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第52話 離縁して王都を去る
夜明けとともに、王宮の使者がヴァルディア邸を訪れた。
離縁の手続きを正式に執り行うため、夫婦はそのまま使者に伴われ、王都の中心へと向かう。
やがて到着した王宮――石造りの荘厳な廊下を抜け、案内されたのは広間であった。
高い天井から光が差し込み、張り詰めた空気が漂うその場には、王宮文官が三名控えている。
さらに彼らの背後には、冷ややかな眼差しで一部始終を見守る王弟殿下の姿があった。
冷たい声が響き渡り、邸内の空気はさらに凍りつく。
「バルテル、リリアナ夫人。よくぞ判断した。この恩は忘れまい……」
王弟殿下の言葉に、二人は深く頭を垂れた。涙はもう、尽き果てていた。
――その帰りの馬車。
バルテルとリリアナは無言で手を繋いでいた。
言葉はなくとも、その温もりが、これまでの愛情のすべてを物語っていた。
離縁など、望んでいない。だが、他に方法はなかった。
(神よ……なぜ我らを見放すのか)
バルテルは胸の奥でそう呟くしかなかった。
邸に戻ると、玄関先にはエマと共にリアムが立っていた。
「母様!」
駆け寄る息子を、リリアナは強く抱き締める。
赤子エリアスを胸に抱き、二人の幼子に最後の口づけを落とした。
泣きそうになりながらも、母は必死に涙をこらえる。
しかし、その気配を敏感に察したのか、エリアスはぐずり泣き出し、リアムの小さな声が震える。
「母様……行かないで……」
「二人とも……元気でいてね」
リリアナは震える声で告げ、息子たちの髪を撫でた。
そして、彼女はバルテルの前に立つ。
言葉を失った夫は、ただ無言でリリアナを抱き寄せた。
その一瞬の抱擁に、侍女も騎士たちも目頭を押さえ、誰も声をかけられなかった。
――この二人こそ、本来なら誰よりも寄り添い合うべき夫婦なのに。
「どうか……お身体を大切に。私は……幸せでした」
リリアナの声は涙に震えていた。
「……ああ。私もだ」
バルテルもまた、言葉を絞り出す。
「子供たちは、私の威厳にかけて守る」
それ以上の言葉は続かず、二人はただ見つめ合った。
リリアナはそっと微笑み、後ろ髪を断ち切るようにして馬車に乗り込む。
石畳を軋ませながら、馬車はゆっくりと邸を離れていく。
その姿はやがて朝靄に包まれ、幻のように消えていった。
――残されたバルテルの胸に、深い穴が開いた。
家族を守るために選んだはずの決断が、もっとも大切な存在を手放すことになったのだ。
その夜。
王都の大広間では、煌びやかな宴が開かれていた。
人々のざわめきの中、紅の衣を纏ったレナーテが姿を現す。紅玉のような瞳に浮かぶのは、氷のように冷たい笑みだった。
彼女は迷いなく歩み、やがて一人佇む王弟殿下の前に立つ。
「叔父様。――これで、バルテルは自由ですわね。……ようやく」
その声は甘やかでありながら、耳に刺さる刃のようだった。
王弟は盃を傾け、重いため息を吐く。
「私はそろそろ隣国に戻らねばならぬ。妻も待っているし、政も山積みだ……。レナーテ、これ以上私を煩わせるな」
しかし、レナーテは怯むどころか、笑みを深めた。
「叔父様。最後の一押しを、どうかお願い申し上げます。――彼を、この国の柱にするために」
王弟の瞳が一瞬鋭さを帯び、バルテルの姿を思い描く。
「ヴァルディア辺境伯か……。あやつが国を背負う覚悟を示すならば、悪くはあるまい。……レナーテを妻に、か。よし。明日にでも王宮に呼び、伝えよう」
「まぁ……さすが叔父様だわ」
レナーテは恍惚と呟き、その心の奥で暗く笑った。
(ふふ……使える者は使う。それだけ。これで私の望んだ未来は、手中に入る……!)
その夜、部屋に戻った彼女は高らかに笑った。
「……あぁ、なんて良い夜。人生なんて、思い描けばすべてが思い通りになるのよ!」
狂気に満ちた笑声が広間に木霊し、月光に照らされた王都は、まるで悪魔に微笑まれているかのように沈黙した。
――翌朝。
ヴァルディア家に、王宮からの召集の知らせが届く。
封を切った瞬間、バルテルは険しい顔で紙を握り潰した。
何を言われるか、すでに察していた。
王宮広間。
玉座の前には王弟とレナーテが並び、群衆が息を潜める中、文官が朗々と告げた。
「ヴァルディア辺境伯バルテルよ。評議会の決定により――汝、レナーテ・アルンベルクと婚約し、この国を導く柱となれ」
ざわめきが広がる。
バルテルの顔は蒼白に固まり、握りしめた拳が震えていた。
拒絶の言葉が喉元まで込み上げたが、飲み下すしかない。
それは国命。逃れられぬ枷だった。
――数日後。
王都の新聞は大々的に報じた。
『新たなる王夫妻の誕生――辺境伯バルテルとレナーテ侯爵夫人、婚姻へ』
華やかに飾られた紙面は祝福を謳っていた。
だが、その裏に潜む影を知る者は、ほとんどいなかった。
離縁の手続きを正式に執り行うため、夫婦はそのまま使者に伴われ、王都の中心へと向かう。
やがて到着した王宮――石造りの荘厳な廊下を抜け、案内されたのは広間であった。
高い天井から光が差し込み、張り詰めた空気が漂うその場には、王宮文官が三名控えている。
さらに彼らの背後には、冷ややかな眼差しで一部始終を見守る王弟殿下の姿があった。
冷たい声が響き渡り、邸内の空気はさらに凍りつく。
「バルテル、リリアナ夫人。よくぞ判断した。この恩は忘れまい……」
王弟殿下の言葉に、二人は深く頭を垂れた。涙はもう、尽き果てていた。
――その帰りの馬車。
バルテルとリリアナは無言で手を繋いでいた。
言葉はなくとも、その温もりが、これまでの愛情のすべてを物語っていた。
離縁など、望んでいない。だが、他に方法はなかった。
(神よ……なぜ我らを見放すのか)
バルテルは胸の奥でそう呟くしかなかった。
邸に戻ると、玄関先にはエマと共にリアムが立っていた。
「母様!」
駆け寄る息子を、リリアナは強く抱き締める。
赤子エリアスを胸に抱き、二人の幼子に最後の口づけを落とした。
泣きそうになりながらも、母は必死に涙をこらえる。
しかし、その気配を敏感に察したのか、エリアスはぐずり泣き出し、リアムの小さな声が震える。
「母様……行かないで……」
「二人とも……元気でいてね」
リリアナは震える声で告げ、息子たちの髪を撫でた。
そして、彼女はバルテルの前に立つ。
言葉を失った夫は、ただ無言でリリアナを抱き寄せた。
その一瞬の抱擁に、侍女も騎士たちも目頭を押さえ、誰も声をかけられなかった。
――この二人こそ、本来なら誰よりも寄り添い合うべき夫婦なのに。
「どうか……お身体を大切に。私は……幸せでした」
リリアナの声は涙に震えていた。
「……ああ。私もだ」
バルテルもまた、言葉を絞り出す。
「子供たちは、私の威厳にかけて守る」
それ以上の言葉は続かず、二人はただ見つめ合った。
リリアナはそっと微笑み、後ろ髪を断ち切るようにして馬車に乗り込む。
石畳を軋ませながら、馬車はゆっくりと邸を離れていく。
その姿はやがて朝靄に包まれ、幻のように消えていった。
――残されたバルテルの胸に、深い穴が開いた。
家族を守るために選んだはずの決断が、もっとも大切な存在を手放すことになったのだ。
その夜。
王都の大広間では、煌びやかな宴が開かれていた。
人々のざわめきの中、紅の衣を纏ったレナーテが姿を現す。紅玉のような瞳に浮かぶのは、氷のように冷たい笑みだった。
彼女は迷いなく歩み、やがて一人佇む王弟殿下の前に立つ。
「叔父様。――これで、バルテルは自由ですわね。……ようやく」
その声は甘やかでありながら、耳に刺さる刃のようだった。
王弟は盃を傾け、重いため息を吐く。
「私はそろそろ隣国に戻らねばならぬ。妻も待っているし、政も山積みだ……。レナーテ、これ以上私を煩わせるな」
しかし、レナーテは怯むどころか、笑みを深めた。
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「ヴァルディア辺境伯か……。あやつが国を背負う覚悟を示すならば、悪くはあるまい。……レナーテを妻に、か。よし。明日にでも王宮に呼び、伝えよう」
「まぁ……さすが叔父様だわ」
レナーテは恍惚と呟き、その心の奥で暗く笑った。
(ふふ……使える者は使う。それだけ。これで私の望んだ未来は、手中に入る……!)
その夜、部屋に戻った彼女は高らかに笑った。
「……あぁ、なんて良い夜。人生なんて、思い描けばすべてが思い通りになるのよ!」
狂気に満ちた笑声が広間に木霊し、月光に照らされた王都は、まるで悪魔に微笑まれているかのように沈黙した。
――翌朝。
ヴァルディア家に、王宮からの召集の知らせが届く。
封を切った瞬間、バルテルは険しい顔で紙を握り潰した。
何を言われるか、すでに察していた。
王宮広間。
玉座の前には王弟とレナーテが並び、群衆が息を潜める中、文官が朗々と告げた。
「ヴァルディア辺境伯バルテルよ。評議会の決定により――汝、レナーテ・アルンベルクと婚約し、この国を導く柱となれ」
ざわめきが広がる。
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拒絶の言葉が喉元まで込み上げたが、飲み下すしかない。
それは国命。逃れられぬ枷だった。
――数日後。
王都の新聞は大々的に報じた。
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