誓いを忘れた騎士へ ―私は誰かの花嫁になる

吉乃

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第54話 姉に会いに

 旅立ちの日は、思いのほか早く来た。

 出立の朝、邸の前庭には使用人たちが列を作り、領民の代表も集まっていた。
思いがけない見送りに、リリアナは一歩、二歩と足を止める。

 年老いた庭師が、土のついた手で小さな布袋を差し出した。
「国境を越えた先の土に、うちの畑の種をひとつ撒いておくんなさい。花が咲いたら、あんたが笑った証拠になる」

 パン職人の夫婦が、焼き立ての小さな丸パンを包んでくれる。
「旅の道連れに。噛むたび、帰り道を思い出せるようにね」

 若い侍女は、縫い目の細やかなハンカチを突き出し、言葉の代わりに深く頭を下げた。

 領民たちの温かな心遣いに、リリアナは胸を締め付けられた。
 彼らと兄ライナルトとの間に築かれた信頼は、何よりも堅固で優しい。
 ――そういえば、バルテルも兄のことをよく褒めていた。
『兄上を見習わないとな』
 あの低い声が耳に蘇り、胸が痛む。

 その様子に気づいたアステールが、そっと歩み寄り、リリアナを強く抱きしめた。
「あなたが幸せを見つけることが、わたしたちの願いです。――ねえ、覚えていて。戻る場所は、最初から“用意されている”のではなく、関係の中で“育つ”の。ここも、ノヴァリアでも、あなたはそれを育てられる人よ」

 耳元で囁かれる声が、心の奥の凍土にゆっくりと温もりを沁み渡らせていく。
 涙が零れそうになったが、それはもう絶望の涙ではなかった。

 ライナルトは、妹の前に立つと、短く背筋を伸ばした。
「泣くな。胸を張れ。お前はヴァルデンブルクの誇りだ」
 そして、誰にも見えないようにそっと、彼女の掌に銀の指輪を握らせる。内側には、細い刻印。
『Fortis.(強く)』
「困ったときは見せろ。どこの国の門も、ひとつは開く」

 リリアナは笑おうとしたが、先に涙が落ちた。
「……ありがとう。必ず、強くなって帰ってくるわ」
 言葉は震えていたが、その震えの中に芯があった。

 護衛の隊長が合図を送り、馬車の扉が開く。
 乗り込む前に、リリアナは最後にもう一度だけ屋敷を振り返った。

 暖炉の煙が細く上がり、朝日に屋根瓦が鈍く光る。
人々の顔、手の温度、土の匂い――すべてが胸に重なる。
(さよならじゃない。いってきます)
 小さく唇で形を作り、彼女は馬車に乗り込んだ。

 車輪がきしむ音が、静かな朝を刻み始める。
 石畳を離れ、土の道に揺れが変わる。森が開け、丘が遠のき、空が大きくなる。
 膝に置いた手が、まだ冷たい。だが、指先には銀の指輪の重みがあった。

 これから向かうノヴァリア帝国は、過去で値踏みをしない国だという。
 ならば、ここからの一歩は、わたし自身で決めていい。

 馬車の窓から流れる風景に、リリアナはそっと目を細めた。
 涙の塩味が消え、唇に微かな笑みが宿る。
 失われたものの影は消えない。けれど、その影が落ちる地面を、別の光で照らすことはできる――

 新しい風が、帷を持ち上げた。
 ノヴァリアへ向けて、リリアナの第二の旅が、静かに始まった。


 旅は思った以上に長く、そして厳しかった。
 馬車の車輪は石畳を離れ、やがて土の道を軋ませながら国境へと近づいていく。
 遠くに見えるのは、石造りの城壁と堅牢な門扉――ノヴァリア帝国へと続く国境門であった。

 槍を構えた衛兵たちの前で一行は止められる。
「身分と目的を申せ」

 護衛が差し出した紹介状を兵士は訝しげに眺め、冷たい声を放つ。
「これでは入国は認められん。そちらの婦人……名は?」
「……リリアナ・ヴァルデンブルクと申します」
 声が震える。兵士の目が細くなり、緊張が走った。

 ――そのとき。
 リリアナは掌に忍ばせていた銀の指輪を思い出す。
 兄ライナルトが託したもの。内側に刻まれた『Fortis.(強く)』。
「困ったときは見せろ。どこの国の門も、ひとつは開く」
 兄の言葉が心に甦る。

 震える指で差し出した指輪を兵士が受け取り、刻印を確認すると、驚いたように目を見開き、慌てて姿勢を正した。
「……確かにヴァルデンブルク伯爵家の印。大変失礼いたしました」
 その瞬間、重い門扉がきしみを上げて開いていく。

 ――国境は越えられた。だが目的地はさらに遠い。
 護衛の説明によれば、帝都へは海を渡らねばならないという。
「この先の港町から船に乗るのです。帝国は海の向こうにございます」

 馬車は再び走り出し、やがて潮の匂いが風に混ざった。
港町には大小の船がひしめき、商人や旅人の声が飛び交っている。

 リリアナは初めて見る大海原に目を奪われた。
 果てしなく広がる青、その向こうにノヴァリアがある。

 船旅は半月に及んだ。
 晴れた日には甲板に立ち、潮風に頬を撫でられながら水平線を眺めた。

 夜は星明かりが海面に揺れ、月が静かに航路を照らした。
 だが、海は常に穏やかではない。
嵐の夜、轟く雷鳴に怯え、船室で指輪を握りしめて「Fortis……強く」と心の中で繰り返すこともあった。

 寄港した島々では珍しい花や鳥を目にし、リリアナは小さな日記帳に記録を残した。
 ――この半月の旅は、彼女にとって試練であり、癒やしでもあった。
 少しずつ、心の凍土にひびが入り、柔らかな光が差し込み始めていた。

 やがて、船員が叫んだ。
「見えたぞ! ノヴァリアの港だ!」

 霧の向こうに、白亜の塔と大きな港湾都市が姿を現した。
 帆がはためき、鐘の音が響く。異国の熱気と賑わいが押し寄せてくる。

 下船した先で、待っていたのは懐かしい顔だった。
「リリアナ!」
 姉セシリアが小走りに駆け寄り、妹を強く抱きしめる。
 涙を浮かべながら、震える声で言った。
「よく……よく来てくれたわ!」
「お姉さま……!」
 二人は再会の喜びに声を詰まらせ、互いの温もりを確かめ合った。

 少し遅れて、穏やかな笑みを浮かべた男性が歩み寄る。
 セシリアの夫――アドリアン・ド・モンテフェル侯爵である。
「遠路、本当にご苦労だったね。今日からは、ここが君の新しい家だ」

 その傍らから、子どもたちが弾むように駆け出してきた。
 長男エドワールが「叔母さま!」と声を上げ、妹クラリスも小さな手を差し伸べる。
 リリアナは膝を折り、二人を抱き寄せた。
 幼い温もりが胸いっぱいに広がり、頬を伝う涙はもう悲しみではなかった。

 それは、失われたものへの痛みではなく、これから始まる新しい絆への確かな証だった。

(兄さま……お姉さま……ありがとう。私はここで、もう一度、生き直します。あなたの言葉を胸に、そしてこの国で――)

 海の彼方で開かれた新しい扉の前に、リリアナは静かに立っていた。
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