人全員が一度に廃墟から何処かへと立ち去る。どうやら彼らの本拠地のようでまさかここにエルヴィが隠れているとは、彼らにも思いもよらなかったようであった。
エルヴィは疲れ切っていた。すでに三日この廃墟で過ごしている。
パリスを離れての逃亡生活に疲れ果て、自分の愚かさを身に染みてわからされていた。ヴィスのように真面目に父親の仕事を学んでいれば、派手な生活などに憧れなければと後悔してもしきれなかった。
大きなため息を吐き出し膝を抱えるように座込む。空腹感は無くならなかった。心労と肉体の疲労に打ち負かされている。目を閉じて少し休もうなどという甘い考えが浮かんだ時、無法者たちのねぐらのほうから怒声が響き。思わずびくりとすると顔を上げた。
月明かりが乏しい三日月の下で、タナとその一党はその日の上りを別けている。六人で根城の外に出たのには理由があった。パリスからかなり東にはずれているこの廃墟で居座り始めてしばらくたつが、最近近くに親子3人暮らしの家を見つけたのである。どうやらパリスの下層にいたようだが。なじめず一家で廃墟の後を直して住みだしたようであった。小さな畑を作り貧相な家に住むその一家をタナ達は脅しに向かった。流石に殺しまではしない。少しばかり食料を奪い取ればそれでよかった。
タナの横を歩く肥えた男が一家から奪った食料を手に取る。それほど量が多いわけではない。タナ達も全てを奪ったわけではなかった。
「どうして全部いただかないんで?」
タナは間抜けを絵にかいたようなデブ男を憐みの顔で見る。
「チーノ。俺たちゃお尋ね者だぞ?派手にやらかしたらまたねぐらを変えなきゃなんねーだろ」
得心が言ったようにチーノと呼ばれたデブ男は間抜けな顔を驚かせた。
「なるほどそりゃ気づかなかった。やっぱタナさんは頭がいいですね」
廃墟の一つにパリスや他の廃墟から持ち込んだ生活用品が乱雑に置かれている。女でも呼べるほど中は物が揃っていた。金だけは不自由なく持っているため酒も食料もふんだんに持ち込める。パリスとの距離も丁度良い塩梅で離れているため腰を据えるには良い場所なのである。
六人は良すぎるくらい良い実入りを得てパリスに入れないことも苦にならなかった。パリスに関係ない流民が小さな集落をつくっていることも多くあり、そこを遊び半分で襲うことも少なからず行っている。奪うだけでなく若い身体から発せられる欲望を満たすことはほどよいスリルを得るために必要なことであった。
タナ一味に知らず知らずゆるみが生まれている。見張り役をパリスからついてきた少年たちに任せているのも油断の表れだった。六人とパリスからついてきた小間使いに使っている少年が二人ならんで夜道を歩いていく。少し丘を越えるとねぐらにしている廃墟の屋根が見えてきていた。
タナが一瞬立ち止まる。他の一味のものがつられて止まる。タナのすぐ後ろを歩いていた男が声をかける。喉が潰れたような声をして、タナと同年代のはずであるが随分と老けて見えた。腹がでっぷりと出て顎もたるみ切っている足は短いのであるが、タナと身長がそれほど変わらない。腕周りや足回りは随分と見た目は立派である。
貫録だけはある男の名はツヌという。
「どうした?」
「なんかおかしくねぇか?」
ねぐらのほうへと近づく。廃屋の入り口前にある広場は樽やどこからか集めた木材、テーブルなどが散乱していた。焚火の灯が消え人の気配がないのである。タナについてきている弟二人と、勝手についてきたパリスの浮浪児が数人残っていたはずであった。
全く人の気配が無くなったねぐらへタナ達は不用意に近づいていく。廃屋の入り口から人影がゆっくりと姿をあらわした。
明らかに残した少年たちではない。いかつく威圧的な風貌をした男…。
「よう。探したぞガキども」
夜空に突き抜けるような大声の主は、ダルダ一家のまとめを仰せつかった男。ガレであった。
その日パリスの下層は静寂に包まれていた。黄金の牡牛の刻をまわりどぶ板通りの華やかな店も篝火を消している。弱い月明かりだけがどぶ板通りを照らし夏の終わりの空気を色濃くしていく。
人の影がどぶ板通りから一つずれたくたびれた民家に映し出され伸びている。どこからか犬の鳴き声が聞こえ物寂しげな夜の町に溶けていった。
影の主が小道に姿を現す。全身を黒地の麻布で包み闇に同化している。目だけが闇に浮かぶように見えていた。細身の影が呼吸音もさせずに動く。場所はノア一家の屋敷であった。ガーシ・ノアが死んでからはイルノとゴモトが勝手に使い始め、それまでノア一家に出入りしていたものとは明らかに様子が違うものたちの出入りが増えていた。イルノの姿はあまり見かけなくなり、どうやらゴモトが身の危険を感じたためなのか護衛を増やしているようである。
陰に溶け込んだ男、ヴェスは歩く音を立てずに屋敷へと近づいていく。
すでに調べは付いていた。ゴモトの護衛は8人。いずれも他所からパリスへ来た渡世崩れのつまはじき者である。金に釣られてゴモトの下についているが、命までかけるような輩ではなさそうであった。
屋敷には明かりがついている。この時間まで明かりをつけていること自体が迷惑なことであった。まともなパリス住民であれば、明日の朝市のためにすでに休みに入っていることであろう。ヴェスは屋敷を遠目に塀の陰に身を隠している。
(さてどうしたものかな)
ノアの屋敷は門の周りに篝火をたいていた。これでは黒一色のヴェスは逆に目立ってしまう。屋敷の塀沿いに侵入経路を探すためヴェスは動く。裏手に回ると勝手口のためなのか小さな入口と扉が目に入った。流石に裏口のためなのか明かりは消えている。どうやら屋敷の裏庭へと続いているようであった。
ヴェスは躊躇なく勝手口を音をさせずに開くと身をかがめて中へと侵入した。庭木の陰に隠れながら塀沿いを素早く進んでいく。しかしヴェスは屋敷に漂う違和感に気づき動きを止めた。
ヴェスが裏庭から屋敷の裏手を睨む。そこには3人の男が転がっている。どうやら死んではいないようであるが、完全に意識を失っていた。庭への上がり口に人間を椅子にして人影が一つ、そしてその横に立った姿の人影がヴェスのほうを見ているのがわかった。
「来たか。案外遅かったじゃねーか」
声の主をヴェスは目を見開いて見つめ返した。その声の主を見知っていた。意外過ぎる人物。あまりにも場違いで現実味がない。男の尻に座られているのはゴモトで低い嗚咽が漏れている。
ヴェスは気づかれているのがわかっていがら、いったんは逃げようと身を構えたがすぐに諦めた。どうやら自分は待ち伏せをされていたようである。ヴェスは姿を現し顔の布地を取って顔を晒す。
「どうして…あんたなんで」
月明かりが顔を映す。ヴェスを待ち構えていたのはユーラ・アボットであった。緊張感のかけらもない笑顔でヴェスのほうを見ている。
「どうして? そりゃこっちの台詞だなヴェス」
ヴェスは思わず身構える。特徴的な短刀を顔の前に構え身を少し屈めた。普段から見知ったユーラであるが、けっして喧嘩が強いという印象を持ったことがない。それがヴェスの警戒心を余計にひりつかせた。
じりじりと間を詰めるが、ユーラは微動だにしない。ヴェスが牽制するように短刀を横に薙ぐ。当てるつもりはないが、ユーラが動けば下にされているゴモトを奪えるかもしれなかった。
目の前を短刀が通過するのをユーラは何事もなかったかのように右手の親指と人差し指でヴェスの繰り出した短刀の刃をつまんでいた。ビタリと止まり一毛も動かない。ヴェスは驚いたようにユーラの顔を見る。力いっぱい短刀を引こうとするが、まったく動かなかった。
恐ろしいまでの握力と動体視力を見せつけられる。ユーラが無造作に指を離すとわずかに身体が流された。昼間のおっとりとしたユーラからは想像もつかない姿。ヴェスは短刀を地面に落としてしまう。
「やめとけ。やめとけ。ヴェスお前にゴモト狙わせたのはお前らの元締めじゃねーよ」
意外な言葉にヴェスはたじろぐ。
「な…どうして元締めのことまで」
「そりゃ墓守のおっさんから直々におめぇのこと頼まれたもんでな。まさかおめぇさんが噂の殺し屋とはおもわなかったよ」
ユーラの緊張感のかけらもない口調…。それがかえってヴェスの精神を逆撫でた。
「元締めから!? ふざけるな! この仕事は元締めの依頼…」
ヴェスの言葉をユーラが遮る。
「本人から直接聞いたわけじゃねぇだろ? 仲間内から繋がれた話のはずだ。いや墓守のおっさんは実際に依頼があったようだがな。まぁお前のことよりも兄ちゃんのほうを心配してたがね」
ヴェスははっきりと悟った。確かに話は花壇の男から聞かされただけである。
「ボルの野郎騙しやがったのか!」
「ゴモトにお前を襲わせてる間に何かしようとしてるらしいな。残念なことにまったく話がわからんまま頼まれたんでね。ところで…」
ユーラはどこをどう力を入れたのかわからないが、椅子にされているゴモトの口から情けない悲鳴があがった。
「やめろ! やめてくれ! わしは何も知らん。イルノが勝手にやってることなんだ」
「つっても何となくはわかってんだろ?」
ユーラが腰を離す。ゴモトは振り向き後退った。逃げれるわけがないのであるが、どうしても防衛本能が働いてしまう。
「赤い結晶。あれだあれを広めるためにイルノが画策して、いやあいつの考えじゃない。モッサリアのほうであいつにもうけ話を持ってきたやつらがいるんだ。本当は俺も乗る気だったがどうもきな臭くなってきやがったから手を引いた。本当だ! 信じてくれ」
「わかった、わかった。おっさんに涙目でお願いされても気色がが悪いだけだ。赤い結晶ってあれか? かなりきつい精力剤だろ?」
「そうだ。あれをパリスに広めるのがイルノの狙ってることだ。ハサシンや麻脂は隠れ蓑のはずだ」
ヴェスが思わず声を荒げた。
「隠れ蓑!? どういうことだよそれ」
「そこまではわからん。俺も親父を殺されて…いや親父が」
ゴモトはつい口を滑らしてしまう。ガーシ・ノアの死はやはり人の手によるものだったのだ。ユーラは目ざとくその言葉をついた。
「やっぱりか。どうもおかしいと思ってたんだ。ノア一家の崩壊明らかに自滅していってるようにしか思えなかったんだよな」
「ノア一家の親分が殺された?何故だ!?」
ノア一家をまとめるカシラになっていたゴモトが、まるでガーシのことを見限っていたかのような口ぶりにヴェスは違和感があった。ガーシが死んだことによってゴモトはノア一家の後を形だけは継いでいる。一番利益を得ている男と言えた。
ゴモトは疲れたように大きく息を吐き出した。月明かりに照らされた顔は想像以上に老け込んでいる。
「やったのは俺じゃねぇ。ローハンのやつらに好き放題やられて泥船になっちまってた一家なんか継いだってなんの得にもなりゃしねぇよ。反対に普段の恨み返されるのが関の山だ」
ユーラの動きにいちいちゴモトはびくりと反応する。
「わしは金儲けできればなんでもよかったんだ。信じてくれ。イルノが全部筋書き書いたんだよ。いやイルノ一人じゃ無理だ。ローハン者が来て押され始めたあたりからイルノの周りにゃジロンのやつらが集まって来てやがった。おそらくあいつらの中に絵を描いてるやつがいるはずなんだ」
どうにも話が見えてこない。おそらくゴモトもこの一見に関して全てを知っているわけでないのであろう。イルノが取り仕切っていることだけは確実といえる。
「で?どうするヴェス。まだこのおっさんの命狙うか?」
ヴェスは首を横に振った。過去に何がユーラとあったかはわからないが、わざわざ元締めのジョダが依頼するということはジョダが把握しきれていないことがパリスの下層に起こっているといことなのであろう。それよりも自分を騙してまで花屋のボルは何をしているのかが気がかりであった。
ヴェスはもう一度ユーラの姿を観察する。どこから見ても隙だらけのこの男に遅れを取ったことがどうにも気に入らなかった。強さのかけらも感じれないだらしないパリス市民はその視線を受け流す。
二人の若者の間に奇妙な緊張感が漂う。圧迫に耐えれずゴモトは冷や汗をかき始めていた。しかしその沈黙をけたたましい足音がかき消した。深夜もはるかに過ぎたこの時、パリスは誰もが予想だにしないことが起きようとしている。
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