誓いを忘れた騎士へ ―私は誰かの花嫁になる

吉乃

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第47話 兄妹の誓いと迫る影

王都の朝は冷たく重い灰色に覆われていた。
 ヴァルディア辺境伯家のタウンハウスもまた、沈黙に包まれている。領地から届く報せは暗いものばかりで、書斎にこもるバルテルの顔は日に日に険しさを増していた。

 そんな折、リリアナのもとを兄ライナルトが訪れた。
 久しぶりに会う兄の姿は、彼女にとって幼き日からの心の支えだった。

「リリアナ……」
 低く穏やかな声に、胸の奥の緊張が僅かに解ける。

 彼女は堪えきれずに兄の胸に飛び込んだ。
「どうして、こんなにも安らぎの途を阻むものばかりなのでしょう……」

 震える妹を抱きとめながら、ライナルトはその頭を優しく撫でた。
「お前が弱いから暗雲が垂れ込めるのではない。暗雲は強き者の頭上にこそ集うのだ」

 そして妹の背を支え、真剣な眼差しを向ける。
「だが、決して一人で背負うな。お前には伴侶がいる。そして、私もいる。どれほど陰謀が迫ろうとも、必ず共に立ち向かおう」

 リリアナの瞳に涙が滲んだ。
「……はい。私も、この命を懸けて、彼と未来を守ります」

 その誓いの言葉が交わされた直後、屋敷に急報が届いた。
「旦那様! 評議の一部の貴族が、ヴァルディア辺境伯領の商人との取引を一斉に破棄したとのことです!」

 護衛副官ヴィルフリートの報告に、空気が張り詰める。
王都での悪評、領地での妨害に続き、今度は経済的孤立――。

 バルテルは険しい表情を崩さずに言い放った。
「予想通りだ。連中は次の手を打ってきた。……だが、我らは決して屈せぬ」

 リリアナは夫の横顔を見つめ、その内に潜む孤高の炎を感じ取った。
(どんなに孤立しても……私は決して、あなたを一人にはしない。私も共に戦います)

 一方その頃、王宮の奥。
 レナーテは冷ややかな笑みを浮かべていた。

「商人たちも、ようやく現実を悟ったようですわね。辺境伯家はもはや持ち堪えられませんわ」

 王弟は満足げに笑う。
「よいぞ。奴の誇りをへし折り、跪かせるのだ」

 だが、レナーテの瞳の奥に燃える光は、殿下への忠誠ではなかった。
(バルテル……あなたを追い詰めるのは、この私。王弟ですら、私のための道具に過ぎない)

 王弟はふと表情を曇らせ、低く呟いた。
「しかし……辺境伯を敵に回すのは得策ではあるまい。あれほどの男を……」

 レナーテは扇を軽く振り、あどけない笑みを浮かべる。
「あら、叔父様。ウィリアムよりも、バルテルの方が断然傑物ですわ。外見も、頭脳も、すべてにおいて。だからこそ、この国の次期王にふさわしいのです」

「なるほど……しかし、やり方というものがあろう。あまりに露骨では反感を買うぞ」

 王弟はそう言いながらも、自らの胸にわずかな罪悪感を覚えていた。いくら姪が可愛いとはいえ、政の道具にしてよいのか――。だが隣国の王女を妻に迎えた身として、この国の細部まで目を配ることはできない。まして軍事においては、バルテルこそが第一の柱。ドレイヴァン王国と手を結べば国を広げることは可能だと分かっている。だからこそ、彼はレナーテに力を貸すしかなかった。

 そのことすら、レナーテは織り込み済みであった。
 扇の陰で、彼女の笑みはさらに深まっていく。



ある日、宮廷舞踏会が開かれた。
 煌びやかな広間に、重身ではあったが、リリアナは義務としてバルテルと共に姿を現した。

 だが、耳に届くのは祝辞ではなく、冷ややかな囁きだった。

「まあ……辺境伯夫人がまだ顔を出せるなんて」
「領地も商人も、すっかり見放されていると聞きましたわ」
「もう、辺境はますます不景気になるのではなくて?」
「夫人は、とても都で過ごしていられる状況ではないのでは?」

 次々と浴びせられる声。
 その中心で、レナーテ侯爵夫人は優雅に扇を広げ、微笑みながら人々の輪を操っていた。視線ひとつで、周囲の貴婦人たちはリリアナから距離を置いていく。

(私だけ……取り残されてしまうのね)

 必死に気丈さを装うも、孤立の痛みは胸を鋭く突き刺した。
(いけないわ。気持ちを否定的にしてしまっては……お腹の子に悪い)

 そう自らを戒めた瞬間――お腹の内側から小さな衝撃が走った。

「バルテル様……今、お腹を蹴りましたの!」
 思わず嬉しそうに声を上げると、バルテルが振り返った。

 彼もまた、周囲の冷たい視線と囁きを聞きながら、リリアナの心を案じていた。だが、その弾んだ声に驚き、そして我が子の胎動と知ると、胸に熱い喜びが込み上げた。

「……この子は、お前に元気を出せと、勇気を与えてくれているのかもしれないな」
「ええ……」

 二人の間に、ほんの一瞬、光が差すような温もりが広がった。

 その幸せそうな辺境夫婦の姿を見つめ、レナーテは扇の陰でギリッと歯を噛みしめる。
(何よ……。そんな顔をしていられるのも今だけ。必ず、私が――)

 次の瞬間、彼女は悪魔のような微笑みを浮かべ、細めた瞳で二人を射抜いた。

 
 また別の日、王宮の奥にて。
バルテルは王弟殿下に呼び出され、私室で対面していた。

「辺境伯。評議での強硬な発言、感心せぬな」
「……王国の未来を思えば当然のことです」

 王弟は冷笑し、杯の中の葡萄酒をゆらりと揺らす。
「強情を張るのも限界だろう。孤立したそなたに残された道はひとつだ。――レナーテ侯爵夫人を娶り、我が摂政就任を支えるのだ」

 その言葉に、バルテルの瞳が鋭く光る。
「断じて屈しはせぬ。私の伴侶はただ一人、リリアナだ。何故、今になってレナーテ夫人を娶らねばならぬ。彼女には正しくウィリアム殿という夫がいるではないか!」

 王弟の表情に一瞬の翳りが差した。だがすぐに薄笑いを戻す。
「分かっている。だがこれは、そなた個人の感情ではなく――ドレイヴァン王国のための決断だ。すでに評議でも大筋は固められている。もはや後戻りはできぬ」

 互いの視線がぶつかり合う。
 王宮の奥深く、誰にも聞かれぬ密談の間に、重苦しい沈黙が落ちた。

「……本日はこれ以上申すまい。よく考えることだ。そして、奥方とも話し合うがよい」

 そう言い残し、王弟殿下は杯を置き、ゆるりとその場を後にした。

 去ってゆく背中を、バルテルはぐっと堪えて睨みつける。
 拳に力がこもり、胸の奥に熱いものが渦巻いた。

(どうしたものか……)

 王弟の言葉が頭の中でこだまする。
 リリアナ、そしてお腹の子。愛する家族の笑顔。
 遠く離れた領民、忠実に従う部下たち――すべてを守り抜かねばならぬ。

 だが、この圧力にどう立ち向かえばよいのか。
 策を巡らせようとすれど、思考は霧に覆われ、答えは見いだせなかった。

 重責の重みだけが、容赦なく肩にのしかかっていた。


 夜。
 社交界で傷つき帰宅したリリアナを、王弟と対立して戻ったバルテルが思いやりの眼差しで迎えた。

「君も辛い思いをしたな。……身体は大丈夫か?」

 そう言って静かに抱き寄せると、リリアナの瞳から溢れた涙が彼の胸を濡らした。

「……いいえ。あなたが私を選び続けてくださる限り、私は何も恐れません。それに、この子たちもいます」

 そう言いながら、彼女はそっとお腹に手を添える。母となった自覚が胸に芽生え、さらに二人の子の母となるのだと思えば、弱音ばかりは吐いていられなかった。――彼を支えなければ。彼もまた、すべてを背負うほど強いわけではないのだから。

 リリアナは涙を拭い、まっすぐに夫の瞳を見上げた。

 二人は互いの掌を重ね、その温もりに誓う。
 ――たとえ王宮すべてを敵に回そうとも、共に在り続ける、と。
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