誓いを忘れた騎士へ ―私は誰かの花嫁になる

吉乃

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第41話 迫り来る嵐、そして新たな命の兆し

 レナーテ侯爵夫人の昇爵の報は、王都全体を駆け抜けるように広がった。

 社交界では彼女の名前を知らぬ者はいなくなり、茶会のたびに
「侯爵夫人は実に見事な采配をなさったそうよ」
「侯爵夫人が新しい流行を広めているらしいわ」と囁かれる。

 街角の噂話にまでその名が上るのを耳にするたび、どの囁きにも、昇爵を誇らしげに語る響きがあり、リリアナの胸を重くした。

 王弟殿下の後ろ盾を得た彼女は、もう伯爵夫人の立場ではない。
都の秩序を握ろうとする新たな権力者――それが今のレナーテだった。

 辺境伯邸に戻ってからの日々も、落ち着きを取り戻すことはなかった。
バルテルは連日、政務や軍務に追われ、帰宅は夜更けになることが増えていた。
食卓に彼の姿がない夜が続き、リリアナはひとり、リアムを寝かしつける日々を送った。

「ねえ、エマ。……旦那様は、また遅くなるのね」
窓辺で月を仰ぎながら、リリアナは囁く。

「はい。王都での会議が続いておられますから……」
エマは控えめに答えたが、その声には気遣いが滲んでいた。

 それでも、バルテルは必ず寝室に立ち寄った。
リアムの寝顔を覗き込み、そっと額に口づけを落とす。
疲れた表情のままでも、その瞬間だけは父としての柔らかい光が瞳に宿る。
その姿を見るたび、リリアナの胸は熱くなり――同時に、嵐の前触れを感じていた。

 ある日の午後、邸の門を叩く音がした。
応対に出たエマが戻り、少し慌てた声で告げる。
「奥様……ライナルト様がお見えです」

 兄の来訪に驚きながらも、リリアナはすぐに応接室へと向かった。
ライナルトは変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていたが、その目の奥には憂いが宿っていた。

「久しいな、リリアナ」
「お兄様……」
兄の変わらぬ温もりに触れ、リリアナの胸はふっと軽くなった。

 だが、兄が語ったのは重い話だった。
「王弟殿下は隣国の王女を正妃に迎え、この国の政務からは距離を置かざるを得ない。だが、その権勢を背景に摂政の座を狙っているのはレナーテ侯爵夫人であり、彼女の背後には常に王弟殿下の影がある――そう囁かれていた。」

 リリアナの心臓が強く跳ねる。
思っていた以上に、事態は速く動いていたのだ。

「彼女は……本当にその座を望んでいるのですか」
「望んでいる、というより……利用しているのだろうな」

 ライナルトは苦い表情を浮かべる。
「権力を手にするために、王弟と手を組んだ。お前たちの立場を揺るがすために、これほどの策を弄する女だ」

 リリアナは静かに息を呑んだ。
だが次の瞬間、兄の手を強く握り返す。
「お兄様……ありがとうございます。でも私は、バルテル様と共に立ちます。どんな嵐が訪れようとも」

 ライナルトは妹を見つめ、やがて小さく頷いた。
「……ああ、強くなったな。だが、決して一人で背負うな。お前にはバルテル殿がいる。そして、私もいる」
その言葉に、リリアナの胸はじんわりと温かくなった。


 その夜、リリアナは珍しく胸の奥に鈍い痛みを覚えた。
身体の疲れだと思ったが、翌朝も体調はすぐれなかった。
ふと気づけば、微かな吐き気と、かすかな目眩。

 エマが心配そうに見守り、恐る恐る言葉を口にした。
「奥様……もしかすると……」

 リリアナは息を呑み、手を腹に当てた。
そこに確かに、何か温かな予感があった。

「……そんな、まさか……」
囁く声が震える。
けれど、心の奥には静かな光が差し込んでいた。


 新たな命――。
まだ確証はない。だが、その可能性が胸に芽生えただけで、全ての不安を照らす灯のように思えた。

 夜。窓辺に立つリリアナの耳に、遠く王都のざわめきが届いてくるような気がした。
摂政の座を巡る噂、王弟の影、レナーテ侯爵夫人の野心。
それは確かに嵐となって迫りつつある。

 だが同時に、彼女の胸には別の予感が宿っていた。
――新しい命。
それは嵐に抗うための、ささやかながら確かな光だった。

 リリアナはそっと目を閉じ、祈るように両手を重ねた。
「どうか……この命を守り抜けますように。そして、家族を……」

 夜空に星が瞬き、淡い光が窓を照らした。
迫り来る嵐と、新たな希望。
二つの運命が交錯しようとしていることを、リリアナはまだ知らなかった。
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