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第42話 交錯する影と、ひそやかな祈り
翌朝。リリアナはまだ微かな吐き気に悩まされていた。
食堂に並んだ朝食に手を伸ばすものの、香ばしいパンの匂いが胸に重くのしかかる。
「奥様、召し上がれませんか?」
エマが心配げに覗き込む。
リリアナは小さく首を振った。
「大丈夫よ……少し胸がむかつくだけ」
けれど胸の奥では、もう答えを悟っていた。
この感覚は――あのときと同じ。リアムを宿した時と。
鼓動がひとつ、早鐘のように高鳴る。
「エマ、今日、お医者様をお呼びして欲しいの」
リリアナの声はかすかに震えていた。
エマは目を見開き、すぐに深くうなずく。
「奥様。かしこまりました。直ぐにお呼びしますね」
そう言って足早に部屋を出ていった。
午後、侍医ミレーネがやってきた。
「先生、お忙しいのに突然呼び立てて……」
「何をおっしゃるのです、奥様。さあ、診させていただきますね」
慎重な手つきで診察が進む。静かな部屋に、衣擦れとペンの音だけが響いた。
やがてミレーネが微笑みを浮かべ、穏やかに告げた。
「奥様、ご懐妊です。おめでとうございます」
その言葉に、リリアナの瞳が大きく見開かれた。
喉の奥から熱いものがせり上がり、思わず両手で口を押さえる。
「……本当に?」
「はい。お二人目ですから、前よりもお身体は楽かもしれません。ですが、決してご無理をなさいませんよう」
「……はい、ありがとうございます」
ミレーネが帰ったあと、エマが駆け寄る。
「奥様……! 本当に、良かったです」
その瞳には喜びの涙がきらめいていた。
「えぇ……」
リリアナもまた、胸の奥に光が差し込んでいくのを感じた。
嵐の前触れのような不安に包まれていた日々の中で、この命はまるで神が授けた灯火のよう。
(この子は、きっと私たちに希望を与えてくれる)
両手でお腹をそっと包み込みながら、リリアナは想う。
――この喜びを、誰よりも早くバルテルに伝えたい。
その帰りを、胸を高鳴らせながら待つのであった。
その日、バルテルが帰宅したのは夜更けだった。
外套を脱ぐ手元には疲労の色が濃く、肩に積み重なった政務の重みを物語っている。
こんなに遅い時間まで仕事をして疲れている彼に、リリアナは声を掛けるべきか迷った。だが、ふと彼がこちらを見て、小さく微笑んだのを見て――胸の奥に勇気が灯る。
「リリアナ……まだ起きていたのか?」
「えぇ、あなたに伝えたい事があって待っていました。」
「どうした?何かまた不安な事があったのか?」
心配そうに尋ねてくれるバルテル。
自分自身も疲れているのに、常にリリアナの事を考えてくれる言葉は彼女の不安を解かしてくれる。
「……あなた。今日、ミレーネ先生に診ていただきましたの。新しい命が……宿っていました」
一瞬、バルテルの動きが止まる。
次の瞬間、重い疲れを忘れたように、彼は力強くリリアナを抱き寄せた。
「……本当か」
低く震える声。その響きに、抑えきれぬ喜びがにじんでいた。
「えぇ。二人目を授かりました」
囁くように告げると、彼はそっとリリアナの腹に手を添える。
その瞳に浮かんだ光は、夫ではなく、父としての確かな喜びだった。
大きな掌が彼女の腹にそっと添えられる。まだ膨らみもないそこに、未来への祈りを込めるように。
「リリアナ……ありがとう。お前がまた命を宿してくれた。これからは二人の子を抱えて大変になるだろう。だが、私は必ず守る。お前も、子供たちも」
滅多に言葉にしない誓いを耳にし、リリアナの瞳から熱い雫がこぼれ落ちる。
「あなた……私の方こそ、ありがとう」
互いの疲れも憂いも、この瞬間だけは消え去り、ただ静かな幸福が部屋を満たしていた。
外では夜風が木々を揺らしている。けれど、寄り添う二人の胸には、確かに新しい命の鼓動が聞こえる気がした。
だが、安らぎは長く続かなかった。
翌日、王都から届いた知らせは、彼らを再び緊張の渦へと引き込んだ。
王弟殿下が大規模な饗宴を開き、諸侯を招き入れたという。
その傍らには必ずレナーテ侯爵夫人が控え、その淀みない采配ぶりは「摂政の器」とまで称えられていた。
しかし――その招待状は、ヴァルディア辺境伯夫妻には届かなかった。
「奥様……」
噂を耳にしたエマが、不安を隠せぬ眼差しを向ける。
リリアナは小さく微笑み、ゆっくりと首を振った。
「いいの。今は、この子のために穏やかに過ごしたいわ」
外の世界がざわめきを増す中、リリアナの胸にはただ新しい命の鼓動が響いていた。
「……また、彼女の名が」
噂を繰り返し聞くたび、リリアナの心は冷たく締めつけられる。
その夜。
執務室から戻ったバルテルは、何も言わず椅子に崩れ落ちた。
差し出した水差しに手を伸ばしもせず、ただ唇を固く結んでいる。
「……信じています。どんな嵐が来ても、きっと」
勇気を振り絞って告げると、ようやく彼は顔を上げた。
だがその瞳には、誰にも明かせぬ戦の影が潜んでいた。
――新たな命。
――迫り来る嵐。
その二つは、静かに、しかし確実に交錯し始めていた。
食堂に並んだ朝食に手を伸ばすものの、香ばしいパンの匂いが胸に重くのしかかる。
「奥様、召し上がれませんか?」
エマが心配げに覗き込む。
リリアナは小さく首を振った。
「大丈夫よ……少し胸がむかつくだけ」
けれど胸の奥では、もう答えを悟っていた。
この感覚は――あのときと同じ。リアムを宿した時と。
鼓動がひとつ、早鐘のように高鳴る。
「エマ、今日、お医者様をお呼びして欲しいの」
リリアナの声はかすかに震えていた。
エマは目を見開き、すぐに深くうなずく。
「奥様。かしこまりました。直ぐにお呼びしますね」
そう言って足早に部屋を出ていった。
午後、侍医ミレーネがやってきた。
「先生、お忙しいのに突然呼び立てて……」
「何をおっしゃるのです、奥様。さあ、診させていただきますね」
慎重な手つきで診察が進む。静かな部屋に、衣擦れとペンの音だけが響いた。
やがてミレーネが微笑みを浮かべ、穏やかに告げた。
「奥様、ご懐妊です。おめでとうございます」
その言葉に、リリアナの瞳が大きく見開かれた。
喉の奥から熱いものがせり上がり、思わず両手で口を押さえる。
「……本当に?」
「はい。お二人目ですから、前よりもお身体は楽かもしれません。ですが、決してご無理をなさいませんよう」
「……はい、ありがとうございます」
ミレーネが帰ったあと、エマが駆け寄る。
「奥様……! 本当に、良かったです」
その瞳には喜びの涙がきらめいていた。
「えぇ……」
リリアナもまた、胸の奥に光が差し込んでいくのを感じた。
嵐の前触れのような不安に包まれていた日々の中で、この命はまるで神が授けた灯火のよう。
(この子は、きっと私たちに希望を与えてくれる)
両手でお腹をそっと包み込みながら、リリアナは想う。
――この喜びを、誰よりも早くバルテルに伝えたい。
その帰りを、胸を高鳴らせながら待つのであった。
その日、バルテルが帰宅したのは夜更けだった。
外套を脱ぐ手元には疲労の色が濃く、肩に積み重なった政務の重みを物語っている。
こんなに遅い時間まで仕事をして疲れている彼に、リリアナは声を掛けるべきか迷った。だが、ふと彼がこちらを見て、小さく微笑んだのを見て――胸の奥に勇気が灯る。
「リリアナ……まだ起きていたのか?」
「えぇ、あなたに伝えたい事があって待っていました。」
「どうした?何かまた不安な事があったのか?」
心配そうに尋ねてくれるバルテル。
自分自身も疲れているのに、常にリリアナの事を考えてくれる言葉は彼女の不安を解かしてくれる。
「……あなた。今日、ミレーネ先生に診ていただきましたの。新しい命が……宿っていました」
一瞬、バルテルの動きが止まる。
次の瞬間、重い疲れを忘れたように、彼は力強くリリアナを抱き寄せた。
「……本当か」
低く震える声。その響きに、抑えきれぬ喜びがにじんでいた。
「えぇ。二人目を授かりました」
囁くように告げると、彼はそっとリリアナの腹に手を添える。
その瞳に浮かんだ光は、夫ではなく、父としての確かな喜びだった。
大きな掌が彼女の腹にそっと添えられる。まだ膨らみもないそこに、未来への祈りを込めるように。
「リリアナ……ありがとう。お前がまた命を宿してくれた。これからは二人の子を抱えて大変になるだろう。だが、私は必ず守る。お前も、子供たちも」
滅多に言葉にしない誓いを耳にし、リリアナの瞳から熱い雫がこぼれ落ちる。
「あなた……私の方こそ、ありがとう」
互いの疲れも憂いも、この瞬間だけは消え去り、ただ静かな幸福が部屋を満たしていた。
外では夜風が木々を揺らしている。けれど、寄り添う二人の胸には、確かに新しい命の鼓動が聞こえる気がした。
だが、安らぎは長く続かなかった。
翌日、王都から届いた知らせは、彼らを再び緊張の渦へと引き込んだ。
王弟殿下が大規模な饗宴を開き、諸侯を招き入れたという。
その傍らには必ずレナーテ侯爵夫人が控え、その淀みない采配ぶりは「摂政の器」とまで称えられていた。
しかし――その招待状は、ヴァルディア辺境伯夫妻には届かなかった。
「奥様……」
噂を耳にしたエマが、不安を隠せぬ眼差しを向ける。
リリアナは小さく微笑み、ゆっくりと首を振った。
「いいの。今は、この子のために穏やかに過ごしたいわ」
外の世界がざわめきを増す中、リリアナの胸にはただ新しい命の鼓動が響いていた。
「……また、彼女の名が」
噂を繰り返し聞くたび、リリアナの心は冷たく締めつけられる。
その夜。
執務室から戻ったバルテルは、何も言わず椅子に崩れ落ちた。
差し出した水差しに手を伸ばしもせず、ただ唇を固く結んでいる。
「……信じています。どんな嵐が来ても、きっと」
勇気を振り絞って告げると、ようやく彼は顔を上げた。
だがその瞳には、誰にも明かせぬ戦の影が潜んでいた。
――新たな命。
――迫り来る嵐。
その二つは、静かに、しかし確実に交錯し始めていた。
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※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。