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第43話 静けさの裏に潜む影
暖かな陽光が庭に降り注ぎ、若葉を透かしてきらめいていた。
リリアナはエマに支えられながら、ゆっくりと小径を歩む。足取りは重いけれど、胸には新しい命を抱く喜びがあった。
「奥様、今日は顔色が良いですね」
「えぇ。……この子が力をくれている気がするの」
ふと腹に手を当てる。まだ微かながら、命の存在を確かに感じ取れるようになっていた。
外の騒めきが遠い夢のように思える――そう願っていた。
だが、王都から届く便りは次々と不安を運んできた。
饗宴の後も、王弟殿下とレナーテ侯爵夫人の名は社交界で絶えず囁かれ、諸侯の中には彼女に忠誠を誓う者まで現れ始めたという。
噂は誇張かもしれない。けれど、何度耳にしても胸の奥に冷たいものが流れ込む。
「……どうして、また彼女ばかり……」
呟いた瞬間、リリアナははっとして唇を噛んだ。
――これは、自分が彼女の存在を気にしすぎているからではないのか。そう思いたかった。
けれど、抑えきれない不安は、微かな声となって零れ落ちる。
隣を歩くエマは、返す言葉を探せず、ただ沈黙したまま寄り添っていた。
その夜、バルテルは遅くまで執務に籠り、寝室に姿を見せたのは更けきった頃だった。
灯火に照らされた横顔は険しく、深い影を帯びている。
「あなた……」
声を掛けると、彼は一瞬だけ柔らかく微笑んだ。けれど、すぐに瞳を伏せる。
「あぁ、すまない。起こしてしまったか?」
「いいえ。……あなたが心配で。どうか無理をなさらないでください」
「……ありがとう。お前たちが、私の支えだ」
短くそう告げ、再び目を伏せたバルテル。その姿に、リリアナの胸はきゅっと締めつけられる。
「国は大変なのでしょう? あなたのことが心配です」
「……やはり耳に入っているな。王都は揺れている。だが、心配するな。お前と子供たちだけは、必ず守る」
その言葉に、リリアナの胸の奥で熱いものが震えた。
「えぇ……私も信じています。どんな嵐が来ても」
彼女はそっと腹に掌を重ねる。
新しい命――それは、二人にとって唯一の希望の光だった。
その様子を見て、バルテルも静かに彼女の手に自らの掌を重ねる。
大きな温もりが伝わり、リリアナの心は安らいでいく。
(彼もまた、私たちを大切にし、全力で戦ってくれている。私が不安を見せれば、その重荷になってしまう。気を強く持たなくては……彼の力になりたい)
そう思い直しながら、リリアナは静かに彼の胸へ身を寄せた。
――だが、夜の静けさの奥底では知っていた。
外の世界では、確実に新たな嵐が育ちつつあるのだと。
王都では、レナーテ侯爵夫人の名が日に日に重みを増していた。
饗宴を境に、彼女に忠誠を誓う諸侯が相次ぎ、その采配ぶりは「摂政の器」として語られている。
街角の噂でさえ、彼女を王弟殿下の「片腕」と呼び、次代を導く存在のように崇めていた。
「……油断はできぬな」
書状を読み終えたバルテルが低く呟く。
リリアナは夫の横顔を見つめながら、冷たい不安が胸に広がっていくのを抑えられなかった。
だがその翌日、彼女のもとに二つの来訪があった。 一人は兄ライナルト。
「……リリアナ。お前の無事が第一だ。子を抱えているなら、尚更だ」
言いながらも、ライナルトは妹の顔をじっと見つめる。
「だが、ただ守られているだけでは、お前自身が辛かろう。無理のない範囲でいい。書簡の下書きでも、領民の訴えを聞くことでもよい。心を保てる仕事をしてみるのだ」
ライナルトは言葉を区切り、妹を真っ直ぐに見つめた。
「……リリアナ。子を抱えているお前に、無理をしろとは言わぬ。だが、不安を一人で飲み込むな。お前にはバルテル殿がいるし、この兄もいる。……それに、母上もな。あの人は、いつでもお前を案じている」
思いがけない助言に、リリアナは瞬きをした。
「……お母様はお元気でいらっしゃるの? 私……」
懐かしい、あの優しい母の面影が胸に広がる。こんな自分でも、変わらず案じてくれる母――。
「お兄様……こんな私でも、バルテル様のお役に立てるでしょうか」
不安を押し隠せずに問うと、ライナルトは力強くうなずいた。
「もちろんだ。バルテル殿が都で戦っている間、この家を守るのはお前だ。胸を張れ、リリアナ。お前にはそれだけの力がある」
その言葉に、リリアナの胸の奥がふっと温かくなる。
母は遠くにいても心を寄せてくれている。兄もまた、こうして支えてくれる。
――誰かがいる。そのことを感じられるだけで、心はこんなにも安らぎ、強くなれそうな気がした。
リリアナは静かに腹に手を添え、芽生えた小さな命と共に、確かな支えを胸に抱いた。
そしてもう一人、宰相レーフェンハルト夫人が訪れてくださった。
「夫人、どうされたのですか?」
リリアナが戸惑いながら迎えると、彼女は穏やかな微笑みを浮かべる。
「リリアナ様。あなたにどうしてもお伝えしたくて参りました。都では様々な噂が飛び交っております。ですが――あなたの誠実さを忘れる人などいません。どうか胸を張ってくださいませ」
その温かな励ましに、リリアナの瞳は潤み、涙が零れそうになる。
「レーフェンハルト夫人……ありがとうございます」
胸の奥が熱くなる。
「社交界のすべての方が、私を悪く思っているわけではないのですね」
その心遣いが、ひときわ嬉しく感じられた。
外では確かに嵐が胎動している。
けれど同時に、彼女を守ろうとする手もまた確かに存在していた。
リリアナは両の掌をそっと腹に当てる。
――この子のためにも、私は決して揺るがない。
リリアナはエマに支えられながら、ゆっくりと小径を歩む。足取りは重いけれど、胸には新しい命を抱く喜びがあった。
「奥様、今日は顔色が良いですね」
「えぇ。……この子が力をくれている気がするの」
ふと腹に手を当てる。まだ微かながら、命の存在を確かに感じ取れるようになっていた。
外の騒めきが遠い夢のように思える――そう願っていた。
だが、王都から届く便りは次々と不安を運んできた。
饗宴の後も、王弟殿下とレナーテ侯爵夫人の名は社交界で絶えず囁かれ、諸侯の中には彼女に忠誠を誓う者まで現れ始めたという。
噂は誇張かもしれない。けれど、何度耳にしても胸の奥に冷たいものが流れ込む。
「……どうして、また彼女ばかり……」
呟いた瞬間、リリアナははっとして唇を噛んだ。
――これは、自分が彼女の存在を気にしすぎているからではないのか。そう思いたかった。
けれど、抑えきれない不安は、微かな声となって零れ落ちる。
隣を歩くエマは、返す言葉を探せず、ただ沈黙したまま寄り添っていた。
その夜、バルテルは遅くまで執務に籠り、寝室に姿を見せたのは更けきった頃だった。
灯火に照らされた横顔は険しく、深い影を帯びている。
「あなた……」
声を掛けると、彼は一瞬だけ柔らかく微笑んだ。けれど、すぐに瞳を伏せる。
「あぁ、すまない。起こしてしまったか?」
「いいえ。……あなたが心配で。どうか無理をなさらないでください」
「……ありがとう。お前たちが、私の支えだ」
短くそう告げ、再び目を伏せたバルテル。その姿に、リリアナの胸はきゅっと締めつけられる。
「国は大変なのでしょう? あなたのことが心配です」
「……やはり耳に入っているな。王都は揺れている。だが、心配するな。お前と子供たちだけは、必ず守る」
その言葉に、リリアナの胸の奥で熱いものが震えた。
「えぇ……私も信じています。どんな嵐が来ても」
彼女はそっと腹に掌を重ねる。
新しい命――それは、二人にとって唯一の希望の光だった。
その様子を見て、バルテルも静かに彼女の手に自らの掌を重ねる。
大きな温もりが伝わり、リリアナの心は安らいでいく。
(彼もまた、私たちを大切にし、全力で戦ってくれている。私が不安を見せれば、その重荷になってしまう。気を強く持たなくては……彼の力になりたい)
そう思い直しながら、リリアナは静かに彼の胸へ身を寄せた。
――だが、夜の静けさの奥底では知っていた。
外の世界では、確実に新たな嵐が育ちつつあるのだと。
王都では、レナーテ侯爵夫人の名が日に日に重みを増していた。
饗宴を境に、彼女に忠誠を誓う諸侯が相次ぎ、その采配ぶりは「摂政の器」として語られている。
街角の噂でさえ、彼女を王弟殿下の「片腕」と呼び、次代を導く存在のように崇めていた。
「……油断はできぬな」
書状を読み終えたバルテルが低く呟く。
リリアナは夫の横顔を見つめながら、冷たい不安が胸に広がっていくのを抑えられなかった。
だがその翌日、彼女のもとに二つの来訪があった。 一人は兄ライナルト。
「……リリアナ。お前の無事が第一だ。子を抱えているなら、尚更だ」
言いながらも、ライナルトは妹の顔をじっと見つめる。
「だが、ただ守られているだけでは、お前自身が辛かろう。無理のない範囲でいい。書簡の下書きでも、領民の訴えを聞くことでもよい。心を保てる仕事をしてみるのだ」
ライナルトは言葉を区切り、妹を真っ直ぐに見つめた。
「……リリアナ。子を抱えているお前に、無理をしろとは言わぬ。だが、不安を一人で飲み込むな。お前にはバルテル殿がいるし、この兄もいる。……それに、母上もな。あの人は、いつでもお前を案じている」
思いがけない助言に、リリアナは瞬きをした。
「……お母様はお元気でいらっしゃるの? 私……」
懐かしい、あの優しい母の面影が胸に広がる。こんな自分でも、変わらず案じてくれる母――。
「お兄様……こんな私でも、バルテル様のお役に立てるでしょうか」
不安を押し隠せずに問うと、ライナルトは力強くうなずいた。
「もちろんだ。バルテル殿が都で戦っている間、この家を守るのはお前だ。胸を張れ、リリアナ。お前にはそれだけの力がある」
その言葉に、リリアナの胸の奥がふっと温かくなる。
母は遠くにいても心を寄せてくれている。兄もまた、こうして支えてくれる。
――誰かがいる。そのことを感じられるだけで、心はこんなにも安らぎ、強くなれそうな気がした。
リリアナは静かに腹に手を添え、芽生えた小さな命と共に、確かな支えを胸に抱いた。
そしてもう一人、宰相レーフェンハルト夫人が訪れてくださった。
「夫人、どうされたのですか?」
リリアナが戸惑いながら迎えると、彼女は穏やかな微笑みを浮かべる。
「リリアナ様。あなたにどうしてもお伝えしたくて参りました。都では様々な噂が飛び交っております。ですが――あなたの誠実さを忘れる人などいません。どうか胸を張ってくださいませ」
その温かな励ましに、リリアナの瞳は潤み、涙が零れそうになる。
「レーフェンハルト夫人……ありがとうございます」
胸の奥が熱くなる。
「社交界のすべての方が、私を悪く思っているわけではないのですね」
その心遣いが、ひときわ嬉しく感じられた。
外では確かに嵐が胎動している。
けれど同時に、彼女を守ろうとする手もまた確かに存在していた。
リリアナは両の掌をそっと腹に当てる。
――この子のためにも、私は決して揺るがない。
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※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。